七月下旬に咲いた朝顔

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 待ちに待った、遅咲きの今季の赤色の朝顔です。白色の朝顔は、別の鉢で育って、もう何日も前から咲き続けています。どうも異変は、朝顔の世界にもあるのでしょうか、この地域では、どの家も、『まだ咲かない!』と、咲くのを待ちわびているようでした。

 昨夕、蕾が大きくなっていましたので、『明朝は開きそう!」と思っていて、寝覚めと同時に、ベランダに目をやりましたら、朝顔棚の上部に、二輪の朝顔が咲いていました。何か、いい知れない安心感がやってきて、本物の夏の到来を喜んだ次第です。

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同情と懐古の思いで眺めて

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 近代建築資材を使って建てられた家々の間に、廃屋の様な、戦後間もない頃に建てられたかと思える家や作業所が、この街のそこかしこに残されています。

 古建築が取り壊されている街中で、取り残されている家々の写真です。持ち主が見つからないのでしょうか、税制とか、消防法上の理由で、取り壊される運命にありそうです。

 二十歳の時に、中央自動車道の計画路線上に、父の家があって、それを父から請け負って、解体して、更地にしたことがありました。廃品回収業のおじさんに、トタンで葺いた屋根を剥がしてもらい、この方は、そのトタンを持ち帰って売った様です。

 昭和二十年代に建てられた、お金のかかっていない家を父は買ったのです。十五年ほど住んだのですが、立ち退かなければなりませんでした。父は、県有林の払い下げで、木材を京浜地帯に売っていた木材業を、戦後は経営していたのですが、その木材を使って、自分の家を建てることもできたのでしょうけど、それをしなかったのが、父だったのです。

 二十万円ほど父にもらったのですが、取り壊しを手伝ってくれた弟の同級生たちに、バイト代、昼飯代で、ほとんど使ってしまいました。でも、けっこう面白い作業で、あのまま解体会社を興していたら、学校に行くよりはよかったかも知れません。でも金儲けに興味はなく、学業を続けたかったのです。ほどほどのバイト代で十分だったからです。

 この写真の家で、子育てをして、子どもたちを独立させたのでしょうか。今では歴史を感じさせる建物で、なんとなく味があります。自分が老いてきて、故障箇所が身体に出てきているので、けっこう同情や懐古の思いで、スマホ撮影をしてしまいました。

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呼び水をするようにして

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 この街のあちらこちらに、こんな「手押しポンプ」が残されてあります。この写真と同じポンプが、父の家にあって、母の炊事や洗濯や風呂のための水を汲み上げるために、手伝いをしたことがありました。けっこう深い井戸に、このポンプの鉄管が固定されて、地下水の箇所に下りていたのです。時々、水が落ちてしまうので、バケツに隣の家の水をいただいて、「呼び水」として注ぐ必要がありました。しばらくポンピング(pumping)していると水が上がってきて、バケツに溜めることができ、母の必要のために、それを運んだのです。

 この写真のポンプだって、ゴムのパッキンを交換して、呼び水をすれば、地下水を汲み上げられそうです。それで、取り払わないで、残してあるのでしょうか。下のポンプは、代官屋敷跡の近くにあって、ポンピングしましたら、水が出てきました。この街には、奥日光の方から、良質な地下水の水脈があり、湧き水も多いと聞いています。

 結局、あの家事手伝いで、自分の体力をつけることができたのだと思います。それだけでなく、お風呂を沸かすための「薪」を割る手伝いもしたのです。丸太を切って荒く割ってある薪が、店から届けられると、それを細かくするために、鉄の重たい刃のついた「薪割り」を振り下ろして割りました。病欠児も、風邪をひかないでいると、母が家事の手伝いをさせてくれたのが、回復のためによかったわけです。

