子どものようになること

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 私たちの住んでいますアパート群の敷地の正門の右横に、「幼稚園」があります。おおぜいの幼児が、おじいちゃんやおばあちゃんやお母さんに連れられて、三々五々と、8時前後にやって来ます。自転車、電動自転車、自動車、徒歩で、意気揚々とやってくるのです。ほとんどの子が、園舎に走りこんでいきますから、幼稚園が楽しいのでしょうか。教師や守衛、時には園長先生が、笑顔で迎えている光景は微笑ましいのです。ときどき、その門脇に立っては、彼らの所作を眺めているのですが。孫が近くにいないので、彼らを見ると、ジイジの私は、『いまごろ何をしてるんだろう?』と思うことしきりです。

 次女の娘が、この9月から、幼稚園に通い始めたそうで、その写真が送られてきました。実に楽しそうで、喜んでいる様子が、写真の中にあふれていました。友だちができて、擦り寄ってるのには、気を許し合っているからなのでしょう。私が幼児期を送った山村には、「幼稚園」も「保育園」もありませんでしたから、幼児教育を受かられなかったのです。それで、殊の外、この幼稚園が気にかかるのかも知れません。

 この週初めの朝、先ほど、北京時間の9時過ぎに、な、なんと『パッパパラリラ、ピーヒャラピーヒャラ!』の歌が、ボリュームいっぱいで流れてきました。『え、いいの?』と瞬間思って、あたりを見回してしまったのです。子どもたちには、この数日の騒ぎなど関係ないからです。そうしますと、難しくてこじれて、修復不能な関係になってしまったら、一番良い解決方法は、〈幼子のようになること〉ではないでしょうか。屈託のない、大らかで、無垢な心を持つことです。親の宗教的な立場も、政治的な主張も、世界観も価値観も、そんなややこしいこととは、関係ない世界に、彼ら楽しんで、騒動など、どこ吹く風で、園庭や園舎の中を走りまわっているのです。
 
 今は幼稚園から何も聞こえて来ませんから、教室での授業が始まっているのでしょう。2007年に、天津からこの街に引っ越して来た時には、まれにしか「幼稚園」を見ませんでしたが、最近では、どの団地にもできて、幼児教育最盛期を、この国は迎えているのでしょう。都会の子は、「一人っ子」ですから、2組のおじいちゃんおばあちゃんから(田舎からわざわざ出てきて、孫の世話を焼いてるおばあちゃんが実に多いのだそうです)、あふれるほどの愛情を受けて育っているようです。この子たちが大人になる頃には、どんな時代が出来上がっていることでしょうか。心して、この子たちが戦火の中に放り込まれることのないように、この朝、心から願った次第です。

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