世間で

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 作詞が山田孝雄、作曲がむつひろしで、「昭和かれすすき」という歌謡曲が、1975年(昭和50年)7月に発売されたそうです。

貧しさに負けた いえ世間に負けた
この街も追われた
いっそきれいに死のうか
力の限り 生きたから
未練などないわ
花さえも咲かぬ 二人は枯れすすき

踏まれても耐えた そう傷つきながら
淋しさをかみしめ
夢を持とうと話した
幸せなんて 望まぬが
人並みでいたい
流れ星見つめ 二人は枯れすすき

この俺を捨てろ なぜこんなに好きよ
死ぬ時は一緒と
あの日決めたじゃないのよ
世間の風の 冷たさに
こみあげる涙
苦しみに耐える 二人は枯れすすき

 だいぶ否定的な言葉使いの多い歌ですが、映画の主題歌、テレビ番組の挿入歌でだったそうです。この歌が、〈世間(せけん)〉という言葉を二度も使っているのです。それは、生きるのに負けた〈世間〉と、風の冷たい〈世間〉という表現をしています。最近になって、何かの拍子で初めて、この歌を聞いて、〈世間〉という言葉が気になってしまったのです。

 九州工業大学で、「刑事法学」を講じた佐藤直樹名誉教授が、『日本には、〈社会〉はなく、〈世間〉があるのです!』と言っています。この方は、「世間学」の専門家でもあり、「日本世間学会」の発起人などをされ、今年の「コロナ禍」で、新聞やラジオやテレビにも、多く出ておいでです。

 このところ残念なことに、コロナ罹患者やご家族への仕打ちが、普通ではないのに驚かされます。だから、公表しない、しないから、探りだそうとするのは、共同体の一員だという自覚がなく、ただ、〈自分の身だけが可愛い〉心理が働くからなのでしょうか。〈世間の掟〉が、暗然として、日本の社会にはあって、その〈世間の冷たい目〉に、常に晒されて、ビクビクしながら生活をしているのです。
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 お陰さまで、「新日本語」をよく耳にしています。〈自粛警察〉とか〈同調圧力〉とがです。戦後、75年が経ち、欧米文化が怒涛の様に入り込んできたにも関わらず、《個》の意味や在り方が、日本社会に浸透したのかなと思ってみるのですが、ほとんどの人が、〈世間〉の枠の中に囚われていて、周りの顔色や雰囲気を気にしながら、まだ生きています。〈不安〉や〈恐れ〉からくる〈差別〉や〈偏見〉を生んでしまっています。

 アメリカの大学に留学し、倶楽部生活などし始めて、新しい思想や考え方や生き方に出会って帰国してみるのですが、ファッションもスタバ通いもアメリカンなのに、生き方は、以前の轍(わだち)に、すぐに戻ってしまうのだそうです。中学を出て、15、6歳からアメリカ生活をした、私の子どもたちは、考え方は、《個》をしっかり持って帰って来たみたいです。

 外から自分の生まれ育った国を眺められたので、〈世間〉にのめり込まないで生きている様です。しかも日本人であることを捨てもしませんし、軽んじることもありません。〈世間のルール〉を尊重しながら、飲み込まれないで、上手に生きているのです。私たちは、〈仏滅〉の日に、結婚式を挙げてしまいましたが、〈世間〉を気にしませんでしたし、何の障りもなくと言いたいのですが、互いの違いを認め合いながら、来年は、「金婚式」を迎えられそうなのです。

 それにしても、この歌謡曲の様な恋は、息苦しいし、日陰の恋の様で気の毒です。1929年には、『いっそ小田急で逃げましょうか(「東京行進曲」の3番です)』と歌で勧めていますが、その小田原に行ったって、〈世間〉はついて来てしまうのです。〈世間の目〉など気にしないで、二人で素敵な人生を、楽しく生きていける様に、祝福したいものです。

(小田原市街の風景です)

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ブドウ

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 ずっと咲き続けてきた、ベランダの朝顔ですが、今朝は、その数が、今季最も多いのです。酷暑の中、やっと涼しさが感じられる様になって、ホッとしたのでしょうか、勢いよく鮮やかな色をたたえながら咲き誇っています。