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 その細かく割った薪で、焚き口で火をつけて、お風呂を沸かしたのです。ポンプから、ブリキで作った「トイ(樋、父の家では〈トヨ〉と言ったでしょうか)」で井戸から汲み上げたみずを、風呂桶に張ることもできたのです。その家事の手伝いをして、夕方、東京から電車で帰宅する父に、一番風呂に入ってもらいました。

 何時ごろからでしょうか、電気式で揚水できる様になって、『なんて便利な時代になったんだろうか!』と感心しました。今は4階の部屋に住んでいますが、こんな高いところで、蛇口をひねると、水が出るのが不思議でなりません。よその家で井戸から、鶴瓶(つるべ)で水を汲んだことがありましたから、地下に敷設された水道管から配水する、電気式を考えついた技術にも驚かされます。

 人間が持っている「可能性」を、地下水に例えると、その水を生活用水として使うために、「ポンプ」が必要なように、また水が落ちた時の「呼び水」が必要なように、また水を通す「トヨ」のような道具類には、大きな役割がありました。この「可能性」を引き出すのが、「教育」なのでしょうか。意欲や興味を引き出すために、教師の一言が、大きな役割を果たすのです。” educate “ は、「引き出す」というラテン語から来てると聞き覚えがあります。

 こればっかりで、申し訳ありませんが、『よく分かったわね!』と、言ってくれた小学校2年の時の担任の先生の一言が、私には忘れられません。相対性理論やハインリッヒの法則を教えてくれたのではないのです。たった「一言」が、病欠児で、自信喪失の自分の意欲を引き出してくれたのです。

 そう言った「ポンプ井戸」や「呼び水」の様に、「トヨ」の様に働きかけてくださった方々がいて、今の自分があるのだと感謝しているのです。

(家の近くと代官屋敷跡のポンプ井戸、ウイキペディアによる薪割り〈斧〉です)

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神さまからの素敵な贈り物です

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『彼衆多の民の間を鞫き強き國を規戒め遠き處にまでも然したまふべし。彼らはその劍を鋤に打かへ、その鎗を鎌に打かへん。國と國とは劍を擧て相攻めず、また重て戰爭を習はじ、 皆その葡萄の樹の下に坐しその無花果樹の下に居ん 之を懼れしむる者なかるべし 萬軍のヱホバの口之を言ふ 。 一切の民はみな各々その神の名によりて歩む。然れども我らは、われらの神ヱホバの名によりて永遠に歩まん。(文語訳聖書 ミカ書4章3-5節)』

 また、葡萄の季節が巡ってき、果物売り場に並び始めました。父が好きでしたので、父の友人から、苗木をいただいて、引っ越し先の庭に植えたことがありました。今の時期を飾っているシャインマスカットや巨峰やピオーネなどよりも、もう少し遅い時季に収穫されて、出回る種類の葡萄なのです。

 そのいただいた葡萄は、「スチューベン」という種類で、香りが良くて、今はやりの甘くて、大粒の改良種のものとは違って、懐かしさを感じさせるのでしょうか、父が好きだったからでしょうか、決して人気種ではないのですが、子どもの頃を思い出させてくれるので、それが特愛の私なのです。

 今は、主に青森県を中心に、生産されていて、貯蔵ができる糖度の高い葡萄ですから、年明けの、二月頃にも食べられるのです。市内の北、西方(にしかた)にある道の駅で売っているのを見つけ、時々買い求めていました。

 このスチューベンは、アメリカ産の葡萄で、ニューヨークの農園で、太平洋戦争後に栽培が始まったそうです。その苗木を下さった方は、日本橋で、二百年も営業してきた「千疋屋(せんびきや)」で長く働き、故郷の甲府に戻ってから、青果店をされた方で、青果商の組合の責任者として長く、八百屋さんや果物屋さんたちのお世話をされた方だそうで、父が懇意にしていました。なぜか、私を、『準ちゃん!』と呼んでくださった方なのです。

