「三・・・」

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「コケスミレ」

 優れたアイデアが浮かんでくる場所を、中国では、「三上」と言うそうです。一つは、「馬上」です。馬の手綱を手にしながら、ゆっくり進んでいくときに、『ハッ!』と何かを思いつくのです。二つは、「枕上」です。目覚めてから、起きだすまでの間に、枕に頭を乗せながら、昨晩の熟睡を感謝し、新しい一日への期待が胸に広がって来ます。そんな時に、何かを思いめぐらしていますと、『そうだ!』と思うことがあるのです。三つは、「厠上」です。「厠(かわや)」は、人が生きていく上で、健康であるなら毎日、通う場所です。現代版は水洗トイレですが、用便中にも、人はよく考えるのです。その時、『ウン、そうか!』と、何かに気づくのでしょうか。

 また、同じく、好いアイデアが生まれるときを、同じく中国では、「三中」といいます。一つは、「無我夢中」の中にいる時です。二つは、「散歩中」です。三つは、「入浴中」です。散歩をしていたり、入浴をしているときにも、好い考えが思いつくたことがありました。とくに入浴中に、何か思いついて、メモの用意がないので、曇ったガラスに描いてみたことがあったのを思い出します。「無我夢中」というのは、我を忘れて何かに熱中している時ですが、ある人にとっては、アイデアが思い浮かぶこともあるのでしょうか。

 このように、「三・・・」という表現は、よくあるのですが、私の知り合いが「講演」をするときに、《three points》にこだわるのです。聴取者が、記憶にとどめるためにも、筆記するにもとても好いテクニックだと思います。何もかもが三つにまとめきれるならいいのですが、そうもいかない場合もあるのではないでしょうか。『ちょっと無理があるかな?』と思ってみたりします。さて、ついでと言っては申し訳ないのですが、もう一つの「三・・・」をご紹介したいと思います。

 こちらに来まして、出会った人たちの中に、大学で教えている方が多かったのです。天津で一年過ごしてから、こちらに越したばかりの私たちを訪ねてくださった方も、大学の教師でした。この方の友人に、『私の学校で日本語を教えてくれませんか?』と言われたのです。躊躇したのですが、こんなに素晴らしい機会はありませんので、『はい。喜んでさせて頂きます!』と返事をしました。それ以来、「外教」という職名をいただいて、教壇に立たせていただいております。多分、「外人教師」という略称だと思いますが。とくに「日本語作文」を担当してきたのです。この作文が上達する上で、「三多」が大切だと言われるのです。
 
 一つは、「看多 kanduo」です。《多く読むこと》です。好い文章、好い作品に触れることによって、作文能力が長足に進歩していくのです。二つは、「做多 zuoduo」です。この「做」は、英語ですと”do”でしょうか、「する」、「つくる」、「書く」といった時に使う動詞です。ですから、《多く書くこと》が、作文を上達させるのです。三つは、「商量多 shangliangduo」です。この「商量」は、「相談する」という意味の言葉です。人にという意味だけのことではなく、「推敲(すいこう)」とか「吟味(ぎんみ)」のことです。こういったことを地道に積み重ねると、好い作文が書き上げられるのです。明日、この「作文(中国では〈写作〉といいます)」の期末テストが行われます。試験問題と解答用紙の印刷が上がっています。さて、学生のみなさんは、どんな文章を書いてくれることでしょうか。この一年を思い返しながら、明日のことを思っている、午後四時前です。まだまだ夏の日がカンカンとバス通りに照りつけております。

(写真の花は、「コケスミレ」です)

「温かいスープ」

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今の「パリの裏町」

 中学校3年生の「国語」の教科書(光村図書刊)に、日本が生んだ最も優れた哲学者の一人と言われている、今道友信(いまみちとものぶ 1922~2012年)が、書き下ろした一文が掲載されています。中学校3年生が、読んで学ぶようにと心を砕いて書いたものです。著者が、フランスの大学で講師をしていた時期は、戦後ということで、つらい経験が多かったそうです。そんな中で、心温まる経験をされて、それを綴っているのです。中学を卒業して、もう何十年と経ってしまいましたが、今の中学生が学ぶ国語の教科書のページを開くことができ、そこに見付けた一文です。それをご紹介しましょう。

