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 今日は、次男の夫人のお父様の「葬儀」に参列のために、船橋に行ってきました。67歳だそうで、まだまだ生きていて戴きたかった方でした。やはり人が召されるのは寂しいものです。42年連れ添われて奥様にとっては、急なお別れだったそうで、ただ、お力落としのなきようにとだけしか、言えませんでした。

 家に帰って来て、久し振りの遠出で疲れたのか、ゴロッと畳の上に横になってしまいました。最近はスニーカーで出歩くのですが、今日は革靴を履いて外出しましたら、三度の乗り換えで、改札へ走って入ったり、それで、帰り道に足がつってしまったのです。こんなことは、これまでなかったのですが、自転車は乗るのですが、脚力が弱くなってしまった様です。歩かないといけない様です。

 ゴロリから覚めたのは、足がつったからでした。高校の運動部以来のことでした。そうしましたら、昔流行っていた歌の歌詞が、思いの中に湧き上がってきたのです。作詞が福山たか子、作曲がフランシス座波の「別れの磯千鳥」が流行ったのが、1961年初頭でした。

逢うが別れの はじめとは
知らぬ私じゃ ないけれど
せつなく残る この思い
知っているのは 磯千鳥

泣いてくれるな そよ風よ
希望抱いた あの人に
晴れの笑顔が 何故悲し
沖のかもめの 涙声

希望の船よ ドラの音に
いとしあなたの 面影が
はるか彼方に 消えて行く
青い空には 黒けむり

 この歌は、恋の別れですが、この歌詞の最初の部分が、死別と重なって悲しいのです。人生は、出会いと惜別の物語なのでしょうか。父と死別した日は、入院中の父の退院の日でした。『準ちゃん、驚かないでね!』と、勤め先の学校に、母が電話をくれたのです。まさに、『孝行したい時に、親はなし!』で、愛してくれた父の死は悲しさでいっぱいでした。泣き通しで、病院に駆けつけました。

 自分が果たせなかった夢を、子に託すというのは、よくあることなのでしょう。私立中学に入学させられ、某大学を目指して学ぶ様にとの、父や担任からの期待を背に中学生になった私は、〈十四歳の危機〉を乗り越えられないで、親にも担任にも裏切りをしたのです。

 不肖の息子の私の結婚式が終わってから、通勤の小田急線の電車の急停車で、くも膜下出血を起こし、入院し、一度は退院したのですが、じっとしてられない性格で、近所のボヤで消化などを手伝ったのがよくなくて、再入院していて、その病院で亡くなったのです。その父の死を、嫁御のお父様が亡くなられて思い出したのです。

 お父様は、国税庁に勤めておられ、金丸信事務所のガサ入れに参加したそうです。マスコミが待ち受ける中、誰が最初に出ていくかを決める時、お父様が、最初に出て、マスコミのフラッシュを浴びたそうです。『ビデオ残ってますか?』とお聞きしたら、『探せませんでした!』と仰っていました。

 お父様は、温厚な方で、仕事熱心で、お二人のお嬢様を育て上げられた方です。二度、ご一緒に家内や次男夫婦で会食をしただけでした。私たちが、中国にいましたので、なかなか、お会いできなかったからです。ご遺族のお慰めを祈りながら、葬儀に出させて戴きました。魂の安らかならんことを願い、ご主人を送られた御奥様、お父様を送られたお嬢様方の家族の平安を願って、帰路につきました。やはり、「逢う」が、人とのお別れになるのですね。嫁御の瞳に涙が溢れていました。

(〈フリー素材〉の行く夏の風物誌に花火です)

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私の終戦

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 『戦争中だったら、予科練に志願したかった!』と、母に、中学生の私は言ったことがありました。そう言った私に、母は、『海軍兵学校に行った方がいいわ!』と応えました。予科練は一兵卒、広島の江田島には、海軍士官養成の士官学校があったので、母の思いを知って、少々意外でした。

