『あっ、いけねー!!』

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 この街に来たての時に、小さなくだもの屋さんで「柿」を買いました。赤くて美味しそうだったからです。家に帰って、皮を向いて頬張りましたら、『渋うううう!』と声を上げてしまったのです。それ以来、『中国の柿は、ドロドロと柔らかいか、渋いのだ!』と結論してしまいました。それ以来、秋になるたびに店頭に並べられてある、秋の最高の味覚で、『柿が赤くなると、医者が青くなる!』という好物を避けてきたのです。

 ところが、だったのです。今日の日曜日の朝、いつも降りる一つ手前のバス停で、家内と一緒にバスから降り、家内が友人宛に書いた手紙をポストに投函しました。この路線で、行く先に唯一あるポストだからでした。一停留所歩いた時に、いつも通らない奥の道を歩いたのです。そこは両側にたくさんの店があって、人だかりがイッパイの脇道でした。雑貨道具、寝具、精肉、野菜などなど、数多くの物が売られていました。そこに数軒のくだもの屋もありました。秋たけなわですから、何種類もの柑橘類の黄色が目立つ店頭に、「柿」も数種類並んでいました。家内に、『帰りもこの道を通って、この柿を買おうか!』と言って通り過ぎました。

 用がすんで、行き先の家から、大通りに出ましたら、なんと交通規制がしかれていて、「POLICE(警察)」と印字されたテープが、延々と上下6車線の道路の両脇に張られていて、沿線は人と車の動きが封じられて、人であふれていました。その人をかき分けて、脇道に入り、朝のくだもの屋で、お目当ての柿を買いました。7つほどで、13元でした。ちょっと高めでしたが、何年ぶりかに買い求めた「柿」を引っさげて、家の近くの「麺類店」で、この土地の名物の麺を食べました。独特の味付けで、私の好物なのです。最近、家内を誘ってよく食べています。以前は3元だったのですが、今では7元になっていますが、諸物価高のこの頃であります。お腹がくちくなって、家にたどり着き、早速、件(くだん)の「柿」を洗って、皮を向いて、おそるおそる口に含みましたら、なななんと、甘いではありませんか。あの御所柿や大きな富有柿にも匹敵するような「甘さ」だったのです!

 『うわー、もっと早く出会いたかった!』との思いが、一番に湧き上がって参りました。あの何年か前の決断は、先入観だったわけです。こんな「うまい柿」が中国にあったのです。それを知らなかったばかりに、何か損をしてきたように感じてしまいました。くだもの屋の板番(Laoban、店主の意味です)に、『甜吗(Tianma、甘いですか?)』と聞いたら、『甜!』と応えてくれたのですが、其の応答に疑いが半分でした。ところが、食べてみて、その言葉は本当だったのです。

 無くなっていたものが、何年もたってから返ってきたような感じがしております。私の好きな果物は「柿」なのです。それで、『私の好きな外国の果物は「ドリアン」、私の好きな日本の果物は「柿」・・・』に訂正したいと思います。でも、自分の好きな「ドリアン」も「柿」も、ここ中国で食べているのですから、どういった表現にしたらいいのでしょうか。「柿」といえば、あの石田三成に倣(なら)って、決して「柿」を食べない弟の顔が浮かんで参りました。あっ、いけねー、弟の誕生日が、11月14日だったのを忘れていました。この十日頃に、『誕生祝いのメールを出さなくては!』と思っていたのですが、忘れてしまいました。早速、四日遅れの誕生祝いをすることにしましょう!