   「温かいスープ」  今道友信

 第二次世界大戦が日本の降伏によって終結したのは、一九四五年の夏であった。その前後の日本は世界の嫌われ者であった。信じがたい話かもしれないが、世 界中の青年の平和なスポーツの祭典であるオリンピック大会にも、戦後しばらくは日本の参加は認められなかった。そういう国際的評価の厳しさを嘆く前に、そ ういう酷評を受けなければならなかった、かつての日本の独善的な民族主義や国家主義については謙虚に反省しなければならない。そのような状況であったか ら、世界の経済機構への仲間入りも許されず、日本も日本人もみじめな時代があった。そのころの体験であるが、国際性とは何かを考えさせる話があるので書き 記しておきたい。
 一九五七年、私はパリで大学の講師を勤めていた。しばらくはホテルにいたが、主任教授の紹介状で下宿が見つかり、訪ねあてたところ、そこの主婦は、私が 日本人だと知るや、「夫の弟がベトナムで日本兵に虐殺されているので、あなた個人になんの恨みもないけれど、日本人だけはこの家に入れたくないのです。そ の気持ちを理解してください。」と言い、私が下宿するのを断った。しかたなく、大学が見つけてくれた貧相な部屋のホテル住まいをすることになった。
 そのころの話である。私は平生は大学内の食堂でセルフサービスの定食を食べていたが、大学と方向の違う国立図書館に調べに行くと決めていた土曜は、毎 晩、宿の近くの小さなレストランで夕食をとるほかなかった。その店はぜいたくではないがパリらしい雰囲気があり、席も十人そこそこしかない小さな手作りの 料理の店であった。白髪の母親が台所で料理を作り、生っ粋のパリ美人という感じの娘がウェイトレスと会計を受け持ち、二人だけで切り盛りしていた。毎土曜 の夕食をそこでとっていたから、二か月もすれば顔なじみになった。
 若い非常勤講師の月給は安いから、月末になると外国人の私は金詰りの状態になる。そこで月末の土曜の夜は、スープもサラダも肉類もとらず、「今日は食欲 がない。」などと余計なことを言ったうえで、いちばん値の張らないオムレツだけを注文して済ませた。それにはパンが一人分ついてくるのが習慣である。そう いう注文が何回かあって気づいたのであろう、この若い外国生まれの学者は月末になると苦労しているのではあるまいか、と。
 ある晩、また「オムレツだけ。」と言ったとき、娘さんのほうが黙ってパンを二人分添えてくれた。パンは安いから二人分食べ、勘定のときパンも一人分しか 要求されないので、「パンは二人分です。」と申し出たら、人差し指をそっと唇に当て、目で笑いながら首を振り、他の客にわからないようにして一人分しか受 け取らなかった。私は何か心の温まる思いで、「ありがとう。」と、かすれた声で言ってその店を出た。月末のオムレツの夜は、それ以後、いつも半額の二人前 のパンがあった。
 その後、何ヶ月かたった二月の寒い季節、また貧しい夜がやって来た。花のパリというけれど、北緯五十度に位置するから、わりに寒い都で、九月半ばから暖 房の入るところである。冬は底冷えがする。その夜は雹が降った。私は例によって無理に明るい顔をしてオムレツだけを注文して、待つ間、本を読み始めた。店 には二組の客があったが、それぞれ大きな温かそうな肉料理を食べていた。そのときである。背のやや曲がったお母さんのほうが、湯気の立つスープを持って私 のテーブルに近寄り、震える手でそれを差し出しながら、小声で、「お客様の注文を取り違えて、余ってしまいました。よろしかったら召し上がってくださいま せんか。」と言い、やさしい瞳でこちらを見ている。小さな店だから、今、お客の注文を取り違えたのではないことぐらい、私にはよく分かる。
 こうして、目の前に、どっしりしたオニオングラタンのスープが置かれた。寒くてひもじかった私に、それはどんなにありがたかったことか。涙がスープの中 に落ちるのを気取られぬよう、一さじ一さじかむようにして味わった。フランスでもつらい目に遭ったことはあるが、この人たちのさりげない親切ゆえに、私が フランスを嫌いになることはないだろう。いや、そればかりではない、人類に絶望することはないと思う。
 国際性、国際性とやかましく言われているが、その基本は、流れるような外国語の能力やきらびやかな学芸の才気や事業のスケールの大きさなのではない。そ れは、相手の立場を思いやる優しさ、お互いが人類の仲間であるという自覚なのである。その典型になるのが、名もない行きずりの外国人の私に、口ごもり恥じ らいながら示してくれたあの人たちの無償の愛である。求めるところのない隣人愛としての人類愛、これこそが国際性の基調である。そうであるとすれば、一人 一人の平凡な日常の中で、それは試されているのだ。