 娘時代、母が憧れた人は、江田島兵学校の学生だったからです。腰に短剣を下げて、詰襟の制服を凛々しく着こなした、紅顔の美少年たちでした。母の古ぼけた写真集に、それと思しき青年の写真があったのです。父に出会う前の、十代の母の憧れの人だった様です。

 母は普通の娘で、軍人家族ではなかったのですが、戦時下では、今様のアイドルは、軍人、兵学校の学生だったのでしょうか。国防に命を捧げた青少年たちの大きな犠牲の上に、今の時代があるのでしょう。いつの世も、敵も味方も、青年たちが戦さ場に赴き、尊い命を国にために捧げたのでした。

 戦争を聞いてしか知らない、戦争末期生まれの私は、父が軍需産業に従事した技師だったのですが、熱烈な軍国主義者ではないのに、叔父の仇を打つこと、多くの命を奪った敵国に復讐をしたいと思ったほど、自分が軍国少年を気取っていたのは、実におかしなことでした。

終戦を八ヶ月で迎えた私は、父が軍務を果たすため、家族と中部山岳の山中にいました。聞いたことはありませんでしたが、どんな思いで、父と母は終戦を迎えたのでしょうか。「十七文字の禁じられた想い〜戦争が終わった日の秀句1000〜(塩田丸男編著)」に、次の様な俳句があります。

 戦終わる児等よ机下より這い出でよ

 おさげ髪ぱらっと解いて敗戦日

 敵機こないこんなに広い夏の空

 流星やまざと脳裏に日本の地図

 なにもかも終わる愛馬の汗をふく

 内地、外地、戦場で詠んだ1000句は、私の8ヶ月目の日の出来事を知らせてくれたのです。どなたも実に重い言葉と思いとで詠んでいます。『もう、あんな酷い、理不尽な体験を、誰にもさせたくない!』という想いが伝わってきて、酷暑の夏空を見上げたところです。

(〈フリー素材〉の真夏の積乱雲の青い空です)

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同泣の勧め

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 ただ今5時半、今朝は、少し凌ぎやすいでしょうか。朝方4時前に、冷房のスイッチを切って、窓を開け放ちました。この数日は、熱帯夜の連続でしたが、一息ついて、ゴミ出しをしてきました。勢いよく、ベランダで朝顔が咲いてくれました。四種類ほどの色や形状の違う花を見せてくれます。

 きっと、『今日も元気で!』と言いたいのかも知れません。久しぶりに電車に乗れそうで、幼稚園児の遠足の気分と、姻族の悲しみに寄り添う想いが交錯しています。愛読書に、『泣く者といっしょにに泣きなさい!』とあります。ご主人を、お父様を亡くされたご家族と、共にいるために、8時過ぎの電車で上京し、三度乗り換えて式場にまいります。

前兆

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 『終わりの日にどの様な前兆があるか?』について、「古の書」に、次の様に記されてあります。

「大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。」

 それは、人を恐れさせるためにではなく、どう、これらと対処するかについての勧めなのです。先日、お昼ご飯を摂っていると、〈地震情報〉があって、『和歌山県南部で地震がありました。震度3で、この地震で津波の心配はありません!』とのことでした。また、ガクンと底に落ちる様に感じる地震もありました。

 昨年正月に帰国してから、華南の街と日本との大きな違いは、〈頻発する地震〉なのです。滞華中に一度だけ、台湾沖に起こった地震が大陸を揺らした、大きな地震だけでした。7階に住んでいる友人が、夕食に招いてくれて、卓を囲んでいる時でした。大きく揺れて、生まれてから何度となく揺れる経験をしていても、とても驚いたのです

 また「方々に疫病・・・が起こり」と言うのは、まさに今、〈新コロナウイルス〉の猛威に、世界中が翻弄されている様を言い当てているにちがいありません。世界での感染者は、2071万人と、今朝の統計発表で人数が示されています。東京の医師会の尾崎治夫会長は、次の様に言っています。

