博士

私たちの住んでる区域の中に、3棟の集合住宅があります。5階建てで各20戸の住宅があります。私たちは、その第一棟の一階に住んでいるのですが、もう2年以上も住んでいるので、お隣さんとの交流が少しずつできています。第二棟の一階に、そう若くない夫婦がいて、今年になってから赤ちゃんが産まれて、泣き声なども聞こえてきたり、おじいちゃんおばあちゃんがやって来て、今は同居しているようです。実はこの方は、路上のリヤカーで焼き肉を焼いて売っているおじさんにしか、どうしても見えないのです。ところが、この方のことを知っておられる方の話しによると、ドイツやアメリカに留学をされたことがあり、博士号を持った師範大学の教授なのです。どこから見ても、

「教授」の「き」の字も思い浮かばない様相の方です。日本でしたら、必ず背広・ワイシャツ・ネクタイを着て、黒革靴を履き、革の鞄を下げて、『俺、大学教授で博士!』と振舞っておいでなのに。

ここに貼りつけました写真の「自転車」は、彼の通勤用です。彼が背広を着ている姿など、ただの一度も見たことがありません。そういえば、大学の先生たちの集合写真を時々見るのですが、ほとんどの男性教師は、ジャンバー姿です。夏になると七分ズボンにポロシャツ、サンダル靴で出勤しているのです。女性教師のみなさんは、ハイヒールを履いたり、お洒落ですが、男性諸氏は洒落たいといった努力など全く見せていないのです。これが、ここ中国のよさなのかも知れませんが。法学部の学部長(彼のことは、前に書いたかも知れませんが)が、我が家に、何度かおいでになったことがありますが、もう《砂利トラの運ちゃん》そのものです。これは、ここ中国で驚かされていることの一つです。

さて、ドイツとアメリカに留学した、隣人の先生ですが、先日、家内に、『今年、ノーベル化学賞を受賞した日本人の方は、アメリカで、私の指導教官でした!』と言われたのです。鈴木さんか根岸さんか、どちらかは確かめていませんが、今日日、驚くほどの経歴を持っておられることは確かです。も、も、もしかすると、この方は20、30年後の「化学賞候補」かも知れませんね。そういった気持で、この方が赤ちゃんを抱いている姿を見ても、どうしても「焼き肉屋のオヤジ」にしか見えないのですが。

出会いとは不思議なものです。思い出したくない、辛い出会いもありましたが、忘れました。いい人たちと会ってきたこれまでの日々に感謝が湧き上がってきます。これからだって、啓発され、挑戦され、前に進むように激励してくれる人、慰めたり励ましたりして心を満ち足らせてくれる人たちとの出会いがあろうかと思っています。もちろん与える役割もあるだろうと思いますが。とにかく生きるって、いえ生かされているって、楽しくて、面白くて、意味があります!

こんな素敵な男

 

 好き嫌いの激しかった私は、食べ物も、人もはっきりと分別をしていました。ところが、あんなに嫌っていた人参は、今では生かじり、葱はどんな料理にも添えられるようになって不思議でなりません。一番嫌いで、こわいのは、実は《きんつば》なのですが。とくに人嫌いは、激しかったかも知れません。人と和すよりは、常に対立し喧嘩になっていたからです。社会人としては失格なわけです。ところが25歳くらいから、人を憎んだり罵倒したり叩いたりする対象から、出来うるかぎり、『この人の良い面、長所を観て評価しよう!』と、《人間観》を変えたのです。失敗の多かった私は、そうするように学ばされたからです。物事は、否定的に捉えるよりは、肯定的に見たり、判断する方が、好結果を生み出すことを知らされたからであります。

 どこにも、《ちくり屋》がいます。こういったのは、今でも大・大・だいっ嫌いです。この言葉は、隠語なのでしょうか、辞書を引きましたら、『俗に、告げ口をするの意。』と出てきましたから、俗語なのでしょう。よく小学校で女の子が、『あららこらら、◯◯ちゃんはいけないんだ。せんせーに言っちゃおう!』と言われたことがあります。あれが《ちくり》なのです。『人の秘密を暴露すること。』と定義した方がいいと思うのですが。私のすぐ上の兄は、長くホテル・マンをしてきまして、《ミスター・シェイクハンド》と呼ばれるほどの名物職業人なのです。定年退職後も、請われて現場に残り、閉館まで働いていました。そのホテルが、今秋、同じ敷地に建てなおされたビルを使って、新装開業することになっています。この開業に合わせ、兄は招聘されてスタッフとして、また最前線で働くのだそうです。悠々自適な引退生活を送られる年齢なのですが、じっとしていられないのでしょうか、開店準備に今は余念が無いようです。