(イラストは、「素材屋花子〈http://sozai.rash.jp/p/000052.html〉」の作品です)

「望郷」

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 中高6年間、通学した中央線の国分寺駅の北口に、「名画座」がありました。今でもあるのでしょうか。銀座や新宿や渋谷などにあった「封切館」は、新作の映画が上映されていたのですが、都下の通勤通学駅にあった「名画座」は、何年も何年も前に上映されたアメリカやフランスの映画を再上映していたのです。二本立ての映画が週替わりで上映されて、入場料は幾らだったのでしょうか、親にもらった小遣いを工面しては、たびたび観に行きました。制服を着ていて、どこの学校の学生かわかるのに、学校に通報されるようなことがなかったのです。食い入るように、映画の世界に浸り込んでいた時代だったのです。

 1950年後半~60年前半の頃、日本は、まだまだ欧米諸国の生活水準には至らなかった時期でしたから、スクリーンに映る、アメリカやフランスの物量の豊かさや、華麗な生活に圧倒されてしまいました。それはそれは羨ましい気持ちで、眺めてはため息をついていたのだと思います。乗り古した車が、うず高く積まれている場面に度肝を抜かれ、『日本はまだまだアメリカには及ばなんだな!』と思うことしきりでした。

 そんな多くの映画の中で、「望郷(Pépé le Moko)」という フランス映画 が、名画座でかけられていて、観ました。名優ジャン・ギャバンの演じる、「ペペル・モコ」が主人公で、北アフリカのアルジェリアのアルジェが舞台でした。ペペル・モコは、パリ警察の追求を逃れて、このアルジェに逃げ込んだ犯罪者だったのです。彼の恋物語や、パリへの望郷の思いが、この作品の物語の中心だったでしょうか。「カスパ」という街の一画は、犯罪者のたまり場所でしたが(現在では、世界遺産に指定されているそうです)、活気に満ちていたのが思い出されます。真っ青な空の高い北アフリカ、その海も紺青色にかがやき、波頭が白い、そんな異国情緒があふれていた映画でした。「FIN」という、終わりの字幕が出る直前に、ペペル・モコが、『キャビー!』と呼ぶ声が、実に印象的でした。

 今度帰国しましたら、国分寺で下車して、昔、学校を早退して、ちょっぴり後ろめたい思いで歩いた道をたどって、名画座に行ってみようかな、と思っております。斜陽で、多くの映画館が閉館を余儀なくきれていますから、もう無いかも知れませんね。我が青春の一ページを、めくり返したい気持がしてきているのは、晩秋のたたずまいのせいかも知れません。犯罪はともかく、恋に命がけに生きるペペル・モコの生き方の真似など出来ませんでしたが、あの眩しく輝く北アフリカの光景も、妙に瞼に焼き付いているのは、どうすることもできません。

(写真は、アルジェリアの首都アルジェの「カスパ」と呼ばれる街の路地裏の今の様子、下は、「カスパ」の遠望です)

『日本人とは?』

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 明治になって、『いったい日本人って何だろうか?』という思いで、〈日本人のアイデンティティー〉を探ろうとした人たちが、何人かいました。政治の側面では、〈欧化〉の動きがはなはだ強くて、遅れをとっていた日本が、その挽回に躍起になって、国際社会に踊り出ようとしていました。その頃の動きを、三島由紀夫が書きました、「鹿鳴館」という戯曲で、井上馨という明治政府の要人を主人公に描き、映画化もされてきています。躊躇狼狽している明治人の姿が見えてきます。人種的にいえば、縄文人の中に、大陸からの渡来人の血が混じって(ある方はイルクーツク周辺のルーツを求めている説もありますが)、形作られているのですが、精神的に、日本人とは一体何なのか、これが求められていた時代だったわけです。

 上州・高崎藩士の子であった内村鑑三は、「代表的日本人」を書き上げました。1894年のことでした。同じ年に、岡崎藩士の子で地理学者であった志賀重昂は、「日本風景論」を書き、大ベストセラーになります。その五年後の1899年に、盛岡藩士の子で、後の国際連盟の事務次長を務める新渡戸稲造は、「武士道」を書き、福井藩の下級武士の子で、明治の日本を代表する画家の岡倉天心は「茶の本」を1906年に書き上げています。鎖国の閉鎖社会、諸外国と交渉しない時代には、『俺って誰だ?』、『お前は誰だ?』と問われる必要も答える必要はなかったのです。ところが、欧米の列強諸国の間に出て行って、接触していくためには、どうしても、この「日本人論」が必要であったのです。それで書かれ、自分で自分を認知し、諸外国に知らしめる必要があったのです。日本と日本人が、劣等意識にさいなまれ、不安なただ中で、こういったものが書き著されたわけです。内村、新渡戸、志賀の三人は、札幌の農学校に学んだという共通項を持っているのも不思議です。

