満月

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今日は「秋分の日」です。少しばかり昼のほうが長いのだそうですが、24時間を昼と夜とで分けあうのですね。これから「冬至」まで、一日一日と日が短くなってくるのですが、太陽の運行とか、地球の自転とかを考えますと、エンジン機能も方向舵も持たない球体が、宙に浮いて、規則正しく運行している地球の上で、私たちは生活をしているというのは、当然でいいのか、それとも、その神秘に驚嘆すべきなのか、考えさせられてしまいます。

宇宙の広がりが天文学的な数の距離であって、しかも、その広がりが年々拡大しているのが解明されてきているのだそうです。これは小学校の「理科」を学んでから、私の関心の的なのです。何しろ、こんな重たい物体、地球にしろ太陽にしろ月にしろ、もろもろの星が、宙に浮いているという事実を、この小さな頭で理解しかねるのです。『引力によって!』という科学的な説明では納得できません。何か言い知れない力に支えられており、その均衡を保っている力があるに違いないと思われるのです。「物理学」や「天文学」や「重量の法則」などという学問の分野では、解明できない〈神秘さ〉が、私の思いを満たしてしまうのです。

何年も何年も前に、内モンゴールのフフホトという街を訪ねた時に、草原のパオに連れていってもらいました。そこで夜空の星を見上げたことがあったのです。『降る!』と表現するのが一番好い形容の草原の星に圧倒されたことを覚えています。信州の志賀高原から眺めた星も驚くほどでしたが、規模としては、大陸の夜空のパノラマは、例えようがありません。〈創造の美〉というべきでしょうか。人間の能力をはるかに凌駕していたので、自分が、どんなにチッポケに感じられたことでしょうか。自分の抱えていた問題の小ささがわかって、解放されたりもしました。

そんな神秘的な世界に目を向けると、地球なんて小さい衛星の一つであり、ここを私たちは生活の場としているのであります。そこにある「尖閣諸島」や「竹島」や「歯舞・色丹島」などが、ごく微小であることは事実です。『俺のもの!』と言い合ってる争いは、例え莫大な海底資源が、その周辺にあったとしても、取り合うのではなく、平和裡に、「共同開発」ができないのでしょうか。兄弟で、おやつをとり合って、泣かされたり泣かしたりした子供の頃を思い出して、今思うのは、『あの時、分け合ってたらよかったのに!』という思いにされます。

もう一週間ほどで、「十五夜」、「中秋の名月」です。今週、勤め先の「夕食会」があり、ごちそうになった帰りに、「月餅」を頂いて帰宅しました。デモ騒動の最中の会食でしたので、『いいのかな?』と思いながら出席し、箸を運んだのですが。そこは平和で、語らいも弾んでいました。『こんな和やかな話し合いができるはずだ!』と思わされました。月に人格があり、言葉があるなら、きっと、『そこで起こっている問題は小さいですよ。でもないがしろにしてはいけません。相手を尊びながら話し合ってごらん!』と言いたいのではないでしょうか。来週の月は「満月」です。「満月」の「満」は、「円満」の「満」なのですから。

(写真は、神戸観光壁紙写真集から「中秋の名月」です)

愛国心

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 私は、青年期に、『俺が「日本人」であること!』に、特別なこだわりを持っていました。近くにアメリカ軍の空軍基地がある街で、少年期を過ごしましたから、軍服や私服で街中を闊歩する彼らを見ていたので、格別に、そういった意識が強くなったのではないかと思っています。背が高くて、眼が青く、金髪で、栄養満点で、大きな自動車に乗っている彼らは、敗戦後の私たち日本人と比べたら、裕福で容姿もいいし、輝いているように見えました。肉なんて食べることができない時代の私たちは、ある意味で、劣等感を感じていたのだろうと思うのです。そんな彼らが、チョコレートやチューインガムを投げ、お金をばらまいていたことがありました。朝鮮戦争に駆り出され、休暇をその街でとって、また戦場に戻っていく、戦時下の若い兵士たちは、競ってそれを奪い合っている子どもたちを眺めて、声を上げて喜んで見ていました。