 『東京都医師会から本当にお願いしたいのは、いますぐに国会を召集して、法改正の検討していただきたい。ここ何日間かの流れを見ていると、人口比で東京をはるかに上回る感染確認者が愛知、大阪、福岡、沖縄でも出ている。是非こうしたことを、夏休み中だからどうこうではなくて、本当にこういうことを、国会を開いて議論してもらいたい。私は今が感染拡大の最後のチャンスだと思っている(7月30日の記者会見で)。』と強く語っていました。

 これは医療現場にいる専門家の切々たる弁です。経済活動や人の移動を、一定期間休止している間に、広く検査をして、感染を止める努力が大切だというのです。〈go to 何とか〉が、旅行王手と政界の大物との間で決められて、実施されたことが、八月に入っての感染拡大の原因だそうです。経済は、人が生きて、健康でなければ、正常に活動しないのですから、本末転倒です。

 みんなが忍んで、この時を過ごすなら、さしものコロナの勢いも、弱くなっていくに違いありません。この私も、日本橋の主治医に診てもらう必要がありながら、地元の医師に代わって診てもらう、小さな努力をしています。みなさんが、そう言った選び取りと決断とで、日常を非日常に置き換えて生きているのです。
 
 さらに「飢饉・・・恐ろしいことや天からのすさまじい前兆」も起こっています。人と人との愛が冷え込んでいたり、赦し合えない人と人、国と国、民族と民族が、戦い傷つけ合っています。地球の変動、気象異常なども、激しさを増していきます。「古の書」の記す通りに、起こっているかの様です。そうすると今は、心備えの最後の時なのかも知れません。尾崎医師会長は、《最後のチャンス》とまで言われています。

 今日は、次男夫人のお父様が、亡くなられて、「告別式」が、千葉県下で行われます。滞華で留守をしていたり、家内が病んだりで、二度ほどご一緒に食事をしたことがあるだけでした。お母様、次男夫婦、お姉様ご家族と、共にいて差し上げたく、お慰めを申し上げたくて、参列いたします。半年ぶりの上京です。

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 二十代に、「新の墓にて」という本を読みました。日本が大陸に進出して、「王道楽土」を実現し、「八紘一宇」、「五族共和」を掲げて、満洲国を建設しました。経済的な進出で、市場や資源獲得での侵略でしたが、満州人の地に、多くの開拓農民が移住し、未開の大地を開墾し始めました。

 満州支配の政策が行われていく中に、伝道がなされていきました。東亜同文書院に学んだ、山口高等商業学校の助教授の福井二郎が、職を辞して、満州熱河(ねっか/rehe)に赴きます。その働きに共鳴した、沢崎賢造もまた、京都大学での助手の職を辞し、その働きに加わります。承徳の街から蒙古まで出掛け、その働きを一段落し、家に帰ると、息子の新(あらた)が召されて、その葬儀が行われていたのです。その悲しみの中で、沢崎は、この書を著すのです。

 『蒙古伝道―
それは余りにも重々しき言葉
小さき旅に
小さき死が  供えられたり
愚かなる父を励ますため
この児は  死を以て
再び帰へることなきよう
我が脚に  釘打てり』

 賢造自身は、終戦の8月、承福の奥地に出掛けたまま、その消息を絶ってしまいます。満州に住む人々を愛し、搾取や強奪ではない、尊い働きに殉じたのです。福井は終戦後帰国するのですが、熱河でのことは黙したままでした。沢崎は純粋にその業に従い、命を捧げたのです。

 沢崎が、『荒野には声がある!』と言いました。命の生出ることない、不毛の荒地に、人の心が感じ取れる声があることを言ったのです。彼は常日頃、好んで荒地に出ていくことが多かったそうです。静まって、その天来の声を聞いたのでしょう。その神秘性に、まだ若かった私は、強く惹かれたのです。『人の声のない所こそ、私の《聞くべき声》がある!』と思わされたのです。

 コロナ旋風に荒れ狂う中に、その沢崎の言葉を思い出したのです。様々な言葉が、あらゆるメディアを通して発信されています。聞くほどに混乱させられる声声に、思惑も、面子も、儲け話もあって、聞くに値しません。思いを静めたら、《聞くべき声》に出会いそうです。