 これらの著作が刊行される伏線に、外国人が書いた「日本人論」、「日本論」があって、十二分の理解があって書かれていない間違いや偏見があり、それに承服できなかったからでした。『俺たちの手で!』と言った意気込みと、焦りがあっての執筆だったことになります。内村も新渡戸も岡村も、英文で執筆しているのです。やがて英文の著作が、日本語に翻訳されて刊行されるのです。そして、これらの本を読んだ日本人が、ここで初めて、『日本人とは、こういった者であるのだ!』と認めるにいたったわけです。私はこれらを読んで、改めて日本人とは何か、どうあるべきかを教えられたのです。

 私の恩師が、「『甘え』の構造(1971年刊行)」という、医者で大学教授の土居健郎の著した本を読んで、日本人を理解しようとしていたことがありました。日本人の持つ「甘え」が強調されすぎているのは、日本人の全体像を捉えるには足りないと思います。また、ベネディクトは「恥の文化」を掲げ、日本人の「恥」を強調しているのは、一面だと思われます。この「不思議な日本人」について、多くの人たちが書を表していますが、数学者などの科学者が書いているのも興味深いと思います。

 外国生活を始めて七年、日本人の理解に苦しむ人たちの間で過ごし、距離をおいて日本を見つめてきました。いくつもの「日本人論」に目を通しますと、自分なりの「日本人観」が出来上がってきているのが分かります。しかし私の願いは、「日本人であること」に、拘りすぎて、中国や朝鮮半島の人々との間で、齟齬(そご)をきたしている現状を鑑みて、「アジア人」、「地球人」、いえ「人」であることに、関心を向けたいのであります。もちろん、日本人であることは自明の事実ですから、感謝の思いはあふれています。でも感謝や誇りが行き過ぎるなら引き、同じか弱い「人」の立場で、互いを理解し合ったほうがよいと思うのです。

(挿入画上は、「代表的日本人」岩波文庫版の表紙、下は、「『甘え』の構造」文堂版・表紙です)

大雄飛

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 アメリカに住んでいる私の友人に便りを出す時には、

     Mr.James Dean
     123.Hawaii main st. Honolulu、Hawaii、
     USA  12345678

という風に、封筒に宛先と住所と名前を書きます。ところが、中国も韓国も同じなのですが、日本の友人に宛てて書くときには、

     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
           山田太郎 様

と記します。国際郵便の表記というのは、アメリカに出すようにして書かなければならない決まりがあるようですが、私たちの国内郵便は、大きな世界から、だんだんに小さい行政単位に降りてくるように、〈ズームイン〉して書きます。ところが、アメリカなどは、家の区画の番号から、通り、市、州、国と言った風に、小さな世界から大きな世界に向かって、広がっていくように、〈ズームアウト〉に記すわけです。どちらがいいのか、郵便配達をする人に聞いてみるとはっきりしますが、彼らは、『日本式のほうがいい!』というのに決まっています。このほうが、人を探し出しやすいからです。

 名前の書き順でも、違いがみられます。「山田太郎」、私たちは「姓」そして「名」の順、すなわち「苗字(家名)」を先に書いて、名前を後にします。ところがアメリカなどでは、「James Dean」、個人の名前を先にし、姓を後にするのです。私は、ひねくれていますので、Masahito、hirota と書く時があります。「名刺」にも、このような傾向がみられます。日本の会社に務める山田太郎の名刺は、

     アジア商事株式会社
     第一営業部アジア課東アジア係
    係長  山田  太郎
     郵便番号 123-4567 
     東京都渋谷区代官山1丁目23~45 
     タイヘイヨウマンション 12F 1234
     電話 0312ー3456ー7890

と記されています。ところが、アメリカ人の方の名刺ですと、

      James Dean
     Chairman&CEO
    AMERICAN FIRST COMPANY
   123、Hawaii main st. Honolulu、Hawaii
    Phone 12345678901