 その隣で、キュウリが、垣をこえて外に向かって、蔓をのばしています。下の方では、ネムノキやハーブが植えられていて、なんと季節外れのヒマワリも伸びつつあります。狭いベランダに、わが家だけ、花卉が植えられていますが、本来なら、ここで育ててはいけないのかも知れませんね。

 昨日も友人の6歳のお嬢さんが、お母さんとやって来て、そのプランターに、手際よく水やりをしてくれました。自分の家にも、朝顔やトマトまで植えた夏でしたが、嬉々として小さな花の世話をしてくれていました。その優しい気持ちが嬉しかったのです。女子会で、ぶどう園に行き、帰りにお弁当を買って来てくれ、留守番の私も加えて4人でランチをしました。

 暑かった8月が行こうとしています。新学期が、もう始まっていますが、このお嬢さんの幼稚園は、9月1日から始まるそうです。今日は、県北にお住まいのおじいちゃんおばあちゃんとおじさんと従兄弟の家に、お仕事が定休日のお父さんと一緒に、お出かけだそうです。いただいたブドウが美味しかった!

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unsung

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  “ unsung “ と言う英語がある様です。” un “ は “ not “という意味、
” sung “ は「歌う」の過去分詞形です。直訳すると、「歌わない」、「歌われない」になり、褒められたり、感謝されたりされない、目立たない事や人や仕事をいう様です。すると、日陰に咲いている花や、真夜中に働いて、他者の注目外にいる人を言い当てていることができます。

 この社会には、“ unsung job “ があります。札幌の整形外科病院に入院していた時に、目立たない様に、私のベッドに来て、薬の説明をして、帰っていかれる年配のご婦人の薬剤師さんがいました。この方から、睡眠薬を手渡されるだけで、眠りに落ちてしまいそうな印象を受けたのです。『痛みは我慢しないで、眠剤を飲んで、数時間しっかり寝るのが回復に良いんです!』と勧めてくれたのです.

 今、テレビで、荒井ママレ原作の漫画が、ドラマ化され放映されているそうです。題名が、「アンサング・シンデレラ」で、病院の薬剤部門が舞台なのです。医師や看護師は感謝されるのですが、薬剤師は、表に立たないので、感謝されていません。
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 去年から家内が入院や通院で通っている、獨協医科大学病院で、一番忙しく働いていたのが、薬剤部だったでしょうか。目が回りそうに、クルクルと向きを変えながら、調剤した薬を患者さんに、実に慎重に確かめながら、数を数えながら渡すのです。これまで主治医が三度ほど投薬の不足がありましたが、薬剤部のミスは、一度もありませんでした。どんなにか神経を使っているのかが、看て取れるのです。

 その薬局業務を、数ヶ月前から、大手の薬局が、処方箋に従って投薬する様に変わってきています。その手際の良さは、病院の薬剤部での調剤の方がはるかに確かでした。でもよく業務をこなしておいでです。社会の隠れたところで働いてくださる、多くのみなさんに、『ありがとうございます!』と、もっと私たちは感謝すべきだと思うのです。

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朝顔

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 さしもの暑さも、朝晩は、ぐんと涼しく感じられる様になってきました。ベランダの朝顔は、今朝も、綺麗に競う様に咲きました。何という慰めでしょうか。目の醒める様な鮮やかな紫色を見せて、天然の世界の神秘さを感じさせられています。
  
 今日の日中は、暑くなるとの予報ですが、夜中に、クーラー音のしない眠りがあって、爽やかと言いたいのですが、昨晩、真夜中に、電話がなりました。ハワイにいる家内の姉からの連絡で、トビ起こされてしまいました。無事に手術を終えた、中部の街に住む妹の様子を聞いてきたのです。

 散歩もする様になった様です。倶楽部の人たちが、入院や手術時に、助けてくれたそうです。大きな病院の元院長さんが、家族の代わりに保証人になってくれたそうです。経過良好とのことです。

