1972年

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 私の家族にとって、1972年は、特別な年でした。5月24日に、家内と私の間に、長男が誕生したのです。まだ学生のようにしか見えなかった私が、親になったのですから、歯がゆかったのと責任を負わされた重さを、複雑に実感し始めることになったのです。産科病院から退院してきて間もない晩に、消防隊員が、わが家の玄関の戸を叩いたのです。『すぐに避難して下さい。甲州街道で工事中のガス管に穴が開いて、ガスが漏れ引火の危険性があるので、すぐに!』とのことでした。すぐに長男をプラスチックの衣装ケースの中に入れ、おしめを持って、家内の手を引いて、事故現場の反対側に走って逃げたのです。もう歩けなくなった家内と長男を、義姉に車で迎えに来てもらいました。そして家内の実家に連れていってもらったのです。ほんとうに危ない所でした。

 その8月に、アメリカ人起業家の手伝いということで、中部地方の地方都市に引越したのです。長男は、まだ二ヶ月ちょっとでした。空気が変わったのか、長男はよく泣いていました。小さなアパートに住んでいたのですが、近所のお母さんたちが、何人か寄っては、しばしば私たちの部屋を見上げていました。よそから越してきた、新米の親たちを心配していたのでしょうね。どうも、訳有りの家族のようにみられていたのです。

 その翌月の9月29日に北京で、周恩来首相と姫鵬外交部長、田中角栄総理と大平正芳外務大臣との間で、「日中共同声明」が調印されたのです。これは、戦後史では、特筆すべき出来事でした。民間では、これまで20年間の交流が、両国の間でなされていたのですから、それが国レベルで友好への一歩を記したのですから、意味ある年でした。25日から中国を訪問していた田中首相を代表とする日本側と、これを迎えた周恩来首相を代表とする中国側との間で、何度も会談が行われ、「声明文」の文言の表現が調整されていきました。

 とくに田中総理が、初対面の周恩来総理に、『貴国に迷惑をかけた・・・』という言葉をかけたのです。これ通訳者から聞いた、その場の中国側の要人たちは凍りついてしまい、周総理は激怒したのです。中国語ですと、「添了麻煩(ティエン・ラ・マーファン) 」で、『女性のスカートに、うっかり水を欠けた時に、軽く詫びる言葉だ!』と言うことで、『決して受け入れることのできない謝罪だ!』という大問題に発展したのです。この「迷惑発言」について、姫外交部長と大平外相に間で話し合いが行われていきます。

 私たち日本人にとっても、この「迷惑」は、謝罪の言葉としては足りないと思います。結局、中国側の歩み寄りと、大平外相の説得によって、
  「日本側は過去において、日本国が戦争を通じて中国国民に重大な損害を
  与えた責任を痛感し、深く反省する。」
というのが最終案となり、日中共同声明に盛り込まれたのです。日本側の立場を認める、周恩来総理の智恵にみちた配慮と寛容さ、大平首相の懇親の説得と交渉、それを受け入れた姫外交部長の譲歩で、こういった「声明」が交わされたのです。後に総理大臣となる大平外相が表した、誠実で真剣な態度が、中国側から好意を得、高く評価されたと言われています。

 この調印は、日清戦争から、満州事変、中日戦争に至るまで、中国と日本の間にあった一切を払拭させたことで、ことのほか中国側の喜びの大きさは驚くほどのものだったそうです。大人同士の膝を付きあわせた会談の実りだったのです。それから6年後の1978年8月12日、北京で、「中日友好条約」が締結されるのです。

 私にとっての1972年は、長男が生まれ、私が新しい仕事に従事した年ですが、何よりも、「中日共同声明」が署名され調印された年でした。この年から40年が経ちましたが、この年のことを思い起こし、あの日のような〈膝を付き合わせた話し合い〉が、再び実現されることを、切々と願っております。40周年記念の今月29日を、周総理、姫外交部長、田中総理、大平外相の労を労い、感謝しながら、喜び祝いたかったのに、どうもそうできない情況が、残念でなりません。でも、きっと明るい将来が、中日の間にあると確信する、「秋分の日」の夕方であります。

(写真上は、毛沢東総書記、周恩来首相、田中角栄首相、下は、声明文に署名する大平正芳外相です)

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