という風に印刷されてあります。やはり、東洋的な考え方と、西洋的な考え方には、根本的な違いがあるようですね。石川啄木の有名な短歌に、「東海の 小島のいその 白砂に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」がありますが、〈東海➽小島➽磯➽白砂➽我〉に、詠まれているのにも、〈ズームイン〉していく、日本人的な表現法になっているのに納得させられます。
 
 何だか、われわれアジア人は、大きな世界から、狭い世界に向かって萎縮していくように感じられてしまい、大海原や大地に向かって、雄飛しにくさがあるように感じてならないのです。明の時代、四川省の出で、「鄭和(1371年 – 1434年))」という人がいました。『コロンブスよりも前に、アメリカ大陸を発見しているのではないか!』と言われるほどの大航海をした冒険家でした。アラビヤやアフリカなどとの交易で、男のロマンを生きた人だったようです。〈外に出たがらない症候群〉の現代の若者たちに、『こういった気概を持って、大雄飛をしてもらいたい!』、そう思う11月中旬の晩秋の宵であります。

(写真は、鄭和の乗った船(復元)です) 

『さようなら!』

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 時代劇映画で、鞍馬天狗だったでしょうか、人前から離れ去って行く時に、『さらば!』と言っていました。こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、『see you again!』と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

 こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになりました。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

 このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

 アメリカ人の恩師と一緒に歩いていて、近くの学校の知り合いではない中学生たちが、行き合うときに、『こんにちは!』と言ってきたり、ある中学生は、『さようなら!』と挨拶をしていました。恩師は、『この「さようなら」はおかしいよ!』と言ったのです。中学生たちは、アメリカ人だし、珍しいので、声を掛けたかった。それで言葉を見つけてみても、どう言ったらいいのか迷ってしまう。だけど、日本語には、『お早うございます!』、『こんにちは!』、『こんばんは!』があるし、『さようなら!』もある。それで、それらの用語を、意味なく使って、表敬の挨拶をしているわけです。すれ違って、離れていくのだから、一番ふさわしいのは、『さようなら!』になるわけです。それは、私はおかしいとは思わなかったのですが、英語圏の文化で生きてきた人にしてみると、『さようなら!』は、やはりおかしいのだということが分かったのです。

 太宰治が、「さよならを言うまえに」という随筆や「グッド・バイ」を書いています。この太宰を慕い、彼の墓前で自死した田中英光も、「さようならの美しさ(昭和17年)」を書いています。この田中英光は、遺書の中で、子どもたちに向かって、『さようなら!』と言って死んで行きました。この遺書を読んだ時に、この『さようなら!』があまりにも悲しいので、背筋が寒くなったことがありました。流行歌にも、この『さようなら!』という言葉を歌ったものが多くありますが、やはり、けじめを大事にする日本人は、この言葉が好きに違いありません。

 私は、一つの決心をしているのです。死ぬときは、『またね!』と言おうと思うのです。言えるかどうかは分かりませんが。きっと、死でけじめを付けられない自分だと思うので、訣別や惜別よりも、《再会》の願いを込め、後日譚(ごじつたん)を語りたいので、『またね!』と言いたいのです。《さようならの死》は、『仕方がない!』とか〈諦め〉に通じるようですから、《またねの死》にしたい!

(口絵は、田中英光が著した「オリンポスの果実」の表紙です)

好きな歴史人物は「高杉晋作」

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 日本人が活き活きしていた時代はいつなのか、最近考えています。鎌倉時代には、体格も大きく、活発で溌剌とし、大らかであった、ということを、歴史の時間に教師から聞いたことがあります。三百年に及ぶ江戸幕府の支配の中で、もしかしたら日本人は萎縮してしまったのかも知れません。ところが、幕府自身が、統治力を弱め、財政的にも行き詰ってしまいます。そんな国内事情に追い打ちをかけるように、欧米から開国を迫られる事態に直面してしまうのです。『この事態をどうするか?』と、それぞれに主張して、「尊皇攘夷」を叫ぶ青年たちが台頭してきます。彼らと、幕藩体制を堅持していこうとする「公武合体」を掲げる人たちの間で、激しい「勤王」と「佐幕」の対立が起こり、日本を二分してしまいました。

