華の東京

 歌に歌われ、小説の舞台になり、一国の政治や経済の中心地である東京は、実に美しい街ではないでしょうか。祖国の首都としてふさわしく綺麗で、香り高い街である、そう帰国早々感じております。徳川幕府の政(まつりごと)の行われた歴史的な街であり、芸術や芸能などの文化が栄え、人々を引きつけ、鼓舞し、活き活きとさせてきた街なのです。

 何もなかった所に、首都機能を設けた徳川家康の才腕には驚かされてしまいます。父が好きで、私たちの家の食卓にいつも並んでいたのが「佃煮」でした。弟が特愛したのが「あみ(海老の稚魚を醤油ベースで煮込んだもの)」でした。炊きたてのご飯の上に乗せて、湯気の立ち上る、その食べ心地は、「江戸っ子」の味だったのでしょう。父が美味しく食べるのですから、男の子たちは、それに倣って男の食べ方を父に倣ったわけです。

 この佃煮も、江戸の食料の自給のために、家康が大阪から連れてきて、江戸に住まわせた漁民の地を、彼らが住んでいた大阪の地名の「佃」と呼び、そこで加工されたので、そう呼んだわけです。この佃煮には、こはぜ、あさり、イカナゴ、鰹、昆布などがあり、江戸庶民が愛し育ててきた江戸風味なのです。父が生前、『雅、駒形に行って、柳川を一緒にくおうな!』と違って、実現出来なかった料理も、私にとっては江戸前なのです。「寿司」だって、江戸前が「寿司」であって、一般的な、ごく普通の日本人である私も、『日本に帰ったら、まずうまい寿司を食べたい!』と思っているのです。

 遠くから黒く見えた島影も、近くに見え始めた島は、木々の緑が夏の日を浴びて、実に綺麗でした。人も物静かに生活をし、大声を上げているのは活気な子どもたちだけで、大人が慎ましく生きているのを見て、『ここは日本だ!』と思わせれることしきりでした。

 福島原発事故の影響でしょうか、経済の低迷でしょうか、今回の帰国で感じた日本と日本人は、「縮こまった日本、日本人」です。工夫と改良で、世界に最たる物作りをしてきた日本人が、元気が無いのです。若者には冒険心と夢と理想が欠けているのを感じ取れるのです。電車に乗って、年寄りや女子どもや体の弱い人のために設けられた特別席に、ふんぞり返った高校生が座って、話し込んでいるのを見て、『こりゃあダメだ!』と、中国人の青年たちの潔さに負けているとがっかりしてしまいました。みんなの眼に、キラッとした輝きがないではありませんか。背中を伸ばして胸を貼って颯爽と歩く中国の青年たちに比べてみた私は、『胸をはれ!しっかりした歩幅で歩け。目を前方に向けて背を伸ばせ!』と心の中で叫んでいました。明日の日本を担っていく彼らを、心から激励したい思いでいっぱいでした。

 大人が、彼らに夢をもたせる社会、国作りをして来なかったことを反省しなければいけない。彼らを責める前に私たちが反省し、改める必要があるのだと思うのです。生意気な私たちを、遠くから近くから見て、忍耐して見守ってくれた、私の青年期の大人たちは、大きな度量を備えっていたのかも知れません。『元気だなあ!』と、おかしなことをしている私に、にこやかに語りかけてくれたおじさんがいました。そんな大人が多かったのだと思います。

 日本は綺麗で、美味しくて、静かというのが改めて感じている印象です。これから必要なのは「活気」ではないでしょうか。物がなくて貧しくても活気のあふれていた時代がありました。経済低迷で頭までも下げてしまう必要はないのです。父や母、祖父母から受け継いできた今の日本は、負け犬のようにしっぽを巻いてはいけないのです。堂々と世界の大路を闊歩しましょう。

 この東京の街、美しく着飾った街、華の都が、繁栄し、平安に満ち、義を愛する街になり、首都としてふさわしい街になり、人々が、日本の模範、世界の模範になって、喜んで感謝に満ちていくことを願わされたのです。さあ、東京よ、頭を上げ、背筋を伸ばし、世界に目を向け、強く一歩一歩を進み行け!

(写真上は、北斎の江戸城と富士、下は、佃煮を載せた湯気の立ち上るご飯です)

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