 そうしなければ、舶来の菓子を口にすることができないほど、物資が不足していた時代に育った私たちの世代の子どもたちの、実に惨めな過去が、そこにあって、時々思い出されるのです。中央線の引込線に、兵士たちを載せた列車が、一時停車していました。その列車の中から、同じように、クッキーや日本円を投げていました。〈一寸の虫にも五分の魂〉と言いたいのですが、空腹に負けて、拾った小学生の私は、口には甘く、腹には苦いような経験をしたのを覚えています。そんな私が、青年期を迎え、お酒を飲むことも覚え、基地の街の駅にいると、ヴェトナム戦争に従軍して、休暇中の兵士たちが〈我が物顔〉で騒いでいました。酔っていた私は、少しばかり喧嘩通でしたので、殴り合いはしませんでしたが、一触即発の場面があったのです。『ここは俺の国、俺は生粋の日本人なんだ!この国で勝手に振る舞いやがって!』という強い気持ちを、酔った勢いで、彼らにぶっつけたのです。『大学生とアメリカ兵が乱闘!』などという新聞沙汰にならなかったのは、不幸中の幸いだったのだと思います。

 そんなことがあって、私に危機を生み出す、酒もタバコも止めてしまいました。『飲み続けたら死ぬ!』、そんな思いにされたのです。そんな私に、アメリカ人起業家と一緒に働く機会がやってきたのです。母や上の兄が懇意にしていた方でした。そんな関係で、彼の事業の手伝いをし始めたのですが、私の内側にある「日本人」としての頑固な意識は、いつも彼との間に悶着と軋轢を生んだのです。彼との関係に、私の「日本精神」が邪魔だったのです。この方と八年間、一緒に働きましたが、その年月は、私のその精神を取り扱う日々だったと思います。母や兄が、仲介してくれて、関係が保たれ、結局、彼の働きを受け継ぐことになったのです。

 ところが私の家内は、「日本人」へのこだわりのない家庭で育って、子供の頃から英語を父親から学び、アメリカ人が出入りする家で育ったのです。結婚して彼女は、『何人(なにじん)なんてこだわらないで、同じ〈人〉としてみるべきだと思う!』と、よく私に言いました。そんな彼女の忠告と、八年間の私の師匠の忍耐によって、「日本精神」を征伐することができたのです。ある時、私が台湾に視察に出かけたことがありました。台南で泊めてくださった、一人の会社の社長と話をしていた時、『ここに日本人の社長がいたのですが、失敗して帰って行かれました!』と言われたのです。それで私は、『どうして失敗したのですか?』とお聞きしたのです。この方は、『彼が持っていた「日本精神」、それにこだわりすぎて、こちらの方の心をつかめなく、結局だめでした!』と答えられました。そのお話の顛末(てんまつ)が、私にはよく分かったのです。

 現在、一番問題にしなければならないのは、劣等感をウラに持っている、日本人の「優等意識」です。これこそが、国際関係の中で、問題を起こしてきている最大原因だと思います。米も食べられないで芋を喰らい、肉なんか拝んでも手に入らない中で生きていた時代を、私たちが忘れてしまっていることです。きっと中国のみなさんが危惧しているのは、「日本精神」に違いありません。それが、あの戦争に駆り立てたからです。豊かになって忘れた私たちは、再び「日本精神」に立とうとしているのです。

 今の私にも、生まれ育った日本への「愛」や「感謝」や「誇り」があります。よく考えてみますと、私が青年期に持っていた歪んだ「愛国心」とは全く違うのに気づきます。自分の国を愛するが故に、どの国の人にも「愛国心」があることを認められるのです。『二度と侵されたくない!』との中国や韓国のみなさんの切なる思いが、このところ少々本道から外れて現れてしまっているのかも知れません。『話せば分かる!』、この一手に望みを置き、四十年の双方の努力を水泡に帰さないために、テーブルに着こうではありませんか。

(写真上は、かつての空軍基地は平和利用の「公園」、下は、米軍基地の古写真です)

協力

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 井戸の中の蛙が、海を見て、その大きさに驚愕している姿を、想像できるでしょうか。浦賀にやってきた「黒光りの黒煙を吐く船」を、矢切の渡し舟が見たら、ひっくり返るように驚くことでしょうね。1853年、嘉永三年に、その船(黒船艦隊)が浦賀沖にやってきたのです。日本中がひっくり返るような出来事でした。この時、長州藩の藩黌(はんこう)、「明倫館」で学んでいた十四歳の少年・晋作は、どんなことを思ったのでしょうか。一人の日本人として、として、危機感を募らせたのではないでしょうか。1862年、晋作は藩名により、幕府使節随行員として、上海を視察します。5月から二ヶ月間のことでした。上海で見聞きしたことは、その後の彼の行動を決定的にしてしまうのです。