 青年武士たちが、自分の生まれ育った国の将来を考えていた時代、この時が最も活き活きとしていたのかも知れません。今年の8月に、船で瀬戸内海を帰路と往路とで、通過したのですが、関門海峡あたりにさしかかった時に、かつての長州藩が、海に向けて大砲を据えて、フランスやイギリスとオランダとアメリカと一線を交えたことを思い返させられたのです。花器の性能などからして、やはり刃が立たなかったのです。この戦いの時に、「奇兵隊」を結成して、雄々しくも欧米列強四国と戦ったのが、高杉晋作でした。責任者を罷免されたのですが、この彼の「志」は高かったのではないでしょうか。

 この戦争の前の年、1862年に、三ヶ月の短期ですが、上海を視察しています。清国がイギリスの植民地化していく様子や、太平天国の乱で荒廃した上海の様子を、つぶさに見たのです。その時代の動きを肌で感じたわけです。『このままでは、日本は清国と同じように植民地化していく!』という危機感を持って帰国しているのです。高杉晋作、22歳の時でした。私は、自分の22歳を思い返してみたのですが、ある研究所の職員として採用され、言われたことをし始めているだけで、天下国家を論じたり、国の行く末を憂えたり、国家存亡の危機感など、まったくもってはいませんでした。東京オリンピックが終わり、新幹線が列島を走り始め、経済界は活況の時を迎えていたのです。もちろん、右肩上がりの成長期には、危機感などなかったわけですから、仕方が無いといえば仕方が無いのかも知れません。

 しかし、今の日本は、「危機」に瀕しているのではないでしょうか。トヨタもパナソニックもソニーも、飛ぶ鳥を落とす様な勢いをなくしてしまいました。また30年も努力して、関係の改善や友好の促進のために骨折ってきた中日関係に、大きな亀裂が生じています。夢を見る時期の青年たちに夢がなく、不安材料ばかりが目に付いている低迷期にあるのでしょうか。こういった時期が、普通であるのかも知れませんね。あまりにも高度に経済力を強め強めたのですから、衰退期も、当然にように迎えなければならないのかも知れません。半年ほど前になるでしょうか、こちらの方が日本に出張をされ、経済不況だというのに、『日本には、活気がありましたし、購買力も大きいように見えました!』と話してくれました。まだまだ国力は残っているのでしょう。

 こういった時期に、高杉晋作のような器が、『この国のために!』と覚悟して、登場して欲しいのです。多くの高杉晋作が、この国の置かれている立場を鳥瞰し、『何をすべきか?』の答えを得て、日本人の心を強めて欲しいのです。軍人を求めていません。真に国を愛し、隣国の立場を理解をし、和して行くことができる策を講じられる器が欲しいものです。40代の体力も気力も活力も宿す、そういった指導者が欲しいものです。高杉晋作、弱さもあった人でしたが、時代の動きに敏感だったのです。「おもしろきこともなき世におもしろく(おもしろきこともなき世をおもしろく」、これが27年を生きた高杉晋作の辞世の句です。やはり、歴史的な人物として、興味が尽きず、好きなのは、この高杉晋作なのです。

(写真は、馬上の高杉晋作の銅像です)

勘違い

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 1922年(大正11)、野口雨情‥作詞、本居長世・作曲の童謡、「赤い靴」が世に出ました。

赤い靴(くつ) はいてた 女の子
異人(いじん)さんに つれられて 行っちゃった
横浜の 埠頭(はとば)から 汽船(ふね)に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった
今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢(あ)うたび 考える

 姉も妹もいない男四人兄弟でしたから、我が家に赤い色の服、ズボン、靴などは、まったくありませんでした。母もけばけばしい色を好まなかったので、男所帯の殺伐さ、無味乾燥さがあふれていたのだと思います。ラジオから時々流れてきたのが、この「赤い靴」でした。女の子のイメージは、『オカッパ頭をし、赤い靴を履いている!』、これが一番の印象だったわけです。この童謡で歌われている「女の子」は、異人さんにさらわれて(?)、横浜の港から船に、むりやりにのせられて(?)、遠い国に連れて行かれる、といった暗い印象が強くて、この歌を好きになれませんでした。この悲劇(?)の女の子は、『どんな生活をしているのだろう?』と、考えてみたこともありました。