 この兄ですが、彼は《口の堅いホテルマン》なのです。仕事柄、要人や有名人の公私にわたる生き様をつぶさに見続けてきたのですから、醜聞の題材は枚挙にいとまないほどでしょう。『本を書けるよ!』と言いますが、職業柄知り得た個人に関わることについては、秘匿責任がありまして、それを固く守りぬいて生きているのです。それは職業人として当然です。でも、どの世界でも同様、ちょっとした噂に尾びれ背びれをつけて、面白おかしく書いて、原稿料を稼いでいる輩がおりますが、兄の漏らそうとしない頑固さには敬意を払わざるをえないのです。よく、妻や夫や恋人だった過去の人の事を、関係が壊れたあとに、秘密を《ちくる》のがいますね。こういったのは最低級の人間ではないでしょうか。名だたる人物も、愛した部下に《ちくられ》て、命を落とした歴史的大事件も、過去にありました。秘匿すべき責任を持てなくなったら、人は終わりですね。

 私は《人の秘密》には、全く関心がありません。いい生き方をしている人間にだけは興味津津です。そんな素敵な男に、こちらに来てから出会わせてもらいました。ただ、少々の困難な状況下におかれていると、今日聞きました。どうも、これも《ちくり》によるものと思われます。この困難な経験が、彼を、さらに練磨して、輝かせてくれ、ご夫人とお子たち家族、そして彼の兄弟姉妹たちをお守り下さることを楽しみにしています。彼のことを覚えていただけますように!

(写真上は、波打ち際にある「集まり場」、下は、開業を間近にしている国会議事堂の近くのホテルです)

危険

『車の免許証をとろうと思っているのですが、どうですか?』と、滞華7、8年ほどになる方に聞いたことがあります。ここ中国で、自動車を運転するなら、「国際免許証」は使えませんから、誰もが新規にこちらの運転免許を取らなければなりません。彼は開口一番、『やめられたほうが・・・・』と言って、反対されました。ここでは、交通法規は、あるのですが、残念ながら、ほとんどが守られていません。東京で運転しているつもりで、対向車や並行車に期待しても、法規通りに運転している車も電動自転車も自転車も歩行者も、ほとんどありません。新しく設置された信号だって、それに従っている車は、交差点に制服を着た警察官がいる場合だけです。 歩行者だって、道路のどこだって横切りますし、自動車だって歩道を走っているのです。40年以上の運転歴のある私でも、こちらで運転する自信はありませんが、免許証の取得を打診してみたわけです。案の定の答えをされたわけです。

10年以上前になるでしょうか、清里での交わり会に出席するために、中央道を走っていました。双葉のサービスエリヤを過ぎたころに、『この車、変な音がするわ!』と助手席の家内が言いました。『カラカラ』という金属音がし始めたのです。そうしましたら韮崎のインターチェンジの手前100メートルほどのところで、エンジンが突然止まってしまいました。スターターのキーを回しても、まったく動かないのです。ちょうど、そこは登坂車線のある所でしたから、そこに寄せて停車したのです。小雨も降っていましたし、後続の車の風圧で浮くように揺れていました。JAFにサーヴィスを依頼しましたら、間もなく、緊急停車の私の車の保護のために、道路公団の車が駆けつけてくれたのです。しかるべき措置を取ってくれましたので、後続車の追突から守られたのです。続けて来てくれたJAFの車で牽引していただいて、韮崎のインターの停車場所で調べてもらいましたが、修理不能でした。

また、それよりも5年ほど前にも、韮崎のインターチェンジをしばらく過ぎたあたりで、車が操作不能になってしまいました。全く故障の前兆がなかったのです。その日も、結構強い雨が降って、子供たちも同乗していたのです。そこは2車線の箇所でしたし、私の車は追越車線でアクセルを踏んでも全くエンジン音がしません。左側の走行車線を車が、次々とビューンと追い越していくのです。ところが、惰性で動いている私の車は、それを交わして故障車が緊急退避できるポイントに、するりと入ることが出来たのです。それは全くの奇跡でした。もし2車線のところだったら、追突されていて大事故につながったのですが、危機一髪で守られました。この二台とも、だいぶ走り込んだ10年以上経っていた車でした。