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重責

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明治維新に、貢献した人として、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人を「維新の三傑」と言われています。ところが西郷隆盛は、維新政府の要職に就くのを断り、鹿児島に下野(げや/戻ってしまう)していまいます。そして「西南の役」で自害してしまうのです。大久保利通は、暗殺されて果てます。そして、木戸孝允は病没します。

 そんな中、明治維新政府が、総理大臣を指名したのが、伊藤博文でした。1885年(明治18年)12月に、44歳2ヶ月で総理大臣に就任しています。指名の経緯は、イギリスに留学経験があって、「赤電報/外国電報」が読める人」、すなわち英語が話せる人が、この職に就くべきとの井上馨の推挙があって決まっています。

 この伊藤博文は、農民の子で、足軽の伊藤家の養子になって、下級武士の身分を手に入れたので、反対もありましたが、本命を目した適任者が、次々と亡くなっていて、他に人材が見当たらなかったからだと、歴史は伝えます。きっと高杉晋作とか坂本龍馬とか生きていれば有力候補だったかも知れません。

 アメリカ合衆国では、“ フロンティア・スピリット” で有名なJ.F.ケネディが、第35代大統領に、43歳で就任しています。こちらはアイルランド移民の子で、一代で財をなした父を持っていました。伊藤博文は、身分が低かったので、松下村塾では、外で立って聴講していたそうですが、ケネディは、ハーバードの名門の出でした。ただし正規入学が怪しいと言われています。.
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 今や、わが国の総理大臣は65歳、ロシアのプーチン大統領は67歳、アメリカのトランプ大統領は74歳で、今秋行われる大統領選に出馬をする、民主党のバイデン候補は、今年の誕生日で78歳で、みなさん高齢です。呂律がはっきりしなかったり、足元が怪しくなりそうな年齢には、一国の命運を左右する重責は、担い切れなさそうです。

 確か、ナポレオンは、33歳で、フランスのトップについているのではないでしょうか。ですから若くて、愛や義や公正に溢れた方が、重い責任をとるべきです。年を重ねた指導者は、もう後進に道を委ねて、勇退し、熟練者として助言するのが潔いのではないでしょうか。さて、《潔い器》は、どなたでしょうか。

(山口県萩市にある「松下村塾」の刊行記念館、鹿児島の錦江湾です)

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移民の子たち

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 江戸時代に、村で問題を起こすか、村の掟に反抗して、その村にいられなくなって、飛び出してしまうことを、「逃散」と、小学校で教えてもらいました。山深い所に入って生活したり、大きな街に入り込んだりした様です。幕府は、これを厳禁し、取締まりましたが、それはなくなりませんでした。

 昨年秋、台風による豪雨で、洪水に罹災した私は、畑も田んぼも持ちませんし、住んでいたのが持ち家ではありませんでした。ご好意で避難民の様にして、被災した家で生活をしていたのです。ですから、持ち物は、ほんのわずかでした。身の周りの必要な物を、息子が送ってくれた車に積み込んで、高根沢の倶楽部の二階の客室に避難しました。その俱楽部の責任者のご好意によったのです。

 日本の農村は、今年の大雨の被害と同じで、たびたび洪水に見舞われ、田畑を流され、生活手段を失いました。それで、しかたなく村を去らざるを得ない場合が多くあったのです。

 日本の移民の歴史を見ますと、北米大陸、ハワイ、南米、中国東北部の満洲などに、多くの人たちが移住しています。その移民を決断させた、一つの理由は、その洪水などの天災に遭い、田畑などの生活手段を失ったことだったのです。これまで、カナダのバンクーバーを舞台にした映画、「バンクーバーの朝日」を何度か観ました。移民二世の若者たちが、野球チームを作って、リーグで活躍して行く素敵な物語です。

 “ジャップ"と侮辱される中を、健気に野球を続けていくのです。チームのキャプテン、レジー(礼治)が主人公です。英語を覚えようとも、カナダ人社会に溶け込む努力もしないで、頑なに日本人に固執して、出稼ぎ根性を捨てきれないのがお父さんでした。カナダ人労働者の半分の賃金に甘んじながらも、その収入のほとんどを、本国の貧しい親族へ送金してしまい、家族は大変な生活を強いられます。