 一体、高杉晋作は、上海で何を見たのでしょうか。「アヘン戦争」で、イギリスに負け、植民地のような状況になった悲惨な中国、混乱した上海の様子に驚愕したのです。晋作は、このままでは、日本は中国と同じ運命をたどると思い始めます。それで帰国すると、他藩の青年藩士と共に、横浜にあった「外国人居留地」の外国人の「暗殺計画」を企てます。その計画は未遂に終わります。その後、「尊皇攘夷」のための組織作りに奔走し、今度は、横浜のイギリス公使館を焼き討ちにし、それで幕府と一戦を交える「倒幕計画」を立てるのです。焼き討ちは成功しますが、幕府と一戦交えることには失敗してしまいます。

 その後、彼は藩から暇をもらい、剃髪して、西行法師にちなんで、「東行」と名乗るのです。彼が隠遁している間、外国船が日本に近づいてきたので、打ち払いのために、長州は、下関に砲台を設けて、無差別に砲撃をします。その報復で、アメリカとフランスの艦隊が仕返しをしたのが、1863年と1964年の二度にわたって起こったのが「下関戦争」でした。圧倒的な武力の差があって、長州藩は負けてしまうのです。〈尊皇攘夷〉の運動に奔走する中、彼は、1867年5月に病死してしまいます。27歳でした。

 この8月、上海から大阪の間を就航しています「蘇州号」に乗船して帰国ました。五島列島を右に見ながら九州が見え、やがて、「関門橋」の下を通過した時に、『このあたりが、「下関戦争」が行われたのだろうか?』と思ったことでした。九州と本州をむすぶこの大橋は、150年前の騒ぎなどなかったように、泰然とし自若ていたのです。


 私たちの国、日本は、自然環境は厳しく、凶作や災害も多かったのですが、外から襲ってくる敵もなく、全般的にみますと、恵まれた国ではなかったでしょうか。豊かな自然、地味も肥え、海産物も豊かで、太平の世を、長らく過ごしてきたのです。ところが、高杉晋作が味わった「外患内憂」の幕末から、押し寄せてくる外からの怒涛のような攻勢に、飲み込まれ、転がされながら、落ち着く暇もなく、あれよあれよという間に、国が肥大化していきました。『欧米に遅れをとってはならぬ!』で、ついには軍部の暴走となって戦争に突入し、日清、日露、日中戦争、対米戦争、そして敗戦と、一気に突き進んできたのが日本だったのではないでしょうか。戦争に負けて、初めて、静まって思いを新たにすることができ、ホッとしたのが本音なのではないか、そう思っています。

 ホッとしましたら、中国で政治革命が起こり、朝鮮半島で戦争が始まり、日本の経済界は、「世界の工場」となって、未曾有の経済大国になり、生産に躍起になりました。そうした中、「ヴェトナム戦争」が起こり、経済界は、以前にまして忙しくなり、休む暇もなく経済が肥大化し、やがてバブルの破綻を経験したのです。その余韻は今日にまで及び、昔のような勢いがなくなってきているのが、日本の現状ではないでしょうか。

 それなら、これからは、虚勢を張って無理をしないで、つましく生きていったらいいのではないかと思うのです。紛争や戦争を回避して、狭い国土を耕して、農業をして、小さな幸せを楽しんで生きたらいいのです。一番は、この国土を戦場にしないことではないでしょうか。子どもたちに、また鉄砲を担がせて、戦場に出征させたりしないことです。〈昔の夢よもう一度!〉、を期待したら、あの1億の国民が悲惨を味わった時代と同じ轍を踏む事になってしまいます。私たちの課題は、自然界の異変、人口問題、食糧問題です。隣国と領土の所有権や覇権を競うことよりも、国々が協力して、この課題のために知恵を出しあって協力すべき時が来ているのですから。