(写真は、今の「パリの裏町」です)

「車譲人」

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「月」

 我家のベランダから見える、今晩の「月」は、まん丸で大きいのです(スーパームーンというんだそうです)。まるで「中秋の名月」のような輝きを見せています。隣のアパート群の高層ビルの陰から出てきて、煌々と輝いています。先ほど眺めていたのですが、その月光を浴びて、家族でそぞろ歩く姿が何組もみられるのです。真夏の日曜日の宵ですから、夕涼みに出てきたのでしょうか。なんとも言えないノンビリムードもあふれています。こういうのを「月光値千金(げっこうあたいせんきん)」と言っていいのでしょうか。

 我家のベランダの下は、バス通りで、ちょうど真下で《T字路》になっているのです。月から目を落として、交差点を見ますと、信号が設置されているのですが、ほとんど守られていません。タクシー、砂利や建物の廃材などを運ぶ大型トラックの90%は守っていないのです。公共バスも、たまに守っているバスがあるくらいでしょうか。守っている車には、後続車が、クラクションを鳴らして、『進め!』と煽っているほどです。実は、信号がない方が事故の起きる確率が低いのではないかと思うのです。先日も、電動自転車同士がぶつかって、交差点の真ん中で、大声で原因や責任のやり取りをしている光景が見られました。『いつか大事故が起きないといいのだけど!』と思って、ハラハラしております。

 日本では、車が通らないのに、赤信号で立ち止まって信号が変わるのを待っている光景が、普通に見られるのですが、中国のみなさんには信じられない光景ではないでしょうか。天津にいました時に、道路のどこででも渡ってしまう様子を見ていて、『この国には交通ルールがないのかしら?』と思っていたのですが、語学学校の一階のロビーに、印刷の色の薄れてしまった《交通ルール表》が掲げてあったのを見て、『守らないけど、あるんだ!』と思ったのです。最近聞いた話しですが、歩行者で信号を守らないと、《10元の罰金》を取られるようになったのだそうです。きっと、10元紙幣を持っていなくて、20元紙幣しかなかったら、『お巡りさん、もう一回分違反しましょう!』というのではないでしょうか。

 年配者の私たちにとっては、由々しき問題ですから、《法律遵守》をして欲しいと思うことしきりです。『道路は歩行者のもの!』と思っていたのに、この数年急激に車が増え始めて、『道路は車のもの!』という主張が強くなってきているのでしょう。信号のないところを渡らなければならない家内は、ほとんどの時に、躊躇して《二の足》を踏んでいるのです。『日本の小学生のように、手を上げて渡ったら!』というと、『タクシーが停まってしまうからダメ!』と言っています。それでも、道路には、「車譲人」と書きこまれているのです。つまり、『車は人に譲りなさい(歩行者優先)!』ということですが、譲っている光景は、1週間に数度目にするほどです。

 そういえば、50年前の日本だって、《信号無視》が多く見られていましたね。東京オリンピックの後から、守られうようになってきたのではないでしょうか。先年、北京オリンピックがありましたから、こちらでも、『間もなく変わるにちがいない!』と期待している、「満月の宵」であります。

(写真は、地表に近い「月」です)

孫ベー

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「高校野球(日本)」

 子どもちが小学校のころ、《スポ少(スポーツ少年団)》という活動が、活発に行われていました。野球、ミニバスケットボール、サッカーなどが人気があったのです。放課後や週末に練習が行われていました。小学校の校庭や体育館を利用し、学校関係者の指導員によって運営されていたのです。ですから「校外活動」で、『やってみたい!』子どもたちが参加していました。とくにお母さんたちが熱心だったのを思い出します。日曜日に、対抗試合などがあると、子どもたちの食べ物やお菓子や飲み物を差し入れていました。また試合の後の「祝勝会(負けたときは反省会)」が、定例のように行われていたのです。