 レジーは、製材工場で働き、お母さんが縫い物をし、妹は学校に通いながらお手伝いをしています。投手のロイは、カナダ軍に従軍した父親を、戦争で亡くしていた青年でした。〈出ると負け〉のレジーたちのチームが、這い上がる様にして、バント攻勢などの頭脳プレイをし始めて、勝つ様になっていくのです。《一寸の虫にも五分の魂》で、と言いたいのですが、『野球は楽しいよ・・・野球がやれるんだったり、ここで生まれてよかったと思う!』とレジーが言う様に、みんなは根っから野球が好きなのです。
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 レジーの父親は、『俺たちにはでけんことを、お前はやっちょる!』と新品のグローブを、息子にに買い渡すのです。それは、言葉もできないのに、身ぶり手ぶりだけで、スポーツ用品店で買ったものでした。彼は、『オヤジたちがカナダに来てくれたので、ここにいれることを感謝してる!』と父親に言います。そんな父親からグローブを貰った激励が、レジーのチームの「朝日軍」を優勝に連れて行くのです。

 勝ち進むと、冷ややかな目で見ていた日本人街の人たちの応援が始まって行きます。その年のリーグで、優勝するのです。カナダ人たちも、その「朝日軍」を認めていきます。そんなことのあって、野球を続ける内に、日本軍が中国大陸に進軍し、1941年には真珠湾攻撃が始まり、反日の機運がカナダでも高まるのです。日本人は、〈敵性外国人〉とされ、収容所に送られ、バンクーバーの日本人街は消滅してしまうのです。

 その後、朝日軍は、二度とチームを形作ることはありませんでした。それから、何十年も年月が経った、2003年に、「朝日軍」の果敢な戦いが評価され、カナダ野球の殿堂入りが許されたのです。それは、ほとんどのチームメンバーが、この世を去った後のことでした。

 家内の上の兄は、高校を卒業して、ブラジルに移民しました。日本での話と現地の受け入れ事情とが、随分食い違っていたのだそうです。それでもカナダ移民と同じ様に、歯を食いしばりながら働き、結婚をし、生まれてきた子どもたちを教育させて、苦労の連続でした。義兄は故国に帰ることもなく、現地で亡くなりました。これが日本移民史の一幕なのです。

(「朝日軍」のメンバーと映画化され取りにスチール写真です)

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同門の友

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 「門下生」、「門人」、「同門」,「門生」といった関係があります。“ 世界大百科事典 ” によると、「【門生】中国で一定の師の門に入って学問を修め,名簿に著録された門下生・書生を意味し,漢から六朝期にかけて社会的政治的勢力を形成する。1人の師に仕える門生の数は,数百数千人にのぼる場合があり,彼らは師に対して入門金,謝金を出したが,師からの生活保証はなく,また師の家に居住することもなかった。」とあります。

 中国の古い時代には、一人の師の下に、多くの「弟子」たちがいた様です。ですから弟子同士は、競争相手で、師の愛顧や関心を得るために、競い合って学んだのでしょう。徳川末期の長州藩の萩に、「松下村塾」という学び舎があって、塾長が吉田松陰でした。多くの若者たちが、そこで学び、互いに刺激し合い、競いながら、知恵を得ていたのでしょう。やがて幕末から明治維新、新時代の日本を主導する人材を、この塾から輩出しています。

 私は、専門の学校に行く代わりに、一人の「師」の下で、ほぼ八年間、教えを受け、多くのことを学びました。この師には、入門金を支払うこともなく、学ぶことが許されたのです。一時期、もう二人の同門生がいました。その師には、日本で事業を展開していた友人たちがいて、早い時期に、アメリカの南部・テキサスの街からやって来られた一人の方が、一時帰国された折に、その報告を聞いて、啓発され、同じ幻を持ちながら来日され、協力し合いながら、それぞれに責任を果たしておられました。

