望郷

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 山梨県の北部に、甲州街道の宿場の一つであった「韮崎」という街があります。甲州、信濃(長野県)、駿河(静岡県)をつなぐ交通の要衝の地だったのです。ここから北に向かって塩川(本谷川)の渓谷沿いを上がっていきますと、「増富」という村落があります。近年〈ラジウム温泉〉として有名になり、渓谷の奥には温泉宿が何軒かあります。そこからの林道を車で走りますと、牧丘や塩山、長野県の川上村などに抜けていくことができ、春も秋も美しい山の景色を楽しめます。

 学校を出たての時に、県職員の寮に、友人を訪ねたことがありました。まだお酒を嗜んでいた頃でしたから、いっぱい飲んでから、彼とキャッチボールをしたのです。彼が暴投をして取り損なったボールを拾うために、塀に上って、誤って落下してしまいました。したたか左肘を打ちつけてしまったのです。やはり左腕の肘を複雑骨折していました。整骨師に見てもらい、骨折部分は治ったのですが、副木を当てていた時間が長かったからでしょうか、今度は肘が曲がらなくなってしまったのです。それで、『温泉に行ったらいい!』と聞き、職場から休暇をもらって、一週間ほど、この「増富温泉」に、湯治に出かけたのです。韮崎からバスに揺られて、冨士川の支流の塩川の流れる渓谷を走りました。山は綺麗ですし、水も美味しいし、散歩をしたりの温泉三昧の日々でした。

 それまで温泉とは、若い私には縁遠い世界でしたが、これを契機に、温泉好きになって行きました。お酒も飲まなくなり、いわゆる大人の遊興を楽しむことのなかった私の唯一の息抜きは、だいぶ爺臭いのですが、温泉に入ることでした。日帰り温泉に出掛けては、一日中、ぼーっとしている時間は、回生の時だったと思います。そばを食べたり、焼いた川魚や漬物を食べて、川や山や山間から空を眺めていると、思考が新しくされるようでした。そんな時、よく思ったのは、『親爺が生きていたら、連れてきて、一緒に温泉につかれたのに・・・』と、父を懐かしむことでした。車だったら日帰りが可能ですし、このような施設は、どの山間に分け入ってもあるほどだったからです。

 そんな私を知っている兄や弟は、帰国しますと、早々に、温泉に連れていってくれるのです。去年の帰国時に、多摩川河畔に新しく作られた温泉に連れていってもらいました。ぬるめの温泉につかっていると、頭上に三日月が見えました。つい、三池炭鉱ではなかったのですが、『月が出た出た月がぁ出た・・・』と、小声で歌ってしまいました。もう仕事に追われないですみますし、急な訪問もしなくなって、時間はゆったりと流れるようになりました。そんなところに、自分を置くことができるのに、だんだんと慣れてきている自分に驚かされます。何かをしていないと落ち着かない性分でしたから、こんな自分になるのは、我ながら意外な感じがいたします。中国生活で、一つの不満を上げるなら、「温泉のない生活」でしょうか。せせらぎが聞こえ、山肌を隣に感じ、紅葉する木々の中にある、「温泉」のことです。これって、望郷の思いなのでしょうか、秋だからですね。

(写真は、本谷川(塩川の支流の1つ)の春の景色です)

良品

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 この地で増えているものが、3つあります。1つは、「自動車」です。最初に中国に来た時、北京でも上海でも広州でも、自転車のほうが多かったと思います。自動車が増えたからでしょうか、信号も多くなっています。2つは、「乳母車」です。おばあちゃんやお母さんが、子どもを乗せて、道路を行き来しているのを、よく見かけます。それとともに、「幼稚園」が、あちこちにできて、園庭から遊びに興じる園児の声が聞こえてきます。3つは、「くだもの屋」です。7年前に初めて来ました時に、スーパー以外で果物を買うことは、ほとんどありませんでした。街中にはくだもの屋さんがなかったからです。その店頭に、輸入果実が増えているのです。バナナもフィリピンからの輸入があり、ドリアンやマンゴスチンの果物の王様や女王様が並んでいるのです。