 もちろん姉妹がいなかったので、『いたらいいな!』とは思ったことはありましたが、五番目も男の子の確率が高かったのですから、母にお願いするわけにもいきませんでした。家内が、ついこの間、「勘違い」でしょうか、間違って聞き覚えてしまったという話を聞いてきて、話してくれました。「うさぎおいし」を、『美味しいい兎!』と思い続けててきた人もいるのですから、他にも大勢いるのですね。この、「いじんさんに つれられて 行っちゃった 」というところを、『いいじいさんにつれられて・・・』と覚えていた人がいたようです。〈好い爺さん〉だったら、きっと幸せになっているわけです。すごく肯定的で、可能思考の聞き方だなと思って感心してしまいました。

 以前、「通販生活」という雑誌の中に、「子は鎹(かすがい)」を、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈不良の子〉を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げた、一人のお母さんの〈勘違いの話〉を読んだことがあります。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、遠い日本の空の上に目を向けると、感謝が胸の奥からあふれてきそうです。

(写真上は、http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=15554148の「赤い靴」です)

好きな野菜は「トマト」

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 よその家の庭に、赤く熟したトマトを見つけた子どもの私は、あたりを見回して、そっと一つ失敬して食べた夏の日のことを思い出します。美味しかったのです。そういったことを許してくれた時代だったようです。何ともいえない青臭い、トマト独特の匂いがしていました。ああいった臭いが、ほとんどの果物や野菜から消えて行ってしまうのは、品種改良をしているからなのでしょうか。最近のトマトは、異常に甘かったり、大きかったりしていますが、昔のほうが美味しかったのは間違いありません。

 何度か家庭菜園で、トマトを苗から育てたことがありました。ナスは栽培が簡単なのですが、トマトは、結構難しかったように思います。もぎたての初生りを食べたときは、ほんとうに美味しかったのです。こちらでも、『〇〇産が美味しい!』と言われていますから、きっと土の質に関係もあるのかも知れません。時期によるのでしょうか、異様に皮が硬く、実も堅いのは、土が肥えていないからなのでしょう。こちらでは、「西紅柿」とか「蕃茄」と呼んでいます。アンデスで栽培され食用にされていたのが、ヨーロッパに持ち帰られ、そこから種として中国に伝えられ、海をこえて長崎に伝わったのは、江戸時代の1660年代半ほどだったようです。はじめは観賞用だったそうですが、食用とされたのはご維新以降のようです。

 私の大好物も、御多分に洩れず大陸渡来の経緯があるのです。こちらで面白いのは、「ミニトマト」が最近みられますが、これは、野菜売り場ではなく、果物売り場で売られる「果物」なのです。大きいサイズのトマトは八百屋で、ミニサイズはくだもの屋で売っているのが、不思議でたまりません。時々、料理をするのですが、カレーに入れたり、ラーメンに入れたりして食べます。熱湯につけて皮を向いて、それを細かくして煮込むと、実に押ししいラーメンとカレーが出来上がります。

 家内が、今、4人ほどの中学生に、日本語を教しえているのですが、〈昼食付〉で、大体は、料理当番に私がされています。スーパーで、日本ラーメンを売っていまして、それを使って作ります。鍋に、玉ネギ、長ネギ、しめじ、キャベツ、ニンニクなどを入れ、それにトマトを加えてスープを作ります。鶏肉、豚肉、牛肉、ベーコンの4バージョンがあります。結構人気で、美味しそうに食べてくれます。カレーは、日本のカレールウを使います。こちらの大きなスーパーには売っていますので入手可です。これにもたっぷりのトマトを入れるのです。ちょっと酸味が強くなって、自画自賛ですが、実に美味しいのです。