(写真上は、黒船来航時の様子を描いたえ、下は、北極海の海氷分布の変化です)

この朝

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 1974年の夏に、私は、一人の同僚と韓国のソウルを訪ねました。企業視察とコンベンションへの参加のためでした。これが初めての韓国訪問でしたが、夕方になると明かりが少なく、実に薄暗い街だったのです。女性は、ほとんどがズボンを履き、地味な色彩の服を着ていました。食堂も暗くて、不衛生な感じがして、東京とは比べられない街の様子に、『朝鮮戦争の影響がまだ残ってるに違いない!』と思わさせられたのでした。夜間には灯火管制がひかれ、午後11時以降の外出の禁止令も出ていました。というのは、38度線を境に、北朝鮮との戦時下にあったからです。40年近く前のソウルは、そのような社会情況だったのです。

 私たちは、ホテルではなく、ソウルの下町にあった「ユースホステル」に宿をとり、全く読めないハングで書かれたバスの表示の中の数字の部分を頼りに、バスを利用していました。若い方には、英語が通じたのですが。訪問していた大きな会社の会議室にいた時に、『日本人が、朴大統領を銃撃した模様だ!』とのニュースが入ってきたのです。その時の、会議室内の騒然さは大変なものがありました。戦時下の隣国にいて、日本人が韓国の大統領をピストルで打ち、大統領夫人が即死されたのです。あれほどの緊張感を覚えたことは、それまでありませんでした。騒動や騒擾になって、それに巻き込まれたらいのちも危ういのではないかと感じたほどでした。

 そんな中で、銃撃犯の実体が明らかになり、〈在日朝鮮人(北朝鮮系の人物)〉だということが明らかになったのです。それで胸をなでおりしたのですが、まもなく日本では、長女が生まれようとしていましたし、家族のことを考えて、『帰れるだろうか?』と思っていましたので、ホッとしたのを覚えています。

 この一週間、この国の騒動のニュースを耳にした時、1974年のソウルでの経験が蘇ってきたのです。あの時ほどの緊張感はないのですが、世界中で起こっているデモの騒動のニュースを見てきている私は、とても心配にあってしまったのです。初めは、遊びのような軽い気持ちでデモに参加した人も多かったに違いありません。しかし、少々の怒りに,わずかな油が注がれて、収集のつかない情況になっていくような危機感を感じたのです。叫び声が上り、器物を破壊して、次々に波状攻撃のように、街の中の獲物を求めて、破壊していく大波が起こるような気がしたわけです。制御不能なうねりが人を突き動かしていくからです。

 こうやって失われていく時間や物の損失というのは、実に大きなものがあるのではないでしょうか。それよりももっと深刻なのは、傷つけられた中国のみなさんの〈尊厳〉や〈面子〉ではないでしょうか。40年間、友好の努力を重ねてきた方々の気概を、全く打ち壊してしまうのでしょうか。ということは、日本の侵略行為が、どれほどのものがあったのかということを、私たちは真摯に思い返して、中国のみなさんを理解して、行動しなければならないと思うのです。
 
 『力は弱いですけど、何かがあったら助けますから、ご連絡下さい!』とメールを打ってきてくれた卒業生がおり、メールや電話で、『大丈夫ですか!』と言って、気遣って下さり、今回のことを謝罪して下さる方々もおいでです。天津で中国語を教えてくださった先生からも、丁重な謝罪がありました。〈群集心理〉で煽られて、在華邦人や日系企業に被害が及ばないことを切望している、〈柳条湖事件81周年〉の朝であります。

(写真は、1931年9月18日、「柳条湖事件」が勃発して間もないころの現場の写真です)

子どものようになること

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 私たちの住んでいますアパート群の敷地の正門の右横に、「幼稚園」があります。おおぜいの幼児が、おじいちゃんやおばあちゃんやお母さんに連れられて、三々五々と、8時前後にやって来ます。自転車、電動自転車、自動車、徒歩で、意気揚々とやってくるのです。ほとんどの子が、園舎に走りこんでいきますから、幼稚園が楽しいのでしょうか。教師や守衛、時には園長先生が、笑顔で迎えている光景は微笑ましいのです。ときどき、その門脇に立っては、彼らの所作を眺めているのですが。孫が近くにいないので、彼らを見ると、ジイジの私は、『いまごろ何をしてるんだろう?』と思うことしきりです。