 変わったものが3つあります。1つは、「道路」です。路側帯ができ、道路の中央部に区分の柵ができているのです。2つは、「建物」です。古い建物が壊され、階数の多いアパート群に建てなおされているのです。3つは、「服装」です。子どもたちと婦人の服装が大きく変わってきています。ブランド品の子供服を着ていますし、多くの女性がスカートをはき、”anan”に掲載されているモデルようなカラフルな洋服を来て、街中を闊歩しておいでです。

 ある時、わが家に遊びに来られた先生の一人が、わが家の子どもたちの古写真を見て驚いておられました。『私の子供時代の写真は、ほんとうにダサかったのに、お子さんたちの昔の服装は、今までも通用していて、新しい感じがします!』と言っておられたのです。日本は時間をかけて変わってきたのですが、こちらでは急速な変化が見られるからなのでしょうか。スーパーには、日本式ラーメン、日本式うどん、ヤクルトが普通のケースに並べられていて、「輸入品コーナー」ではないのです。多くの商品の箱や袋には、日本語が記されているのです(先月の騒動以降は注意してみていませんが)。『美味しい◯◯』とか『たべよう』とかです。日本製品の良さが、正当に評価されているからに違いありません。日本の企業努力が、こちらのメーカーに良い影響を与えて、そのように表記されているのです。『この商品は、すばらしいんですよ!』とアピールぢようとしているのでしょうか。

 日本に対する、こういった評価は、市井のみなさんに、浸透していることになります。車にしても、トヨタ、ホンダ、三菱、スズキ、マツダなどの日系企業が製造したものが、多く走っていますし、私たちの住んでいるアパート群の駐車場には、駐車されている車の半数ほどが日系の車なのではないでしょうか。このように〈良品〉を造って、提供してきた日本の企業の誠実な影響や努力を誇りたいと思っています。その努力が、無に期することがないような、再びの友好の輪が広げられていくようにと願う、「国慶節」の休みの週の火曜の夕方であります。

(写真は、ドリアン、中国語では「榴莲liulian」と呼びます)

好いもの

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 『〈線香花火〉が好きだ!』という人が、よくおいでです。夏の夜空に打ち上げられて、景気よく炸裂する〈尺玉花火〉と比べて、まことに地味な花火です。チマチマしていますが、実に情緒があり、今、思い出すと、とても懐かしいものの一つに数え上げられ、私も好きなのです。

 江戸時代からある、三百年の伝統的な日本の花火の一つです。火薬でできている火球から、〈松葉〉の様に火花が小さく散るのです。手に静かに持って、火球から飛び散る火花を楽しみ、なるべく長く続くような祈りがこめられていたのです。父が買って来てくれた花火の中に、これがあって、遊びの最後に、これに火をつけてもらっては、消えてしまうまで、しゃがみながら見つめていたものです。

 六十年の人生を振り返ると、どうも〈線香花火〉の様に地味で、小ぶりだったのではないかと思われます。もうこれからは、大玉を打ち上げるようなこともないのでしょうけど、まあまあ満足しながら今を迎えたといえるでしょうか。大陸の上海で、花火師として活躍した小説の主人公に憧れて、〈花火師〉になろうとさえ思いながらも、それも叶えられませんでした。しかし与えられた仕事に満足して、自分なりに『やった!』と思ってきております。これは、同級生たちとの比較ではありません。若かった日に心に宿っていた〈大志〉は成就しなかったことでもありません。天職を得て、それに忠実に従って、社会的な責任を果たし、四人の子どもたちも育て上げれたこと、家内と一緒に歩んでこれたことは、ささやかながら〈成功的人生〉だったと思うのです。