これ以前に、家内の妹を成田空港に迎えて帰る途中の時のことでした。上野原のインターの手前の藤野のサービスエリヤを過ぎたあたりでしたが、前を大型ダンプカーが走っていました。突然、『パーン』と言う音がしてフロントガラスが真っ白にひび割れしてしまったのです。全く前が見えなくなってしまいました。90キロほどのスピードだったでしょうか。全くのパニックでした。ところがダンプが落とした小石が当たった所に、直径2センチほどの穴が開いていました。その穴に、私の左目をつけ、かすかに前方が見えましたので、路肩に車を寄せました。そこでフロントガラスを、全部割って落として、上野原から一般道に出て、彼女たちを最寄の駅に連れて行きました。真冬でしたが、私は、その車を走らせて、私の住んでいた街の掛り付けの修理屋で廃車にしてしました。

どうも車には好かれないのでしょうか、4度目が中国で起こらないように、どうも『ノー!』のサインが出たようです。そんな私のために弟が、わざわざ、東京から自分の使い慣れたマウンテンバイクを運んで来てくれて、しばらく自転車に乗っていたことがあります。これは、自分は事故に遭っても、同乗者や他の車を巻き込む危険性がないので安心ですが、色々と思い出す大陸の秋のさなかであります。

(写真は、長距離高速バス「福建省龍岩市~福州市」です))

俺の受賞体験

小学校4年の時に、図画工作の授業で、私が描いた絵が、町の文化祭に出品されました。何と、「銅賞」の受賞でした。集中力の乏しかった小学時代の私は、根を詰めて何かをするのが苦手でしたから、絵もサラサラと書いては出すといったことの繰り返しでした。ところが、どういった風の吹き回しでしょうか、その時の絵は、ずいぶん時間をかけて、精魂を込めて描いたのです。おかげで、受賞したわけです。

長い16年間の学校生活の中で、「賞」をもらったのは、これ一回でした。実は、その文化祭には、「工作」で作った作品も出品されていまして、これまた「銅賞」を貰いましたから、二回きりといったほうが正直な回数ですが。これは私の人生の「金字塔」であって、根性のない私を激励してくれる数少ない出来事であります。だからといって、芸術に集中することなどありませんでした。『ケンカして泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』 と父に言われ続けて育てれられましたから、筆を持って腕を磨くことなど考えられませんでした。病弱な私に、『強く生きよ!』と願った父流の激励だったのでしょう。ですから握り拳を振り回して、徒手空拳のケンカ修行に明け暮れていたのです。仕掛けても、仕掛けられても、けんかで負けたことがなかったのですが、暴力などは誇ることはできませんね。

私の人生にある、この二度の「受賞」は、〈自己評価〉を高めるためには、素晴らしい経験だったと思うのです。三男坊で、小学校低学年は病弱で死線をさまよいましたから、両親の大きな愛を受けて、わがままに育った自分ですが、父の訓戒や、母の教えや、多くの素晴らしい教師陣によって、少しずつ変えられていったのだと思います。これまで四人の子育ても、やっと出来ましたし、妻とは来年4月には結婚生活40周年を迎えられますが、これも妻の忍耐に尽きます。

今週、「ノーベル賞」の受賞決定のニュースが伝えられていました。「化学賞」で、日本人の鈴木章氏と根岸英一氏が受賞されました。世界で、最高峰の報奨ですから、『鈴木さん、根岸さん、ノーベル賞受賞おめでとうございます!』と、心からの祝福を申し上げます。そして、今年の全ての受賞者のみなさんに、『心からお祝い申し上げます。さらに評価された分野で、ご自分の国だけではなく、人類世界に貢献していって欲しいと願っております。おめでとうございます!』と申し添えます。

これまでの受賞者の様子をみますと、研究体制が整った国の学者たちが、どうも多く受賞してきているようです。これからは、発展途上国の優秀な研究者や思想家にも、そういった機会が備えられて、このアジア圏やアフリカ圏からも、受賞者が多く起こされるようにと願っております。そういった人材が、自分の国から輩出することで、今、学んでいる小学生や中学生たちが、その素晴らしいモデルを誇りに思って、夢や幻を心いっぱいに広げて、学んでいく大きな動機づけになったら素晴らしいですね。世界や人類の明日のために、科学や芸術や平和の発展と祝福のために、貢献できる人材が、さらに出て欲しいものです。

『こんな俺だって出来るんだ!』といった自信をもらった小学校時代の「銅賞」を思い返して、これを「俺のノーベル賞」としたいと思っています。海の彼方の日本の方から、受賞の喜びの大歓声が聞こえてくるような、「国慶節」休暇の週末であります。でも、受賞には程遠い社会の隅で、小さな社会貢献をしている数多くの名のない人のいることも、決して忘れてはいけませんね。