 その一人一人の働きの後継者となる、若者たちがいました。その門下生が、与えられた師弟関係を持ちながら、相互に学んだり関係作りがなされていったのです。ですから、「又従兄弟(またいとこ)」の様な関わりのあるのでしょうか。そこに友人関係が生まれ、その門下生間の交わりが、今でも続いています。

 お互いに共通したり、また近い価値観、歴史観、奉仕観を持ちながら、長いこと交わりが続いています。こういった友人関係が、私には与えられているのです。それは二十代から始まりましたから、ほぼ半世紀ほども続く交わりになるでしょうか。良い刺激と敬意とが交わされてきたのです。

 ある時、"Knitting"という関係の仕方を、訪問して来た、私の師の友人が、研修会で話されたことがありました。《編み合わされる関係》を互いに持つ様に奨励したのです。出来上がった関係の中で、互いがなんでも話し合い、指摘し合い、忠告し合う関係を持つ様にとです。それは、私たち門下生には、大きな挑戦だったのです。

 もう少し、華南の街に残りたいとの思いが、私たちにはありましたが、家内が病んで、治療のために、帰国を勧められたのです。もう一日、出国が遅れていたら、あの病状では飛行機の搭乗許可が下りないで、帰れないところでした。長く交わりを持ってきた友人たちの働き掛けがあって、無事に出国でき、帰国の翌々日、獨協医科大学病院に入院できたのです。同門、同信の友人たちの支えで、家内は回復の途上にあります。『今夜が峠です!』と、何度か言われたのに、主治医や研修医や看護師のみなさんを驚かせるほどの回復、《著効》をみせています。

 多くの友、兄弟姉妹、子どもたちに恵まれて、私たちの今があります。

( 住んでいた街を流れる河の上流の風景です)

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 私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

 人は、父や母、兄弟や姉妹との関わりの外に、「友」を求めます。最初は、近所とか同級生の中から、単純な理由から友だちを作ります。それから趣味を共通にしたり、月刊誌を借りたり、親同士が近い関係にあったりで、友だちになったりします。しばらくすると、違うクラスに親しい友人ができたりして、広がりを持ちます。休み時間になると、廊下や校庭で話し合ったりしたのです。中学生や高校生の頃でした。

 大学に行きましたら、山形や大分や北海道から上京してきた同級生と親しくなり、素晴らしい出会いがありました。横浜からの男と出会って、話が合ってしまって、横浜の繁華街を連れ歩かれた日がありました。どこへ行っても、彼の『オス!』で出入りできたのには、驚かされました。

 運動部に誘われたり、政治的学生運動が盛んになり始める頃でしたが、アルバイトに時間を割いていた4年間でした。アルバイト先では、沖縄や東北地方から来ていた、よその学校の学生との出会いがあって、ちょっと違った刺激が吸収できる好い出会いもありました。沖仲仕、土掘り、看板設置、デパート、東京駅でのビュッへへの搬入、監視員、牛乳工場などで、よく働きました。

 社会に出て、働き始めてからは、上司のおじさんたちの間で過ごす時間が多くなって、友人との付き合いの時間は減り、悪友たちとは距離をおき始めて、やがて結婚し、子育てに専心したでしょうか。

 ミケランジェロの彫刻で有名なダビデと言う人は、好い友を何人も持っていた人でした。自分の命の様に愛する友情を示してくれた人もいましたが、その中で一番は、過ちを指摘し、糾弾してくれる友があったことでした。その友によって、彼は生き方を変えることができたのです。

 私にも、そんな友ができたのです。普通には言えない様な内容でも、何でも話せて、何でも聞いてくれて、叱ってもくれる友です。そんな素晴らしい友と出会えたのは最高なことであります。弱さを知った上で、どんな時にも声を掛けてくれ、些細なことで裏切らないのです。人生に楽しさをもたらすなら《楽友》、人生が戦いであるなら共に戦う《戦友》でしょうか。