 そして今、その仕上げの日々を、異国で、家内と励まし合いながら過ごしていることも、また、不思議な思いに駆られております。多くの友人たちが与えられ、生活にも慣れ、寂しい思いもしないで過ごせるのは感謝なことであります。もう、おととしになるのですが、多摩川の河川敷に設けられた席に座って、打ち上げ花火を鑑賞しました。息子が、一等席を買って招待してくれたのです。『遠くから見る花火がいい!』との長年の思いを覆させられるほど、近く、いえ頭上に花開く花火と炸裂音は豪快でした。それは素晴らしい時でした。そして幼い日の〈線香花火〉も、また好かったのです。それぞれに愛がこもっていたからでしょうか。

 浅草あたりに行けば、買えるかも知れませんね。今度帰国したら、庭先に出て、しゃがみこんで、この〈線香花火〉に興じてみたいものです。「国慶節」を迎えて、あちこちで花火があげられていました。一瞬の閃光、刹那の輝きですが、暗い夜空を明るくしてくれる風物詩は、瞬間ですが心も照らしてくれて、やはり好いものです。

終の棲家考

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 最近、『帰国しなければならなくなったら、どこに住もうか?』と考えているのです。もう数年後には、そうしなければならないかなと思っているからです。つまり、〈終の棲家(ついのすみか)〉を決めるべきかも知れません。家を持っていないというのは、自由に居住地を選択できるということになりますね。南信の飯田を行き来していて、帰りに高速道に乗らないで、一般道を走っていて気に入ったのが、「駒ヶ根」でした。南アルプスと中央アルプスに挟まれた高原地帯で、実に静かな街でした。野菜や果物が豊かに収穫されて、蕎麦がやけに旨く、空気と水が美味しい土地なのです。『でも冬場が寒そう!』と、心配して迷うくらいですから、本気ではないのかも知れません。

 岩手県に、「岩泉」という街があります。2010年に、土砂の崩落で脱線事故が起き、運行を休止していた、「JR岩泉線(盛岡と宮古経由で釜石を結ぶ山田線の茂市と岩泉を結ぶ鉄道です)」は、そのまま廃線が決まったようです。かねがね、このローカル線に乗りたいと思っていたのですが、その夢も叶わなくなってしまって、今は、回れ右してしまいました。昔、貧しかった岩手県のこのあたりは、口の悪い人に〈日本のチベット〉と言われたほど、風光明媚な所なのです。電車に代わって、バス路線があり、盛岡から行くことができますが、鉄道の楽しみがないのは残念で仕方がありません。ここも寒そうですね。

 山歩きが好きでしたが、海も好きですし、あの潮騒(しおざい)が私を呼んでいるので、海辺の町に住んでみたい気もしているのです。小田原とか、葉山とか、西伊豆とかですね。父が生まれ育った横須賀もいいなと思うのです。でも去年の東日本大震災の折の〈津波〉のことを考えますと、海辺はちょっと危険かなと思ってしまいます。富士山の火山爆発が予測されていますから、二重に危険でもあリますので、なんとなく躊躇してしまいます。原子力発電所の周辺も危険ですし、風下になる土地だって、安心できません。東京の首都圏の地震が騒がれていますから、これも敬遠したほうがいいかも知れません。今は健康ですが、病気になったら、近代医療機器の整った病院のある、大都市周辺がいいわけです。でも人も車も騒々しくて、訪ねるのはいいのですが、住むには迷ってしまいます。

 そんな風に、危険に否定的な目を向けていたら、日本では、いえこの地上では、住む街を、どこにも見つけることができないことになりますね。『いつ、空が落ちてくるか知れないので、安心して外出できません!』と、外出恐怖症になった方がいたと聞いたことがあります。『この食べ物に毒が混じっているかも知れない!』と、拒食症の人の話も聞きました。でも、星の動きに導かれて出かけた人の話もありますので、今を精一杯生きて、『動け!』という声を後ろから聞いたら、星の動きに従うことにしましょう。だって私たちは、寄留者であり、旅人であるのですから。この五尺の体を横たえ、納められる場所は、どこにでもあります。大切なのは、思い煩わないで、生きることなのでしょう。ああ何だか、ホッしました。今に感謝する・・・そうですね!でも、ハワイがいいかな。あれっ・・・・・!?