 私の母の幼馴染みが、その熱河の働きに参加していたことを聞きましたが、その消息は、母から聞かずじまいでした。明治学院大学国際平和研究所は、この熱河での働きは、植民地支配の「国策」の一環としての業であったと、文献研究をまとめて発表しています。どの様な動機も、純粋に仕えようとした志は、忘れてはならないのでしょう。新は、私と同世代でした。

専門家の提言

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 ちょうど100年前、1918〜1821年にかけて、世界中を巻き込んで、5億人もの感染者、1500〜5000万人もの死者を出した「スペイン風邪」は、今回の「新型コロナウイルス」と比べてみますと、現段階では、規模の大きさは比べられませんが、今後の展開では、余談を許しません。

 『人の噂も七十五日!』と言われますが、100年前の大流行は、とっくに忘れてしまっていることに驚かされます。あの前後に起こった第一次世界大戦や関東大震災の影に隠れてしまったのでしょうか、日本でも、1918年10月に大流行が始まっています。その時は感染流行の波が三波あったのです。第1回の大流行が1918年10月から1919年3月、第2回が1919年12月から1920年3月、第3回が1920年12月から1921年3月にかけてでした。約2380万人が感染しています(実数は推計です)。

 コロナの伝染力が強くなるなら、このくらいの感染者数や死者数は、到達可能かも知れません。先が読めないところが、不気味ではないでしょうか。当時の日本の人口は、約5600万人だった様です(当時は台湾や朝鮮半島が日本領土でした)。そのうち、45万人が死亡したのです。人口比0.8%が亡くなっていることになります。
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 歴史は、こう言った状況を、今日に伝えていますが、医学や疫学の長足的な進歩が見られる現代でも、不安材料は多そうです。どう対処していくか、疫学の専門家の提言よりも、政治的な判断が優先されている現状で、今後どうなるかが、さらに不安でなりません。

 例え自分が感染しても、他者に感染させないことは、当然しなければならないことです。中年以上の男性が、時々、マスクなしで、スーパーやドラッグストアーに入店してるのを見掛けます。好き嫌いではなく効果があるなしに関わらず、すべきは現代人の責務ではないでしょうか。

 私の父は小学生、母は幼児でしたが感染しなかったのですが、明治の元勲の大山巌夫人の捨松や島村抱月が、このスペイン風邪で亡くなっています。今後どうなっていくのでしょうか。ぜひ、専門家の言われることを聞いて、面子や立場を捨てて、国民を守る手立てに励んでいただきたいものです。

(100年前のカンザス州の兵舎、シアトル警察署のマスクをする警官です)

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アナログ

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 父が、わが家に二冊の辞書を買って帰ってきました。一つは、「字源」と言う漢和辞典だったのです。もう一冊は、1955年(昭和30年)に、岩波書店が刊行した「広辞苑」の初版でした。小学生の私は、辞書なしで、父や母や兄を辞書にして学んでいたのですが、分厚い、小学生の私を威圧するほどの書物でした。

 それ以来、父に、字や言葉の意味などを聞くと、それに答えずに、『辞書を引け!』と言われました。それで辞書を引くって面白いものだと新発見したのです。言葉を新しく覚える助けになり、これらの辞書を引くのが楽しかったのです。

 家族のための家庭用辞書とでしたが、三男の私専用の様に使っていましたが、小さな家で、" ソシアルディスタンス " の近い六人家族でしたから、机なんかありませんでしたので、書庫から卓袱台に運ぶ時に、落としたりして、ずいぶん使い古したものになっていました。

 その二冊は、 国語学習の大きな助けで、あのまま勉強をし続けていたら、どうにかなったかも知れませんが、そうしなかった悔いが残っています。歳をとった今、華南の街にいた時に、帰国する方がおいて行った荷物に中に、小型国語辞書があって、それを持ち帰って、今の家の書庫にあります。でも、ネット利用で、埃をかぶってしまっています。