 果物屋さんの友人が、父にいた関係で、時折り、旬の果物が、わが家に送られてきたのです。その一つで、季(すもも)の一種で、「ソルダム」がありますが、これも父が好物だったので、よくいただいたのです。「父の嗜好」を子が受け継ぐのでしょうか、それとも、美味しそうに食べていて、それを食べさせてもらったからでしょうか、李の中では、このソルダムが一番に好きなのです。
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 このソルダムも、アメリカからやってきた果物で、プラムに次いで生産量の多い種類なのだそうです。先日は、「まちの駅」で、ネクタリン🍑を買ってきました。もう少し、追熟した方が良さそうなので、二、三日置いてから食べたのですが、美味しかったのです。

 また大きな庭でしょうか、畑をお持ちの友人が、ご主人のお父さまが、残した畑で、野菜や果物を、ご主人が、お仕事に出かける前の早朝や、お休みに日に、畑仕事をされていて、奥さまもお手伝いをしておいでなのです。時々、その労作の旬の物を届けてくださるのです。

 子どもの頃、街中に農家があって、柿や栗や無花果(いちじく)やグミやイチゴを植えていて、「農家の子」が羨ましくて仕方がありませんでした。とくに無花果が好きで、通学路をちょいと外れたところにあった家の庭、その道路寄りの箇所に、この無花果が植えられてあって、実りの季節になると寄り道をして、熟したのを失敬したのです。

 その家のご主人は、父の仕事上の知り合いだったようで、お嬢さんは、私が学んだ学校の先輩でした。ご主人とカルフォルニアで、今も日系人教会で牧会をされておいでの方なのです。いつでしたか、〈ごめんなさい!〉のメールを出したことがあり、笑われてしまいました。ご両親は、もう亡くなっていたからです。

 『李下に冠を正さず!』なのに、正すことなく、無花果下で盗み食いをしてしまった、しかも常習者であったわけで、お恥ずかしい限りです。それでもイチジクに目がないのです。もちろん今は、買って食べております。

 ついでにもう一つ、「桑の実(ドドメ)」があります。この実を砂糖とお酒で漬けた果実酒が美味しく、梅酒のように水で割って飲んだのです。礼拝にお見えだった老姉妹からいただきました。実に美味しかったのです。あの時だけでしたが、その後、飲んだことがありませんが、また飲んでみたいと、この街では、なかなか見かけることがありませんが、先週、売っていて買い求めました。懐かしい味がしてきたのです。

 このように、多種多様な季節毎の果物は、神さまからの素敵な季節季節の《贈り物》に違いありません。これから秋にかけて、果物の季節がやってまいります。

(ウイキペディアによる甲州葡萄、ソルダムです)

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ロマンも夢も涙も溢れていた

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 作詞が佐伯孝夫、作曲が佐々木俊一、唄が灰田勝彦の「野球小僧」がありました。この灰田勝彦は、明治政府の移民政策で、広島からハワイに移民した家族の出で、お父さまは、日系移民の医療にあたった医師でした。

🎵野球小僧に逢ったかい
男らしくて純情で
燃える憧れスタンドで
じっと見てたよ背番号
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧はウデ自慢
凄いピッチャーでバッターで
街の空地じゃ売れた顔
運が良ければルーキーに
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ

朗らかな 朗らかな 野球小僧

野球小僧が何故くさる
泣くな野球の神様も
たまにゃ三振 エラーもする
ゲーム捨てるな頑張ろう
僕のようだね 君のよう
オオ マイ・ボーイ
朗らかな 朗らかな 野球小僧 🎶

 この歌は、1951年(昭和26年)に歌われ始め、その軽快なリズムに、野球の面白さを、子どもたちに印象づけた歌でした。すぐ上の兄は、野球小僧でした。父も交えて、一緒にキャッチボールをしたり、当時の後楽園球場に連れていってもらったほど、野球好きの家族だったのです。

 同じ日系人で、昭和期の読売巨人軍で、大活躍をした、与那嶺要と言う選手がいました。MLB仕込みのスライディングに定評があり、打撃も抜群のセンスをもっていて、首位打者を3回、最高殊勲選手にもなっていて、個人的に大好きな選手でした。