(写真上は、烏帽子岳から望む駒ヶ根市の全貌、中は、岩泉線の景色、下は、父の生まれ育った横須賀の海岸です)

国慶節

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 ここ中国では、春の到来を喜ぶ「春節」、秋の国の誕生を慶ぶ「国慶節」を祝祭の日としています。

 この国と、住んでいます街、この国の人々、この町の人々の「平安」と「繁栄」と「健康」を、今朝、在華七回目の祝祭の日を迎え、心からお祈り申し上げます。

 この国の指導者のみなさん、とくに胡錦濤主席、温家宝総理、次期の重責を担う新指導部のみなさんの「平安」と「健康」とを、心から願ってお祈り申し上げます。さらに、この国で出会った友人のみなさん、学生のみなさん、教師のみなさんの「平安」と「健康」を心から祝福いたします。

 中日の間にある齟齬が正され、千数百年の友好の歴史、ことのほか「四十年の友好の努力」が、しっかりと実るように、心から祈念いたします。

(写真は、延々と続く「万里の長城」です)

南信

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 長野県の南部を「南信」と呼ぶのですが、娘夫婦が、阿南という町と飯田に、3年ほど住んでいたことがあります。この滞在中に私たちの初孫が生まれましたので、生まれ故郷、育った街、働き子育てした街、その次に懐かしいのが、この「南信」になるかも知れません。娘婿が〈JET〉の英語教師をしていた間に、何度、ここを訪ねたことでしょうか。ことのほか、孫が生まれる前後には、相互に行来をしていましたから、そうとうの頻度数になるのではないかと思われます。

 初めて訪ねた時に、町内の温泉入浴施設に連れていってもらいました。町のはずれの渓谷にそって〈かじかの湯〉があって、何ともいえないほど、ゆっくりできたのです。空気も水も空も、何ともいえなく澄んでいて、〈リ・フレッシュ〉するとは、ああいう環境の中に、自分の心と体と現実を置くことなんだということがわかったようです。長野県は山国ですから、このような温泉施設が、あちらこちらに点在していて、両親を喜ばそうとして、娘夫妻は、そこかしこに連れて行ってくれたのです。遠山郷という村には、「かぐらの湯」があって、南アルプスから流れ下る川の縁で、せせらぎの流れを聞きながら入浴でき、帰りには、土地の名物のまんじゅう屋でたべたり、、ずいぶんと贅沢な思いをしたことがありました。私の働いていました街から、2時間足らずで行くことができた至便性と家族愛とが、休みごとに、ここに行かせてくれたのだと思います。

 ある時、木曽の「妻籠の宿」を訪ね、〈満蒙開拓〉で出掛けていった人を多く輩出したので有名な〈阿智村〉に行ったことがありました。今でこそ豊かな暮らしをすることができるようになりましたが、日本が工業化する以前のこの近辺は、山地で耕作地も少なく、日本でも有数の貧しい地域でした。それで、多くの人がブラジルやアメリカ、そして満州に、新天地を求めて出ていった地域なのです。そんな昔が嘘だったように、人々は、今、平均的で落ち着いた生活を営んで、楽しく生きておいででした。

 こちらに戻るときに乗った「蘇州号」の中で出会った方が、この飯田の出身だと言っておられました。東京で学ぶために上京し、そこで就職し、東京の近郊に住んでおいでとのことでした。『実は娘夫婦が・・・』と話をしましたら、『なんか不思議な出会いですね!』と言っておいででした。今の生活の様子を、私も話したりで、短い時間でしたが、ずいぶんと打ち解けて交わりができたのです。『これから3ヶ月、中国中を旅してきます!』と言って、大きなバッグを引いて上海で下船していかれました。退職後、奥さんの許可を得て、一人旅を繰り返しているのだと言っておられました。今頃、どの辺を旅していることでしょうか。少々、難問題が起こったさなかですが、まあ旅慣れしていますし、人当たりもいいので、無事に続けておいでだろうと思います。