 今では、何でもネットで調べることができますので、便利ですが、小学生や中学生の時に使った辞書引きの面白さは、ネット利用では決して得られません。〈手作業の時代〉が懐かしいばかりです。家内は、優等生でしたが、問題児だった私の方が、漢字能力が少々上で、最近、葉書を認(したた)めていましーて、『忘れちゃった!』と言う家内に、漢字を教えているほどです。
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 この辞書と地図、そして時刻表は、自分にとって《三種の神器》だったのです。未知の漢字との出会いの喜び、未知の国や行ったことのない都市や観光地の名を見つける面白さ、その街には、どんな道順で行くか、〈ジョルダン(路線検索)〉のなかった時の楽しみは、けっこう子ども時代に華を添えていた様です。

 外出をしないでいる今、この辞書と地図と時刻表があったら、机上でも、畳の上で寝そべっていても、トイレに座っていても、それで有効時間に変えそうです。それにもう一つ付け加えるなら、「ラジオ」でしょうか。専門家の意見を聞けるので、門外漢の分野に興味が唆(そそ)られるのです。

 そこに、iPadやiPhoneの登場です。やおら〈google検索〉に移って、その方の著書を調べ、〈図書館横断検索〉をして、どこの図書館に蔵書があるかを調べるのです。歩いて10分ほどの市立図書館で借り出しを要請をします。数日経つと、県立図書館から届いた旨の電話連絡があるのです。自転車に跨って図書館行きです。

 それで行き付けの図書館に、先週末行きました。勝海舟の父・小吉が著した「夢酔独言」を、先週末に借りてきたのです。江戸末期の江戸在住の旗本の書物で、出来の悪い父親の自分と、出来の良い娘と息子(勝麟太郎/海舟)の自慢話や、十代の頃の諸国漫遊のハチャメチャな話が面白く記されています。閉じ籠りの今、アナログの世界の楽しみもけっこう好いものです。

(広重が描いた「名所江戸百景 千束の池(洗足池)」です)

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過去と今そして未来

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 「オレは、(幕府)瓦解(がかい/崩れ落ちること)の際、日本国のことを思って、徳川三百年の歴史も振り返らなかった」と、勝海舟が言い残しいています。この人は、江戸を、長州や薩摩の攻撃の手から守った人でした。幕臣、無役の旗本の子でしたが、仕えた主君のためだけにではなく、国のために生きた人だったのです。

 三百年になんなんとする徳川支配の最後の締めくくりをした人でもある海舟は、〈過去〉にではなく、〈日本の未来〉に目を向けていた人だったのでしょう。過去に執着し、拘る日本人としては、稀有な人物だったことになります。

 黒船の来襲、通商条約締結の迫り、太平天国の乱、阿片戦争、清国の末期的な状況の様子を伝え聞いて、目を諸外国に向け、自国の未来に目を向けなければならない状況下で、国を憂えていたのも海舟でした。若い頃に、蘭学などを学んで、「進取の精神」に富んでいたのでしょう。きっと西欧的な〈ものの考え方〉を身につけていたに違いありません。

 広島と長崎に、原爆が投下された時、私は、中部山岳の山の中にいて、生後七ヶ月でした。小学校で歴史を学んで、と言うよりは、父が、原爆投下の写真集を買って来て、その目を背けたくなる様な惨状を、写真に見て、広島や長崎、さらには東京や大阪を始め多くの街へ投下された焼夷弾爆撃の跡を、息を飲んで見たのです。

 そして、75年たった今夏でも、あの写真の悲惨さは忘れることができないのですから、被曝された当事者のみなさんは、鮮明な体験をお持ちなのだと思います。広島では56万もの人が被爆し、長崎でも20万人もの被爆者がありました。亡くなられた方は、今なお増え続けています。第二次世界戦での日本の戦死者は、310万人だと報告されています。

 二十五年ほど前、中国からの留学生と、住んでいた街で出会いました。国立大学の工学部の大学院で研究をしていた方です。当時、彼女が言った言葉が忘れられないで、今も思い出されます。広島の原爆記念館を見学して帰って来られた頃のこでした。