 娘や息子が、小学生の頃にやっていたミニバスのコーチを、少しの期間でしたが、やったことがあったのです。大人の熱心さが、子どもたちを奮い立たせていましたので、何となく日本的な感じのする活動だったようです。昨日、孫(中国語では外孫子というようですが)の野球の動画が送られてきました。バッターボックスに入った孫ベーが、ヒットを放ったものでした。娘が、”Good Job”と、彼に声をかけていました。ものの10秒ほどの動画でしたが、攻撃側も守備側も、みんなが、本当に楽しそうにプレーしている様子が映し出されていました。少し前に、サッカーの試合のスナップ写真が送信されてきましたが、これも同じように、楽しそうなのです。

 ミニバスでも野球でも、日本のスポーツは、やってる本人たちは「大好き」ですし、大人たちも「喜んでいる」のですが、今ひとつ、「楽しい」雰囲気が欠けているのです。怒られることが多くて、ほめられることが少ないのです。それは大人のスポーツも、同じなのです。プレッシャーをかけられて、負けてしまうと悲惨で、みんなが意気消沈してしまうわけです。ところが、スポーツの本場アメリカは、一年中、野球だけ、サッカーだけといったクラブ活動ではないのです。サッカーのシーズンがあって、それが終わると今度は野球のシーズンに入り、大学生などのコーチがついて、指導するわけです。私の孫ベーも、先月は「サッカー」をやっていましたが、今は「野球」、もう少したって秋になると、「アメリカンフットボール(タッチフット)」をやるのです。まだ、小学校の低学年ですが、大きな子たちの間に混じって、実に楽しそうなのです。彼のプレーを、写真や動画で見ていますと、『カ―ッ!』と力が入ってしまうのは、《爺似》なのでしょうか、燃えて夢中になってしまうようです。

 一年中、一つの種目しかしない日本の子どもたちのスポーツと違って、あちらでは、何種類のものスポーツを、《シーズン制》で行なっているのは、バランスがあって、とても好いことだと思うのです。バスケットの有名プロ選手のマイケル・ジョーダンが、しばらくプロ野球の選手をしていた時期があったのを覚えています。日本のプロ野球の選手で、サッカーもラグビーも出来る選手は少ないのです。もちろん中学や高校時代に、他の競技をしていた人はいるようですが。

 いつですか、送信してきた写真で、芝生の競技場の上で、大きな子たちに孫ベーが囲まれて、『お説教されたり、怒られてるのかな?』と思った私は、娘に、『何の場面?』と聞いたのです。そうしたら、『彼が小さくて、まだアメフトのルールがわからないから、大きな子たちが説明してるの!』と言ってきました。それで納得したわけです。われわれの時代は、上級生に殴られたのを思い出し、『なんと和やかなのだろうか!』と思ってみています。もう夏休みに入ったそうです。4人の孫ベーの無事と成長を、この地の空の下から願っています。

(写真は、日本の高校野球のシーンです)

ケーキとガーベラで

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『ガーベラ

 先週の木曜日の朝、出勤のために、ひげ剃りをしていました。鏡の前で、ちょっと前屈みをした瞬間に、いつものサインのように、腰に違和感が走りました。『またか!』と思って、『ひどくなりませんように!』と心のうちで願ったのです。いつもですと、その瞬間から激痛が走って立っていられなくて、寝込んでしまうのですが、その朝は、学校に出かけられたのです。家の外で、タクシーを拾おうとしたのですが、あいにく雨でしたから、『どこどこへ!』というと三人のドライバーに乗車拒否をされてしまいました。それで公共バスに乗ったのです。その日は、試験日で、試験監督でした。90分ほどで終えて、学校の北門の近くのバス停からバスに乗って帰宅したのです。5階の階段を登り、わが家に入った時から、立っていられなくて寝込んで、今日まで、痛みと戦っていました。

 この「持病」の腰痛は、この夏の季節には出たことがないのです。思い返してみますと、先週の月曜日の結婚式で乗ったバスのスプリングが悪かったこと、行きに段差で『ゴトン!』と腰に衝撃を受け、帰りには、冷房が効いた中を「うたた寝」をし、ずっと雨降り続きといった悪条件が重なったのが原因だと結論したのです。これは切ないのです。風呂を沸かしてもらって、温泉の素を入れて腰を温めたりしました。これもいつものように、寝ているのがいちばんで、今日の昼頃から、痛みが少なくなってきたのです。でも完治したわけではありません。座っていて立ちますと、『キリキリッ!』と痛みますが、木曜日、金曜日のようではなくなってきました。この分ですと、今学期最後の授業の水曜日には学校に行けそうです。