 わが家には、昨年遅れに手に入れた「風呂桶」があり、「和の里の湯」と名付けているのです。時々、〈温泉の素〉を入れては、『♭いい湯だな、いい湯だな、ここは中国、和の里の湯!』と歌いながら入るのですが。明日は「中秋の名月」、風呂場の小さな窓からは名月を仰げそうにありませんが、久しぶりに湯を立ててみたいなと思っております。名月が見下ろす地球は、難問題が山積していますが、月が話せるなら、『地の上に平和、感謝や赦しがありますように!』と言わせたい、「中秋節」の前日であります。

(写真上は、南信の高山に咲く「コマクサ」、下は、http://www.astroarts.jp/photo-gallery/gallery.pl/photo/5828.htmlから「新城から見た名月(昨年)」です)

たけなわの秋

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 「鈍足」とは、足が遅いことを言います。小学校でも中学校でも、「徒競走」という種目は、大体ビリかビリから二番目といったところで、クラス対抗とか、部落対抗のリレーなどがあった時、出たかったのですが、決して選ばれたことがありませんでした。ただ一度だけ、部落対抗リレーに、就学前の選手枠で出たことがありました。上の兄二人は、いつもトップに入っていたので、『弟も速いだろう!』と選ばれたのです。山の中で崖登りは、兄たちの後をついてやったことはあったのですが、平地を走ることなどしたことがなかったのです。号砲が鳴ったら、驚いたのか反対方向に走ったのか逃げたのかだったそうで、我が部落は最下位だったそうです。こういうのを、〈期待はずれ〉というのだと思います。こういう場合、悔しくって、『来年は頑張るぞ!』となるのですが、全然、そういった気分にはなれませんでした。

 それでも足は早くなかったのですが、兄たちに似て、運動神経だけはよかったようです。いろいろなスポーツをしてきましたが、一番楽しかったのは、40代だったでしょうか、上の兄が親交していた中年のおじさんたちに誘われてやった、テニスでした。春と秋には、終日のこまないときに、八ヶ岳や山中湖に出かけて、2泊3日ほどの「合宿テニス」を、毎シーズンしていました。もちろん、普段も時々やってはいたのですが、『こんなに楽しいスポーツはない!』と、新発見をしたわけです。実に楽しかったのです。楽しそうに、意気揚々と出かけている私を見ていた子どもたちが、『テニススクールに行かせて!』という風に、真似し始めたのです。下の息子は、同年代で県の2位だか3位になったのですが、そんな所で、みんなのめり込むことなく、潮が引くように、ほかのことをし始めていったようです。

 『若い時に始めていたら!』と思うこともありましたが、意外に、難しいメンタルな要素の強いスポーツで、なかなか技術的に高級なものなのです。フランスの貴族の間でに生まれたものですから、やはり紳士的な面があって、やっていると自分も紳士になったような思いにされるスポーツでした。好きになったものですから、〈すこし上手になろう!〉と思い、テニススクールにも通いました。レッスンで無理をしたのでしょうか、右足と左足の靭帯の両方を、次々に切ってしまったことがあったほどでした。踏み出しに瞬発力が要求されるので、その時に怪我をしたのです。『誰だボールをぶつけたのは?』と思ったら、怪我だったのです。結構、痛い思いをしました。

 今でも、したい気持ちがあるのですが、体育教師をしていた弟の弁ですと、『いくつになってもやれるスポーツなんだ!』ということです。最近耳にしたのは、昭仁天皇が、まだテニスをしているのだそうです。昭和8年生まれですから、御年78になられるでしょうか。驚かされた私は、『じゃあ、まだできるんだ!』と思わされたのです。オッチョコチョイの私ですので、どう再開するかを、よく考えていかないといけないと思っております。