 次女の娘が、この9月から、幼稚園に通い始めたそうで、その写真が送られてきました。実に楽しそうで、喜んでいる様子が、写真の中にあふれていました。友だちができて、擦り寄ってるのには、気を許し合っているからなのでしょう。私が幼児期を送った山村には、「幼稚園」も「保育園」もありませんでしたから、幼児教育を受かられなかったのです。それで、殊の外、この幼稚園が気にかかるのかも知れません。

 この週初めの朝、先ほど、北京時間の9時過ぎに、な、なんと『パッパパラリラ、ピーヒャラピーヒャラ!』の歌が、ボリュームいっぱいで流れてきました。『え、いいの?』と瞬間思って、あたりを見回してしまったのです。子どもたちには、この数日の騒ぎなど関係ないからです。そうしますと、難しくてこじれて、修復不能な関係になってしまったら、一番良い解決方法は、〈幼子のようになること〉ではないでしょうか。屈託のない、大らかで、無垢な心を持つことです。親の宗教的な立場も、政治的な主張も、世界観も価値観も、そんなややこしいこととは、関係ない世界に、彼ら楽しんで、騒動など、どこ吹く風で、園庭や園舎の中を走りまわっているのです。
 
 今は幼稚園から何も聞こえて来ませんから、教室での授業が始まっているのでしょう。2007年に、天津からこの街に引っ越して来た時には、まれにしか「幼稚園」を見ませんでしたが、最近では、どの団地にもできて、幼児教育最盛期を、この国は迎えているのでしょう。都会の子は、「一人っ子」ですから、2組のおじいちゃんおばあちゃんから(田舎からわざわざ出てきて、孫の世話を焼いてるおばあちゃんが実に多いのだそうです)、あふれるほどの愛情を受けて育っているようです。この子たちが大人になる頃には、どんな時代が出来上がっていることでしょうか。心して、この子たちが戦火の中に放り込まれることのないように、この朝、心から願った次第です。

赤とんぼ

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 日曜日の朝、外に出ましたら、な、なんと秋風が吹いているではありませんか。涼しいのです。16号台風が沖縄を直撃するように北上していますから、その影響でしょうか。さしもの暑さも、これで終りを告げてくれるのでしょうか。それとも、『まだまだ!』と言って、暑さがぶり返してくるのでしょうか。十月いっぱいは、真夏のような日が続き、日中は半袖、夕方からは長袖を着用する時節が間もなくやってくることでしょう。でも、暦は9月の下旬ですから、日中はともかく、夜間は、しのぎやすくなってくるのに、ただ感謝しているところです。

 このそよ風につられてでしょうか、バス停で、飛んでいる赤とんぼを見つけました。三木露風作詞、山田耕筰作曲の「赤とんぼ」を、つい口ずさんでみたくなるのは日本人だからでしょうか。

夕焼小焼の、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か

山の畑の、桑(くわ)の実を
小籠(こかご)に摘んだは、まぼろしか

十五で姐(ねえ)やは、嫁に行き
お里のたよりも、絶えはてた

夕焼小焼の、赤とんぼ
とまっているよ、竿(さお)の先

 桑の実を、「ドドメ」と読んで、頬張って口の周りを紫にした日が昨日のように思い出され、トンボ狩りをしても、ちっとも捕まえられなかった日がありました。こんなに豊かな情緒あふれる歌をうたう日本人が、どうして隣国の心を読み取り、理解し、良い関係を築き上げることができないのか、不思議でなりません。もしかしたら今日日の政界のリーダーのみなさんには、トンボを追ったり、ドドメを頬張ったり、桑の木を折って〈チャンバラごっこ〉などしたことがない、都会の高級地に住んだ、上流階級の子たちだったのでしょうか。

 私たち庶民の子、市井の子は、夕日を眺めながら涙を流したり、夕闇にたなびく焼き秋刀魚の煙で煙たくて仕方がなかったり、『ごはんですよーーーー!』と呼ぶ母の声を無視したりして、毎日走り回っていたのです。そんなこんなで、結局、偉くれないで、平凡で無名な一生を終わってしまいそうですが。