 今や、日本プロ野球選手が、MLBで活躍しているのですが、それ以前、日本プロ野球界にやって来て、日本の野球を大きく変える役割を果たし、監督にもなったのが与那嶺要でした。

 栄養学など言われる以前、ひもじい中でも、丼飯に味噌汁に菜っぱに魚で、体力を保って、大活躍をした時代でした。故障する選手は、今のように多くなかったのではないかと思います。今は、とくに投手は、すぐに肩や肘を痛めてしまい、手術をして、数年頑張る、促成栽培の野菜にように、弱いのかも知れません。

 欧米人のような体格を、食べ物や栄養指導で作り上げて、何か〈人工ロボット〉のようになっていますが、鍛え上げ方が違う筋肉で、二、三年すると、成績が振るわなくなって、表舞台から消えていってしまっています。お父さんの伝馬船(てんません)の艪(ろ)漕ぎを手伝って、家計を助けたりして、少年期を過ごし、基礎体力を持っていた、あの稲尾和久投手は、強靭な腕から豪速球を投げ込んでいました。

 やはり、やっても観ても面白いスポーツであることは否めません。「三角ベース」でゴム毬と棒切れのバットで、暗くなるまで遊んだ子どもの頃でした。そういった子どもの影は、この頃の街中には見られなくなっています。中学も高校も、整備された野球場でできる時代ですが、以前には何はなくても、浪漫も夢も涙も溢れていたでしょうか。

(“ いらすとや” の野球イラストです)

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甲子園へ向けて青春を燃やせ

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 栃木市総合運動公園に、「とちぎ木の花スタジアム🏟️」という名の野球場があります。今朝も、ここに散歩したのですが、何時もは静かなのですが、応援の歓声とブラスバンドの太鼓やトランペットの音が聞こえてきましたので、それに誘われてしまい、800円でチケットを購入して、バックネットの屋根の下で、高校野球を観戦したのです。

 憧れの甲子園大会に向けて、県下の四つほどの野球場の一つで、高等学校野球選手権・栃木大会の熱闘が繰り広げられていました。あの直(ひた)向きな姿が、素敵でした。すぐ上の兄が、高校球児で、母校の栄誉を背に負いながら、汗と土にまみれて練習していた姿は、素敵でした。その兄が、今夏、八十三になるのですから、時の過ぎゆく早さに驚かされます。

 十六〜十八才の彼らが、健闘を讃えながら、直向きに野球に向かう姿は、清々しく、六十数年も前、Major な野球ではなく、Minor な送球部(ハンドボール)で、ボールを投げ合っていた自分のグランドの横で、練習をしていた野球部のことを思い出しながら、野球観戦を楽しんだのです。

 2012年8月に、上海で乗った蘇州号が、丸二日の航海で、大阪南港に、9日の朝、着岸したのです。その時は、久しぶりに、用のあった家内を残して、一人で帰国したのです。翌日の高速バスで、東京に行く計画で、その日は時間があったのです。ふと、『今頃、甲子園で高校選手権大会があるのではないか?』と思いついて、そばにいた方にお聞きましたら、やはり、大会の真っ最中でした。

 それで、地下鉄の乗り換え駅で、どう甲子園へ行くのか聞いたのです。聞いたおばちゃん軍団が、『私たちも応援に行くんです!』と言って、一枚余分のチケットがあると誘われて、盛岡大学附属高校(岩手県)と、淞南学園高校(島根県)の対戦を、島根県勢の応援団席で観戦したのです。

 『母が出雲の出身なんです!』と言いましたら、喜んでくれました。対戦相手は、前年の2011年に東日本大震災で被害を受けた県勢で、彼らにも、心の中で応援を自分はしていたのです。 Major league で大活躍できる今日日、大谷翔平や今永翔太を追いかける選手もいるのでしょうか。