 下手な私の相手をしてくださった兄の友人たちの中には、すでに召されたり、体を悪くされたりしている方がおいでです。大学の運動部の選手で、日本選手権のスタメンで、球技をしていた上の兄も、今は膝に問題があったり、〈腓返し(こむらがえし、足の筋肉がつる症状)〉があったりだと聞いています。いつまでも人は若く入られないのだということを、知らされております。

 でも、〈スポーツの秋〉の到来です。いろいろとしてきた私の思いが、ムラムラと沸き上がって、運動して体を動かしたくて仕方が無いのです。そのためには、普段が大切ですね。車に乗らないで、歩くことが多くなり、一生懸命に自転車にも乗ったりしたのですが、先日、自転車がとられてしまい、もっぱら歩き専門になってきています。さて、ちょっと、師範大学の構内にあるコピー屋に行ってきます。もちろん歩きとバス、そして歩きです。たけなわの秋の午前です。ではまた。

(写真は、ブログ「オーナーの写真で綴る八ヶ岳の秋」から秋の八ヶ岳の風景です)

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 そろそろ、口ずさみたくなる歌があります。子どもたちが歌っていたのか、ラジオから流れてきたのか、聞き覚えのある歌ですが。こんな歌詞の歌です。

秋はいいな 涼しくて 
お米が実るよ 果物も
山からコロコロやってくる

 史上稀な暑い夏も終わって、やっと秋になったと、日本からニュースが伝わってきます。この時期の微妙な季節の変化が、日本ほど感じられない、大陸暮らしで、7回目の秋を迎えますと、ことのほか、あの感じが懐かしいのです。もちろん華南の地でも、赤トンボが飛んでいたり、果物屋の店頭には柿や栗が並んだりしていますが、まだスイカも瓜も売られています。さすがに35度といった気温はないものの、まだ27、8度ほどは日中、ありますので、日本で感じられるのとは大きく違うのです。

 今晩も、近所からBGMが聞こえてくるのですが、その中に、日本でよく聞こえてきた「横笛」の音色が、最近、よく耳に入ってくるのです。秋の収獲を祝う祭りの時に聞こえるあの笛の音です。一瞬、『アレッ、ここは日本じゃないよね!』と思ってしまうほど、音色が似ているのに驚かされています。音色だけではなく、メロディーも、「民謡」によく似ているのです。台湾の歌手が歌い、華南でもよく歌われている歌に、「爱拼才会赢」があるのですが、これが日本の流行歌、演歌と聞き違うほど似ているのです。ですから、民謡にしろ演歌にしろ、互いに影響し合って、今日を迎えているのに違いありません。

 さて、そろそろ日本では、「柿」が美味しくなるのではないでしょうか。数ある果物の中で、一番の私の好物が、この柿なのです。〈眼がない〉というのが一番、好い言い回しでしょうか。家族で長く過ごした街の近くに、柿の産地があり、「御所柿」と言われる柿が採れるのです。天皇家や宮家に献上するので、そう呼ばれたのでしょうか。それとも奈良県御所(ごせ)特産の柿の種を移植したので、そう呼んだのでしょうか。これを箱で頂いたことがありました。流石(さすが)、極上の美味しさだったのです。そんな私ですから、一シーズンに、『お好きなので!』と言って、何箱も何箱も次々に柿をいただいてきたのです。その喜びがなくなってしまった今、寂しい思いをしているのです。こちらで売られている柿は、「御所柿」を食べて舌の肥えてしまった私には、どんなに柿好きでも食べたいと思わないのです。こちらの柿には、ほんとうに申し訳ないのですが。

 どの季節も、別け隔てなく好きな私ですが、一番好きなのは、来る季節と行く季節の変わり目の微妙な感覚を、全身で感じて楽しめるのが、最高に幸せなのです。自然界が、生きている喜びと、色合いと変化をくれるのだろうと思って、感謝でいっぱいです。華南の行く夏と来る秋の間で、生を満喫しようと思っております。それでも、何処かに美味しい柿が売ってないでしょうか?秋だから食べたいのです!