 『どうして日本は、被害者の記念館を作るだけで、加害者としての記念館を作らないのでしょうか。それは片手落ちではないんでしょうか!』と、厳しい口調でおっしゃっていました。軍靴で踏み荒された故国の歴史を思い返して、正直な応答でした。私は、『そうですね。』と、ただ認めるだけでした。

 この八月がくると、その女子留学生の言葉が、重く思い出されるのです。歴史学習が、日本では足りないのではないでしょうか。歴史の中で起こった真実、事実を学んでないと、事実が曖昧にされて、次の世代に継承されてしまいます。

 東京大学の一年生の庭田杏珠さん(広島女学院出身)が、「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」を、東大大学院情報学環教授の渡邉英徳さんと共同で、先月7月30日に刊行されました。

 「記憶の解凍」の活動を通して、「平和教育の教育空間」について研究されています。この本は、戦前戦後に撮られた白黒写真を、カラー化することによって、色彩を持った過去の事実を表現する努力をされています。付け加えているのは、感情ではなく、色彩だけです。写真を眺めていると、過去の現実が、いま蘇っているかの様に感じられるのです。

 過去をありのままに、いえ、より現実化させて、わが生後七ヶ月の時の前後の事実を、思いっきり知らされる様で、素晴らしい写真集です。その中に、戦後の「青空教室」の写真があって、全てのものを失っても、教科書を喰い入る様に見ている向学心の旺盛さに、戦後復興の第一歩が、この小学生たちから始められたのを感じたのです。未来に自分たちの夢や理想や幻を解き放そうとしたのでしょう。

 もちろん過去は忘れてはなりません。ただ感情的に修飾された過去はいけません。事実と真実を学ぶのです。それは、輝ける明日、未来に向かって思いを向けて行くためにです。洗足池の池畔に、海舟の墓があって、友人が案内してくれたことがありました。二十一世紀に繋げてくれた逸材です。
 
(「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」)

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ケビン

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 “ ケビン “ 、家内が朝の散歩で、出会う犬の名前です。ケビンから直接名前を家内が聞いたわけではなく、飼い主のお爺ちゃんから聞いたのです。左右の目の色が違った〈ガチャ目/視力や目の向きに違いをいう言葉ですが〉なのだそうです。雨降りに、散歩を嫌う点では、ケビンと家内は共通しています。

 道の向う側を歩いてくると、おじいちゃんを引きずって道を渡って、家内にすり寄ってくる様です。それで、家内は頭を撫ぜて、“ ソシアル・ディスタンス ” を縮めてしまうのです。犬を飼ったことが、家内にもあるので、犬好きなのです。ところが、甲州街道で、轢死をした悲しい過去があるので、飼おうと家内が言ったことはありませんが、この両者は相通ずるところがありそうです。

 そういえば、父が弟のために、「甲斐犬」という優れた猟犬をもらって帰ってきたことがありました。血統と言うのは驚くべきものがあるのです。山奥から、東京都下の八王子に越してきた時にも、その血は争えず、近所の養鶏場から、ご主人のために咥えて帰ってくるのです。羽が飛び散って、犯犬を、何処で飼っているかが一目瞭然でした。ある時は、養豚場から、豚の子を持ち帰ってきたことがありました。

 それに困った父は、立川の米軍飛行場脇のフェンスに繋いで、捨てざるを得ませんでした。気性の荒い猟犬は、貰い手がありませんし、当時は、保護センターもなかった時代で、苦渋の決定でした。ところが3日後に、“ ラッキー "は帰宅してきたのです。それでも飼いきれず、今度は車で、東京の神宮に捨てたのです。それっきりでした。

 犬好きな父は、弟のために、また飼い始めたのです。” 力(りき)“ と言う名にした秋田犬でした。近所に住んでいた子どもに、仔犬の力は、叩かれたり、ひどい目にあって、子ども恐怖症になっていました。引っ越した先の犬小屋に、隣の女の子が、頭を撫ぜようとして近づいたのです。恐怖心からでしょうか、自己防衛でしょうか、噛んでしまったのです。