神田川

先日、師範大学附属中学のバス停から乗って、南街のバス停で乗り換えて、西湖公園まで行きました。バスに乗り、空いていた席に座りましたら、何か聞き覚えのある音楽が聞こえてきたのです。どのバスに乗っても、ほとんど同じチャンネルのFM放送が流れているのですが。中国語で歌っていますが、メロディーは、日本のものなのです。曲名が出てきません。しばらく聞き続けていましたら、『そうだ、[神田川]だ!』と思い出したのです。日中間の関係がギクシャクしていている、この時期に、南こうせつ(「かぐや姫」)が歌った歌、

あなたはもう忘れたかしら(你也许早已忘记)                               赤い手拭いマフラーにして(将红色手帕当做围巾)                           二人で行った横丁の风吕屋(两人一起走进街边的澡堂)・・・・・・・

これを聞こうとは思いもしませんでしたから、バスの中の乗客の顔を見回してしまいました。この歌が、まさか日本の歌が原曲だと知っている人はいなかったのではないでしょうか。「吉野家」が、市内に4店舗もあるのですが、これも日本の店だと知っている方は少ないようです。天津にいましたときに、ドイツから来ていた方が、日曜日の朝の講演会が終わったあとに、『おいしい店があるので、一緒に寄って行きませんか?』と誘ってくれたのが、この「吉野家」でした。『この店は、日本の“牛丼“の店ですよ!』と言いましたら、驚いていたのを思い出します。

FMラジオの番組担当者は曲の選択には、特別なこだわりはないようで、なんだか、安心した気持ちで聞いていました。

窓の下には神田川(窗户下面就是神田川)                               三畳一间の小さな下宿(一间小小的房间)・・・・・

世界遺産に指定されている「武夷山」から流れ出ている、「闽江(minjiang)」を横切るバスの中で、三鷹にある井の頭公園の池から流れ出て、江戸の飲料水を提供した生活用水路・神田川の歌を聞くとは、こちらに来る前に日本にいたときには、考えもしませんでした。

去年も、学校に行きます時に、『さくら、さくら・・・』と、日本語で歌う歌が聞こえてきたのです。

霞みゆく景色の中に あの日の歌が聴こえる                               さくら さくら 今、咲き誇る・・・・・・

日本の国花は、菊の他に「桜」ですから、歌詞の中に「さくら」がある歌を、「牡丹」を国花とする中国の街中で聞いたのも、不思議な気持ちがいたしました。もう何年も前になりますが、「北国の春」や「四季の歌」が、この中国で、盛んに歌われたことを思い返して、この日本調のメロディーは、アジア圏で共通して好まれるものなのでしょうか。25年ほど前に台湾を訪問したときに、どの街の公園でも、年配の方々が、日本の演歌を歌っていました。

若い人の芸術文化には、国境がないのでしょうか。一緒に、心を高揚させ、生きることを激励する歌を歌って、中日交流を推し進めていきたいものです。南こうせつが、同窓だったのを知ったのは、ついこの間のことです。

(写真は、pocoさんの「神田川写真集」からです)

これまでお会いしてきた人たちの中で、『この人の下で働いて、もっと教えを請いたかった!』と思わせる人が何人かいました。もちろん若い時には、一世代も二世代も上の方の中に、何人かおいででした。いわゆる私の価値観や人生観、砕けた表現で処世術の教師陣と言えるでしょうか。彼らは、「成功の方策」や「無駄を省く功利学」や「爆発的即効的な成功術」を教授しませんでした。《人として、どのように生きるか?》、《どんな態度で社会の中にあるべきか?》、《人の上に立ちたければ先ず人の下で謙遜を学べ!》、《大きなものに憧れないで小集団主義で行け!》と言ったことが主だったのです。それは仙人のような精神訓話に聞こえますが、決してそうではありません。彼らは、『金と女と名誉からの誘惑に気をつけて生きていきなさい!』と、自分の身に降りかかった誘惑の手の巧妙さを示しながら、まるで父のように教えてくれたのです。彼らは、ご自分の周りで見聞きした多くの事例を引きながら、『事業で成功して名を上げても、人格の上で失敗者になることのないように!』、と口を酸っぱくするように語られたのです。