 ですから木曜日の午後から、外出していません。例年、秋から冬に移っていく季節替わりに、『腰が寒いなあ!』と感じると起こる「持病」なのです。どうも今年は、天候不順で、変則的な持病が起こったようです。日曜日の今日も、出かけなければならなかったのですが、お断りして家にいました。昼前に、「父の日」のプレゼントに、「ガーベラの花」を一輪頂いて、家内が帰って来ました。さらにモールにある「カールズJr」のハンバーグを、昼食に買ってきてくれたのです。これで昼食を家内と済ませたら、『何かお手伝いすることがありますか?3時過ぎに、ケーキをお届けしますから、受け取って下さい!』との電話があったのです。父親になってから、「父の日」に、こんなに甘い美味しいお祝いをしてもらったのは初めてのことで感激でした。夕食後30分して、コーヒーを淹れて、家内と食べたところです。優しいパイナップル味のクリームケーキでした。日本の名門ケーキ店と遜色のないケーキなのです。子どもたちよりも年かさの上の年齢の若い友人ご夫妻からのプレゼントでした。

 ちょっと「快気祝い」の感じもしています。娘からメールで、『わたしたちのお父さんでいてくれてありがとう!』と言ってきました。実に嬉しいことの連続です。この感激をブログに載せようと、久しぶりにパソコンに向かったわけです。お父さんをしていて、ここ中国に来て、『好かった!』と思う、感謝で至福の日曜日の宵であります。まだ痛みは残っていますが。

(写真は、「ガーベラ」の花です)

端午節

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汨羅江

 明日は、「端午節」で、月曜日から三日間の連休なのです。今日は、週日の火曜日でありながら、街中は、なんとも言えない「のんびりムード」が立ち込めています。土曜日、日曜日と会社も学校もあり、その分、祭日の前二日間を休んでの連休です。

 そんなのんびりした中におりましたら、『これから伺っていいですか?』と電話がありました。今、住んでいる家の大家さん(中国語では〈房東fangtong〉)からの電話でした。10分ほどすると、手に、竹で編んだ手提げ籠を持っておられました。中には「ちまき(粽子)」が詰まっていたのです。本来なら、「店子(たなこ)」の私たちが、この祝日のためにお祝いを持っていかなければならないのに、逆に頂いてしまいました。この数年、毎年の事になってしまいます。こちらの祝日の感覚が、まだ身についていないので、そういった慣例を、つい忘れてしまうのです。今季、二回目の「ちまき」でした。法学部の教師で、弁護士をしておられ、しばらく世間話をしました。何となく通じる部分が多くなってきていて、こちらが驚いてしまうほどです。

 どうも日本と同じで、食べ物をやり取りする習慣が、こちらにもあるようです。秋の「中秋節」には、「月餅」が食べきれないほど届きます。冷凍庫にも入りきらないほどなのです。嬉しいのですが、『どうしよう?』と戸惑うことしきりです。今学期も、あと1つの授業と、2クラスの試験、そして採点、成績表の提出を残すのみとなりました。区切りの良い生活をさせていただき、重ねていく年齢を忘れてしまいそうです。今も、外は雨です。『これでいいのかしら?』と思うほど、天候不順というのでしょうか、雨が多くて、信じられないほどの涼しさです。

 そんな心配をよそに、連続35、6度ほどの酷暑の日がやってくることでしょう。真冬に生まれたのに、夏が好きな私は楽しみにしております。何となく週末を思わせる、静かな雨の夕方であります。

(写真は、屈原が入水した「汨羅江」の夕日です)

婚礼

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「スイカズラ」

 昨日は、私たちの街から貸切バスで3時間ほどのところにある街で、「婚礼」があって、50人ほどの知り合いといっしょに出かけてきました。ちょっと旧式のバスで、スプリングが古くて効かないのでしょうか、往復の道は、体全体にマッサージされているような感じがしていました。最近、レクサスとかベンツといった高級車に乗せて頂く機会が多かったので、きっと、「贅沢病」で体が悲鳴を上げたのだろうと思うのです。