 中学や高校の門の前で、沢山の屋台が出店して、下校時の学生さんたちに、様々な食べ物が売られているのですが、このカレーとラーメンをやったら、きっと人気が出ると思うのです。それで、『この屋台だそうか!』と、家内に提案すると、『こちらに来た目的は?』とやり返されてしまいます。あっ、そうです、〈トマトケチャップ〉も大好きなのです。ラーメンのレシピに使っている野菜を、このケチャップと玉ねぎやリンゴやニンニクを、ミキサーにかけて、これを煮込んで自家製のケチャップを作るのです。これを先ほどの野菜に絡めて、炊きたての御飯や、麺にかけて食べるのも美味しいのです。

 毎朝欠かさないで食べるのが、このトマトでして、家内も私に付き合って、トマトが好きになってきています。冷蔵庫に買い置きがなくて、食卓に並んでいないと、一日が始まらなくなるので、急いでスーパーに跳んでいって、買い求めてきます。『同じ物ばかりを食べてははいけない!』と言われますが、ビタミンCやAやリコペンが多い野菜で、体には大層いいのだそうです。トマトの歌もありましたね(荘司武・作詞、大中恩・作曲)。

トマトって かわいいなまえだね
うえからよんでも と・ま・と
したからよんでも と・ま・と

(写真は、エクアドル(南米アンデス)の山地です)

♫ ことし六十のおじいさん ♬ 

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 子どもの頃、「おじいさん」の印象というのは、舟をこぐ「船頭さん」のことで、年は六十歳、それでも元気イッパイに生きている人、そういったものでした。この「船頭さん」という歌を、今でも、子供たちは歌うのでしょうか。武内俊子・作詞、河村光陽・作曲で、1941年(昭和16年)に発表されています。

村の渡しの 船頭さんは
ことし六十のおじいさん
年はとっても お船をこぐ時は
元気一ぱい ろがしなる 
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

 父が六十だと聞いた時、また兄が六十になり、今度は自分が六十になった時、「六十」が、おじいさんであるという感覚はありませんでした。まだ顔はつややかでしたし、背もぴんとしていましたし、現役で働いていたからです。まあ若干、髪の毛が白髪が多くなっていましたが、おじいさんの実感はなかったのです。

 実は、この「船頭さん」の歌は、私たちが覚えた時代は、いなかの田園風景を彷彿とさせる童謡でしたが、作られたのが戦争中で、〈戦意高揚〉の目的で作られた「戦時歌謡」でした。元歌には、次のような二番と三番とがありました。

2.雨の降る日も 岸から岸へ
ぬれて舟こぐ おじいさん
今日も渡しで お馬が通る
あれは戦地へ 行くお馬
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ  

3.村の御用や お国の御用
みんな急ぎの 人ばかり
西へ東へ 船頭さんは
休むひまなく 舟をこぐ
それ ぎっちら ぎっちら ぎっちらこ

 『六十になったおじいさんが、今でも、軍馬を戦地に送るために、頑張って仕事をしているのだから、銃後にある国民は、このおじいさんに倣って、懸命に、お国のために働き、生きていかなければなりません!』と言いたかったのでしょうか。幼子も大人も、歌って戦意を高めていったのです。平均寿命の短かった当時、雨の日も休む暇なく働き続けれる六十の労働は、少々、過酷な労働を強いられていたようで、気の毒になってしまいます。戦争に負けて、この歌は、一番はそのままで、二番と三番は、改作されています。

 今では五歳ほど繰り下げて、「65歳以上の高齢者」という表現が使われてるようです。映画館のスクリーン、学校帰りに友人と固唾を飲んで見守っていた三十代の高倉健が、そこに映し出されていました。彼が、八十代になっていると聞いて、やはり驚きを隠せません。憧れて観ていた私たちも、六十代の後半になっているのですから、当然といえば当然なのですが。この高倉健が主演した、「君よ憤怒の河を渉れ(中国の題名〈追捕〉)」という映画が、1978年に中国で公開され、何億という観客を動員したと言われています。日本の映画人で、最も有名なのが高倉健だと言われているそうです。彼も「おじいさん」、私も「おじいさん」になりました。