 番犬や愛玩は、人懐こい犬はなんとも可愛いものです。野性を露わにし、自分を守ろうとする本能に出会い、それは飼い犬歴の長い父の家での悲しい出来事でした。このケビンですが、散歩中に、ある家のま前
で動かなかったそうです。家内が理由を聞くと、もちろんお爺ちゃんにです。散歩中に可愛がってくれた方が、病気で不在だったのが、癒えたのでしょうか、帰宅されていたのだそうです。それが分かって、ガンとして動かないでいた様です。

 散歩に行くのか、ケビンに会いに行くのか、いえその両方でしょう、家内は晴れていると出かけて、雑草の中に咲く野花を積んで帰ってきています。今朝も会ったそうです。

(〈フリー素材〉の秋田犬です)

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望み

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 ユダヤの古典に、「木には望みがある。たとい切られても、また芽を出し、その若枝は絶えることがない。たとい、その根が地中で老い、その根株が土の中で枯れても、水分に出会うと芽をふき、苗木のように枝を出す。」とあります。

 毎朝、カーテンを開ける楽しみは、朝の清新な空気を吸うためだけではありません。家内が植えた鉢から芽を出して成長していく朝顔の様子を眺める《喜び》なのです。最初の開花の朝は、何とも言えない喜びに満たされました。今朝も、ベランダに五輪の開花でした。

 子どもたちが生まれた時の喜びは、朝顔の開花とは違い、責任の重さに、《創造的な喜び》といった方がよさそうですが、何とも歯がゆくって、重たい《喜び》でした。まだ母親も父親となった私も、力に溢れた若さの中にありました。父と母から命を受け継ぎ、その命から、新しい世代の命が誕生していったのです。

 どう親業をしていくべきなのかの第一点は、この子たちを食べさせていくために働くことでした。蜜蜂が飛び交って、花の蜜を集めて、巣に戻る様にしてでした。見守りもあったでしょうか。健康である様にと親として願いもしました。成長していくにつれて、躾とか教育の責任もありました。社会性も身につけさせていかなければなりません。

 やがて子どもたちは独立していき、結婚して、所帯を持っていきます。親業を終えた様でも、別の段階への親子の関係が移っていきます。父がした様に、自分がし、家内も、自分の母親がした様に、自分もしていくのでした。役割分担の連鎖なのでしょうか。

 《木に望みがある》とすると、なおさらのこと、人には絶大な《望み》があるのです。その《望み》を継承して、次の世代に繋げていく責任も、親にはあるわけです。もちろん人は複雑です。自らの《命》を、造物主の意思に反して、操作したり、変えたり、終わらせたりしてしまいます。木は死んでも、水分をえるなら、再生していきますが、人の命は、生殖以外の再生はありません。それ以外の化学的な方法は冒涜です。

 ベランダの朝顔は、咲き終えると、花の下でタネを育てていきます。忠実な事後責任を果たすのです。次の世代を残すためです。人は命の継承だけではなく、無形な《精神的な継承》もあるのでしょう。私を教えてくださった恩師たちのことを、よく思い出します。彼らにも恩師があって、また後進を育てるのです。また読んだ本の記述も思い起こします。古代の書に、多くのことを教えられてきて、今もなお教えられるのです。

 今日も、木にだけではなく、人にも《望み》があると教えられています。でも人の現実は、〈絶望〉や〈失望〉がみられます。彼らが、《望みに溢れて生きる人》と出会うなら、《望み》を再び持つことができるでしょうか。家内は、目の不自由なピアニスト、ショパンやベートウヴェンを奏でる辻井伸行さんのピアノ演奏に、最近、感銘を受けています。

 二十ヶ月になろうとしている闘病の中で、家内は、《古の書》を読み、褒め歌を歌い、辻井伸行のショパンを聞いて、《望み》を持ち続けています。また新コロナウイルスの猛威が止みません。いい知れない感染の恐れが蔓延し、地上を不安で満たしています。そん中で、《人には望みがある》と高らかに語りかけてくださっているのです。生きている限り、《人には望みがある》からです。

(〈フリー素材〉の枯木です)

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