 実は、「花嫁(中国語では〈新娘xinniang〉)」は、私たちが、この街に越して来ましてから、一週間とたたなたないうちに訪ねてこられて、食事をご馳走してくださった方の「教え子」なのです。『留学中に、日本の方に大変お世話をいただきましたので、とても感謝を覚えています!』、また『日本人が、私の務めている大学の「海外学院」におられると聞きましたので、お訪ねしました。』と、おっしゃってでした。留学中に、つらいことも多くあったのですが、多くの日本人に好くしていただいたことへの感謝で、私たちがご馳走になったのですから、彼女をお世話したみなさんに感謝しないといけなのですが。この方が、この6年もの間、『歯が痛いのです!』と私が言うと、医科大にいる、彼女の知り合いの医者のところに連れて行って下さり、治療を受けさせてくださったりと、まるで「子」が親に世話をするようにしてくれているのです。

 留学中に、日本の国立大学で、「法学博士号」を取られて、帰国されて2年ほど経っていたときの訪問でした。彼女は、貧しい学生を、自分の家に下宿させて、いろいろと助けていたたのですが、昨日結婚した「花嫁」は、その中の一人です。新娘のお母様は、泣いていませんでしたが、この恩師は目を赤くしていました。実母は、寂しさが半分、安心が半分なのではないでしょうか。『結婚について親にいろいろと言われていて、私も考えていますが・・・』と相談されていて、彼女は独身なのです。ところが、この方には、独身ながら「お嫁にやる母親の心」が宿っているのでしょうか。近くにいて、いっしょに奉仕してきたこともあり、助けて欲しいと願っていたのに、二年コースの学校で出会った男性から求婚されては、反対出来なかったのでしょう。

 そんな彼女の心も、ちょっと気がかりでした。でも結婚する当の彼女は、本当に喜んでいました。「結婚式」は花嫁のための「花道」ですから、花婿は霞んでいていいのです。でも娶った彼は、確りした男性ですが、やはり当然のように霞んでいました。それでいいのです。家内が、一週間、市立第二病院に入院した時には、「下の世話」までしてくれ、大学生の時にも我が家を訪ねては、家内を助けてくれていた方でした。三人目の娘の「嫁入り」のように、家内も私も、喜んだのですが、『娘をとられた!』ような気持ちがしています。

 大きな大学や新しい市政府の建物の近くで、これからお二人で一緒に働くのですが、大学生など若者たちの間で、好い働きがあるようにと願いつつ、高速を走って帰路に着きました。私たちの街に着きましたら、「篠突(しのつ)くような雨」が降リ始めました。夜10時を過ぎていましたから、タクシーを拾えません。そうしましたら、花嫁の恩師、私たちの若い友人が、自分の勤める大学の構内に駐車していた車で、わが家に送ってくださったのです。ひどく濡れずにすみました。異国の地で、いろいろなことがあって、多くの人の愛の中で、私たちは満足な日を重ねておりますので、ご安心下さい。

(写真は、「スイカズラ」です)

車軸を流す

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ハイビスカス

 先週、中国の大学入試の「統一試験」があり、『912万人が受験しました!』と、こちらのニュースが報じていました。高校卒業生で、進学しない方もいることでしょうから、同年齢の人の数が、1000万人以上いるということになります。公称13億人の人口の中で、同じ年齢の人たちが、こんなにいることに、改めて驚かされてしまいました。

 この試験が行われた二日間は、試験会場の高校周辺は、車がクラクションを鳴らすことを禁じられ、学校の附近は、車の進入も制限されるのです。国全体が、受験生の味方になって、しばらくの静寂が全土を覆うのです。今の家に越して来る前の家は、周りに高校がたくさんあって、その緊張感が、肌に伝わってくるほどでした。

 日本では、二月、三月と中学校や高校の入試が行われますが、これほどの緊張感はありません。台湾やシンガポールや韓国も、日本に似て、受験は「戦争」のような厳しさや緊張があるようです。よりよい大学に進学するために、より良い就職をするために、またよりよい結婚をするために、「好い幼稚園」、「好い中学」、「好い高校」に合格したいのでしょうか。のびのびと過ごしたり、本を読んだりしていたらいい年代なのに、そんなことで神経を擦り減らすのは、なんともはや、もったいない!