 こんなに暑い中、スポーツ選手たちが、青春の火を燃やし続けられる今ほど、可能性を宿す彼らに、Yale を、スタンドから送れた一日でした。やはり夏は暑いのですが、まさに土まみれでsliding する高校球児、minor なスポーツを愛して走り跳び投げ、泳ぎ飛び込み、様々な姿が、美しいのです。勝ち負けにこだわらず、文化部でも、青春をして欲しいと願った一日です。次回の対戦は、県都・宇都宮で行われれる様です。

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念のために一言

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 自治医科大学の松薗構佑講師らが、2019年に、イギリスの栄養学専門誌の『Nutrition Journal』に、『ラーメン店の多い県ほど、脳卒中死亡率が高い!』と脳卒中の関係の論文を、研究発表しています。

 その論文の統計数は、NTTのタウンページに掲載されている外食店である「ラーメン」、「ファストフード店」、「フランスおよびイタリア料理店」、「うどんおよびそば店」の店舗数の電話登録を利用し、都道府県ごとに男女別人口あたりの数を算出したのです。それに加えて、厚生労働統計協会の「国民衛生の動向」(2015年)を用いて「脳卒中」と「心筋梗塞」による死亡率を集計し、4種類の外食店との関係を調べています。

 その食べ物が、手軽であるという理由で、主に若者、独身者に好まれて食されていますし、年配者でも、独り身だったりしますと、簡単に入手し、調理せずに食べられますので、宣伝文句にのせられるのでしょうか、つい手が伸びてしまう、その様な傾向は、けっこう強いようです。

 家内が入院中、見舞い帰りに、電車を降りて、7時近い時間帯に、スーパーマーケットの食材売り場には、売れ残りがあって、つい、それを買って家に帰って食べていたのを思い出します。単身赴任のサラリーマン風の方が、同じように売り場を物色していて、両者が侘しさいっぱいで、苦笑いをしてしまいました。

 その論文では、〈ワースト県〉が上がっていました。人口数に対する「ラーメン店」の数を計算したのです。この論文の主任の松浦医師は、次のように言っています。『生まれ育った鹿児島、赴任した秋田、現在診療している栃木は、日本の中で脳卒中死亡率が高い県、かつて赴任した大阪、京都は低い県です。関西は薄味の傾向にあると思います。そして岡山は、それらの中間に位置します。』とです。

 それに、鹿児島、秋田、栃木の各県は、ラーメン店舗数が、人口比で見ると多いのだそうです(全般的に東北各県は、ラーメン店が多い色塗りになっています)。栃木県に住み始めて、脳卒中の患者が多いと、市の広報や、チラシ配布で知らされて、漬物の消費量も、塩分の度合いも高いので、〈塩分控えめ〉を、県民に注意喚起をしているのです。

 ですから、漬物の食べ過ぎや、ラーメンのスープを飲み干すのを注意するように勧めています。ラーメンは、ほとんど私は食べませんし、コンビニの弁当も買いません。けっこう食生活に注意しているのですが、昨年11月には、右手のハシを、ポロッと落として、救急搬送で、一週間入院してしまった自分は、けっこう気をつけているところです。

 さて、今夕は、何にしましょうか。定評のある冷凍餃子が、生協の宅配で届いていますので、水餃子にしようかと思っているところです。ただ、『ラーメンを食べると脳卒中で死亡する!』と、ラーメン店を敵視して言ってるのではありません。栄養価はバランスよく器に守られてもいるのです。念のため。

(ウイキペディアによる「豚骨ラーメン」です)

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そろそろ身辺整理をしなくては

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 最近、やけに目につくのは、宝石や時計やネックレスなどを買い取るチェーン店で、この街のそこかしこに出店しているのです。以前、お煎餅屋やクリーニング店だった店が、いつの間にか代わってしまったのです。どこの街も、同じなのでしょうか。きっと眠っているお宝を発掘しているのでしょう。