 それでも、『ジイジ!』と、スカイプで呼びかけてくれる外孫の声を聞き、内孫の送られてくる写真を見ると、『もう少し元気に生きて、孫といろいろな遊びをしたり、お話して上げたりしてみたい!』と思うようにされています。この孫たちの時代には、中国と日本のわだかまりが氷解するでしょうか。40年も努力してきた「友好」が、本物になっていくでしょうか。もしかしたら、中日、中米のひ孫を抱くことができるでしょうか。両国の友好の「民間大使」の意気込みで、7回目の大陸の秋を迎えておりますが、秋風と赤とんぼで、ちょっとオセンチになってしまったジイジのようです。

この週末に思うこと

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 中国の新幹線(「动车」と呼んでいます)の車体に、「和谐号hexiehao」と記されています。これは、中国のみなさんが、争いを好まないで、「和谐」を願っているからに違いありません。中国国内だけではなく、隣国の日本や世界との間で、この「和谐」を願うからなのです。辞書を引いてみますと、『調和がとれ整っている』ことで、和やかなことが願われているのです。つまり、国際関係にも、どの様な過去の因縁があったとしても、この国は、「和谐」の社会や関係を願っているのだということを知らされるのです。

 どうして、中日間が、これほどの緊張を引き起こしてしまったのでしょうか。14億の国民が生きていくためには、必死になって食べ物も資源も確保しなければならない、切実で膨大な必要があるのです。私と家内は、在華七年目に入っておりますが、今日まで、中国の農業従事者が作ってくださった食物を、市場を経由して入手し、それで食べつないで生きてきたのです。『これを食べて下さい!』、『これを飲んで下さい!』と言っていただいたものもありました。電気もガスも水道も、電車もバスも船も、この国で生産され運営管理されたものの恩恵にあずかってきたのです。必死になって流通させている物の一部で、私たちは生きてこれたのです。

 『お金を払ったのだから当然!』でいいのでしょうか。緊張の中でも不売運動など起きた試しがありません。ただ、きっと〈悔しい〉のだと思うのです。日本軍の放った火で、少女時代に腕に火傷を負われ、住んでいた村を焼かれた戦争体験を持つ婦人が、その事実を、『本当のことを話して下さい!』と、強引に願って聞き出したことがありました。その彼女が、握手をし、家内をながくギュッとハグしてくれたのです。自分の住んでいた村の井戸に、毒を投げ込んだ日本人がいて、何人もの人が亡くなった、そんな村で戦後に生まれて育った方が、私と家内を家に招いてくださって、『これは最近作り方を覚えた餃子のような料理ですが、たくさん食べてくださいね!』といってくれるご婦人もいるのです。家内が病んで、病院に行く時に、それはそれは息子でもしないようないたわりに満ちた手をのべて、家内の腕を支えて連れて歩いてくださった、長男より少しばかり年かさの男性がいました。また、数千元のお金を、『これを、お二人の必要のために使って下さい!』と言ってくださった二人のご婦人もいました。

 何も私たちに求めて、そういったことをしてくれたわけではないのです。だから、『ちっとも私たちと私たちの国を理解してくれない!』という、〈悔しさ〉があるのではないでしょうか。木の実しか食べてなかった我々の先祖に、米などの穀物や野菜の作り方を伝授してくれたのは、この国の人です。毛皮を身にまとっていた私たちの先祖に、機織りを教えてくれ、布を織り、その布で着物を作って着るようにしてくれたのは、この国の人です。文字がなく、何も記録に残せなかった私たちに、「漢字」を教えてくれたのも、この人たちです。武力で、すこしばかり強かったので高慢になって、恩義を忘れてしまったのは、私たち日本人ではないでしょうか。

 何時か、リニアカーが走るようになったら、その車体に「和谐号」と記していただき、東京から大阪に、中国の友人たちを招いて、一緒に旅行をしたいと思っています。その準備のように、東京駅が新装なったのではないでしょうか。どうも、私たちには「感謝」、「感恩」が中国のみなさんに対して足りないに違いありません。私たちに、少しの「謙遜」があったら、驚くように麗しい関係が生まれてくるに違いありません。そんな明日を夢見る、ちょっと緊張の土曜の華南の街の夕方であります。