 『人生の「勝ち組」になるために!』なのでしょうか。人生って「負け組」にならないことが、一番肝要なことなのでしょうか。どう見ても「勝ち組」になっていない私の人生を省みますと、惨めそうなのですが、当の私は満足な一日一日を生きてきた自負があるのです。みなさんは、一体何に勝とうとしておられ、何に負けると思っておいでなるのでしょうか?きっと私のような者は、「蚊帳の外」とか「門外漢」とでも言われるのでしょうか。「端午節」の連休で、街の中に「のんびりムード」が漂っているのを感じます。人生の戦いがあるとするなら、それは自分との戦いなのだろうと思っています。912万の受験生の将来が、祝福されるように願っております。

 昨晩は、10時過ぎに、出先から帰宅したのですが、「車軸を流すような雨」が降っていました。その「大雨」で、我が家の近くの道路が降った雨で陥没していました。『不要なものや既成の伝統や価値観が、この雨のように押し流されてしまったらいいのに!』と思わされております。

(写真は、アパートの植え込みに咲いているのと同じ「ハイビスカス」です)

「二十年」

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テニス

 「二十年」というのは、『オギャア!』と生まれた子供が、「成人」する年月になります(ここ中国では成人の年齢は18才だそうです)。それは、「一世代」として考えることもできるでしょうか。幼稚園に入って集団生活をし始めた日、サクラの咲き誇る中、ランドセルを背負って新一年生になった日、選挙権をもらって公民となった日、結婚した日、子の親となった日など、人生に記念すべき日が多くあります。本人にとっても親にとっても、「二十歳(はたち)」は、少なくとも日本では特別な日ではないでしょうか。

 昨日、日本のサッカーチームがオーストラリアと引き分けで、「ワールドカップ」の出場権を得ました。ネットのニュースもにぎやかに、それを報道していました。野球に比べて人気は今ひとつだった、私たちの時代とは比べられないほど、サッカー人気は高くなってきているのを感じます。このちょうど20年前の1993年の秋に、翌年のアメリカで行われる「ワールドカップ」の予選の試合が、中東のカタールの首都・ドーハで行われました。日本チームの対戦相手は、イランでした。この戦いに勝つと、念願の「ワールドカップ」の初出場がかかっていたのです。2対1で勝っていたのですが、終了間際にイランに同点ゴールを決められて、引き分けになり、勝ち点によって出場権を失ったのです。これを「ドーハの悲劇」と呼びました。

 日本のスポーツ選手は、特徴的に、《カラッ》としていないのです。大きな大会の重圧に負けて、下痢になったり、体調を崩したりして、普段の力を出せない《脆弱さ》が、一般的にあるのです。この「ドーハの悲劇」のとき、「ワールドカップ」への出場の夢が潰(つい)え去った時に、ドーハのピッチの上で放心でしょうか、虚脱でしょうか、いつまでもクヨクヨとしていた写真が送信されてきました。その様子を思い出すのです。負けたら、すっくと立ち上がって、次の大会に目を向けて進んでいけばいいのです。イラクの勝利を祝福したらいいのです。それができない女々しさの方が、私にとっては残念で仕方がなかったのです。勝利は、様々な要素が入り組んでの結果なのです。そこに向かう道のりが、スポーツが持っている醍醐味なのではないでしょうか。

 今は、古代ギリシャのスポーツとは違います。そこでは負けたら処刑されることだってあったわけですが、近代スポーツは、《参加すること》や《やること》に意義があるのです。少なくとは私たちの国では、処罰されません。『ご苦労さま。次、頑張って!』の声のほうが大きいのです。その反面で、負けた原因、コーチ陣の采配の誤り、責任問題が起こるのです。『楽しかった思い出ですませばいいのに!』と、思うのですが。

 奇(く)しくも、今年は、その「ドーハの悲劇」から20年が経っているのです。4ヶ月ほど足りませんが。昨日の試合のメンバーの多くは、国外のプロチームで活躍している選手だったようです(ドーハの試合出場選手には国外チームの所属選手はだれもいませんでした)。この20年で、スポーツ選手の意識も変わってきたのでしょうか。それとも20年前と同じなのでしょうか。サッカー界だけではなく、スポーツ界全体、いえ日本人が、『変わってきているのかな?』、と思うのですが、どうなのでしょうか。