 中国語を学んでいて知ったのは、日本でいう「親友」を、「好朋友haopengyou」と言うことでした。13年間の中国での生活で出会った「好朋友」が、私たちにいました。この方が、ご婦人同伴で、家内を見舞いに来てくれたのです。このコロナ騒動の始まる、直前のことでした。この友は、私たちが滞華中に、二度大病の中から生き返った方でした。彼は大変忙しく奉仕されていたのに、日本人の私たちへのわだかまりなど全くなく、交わりを与えてくれました。

 好い友は、国境を越え、イデオロギィーを超え、年齢を越えて、喜びや感謝に満ちた交わりを与えてくれたのです。シャイなアジアの男同士でハグができる人です。自分たちの財を、若者たちの育成のために、惜しまずに使っていました。その奉仕に、時々、私たちを招いてくれたのです。来られた時、京都の友人が、一緒に交わるために、駆け付けてくれました。言葉の助けもしてくれるためでした。

 まさに、「朋あり遠方より来る、また楽しからずや(「論語」の「学而編)」で、彼らの訪問で、家内は見違えるほど元気になってしまったのです。彼の故郷の港町にも出掛けたことがありました。その交わりを楽しんだのです。

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1971年に発表されたジョン・デンヴァー等の作詞、作曲、歌唱のカントリー・ソングで、“ Take Me Home, Country Roads ”がありました。

1. Almost heaven, West Virginia,
   Blue Ridge Mountains, Shenandoah River.
   Life is old there, older than the trees,
   Younger than the mountains, blowing like a breeze.
   (Refrain:)
      Country roads, take me home
      To the place I belong,
      West Virginia, mountain momma,
      Take me home, country roads.
2. All my mem’ries gather ‘round her,
   Miner’s lady, stranger to blue water.
   Dark and dusty, painted on the sky,
   Misty taste of moonshine, tear-drop in my eye.
   (Refrain:)
3. I hear her voice, in the morning hours she calls me,
   The radio reminds me of my home far away.
   And driving down the road I get the feeling
   That I should have been home yesterday, yesterday.
   (Refrain:)

カントリーロード この道 ずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

一人ぼっち恐れずに 生きようと夢見てた
さみしさ押し込めて 強い自分を守っていこう
カントリーロード この道 ずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

歩き疲れ たたずむと 浮かんでくる故郷の町
丘をまく坂の道 そんな僕をしかっている
カントリーロード この道をずっとゆけば
あの街に続いてる気がする カントリーロード

どんなくじけそうな時だって 決して涙は見せないで
心なしか歩調が速くなっていく 思い出けすため
カントリーロード この道 故郷へ続いても
僕は行かないさ 行けない カントリーロード

カントリーロード 明日はいつもの僕さ
帰りたい 帰れない さよなら カントリーロード

 これは、アメリカで流行った歌で、ウエストバージニア州の四番目の「州歌」とされています。“ Route 66 ” というアメリカのテレビ番組が、1860〜64年に全米に放映され、日本でも大きな人気を得たものもあります。二人の若者が、一台の車に乗って、アメリカ合衆国中東部のイリノイ州シカゴと、西部のカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた、全長3,755km(2,347マイル)の旧国道を走っていく時の物語でした。

 何かアメリカ版、「東海道中膝栗毛」と言えるでしょうか。これは弥次、喜多の二人の道中記で、十返舎一九が著した滑稽本でした。〈知らない街〉に行ってみたい願望が、誰にでもあるのでしょう。経済効果を促そうと、〈出掛けること〉を、この8月に奨励したのが、仇になって、コロナ感染者が、日本で激増してしまったのは、政策の失敗でした。

 こう言ったご時世では、「耳をすませば」や「ルート 66 」や「膝栗毛」を読んだり、観たりして、代用旅行で、” バーチャル・トリップ “ でもするのがいいかなと思っています。それでもなかったら、半マスクで自転車に跨って、住む街や近隣の街に出掛けて、「かき氷」の旗の下がっている店で、冷たい物や、人気のラーメンでも食べ歩いたらいいかななんて思っています。

 この市内を走る「ふれあいバス」に、100円を払って、入浴施設や花センターなどに出掛けるのを考えていますが、この暑さで駅前のバス乗り場に歩くのも億劫になってしまうのです。秋風が吹き始める時が、来なかった夏は、これまで一度もなかったので、必ずくる時を待つことにしています。

