サーカス

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 1933年(昭和8年)に、西条八十の作詞、古賀政男の作曲、松平晃が歌った「サーカスの唄」も、一世を風靡した名曲でした。3月28日、東京・芝浦で開かれた「万国婦人子供博覧会」に合わせて、ドイツのハーゲンベック・サーカスが招かれることになりました。その宣伝のために作曲されて、歌われたのだそうです。日本とドイツの関係が緊密になっていく中でのサ-カスの開催でした。団員総勢約150人、動物182頭は、日本人が初めて見る本格的なサーカスだったのです。

旅のつばくろ 淋しかないか
おれもさみしい サーカス暮らし
とんぼがえりで 今年もくれて
知らぬ他国の 花を見た

あの娘(こ)住む町 恋しい町を
遠くはなれて テントで暮らしゃ
月も冴(さ)えます 心も冴える
馬の寝息で ねむられぬ

朝は朝霧 夕べは夜霧
泣いちゃいけない クラリオネット
ながれながれる 浮藻(うきも)の花は
明日も咲きましょ あの町で

 子どもの頃に、田舎町にテントが張られて、「サーカス」が行われていました。動物園以外で、動物がみられたり、様々な曲芸を見せてくれ、道化師(ピエロ)の無言の所作に笑わされたものです。鳴り止まない拍手が、いまだに耳の奥に残っております。

 テレビや大きな劇場がない時代の田舎で行われるのは、金儲けの興行だったのは事実だったのですが、子どもたちには夢を与えてくれたものだったのではないでしょうか。旅芸人一座が、テントを張っては「チャンバラ」の股旅ものや母ものを観せてくれました。決して豊かではなかった時代、大人たちは、私たち子どもに夢を与えようとし、遠くから夢を運んでくれたことを強く思い出しております。母に、わずかなお金を手に握らされて、小屋に走り込んでは観た日がありました。

 この歌は、よく「チンドン屋」が演奏しながら、商店街を練り歩いていたので、よく聞きました。時代劇の衣装を身につけて、ビラを配りながら、鐘と笛とアコーデオンで宣伝して歩いていたのです。もう全く見られなくなってしまった街中の光景ですね。そんなに豊かではなかった時代でしたが、夢があり希望があり、みんなが一生懸命に生きていて、逞しい活力のある時代だったのです。今頃は、「秋の大運動会」の準備に明け暮れていました。本番には、母が海苔巻きや稲荷寿司を作り、おかずをこしらえ、飲み物やくだものをもって応援に駆けつけてくれました。みんなで分け合いながら、食べた昼食の味は何とも形容しがたく美味しいものでした。秋の青空が、今よりも、ずっと高く近く感じられたように思い出されます。

 思い出が、光景ばかりではなく、色がついていたり、匂いや味が残っていたりして、五感で感じられるのが不思議でなりません。『今日日の子どもたちには、こういった子供時代が与えられているのだろうか?』と考えてしまうのですが。四角い箱のテレビ、パソコンやゲーム機の世界に、心が泳がされているように思えてしまうのですが。「情緒」の欠落した世界の中に、心がさまよっているのかも知れません。彼らを、思いっきり走り回れる野原に、登り下りする崖や谷に連れていってあげたい気持ちがしてなりません。

(写真は、サーカスの余興を演じるピエロ(道化師)です)

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