「情」

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 とても親しくしていただいた中国人のご婦人がおれました。地方の国立大学の大学院に留学をされていたのです。大学院で研究する合間、あるスーパーマケットでアルバイトをされていたのです。お金が足りなかったのではなく、父親の負担を軽くするために頑張っていたのです。彼女の職場におられた年配の女性が、『これを上げます!』と言って、洋服を彼女に渡したのです。ところが、それが使わなくなった古着だったわけです。『中国人の苦学生だから、これ使ってくれるだろう!』とのことで上げたのでしょう。ところが、彼女は怒ってしまったのです。実に柔和で、争いを起こしたり、激しい言葉を使ったりしないで、流暢な日本語を話す婦人だったのですが。しかし、その時は、プライドを傷つけられてしまったのです。お父様は、去る省の政府高官でしたから、お父様にお願いすれば、何でも与えられたのです。父の援助を固辞しながら、一生懸命に学んでおられたわけです。

 それで、相談されたことがあったのです。私も、『父が着なくなったので、このセーターを!』とか、『兄が使わなくなったネクタイですが!』といって物をくださった方がいましたが、悪意はなかったので受け取りましたが、決して使いませんでした。貧乏はしていても、私にもプライドがあったからです。私は彼女を通して学んだのは、中国人が大切にしている「面子」のことでした。中華民族の一人であるという誇りと、伝統ある一族の末裔であるということ、私が私であるという「面子」は、財産よりも何よりも貴いことなのです。

 日本の外交は、このように、中国のみなさんが大切にしている「面子」を傷つけているのではないでしょうか。配慮が足りないのではないでしょうか。自分の国を、軍靴で踏みにじられ、多くの命を奪った過去を赦そうと精一杯の努力をしてきている中国と中国人を、真に知らない、理解しようとしないのです。私たち日本人は、戦時下に、主要都市が焼夷弾で爆撃され、広島や長崎に原子爆弾を投下されても、マッカーサー司令官が進駐軍の責任者としてやってくると、何万通もの親愛の情のこもった手紙を書き送れる国民なのです。8月14日以前には、『鬼畜米英!』と言っていたのに、15日には、ホッとして、「親米家」に豹変できる国民なのですね。中国のみなさんは、日本人のようには決してならないのです。

 中国は、「合情理法」の社会です。「理」、中国のみなさんには大切なものなのです。「理」にかなわないことは承服できないのです。それ以上に中国のみなさんが大切にしてるのが、「情」です。今回の領土問題で、強引に国有化をしてしまったことは、中国のみなさんの「感情」を大きく傷つけてしまったわけで、それで「反日デモ」が、この週末、主要都市で起きています。領事館から、「外出注意」との情報がありますので、家の中にいることにしていますが。では日本はどうかといいますと、「合法情理」で、「法」が大切なのです。『法律的には正しいのだから!』というので、相手国への配慮とか近づく努力をしないで、「法」を盾にして国有化てしまったのです。中国の社会では、日本人が大切にしている「法」は、無視はしませんが、最下位に置くのです。で、在華邦人の私を、妻も子どもたちも友人たちも、遠くから、成り行きを心配しているのです。

 今朝、教え子から、『・・・ちょっと微妙ですね、気をつけて!』とのメールが来ました。心配してくれているのを知って、励まされました。この「情」は、国境を超え、問題を越えて働くことを知らされて、とても安心した次第です。この大課題を、「合理法情」の欧米の国の指導者に仲介に立ってもらう以外にないのかも知れません。外交の「が」も知らない私ですが、『下手だ!』と思うことしきりです。

(写真上は、「美しい中国 美しい日本–日中友好40周年記念写真展」、下は、周恩来首相と田中角栄首相の乾杯風景です)

ハグ

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 領土問題を、庶民生活に影響させない努力が必要です。庶民は庶民で、底辺の交流を続けるべきです。「不買運動」や「排斥運動」は、やがて戦火を交える戦争への導火線となってしまうからです。優れた芸術性のあるタレントをボイコットしたり、スポーツの対外試合をやめたり、旅行計画を取りやめたり、韓国製品や中国製品の不買の流れに流されてはいけません。両国政府が机を挟んで、冷静に話し合い、互いの主張を聞き合って、感情的にならないで、解決に向かって鋭意努力すべきです。