 聞き覚えがあるなと思っていたら、ジブリの「耳をすませば」の初めに流れていたのが、この「カントリー・ロード」の歌でした。多摩川を渡って、カーブをしたところに、京王線の聖蹟桜ヶ丘駅があります。よく自転車で走った駅前ですが、多摩川の河川敷のサイクリング・ロードを利用したり、電車を利用したりしたことがあります。z

(聖蹟桜ヶ丘駅を見下ろししている夜景です)

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苦しみを分け合う

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私の愛読書に、「友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。

父と母が、私に《兄二人》、《弟一人》を与えてくれました。よく喧嘩をした兄弟です。本気で喧嘩していた様ですが、どこかで試す思いの籠もった、〈諍い〉や〈相克〉や〈争い〉だったかも知れません。ちょっと激しくなって、殴られたり仕返しをしたりして、タンコブや青痣を作って、大きくなって行ったのだろうと思い返しています。

近所の人たちは、きっと四人の男の子の行く末を案じていたことでしょう。豈図(あにはか)らんや、誰も落ちこぼれになったりも、少年院や刑務所にも行かずに、いつの間にか穏やかになってしまったのです。中央自動車道の予定地に、住んでいた家が含まれ、そう遠くない余所に越さざるを得なくなったのです。

みんな所帯をもってから、子ども時代を過ごした街や近くの街を選んで、住む様になりましたので、私たち兄弟の消息を、みなさんは知っていた様です。そんな《まさかの展開》に、きっと子ども時代を知る隣人は驚いていたのでしょう。十数年前、私だけが、外国住まいになっても、帰国する度に、《兄弟の交わり会》を持ってくれて、帰国した今に至っております。家内と私は、昨年帰国した次第です。

今では退職者であって、それぞれの社会的責任を果たし終えて、あの若かった無鉄砲な時代が、ただ懐かしく思い出されます。上の兄が勤め始めた会社の工場が、静岡県下にあって、遊びに行ったことがありました。寮で夕食をご馳走になったのですが、豆腐の厚揚げを生姜醤油で食べる様にと出てきました。母が作らなかった料理で、実に美味しかったのです。兄は、数年後に東京本社勤務で営業部に配属され、さらにそこを辞めて、育った街の倶楽部で、50年ほどの働きを終えました。

次兄は、高校卒業と同時に、千葉県下の運輸系の会社に就職し、東京の夜間大学通っていました。兄の会社にも遊びに行き、悪戯をして、本社から兄が、私のために叱られた様です。大学卒業後は、外資系ホテルに就職し、名うてのホテルマンとして終えました。その経験から、時々講演依頼があって、今でも出掛けている様です。

二つ違いの弟は、体育教師をし、管理職を務めて終えました。今頃でしたか、生徒を引率して、千葉の海岸で合宿があった時、台風の影響で遊泳ができず、浜で遊んでいた三人の高校生が、波にさらわれてしまったのです。その時、まだ若かった弟は、荒れ狂う海に飛び込んで、二人を救助して、残るもう一人のために海に入ろうとしましたら、地元の漁師に、『あんたも死んでしまう!』と力づくの羽交い締めにされて止められて、救助できず、一人を死なせてしまいました。それは痛恨の経験でした。

そんな過去があって、今はみな静かな老後を、好々爺然として過ごしています。お嫁さんたちが入れないとぼやくほどに、四人が仲良くしているのは、両親の愛の賜物なのでしょうか。戦中戦後の経済や物資が手に入りにくい厳しい中、東京本社から帰ると、やせ細っていた父のことを、母がよく語っていました。社会的な責任を果たしつつ、4人の子を育て上げてくれたことには、感謝の思いが尽きません。

三度の食事、洗濯から家事全般、学校から呼び出されて、一緒に叱られてくれ、一言も文句なしに育て上げてくれた母があっての今の4人です。「わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。」との訓戒が思い出されて参ります。

(〈フリー素材〉で、母がよく作ってくれた「ちらし寿司」です)

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