 これまでのスポーツで、勝負にこだわらない、40代になってから始めた「テニス」が一番楽しかったのです。兄の友人たちの仲間に入れてもらい、春や秋に八ヶ岳や東京郊外で、「打ち合わせ」をしました。テニスのかたわら、温泉に入ったり、美味しい物を食べたり、いろいろと話に花を咲かせ、至福の時でした。いびきがうるさくて部屋を逃げ出したこともありました。いっしょにした方の中には、もう召された方もおられますし、寄る年波で、今は「思い出話」なのです。でも、あの楽しさは格別でした。

(写真は、テニスのラケットとボールです)

「おにぎり」

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「鄭成功」

 江戸時代の元禄期に、近松門左衛門という人がいました。越前藩士で、藩主の侍医をしていた人の子でした。「竹本座(大阪の道頓堀にあったそうです)」という芝居小屋で上演される浄瑠璃や歌舞伎の出し物の作者だったのです。生涯に100作ほどの戯曲を書き上げたと言われています。日本を代表する文化として「歌舞伎」が取り上げられるのですが、歌舞伎の隆盛に大きく貢献した文化人として、著名です。

 その100もの作品の中で、一番有名なのが「国性爺合戦(こくせんやがっせん)」で、人形浄瑠璃として1715年に初演されています。その後「歌舞伎」でも上演されるようになりますが、これが大当たりとなったのだそうです。この作品の主人公の名は、「和藤内」と言われ、中国人の父と日本人の母の間に、長崎で生まれた人でした。「和藤内」は作中人物ですが、彼の中国名は、「鄭成功(ていせいこう)」で、実在の人物でした。人形浄瑠璃や歌舞伎は、史実とは違ったもので、近松の創作でした。

 この作品が人気を博したのが、鎖国をしていた当時、海を隔てた中国や台湾を舞台とした「和藤内」の活躍が、そのスケールの大きさ、国際的であったので人々の関心を買ったようです。この作品の中に、和藤内の老いた母親が出てきます。この母親が戦いの中で、中国の人質として捕らえられてしまいます。ところが鄭重に扱われて、食事なども、今でいう中華料理をもてなされたのです。アヒル、豚、羊、牛などの肉が振舞われるのですが、この老母は、『こんなものより《おむすび》が食べたい!』と、ことばをもらしています。その脂分の多い中華料理よりも、「淡白」な日本の食べ物を求めたわけです。

「鄭成功」の活躍した地域

 これは、中日の食習慣の違いが端的に現れていて、笑いを誘うくだりになっているのです。国際人になって、異国の生活に慣れるのですが、年老いてくると、生まれた祖国、とくに母の手料理の味を思い出すのは人の常のようです。和藤内のお母さんだけではなく、私たちも、《おむすび》がしきりに食べたくなってしまい、時々、《塩むすび》、梅干しが送られてきた時などは、《梅むすび》を作って食べることがあります。人の「嗜好」というのは、昔戻りするものなのでしょうか。ビーフステーキやハンバーグステーキが好きだった私が、根菜の《煮っころがし》や青物の《おひたし》が食べたくなってきてしまうのです。父が、美味しそうに食べていた光景が思い出されると、しきりに、『食べたい!』との思いに駆られるのです。

 南の方に、「泉州」という街があります。昔から貿易港として栄えてきた街で、海岸から、遥か昔の航海を行き来した舟の残骸が発掘されたりしています。この街の小高い山の上に、和名・和藤内の「鄭成功」が、馬上に凛々しくまたがった巨大な像があります。案内していただいて、その真下で見上げたのですが、何でも大きい物好みの中国のみなさんの作ったものに圧倒されてしまいました。彼は、海の彼方の台湾に目を向けているのです。彼は中国でも台湾でも、国民的な英雄とされています。日本人との間にできた人物が、清に滅ぼされようとした明を擁護し、また台湾に渡って政権を握るなどの活躍をしたわけです。

 近松門左衛門が魅入られた人物だったのでしょう。何百年も前に、国際舞台で活躍した日系人がいたことは、この国際社会の現代に、大きな励みとなって、青年たちに夢を持たせたいものです。なんだか、《おにぎり》が食べたくなってしまいました。

(写真は「鄭成功」、地図は彼が活躍した地域です)