 どんな生活をしてきたのか、今の生活の改善や整理の方法を、最近は、よく考えるのです。家庭を持って、9年ほど経った時に、住んでいたアパートの上階で、ガス爆発と火災が起こりました。消防自動車と地元の消防団が駆けつけて、消化活動が行われ、おびただしい量の消化用水が放水され、階下のわが家は水浸しになり、ほとんどの物が使えなくなってしまったのです。

 大家さんの奥さんの泣き落としで、まったく保証なしでした。その代わり、東京の母教会が、家財から食器に至るまで、助けてくれ、まさに新しい家財道具が与えられて生活が、引っ越し先で始まったのです。間も無く、次男が生まれたのです。手にした物を失っても、喪失感は、なぜかありませんでした。

 そして、今から20年ほど前に、次のような聖書のみことばに迫られ、隣国に行くことになりました。それは一大決心でしたが、出掛けるように、行って欲しいという要請と共に押し出されたのです。

「我汝らを擄移さしめしところの邑の安を求め、これが爲にヱホバにいのれ。その邑の安によりて、汝らもまた安をうればなり。(文語訳聖書 エレミヤ書29章7節)」

 神さまが、隣国行きを促してくださったと確信した私は、それまでの奉仕の責任を、母教会にお任せして、新しい歩みに進む準備をしたのです。あの日以来の持ち物のほとんどを処分したのです。上の息子の助けで、お借りした軽自動車に積んで、市の処分場に、何度も運び込んだのです。

 子育ての年月に、使ったものも含めて、相当量を捨てたのです。最も辛かったのは、飼い猫二匹でした。もらってくださる方がいませんでしたので、家内の留守の間に、市の施設に引き取ってもらったのです。長野県の飯田で、娘夫婦が、捨て猫を育てていました。3年ほど、県立高校で英語科の講師をして、帰国する時に、私たちに預けていった猫たちでした。

 猫嫌いな私が、飼っている間に愛着を覚え、懐いてくれたのです。家に、私が帰ってくると、その車の物音を聞いて、玄関に二匹で並んで、《お帰りなさい》をしてくれていました。この別れは、辛かったのです。でも、隣国での13年の《新しい人との出会い》には、どうしても必要だったのです。

 私たちには、その「お宝」が、まったくないのです。家内も私もおなじです。宝石も装飾品も株券も見当たりません。家内は、指輪やネックレスや時計を好みません。ブラジルにいた義兄が、結婚30周年の記念に、ダイヤモンドの記念指輪を作ってくれたことがあったのですが、それを、隣国の外国人宿舎の七階に住んでいた部屋で、ストレートに落ちていく、洗面所の管に落としてしまい、探しようがありませんでした。

 物に執着がないのは、実は身軽です。私の父親がそうでした。どうも少しばかり似てしまったのでしょうか。身辺整理の時期を迎え、家内に見舞いで訪ねてくる子どもたち家族用にと、買ってしまった寝具が、開かずの間に収めてあるマットレスや枕や毛布などです。常時は未使用な物を処分しようと思いながら、なかなか決心が着きません。

 これからは、寝袋持参で来てもらおうと思うのです。ただ父に感心するのは、自分のものが、極めて少なかったことです。好くて、必要な物だけを持つ人だったのです。小さな書架、洋服ダンス、その上に載せていた二、三個のケースだけでした。海軍の軍人の家に育ったので、船乗りは、身の回りの物、最小限度の物しか持って、乗船することしかできなかったので、その精神に生きたのでしょうか。

 『まあいいか!』で生きてきて、《明日への栄えある希望》が、胸中に収められていますので、何不足ありません。この日曜日、初物になる葡萄と県都の有名和菓子店のお餅を頂きました。その日の夕刻に、届けてくださったのです。『必要な時に、必要なものが与えられる!』、私たちが一番豊かに生活させていただいているのかも知れません。感謝な夕べでした。

(ウイキペディアの黒猫です)

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