(写真は、goo辞書から「御所柿」です)

平和

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 政治以外の世界には、中国のみなさんから、尊敬を得ておられ民間人が多くいるのではないでしょうか。地方の大学や専門学校で、地道に日本語を教えておられた、現におられる先生方が多くいます。3年ほど前になるでしょうか、市内の師範大学で教えておられた先生が、3年の奉仕を終えて帰国されようとしていました。大学が用意した車で、空港に送ってもらおうとしていた時、私たちも同じ宿舎にいましたので、挨拶のために庭に出ていました。そこに、この先生の教え子たちが、20人ほどいました。その中には、半日もの時間をかけて、バスや電車で駆けつけてきた方もいたのです。もう社会人としてで活躍している彼らと、先生との別れを、はたで見ながら、『こんなに外国の学生たちに慕われているS先生、この人の果たした役割は、実にい大きい!』と思わされたのです。

 家内と私は、このような心温まる素晴らしい光景が、陽の当たらない中国の片隅、しかも、あちらこちらでみられるのだと確信したことでした。広い中国には、日本語を教えるためにおいでになった教師は、延べ人数にすると相当なものになるに違いありません。公的な招聘で赴任してきた方、個人的に奉仕されている方、様々なケースがあるのです。S先生は、私のすぐ上の兄と同じ年齢で、高等学校で英語教師をしておられ、日本語教師の資格をとられて、おいでになったと聞きました。『教室では厳しいのですが、優しい先生でした!』というのが、教え子たちから聞いた彼の印象でした。

 こういった積み重ねてきた実績が、この国の隅々にあるのではないでしょうか。消えて行ってしまったのではなく、人々の心の中に積まれているに違いありません。今、行方がどうなるのか、憂慮される重大な事態に、中日はありますが、確固たる友好の努力が、このように高く積み上げられているわけです。それは教育界だけではなく、医療や福祉事業や、さらに実業界にもあるに違いありません。ですから、両国の関係の恢復が、きっとなされると確信しているのです。

 関係恢復のために、用いられた政治家の中には、驚くような尊敬を勝ち取っていた方、高い人間的な評価を受けた方がおいででした。40年前には、お互いの間に、敬意がみられたのですが、今は、そういった高評価や尊敬を得ているリーダーがいらっしゃるのでしょうか。聞く所によりますと、当時の外務大臣・大平正芳は、涙を流すほどの真剣さで、姫外交部長(日本の外相に当たります)を動かしたと言われています。この方は、父と同じ年に生まれていて、親しみがありました。それぞれの時代に、〈用いられる人〉が必ずいるのだと思うのです。相手の立場や考え方を熟知し、自国の主張だけを押し通してしまわない交渉術を持っている方です。今も、きっと、そんな〈備えられた器〉がいるのではないでしょうか。

 私たちの近くの町に、「氷心記念館」があって、数年前に見学に行きました。この氷心は、中国で著名な、女流文学者でした。戦後、民間レベルでの中日文化交流が活発に行われていた時期に、彼女は、招かれて東京大学で特別講座を持ち、日本の文壇のそうそうたる方々との交流を持っておられたのです。日本の文壇や教育界は、彼女を極めて高く評価して交流したわけです。私の書棚には、彼女の著作が二冊ほどあります。文学の世界には、このように互いを高く評価し合い、敬意を持って交流していた過去があるのでから、こういった過去を再評価して、さらなる文化交流がなされることを切望しております。

 S先生は、私の作文指導法について、いくまいもの資料を提供していただいたことがありました。今でも、時々メールを交換しております。温厚な方で、自分のもう一人兄貴のような気持ちにさせてくださる方です。9月も下旬、お住まいのある町は、たけなわで短い秋の真っ最中でしょうか。今、チェックしている学生の作文の中に、『中日の平和を願っています!』とありました。

(写真は、氷心女史の結婚式の時のものです)