 親の喧嘩を、子や孫がし、江戸の仇を長崎で討つ様なことにしてはいけません。責任を政府に委ねましょう。昔、経済封鎖をされ、在留日本人を差別され、市場から締め出されたので、日米が戦争に突入してしまった、ということを聞いて来ました。感情を傷つけられて、堪忍袋の緒を切ってしまって、『ニイタカヤマノボレ!』になってしまった過去があるではありませんか。冷静な現状判断を怠ったのではないでしょうか。また子どもたちに剣や銃や手榴弾を握らせるのですか。この美しい祖国を、再び焼け野原にするつもりですか。

 「大日本」でなくていいのです。小日本主義でやっていこうではありませんか。そのほうが大国になってしまって、枕を高くして眠れない「不眠症」になるより、好いからです。子や孫たちに、この美しい国土を残してあげましょう。『日本人たれ!』と言って脅されて、素晴らしい個性を殺してしまったのが、私たちの父や祖父の時代でした。世界制覇の野心、八紘一宇の世界の実現など、二度と再びスローガンにしてはいけません。

 放射能も怖いのですが、「戦争」の方が、はるかに悲惨ではないでしょうか。火の用心、お母さんを泣かさないで、馬を肥やしていきましょう。握手をしてハグをして行きましょう。次男の家で観た動画に、日本人の青年が、ソウルの街中で、『ハグしよう!』と呼びかけると、何人も何人ものソウルの青年たちが、彼にハグしてきていました。さあ握手してハグを交わそうではありませんか!

サーカス

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 1933年(昭和8年)に、西条八十の作詞、古賀政男の作曲、松平晃が歌った「サーカスの唄」も、一世を風靡した名曲でした。3月28日、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」に合わせて、ドイツのハーゲンベック・サーカスが招かれることになりました。その宣伝のために作曲されて、歌われたのだそうです。日本とドイツの関係が緊密になっていく中でのサ-カスの開催でした。団員総勢約150人、動物182頭は、日本人が初めて見る本格的なサーカスだったのです。

旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴(さ)えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で

 子どもの頃に、田舎町にテントが張られて、「サーカス」が行われていました。動物園以外で、動物がみられたり、様々な曲芸を見せてくれ、道化師(ピエロ)の無言の所作に笑わされたものです。鳴り止まない拍手が、いまだに耳の奥に残っております。

 テレビや大きな劇場がない時代の田舎で行われるのは、金儲けの興行だったのは事実だったのですが、子どもたちには夢を与えてくれたものだったのではないでしょうか。旅芸人一座が、テントを張っては「チャンバラ」の股旅ものや母ものを観せてくれました。決して豊かではなかった時代、大人たちは、私たち子どもに夢を与えようとし、遠くから夢を運んでくれたことを強く思い出しております。母に、わずかなお金を手に握らされて、小屋に走り込んでは観た日がありました。

 この歌は、よく「チンドン屋」が演奏しながら、商店街を練り歩いていたので、よく聞きました。時代劇の衣装を身につけて、ビラを配りながら、鐘と笛とアコーデオンで宣伝して歩いていたのです。もう全く見られなくなってしまった街中の光景ですね。そんなに豊かではなかった時代でしたが、夢があり希望があり、みんなが一生懸命に生きていて、逞しい活力のある時代だったのです。今頃は、「秋の大運動会」の準備に明け暮れていました。本番には、母が海苔巻きや稲荷寿司を作り、おかずをこしらえ、飲み物やくだものをもって応援に駆けつけてくれました。みんなで分け合いながら、食べた昼食の味は何とも形容しがたく美味しいものでした。秋の青空が、今よりも、ずっと高く近く感じられたように思い出されます。

 思い出が、光景ばかりではなく、色がついていたり、匂いや味が残っていたりして、五感で感じられるのが不思議でなりません。『今日日の子どもたちには、こういった子供時代が与えられているのだろうか?』と考えてしまうのですが。四角い箱のテレビ、パソコンやゲーム機の世界に、心が泳がされているように思えてしまうのですが。「情緒」の欠落した世界の中に、心がさまよっているのかも知れません。彼らを、思いっきり走り回れる野原に、登り下りする崖や谷に連れていってあげたい気持ちがしてなりません。

(写真は、サーカスの余興を演じるピエロ(道化師)です)