(絵は、琵琶湖の渡しの舟をこぐ「船頭」です)

あんころ餅のチョットしょっぱい思い出

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 格言に、『順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ!』とあります。何もかもうまくいってる時には、手放しで〈喜べ〉というのです。しかし、何をやっても失敗の連続、家の中も仕事も、そして対人関係も、何もかも駄目なときには、〈反省〉することだというのです。反省したら、逆境を乗り越えることができるし、順境の日も糠喜びすることなく、感謝して注意深く生きていけるに違いありません。私も落ち込むことがありますが、そんな状況下に長居しないことにしています。楽観的な生き方をしていくほうが、遥かにいいからです。大波小波、晴れの日も嵐の日も、上昇も下降も、様々な日々が、これまでありました。低迷の時には、必ず誰かが助け上げてくれたのを思い返すのです。家族や友人や見知らぬ人によってです。

 1週間臥せっていて、昨日、腰の疼く痛みが消えましたので、バスに乗って、授業をしに行きました。『無理かな?』と思ったこの一週間でした。反省をしてみても、痛みは引いて行かなかったのですが。4コマの授業は大丈夫でした。今まで、どんな仕事をしていた時でも、大体、始業時間の30分前にはスタンバイしています。今は、授業のポイントを板書をしたり、準備してきたことに思いを巡らしているのです。そうすると、そろりと一人二人やってくるのです。『いつも早いですね!』と学生さんたちが聞いてきます。『実は・・・』と、早いわけを話すのです。約束時間を破って友人を失ったことがあるのでと、いつもの話をするのです。『へえ!』という顔をして聞いていました。きっと、気が小さいのかも知れませんね。『遅れたらいけない!』との思いが強くて、そうするのだと思います。

 学校の教師の中には、始業ベルがなってから、やおらタバコに火をつけて吸いだす輩がいました。私は、ほとんどベルがなると同時に、ドアーを開けて教室に入っていましたが。私立の学校にいましたから、高い授業料を払って学んでいる学生さんたちに、それなりの努力をして接しなければいけないと思っていたからです。十二分に努力をして、教壇に立ちました。時間があると、用務員室に行っておじさんやおばさんと、渋茶を飲んで、世間話の仲間に入れてもらいました。職員会議で出たお菓子を、おばさんに、そっとあげたら、数日たって、『ちょっと、ちょっと!』と、そのおばさんが手招きをするので、そばに寄ると、ご自分で作った〈あんころ餅〉をくれたのです。『三月でやめるんです!』と言ったら、『好い先生は、みんなやめてってしまう!』と言てくれました。そのお世辞を〈勲章〉に、新しい仕事に転職しました。

 私の中学の担任が、いろいろな教材を引っさげて、ベルの前に教室に入ってきて、セッティングをしていたものです。『三つ子の魂百までも』といいますが、そんな中学3年間、社会科を教えてくれ、担任までもしてくれた恩師の仕事ぶりを見ていたので、真似て同じようにするのでしょうか。この恩師には迷惑をかけたのです。退学させられなかったのは、この恩師のおかげだったからです。勉強も素行も何もかも駄目な時期がありました。そんな私を見守もり続けてくれたのが、この先生でした。JR横浜線のある駅名と同じ名前の先生でした。

 高校に進学する直前の中3の長男を連れて、『ここが、俺が6年間学んだ学校なんだ!』と、自分の出た学校を見せたくて、卒業以来初めて母校を訪問しました。その時、恩師は女子部の中学校長をされていたのです。『息子さんは大丈夫ですね!』と太鼓判を押してくれました。ということは、私は大丈夫ではなかった、ということになります。まあ恩師の言うことですから、そうだったことにしておきましょう。もう亡くなられたでしょうか。誰にも連絡先を告げずに、こちらに来てしまったので、連絡の方法がなかったのかも知れませんが。大きな感謝をしたかったので残念でなりません。何だか、最近は、『蛍の光・・・わが師の恩・・・』を歌わないのだそうですね。

(写真は、「あんころ餅(錦盛堂:岡山県倉敷市)」です)」