1972年

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 私の家族にとって、1972年は、特別な年でした。5月24日に、家内と私の間に、長男が誕生したのです。まだ学生のようにしか見えなかった私が、親になったのですから、歯がゆかったのと責任を負わされた重さを、複雑に実感し始めることになったのです。産科病院から退院してきて間もない晩に、消防隊員が、わが家の玄関の戸を叩いたのです。『すぐに避難して下さい。甲州街道で工事中のガス管に穴が開いて、ガスが漏れ引火の危険性があるので、すぐに!』とのことでした。すぐに長男をプラスチックの衣装ケースの中に入れ、おしめを持って、家内の手を引いて、事故現場の反対側に走って逃げたのです。もう歩けなくなった家内と長男を、義姉に車で迎えに来てもらいました。そして家内の実家に連れていってもらったのです。ほんとうに危ない所でした。

 その8月に、アメリカ人起業家の手伝いということで、中部地方の地方都市に引越したのです。長男は、まだ二ヶ月ちょっとでした。空気が変わったのか、長男はよく泣いていました。小さなアパートに住んでいたのですが、近所のお母さんたちが、何人か寄っては、しばしば私たちの部屋を見上げていました。よそから越してきた、新米の親たちを心配していたのでしょうね。どうも、訳有りの家族のようにみられていたのです。

 その翌月の9月29日に北京で、周恩来首相と姫鵬外交部長、田中角栄総理と大平正芳外務大臣との間で、「日中共同声明」が調印されたのです。これは、戦後史では、特筆すべき出来事でした。民間では、これまで20年間の交流が、両国の間でなされていたのですから、それが国レベルで友好への一歩を記したのですから、意味ある年でした。25日から中国を訪問していた田中首相を代表とする日本側と、これを迎えた周恩来首相を代表とする中国側との間で、何度も会談が行われ、「声明文」の文言の表現が調整されていきました。

 とくに田中総理が、初対面の周恩来総理に、『貴国に迷惑をかけた・・・』という言葉をかけたのです。これ通訳者から聞いた、その場の中国側の要人たちは凍りついてしまい、周総理は激怒したのです。中国語ですと、「添了麻煩(ティエン・ラ・マーファン) 」で、『女性のスカートに、うっかり水を欠けた時に、軽く詫びる言葉だ!』と言うことで、『決して受け入れることのできない謝罪だ!』という大問題に発展したのです。この「迷惑発言」について、姫外交部長と大平外相に間で話し合いが行われていきます。

 私たち日本人にとっても、この「迷惑」は、謝罪の言葉としては足りないと思います。結局、中国側の歩み寄りと、大平外相の説得によって、
  「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を
  与えた責任を痛感し、深く反省する。」
というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれたのです。日本側の立場を認める、周恩来総理の智恵にみちた配慮と寛容さ、大平首相の懇親の説得と交渉、それを受け入れた姫外交部長の譲歩で、こういった「声明」が交わされたのです。後に総理大臣となる大平外相が表した、誠実で真剣な態度が、中国側から好意を得、高く評価されたと言われています。

 この調印は、日清戦争から、満州事変、中日戦争に至るまで、中国と日本の間にあった一切を払拭させたことで、ことのほか中国側の喜びの大きさは驚くほどのものだったそうです。大人同士の膝を付きあわせた会談の実りだったのです。それから6年後の1978年8月12日、北京で、「中日友好条約」が締結されるのです。

 私にとっての1972年は、長男が生まれ、私が新しい仕事に従事した年ですが、何よりも、「中日共同声明」が署名され調印された年でした。この年から40年が経ちましたが、この年のことを思い起こし、あの日のような〈膝を付き合わせた話し合い〉が、再び実現されることを、切々と願っております。40周年記念の今月29日を、周総理、姫外交部長、田中総理、大平外相の労を労い、感謝しながら、喜び祝いたかったのに、どうもそうできない情況が、残念でなりません。でも、きっと明るい将来が、中日の間にあると確信する、「秋分の日」の夕方であります。

(写真上は、毛沢東総書記、周恩来首相、田中角栄首相、下は、声明文に署名する大平正芳外相です)