そういった方々が亡くなられていくのは寂しいものです。ニューヨークの学校で教授をされていた方が、時々日本に来て、セミナーを開くというので、よく参加しました。アラブ系のアメリカ人で、元ボクサーだった異色の経歴の持ち主でした。彼の薫陶を受けた青年たちが世界中にいました。ある時、彼は私を、アフリカに連れていこうと計画したことがありましたが、なぜか叶えられませんでした。もしアフリカに行ったなら、ここ中国には来ることはなかったことでしょう。北欧系のアメリカ人で、私と20歳違いの同じ誕生日の方がおられました。穏やかな緑色の目をされていて、いわゆるジェントルマンの一言に尽きる、高潔な人格の持ち主でした。彼ほど穏やかな心の持ち主を知りません。彼が亡くなられて葬儀の時に、誰も知らない彼の十代の頃の話を、弟さんがしたのです。西海岸の大きな街の警察署では、名の知れた《悪ガキ》だったのだそうです。戦争に行って帰ってきてからでしょうか、180度の大逆転の人生劇を演じたのです。結婚前の青年期のことでしたから、奥様も知らなかったことだそうです。そんな変えられた彼に、幾度となく励まされた日々が思い出されます。

さて、若い世代の方々の中にも、そういったキラキラと人格の輝いた方と、時々お会いすることがあります。アメリカにも、ここ中国にも、年齢や人種や言語やイデオロギィーを超えて、素晴らしい人がおいでです。風邪をひいた家内の腕をとって、病院から病院へ、診察室からレントゲン室へと連れ歩いてくれた方も、その一人です。家内に親切だったからではありません。診察を終えて家に帰って、居間で交わりをしましたときに、彼の言動や目の輝きの中に、これまでお会いしてきたあの方たちに似たものを見たのです。彼もまた、金や名誉のためには生きてはいないで、一人の妻と、様々に困窮した人たちを、時間を見つけて訪ねては激励しているのだそうです。こう言った方が中国にも多くいらっしゃるのです。出世や蓄財や称号からは全く縁のない世界で生きている人です。古来、この国は賢人を輩出してきたのですから、この21世紀も例外ではありません。広く人類愛、人間愛に動機づけられて、他を顧みて惜しみなく愛を注ぐことができることこそ、混迷と不安と不確信の現代には、最も必要とされている人材でしょうか。

器が足りないのに、大きな責任を負って、それを果たせずに、迷路に入り込み、横暴にふるまってしまった指導者が、古今東西を問わず多くいます。政治や教育や宗教や企業など、あらゆる分野でです。そう言いた方々でも、「良き助言者」がいて、聞く耳を持っていたら、国民、学生、会員、社員の悲劇を回避することができたに違いありません。また器の不足を知って、謙虚に生きたら、知恵深くなって、人を善導できたと思うことしきりです。さて、この自分は、人として、社会人として、夫として、親としての器や技量は、どれほどだっただろうかと、今日一日、回顧してみました。

(写真は、百度の「霞浦(福建省)」の海岸線です)

日進月歩

中国で、決して歌ってはいけない歌があります。歌ったばかりに、今日はひどい目にあったのです。1961年の秋に発売されたのが、「上を向いて歩こう」でした。高校生二年生の時で、ニキビだらけの顔がこぼれるように笑っていた坂本九が歌ったものです。その後、アメリカでヒットして、「SUKIYAKI SONG」と呼ばれて歌われた和製ポップスでした。アメリカ製ポップスを、日本語版に翻訳した歌がヒットしていた時代でしたから、逆輸出した歌だったことになります。

今日は、最近家内が見つけて買ってきたお菓子が食べたくなって、夕方になって家を出ました。小さい頃に、近所の駄菓子屋で売っていたのとソックリで、自家で焼き上げてあり、クッキーの上にたくさんのヒマワリの種がのっているものです。もう1つは、サンショウ味の「ぎゅうひ」です。まったく日本の味そのものなのです。歩いて15分ほどのバス通り際にある、間口一間、奥行き二間ほどの小さな店で、パン焼き器で焼き上げているのです。普段は下を向いて歩くことにしているです。親父の名前が、「むねはる」でしたから、背中を丸めるわけにはいけないのです。でも中国の街で、道路を歩くときには、どうしても下を向いて注意深く歩かなければならないからです。そうなんです、好物を買うんだという気持ちが、気持ちを高揚させていたのでしょうか、上を向いていい気持ちで歩いていましたら、フンでしまったのです。ズルッと足がすべりましたので、振り向いて路上を見て、『またやった!』と心の中で、フンガイしたのですが、後の祭りでした。

去年、シンガポールの街を歩いていました。アジアで最もきれいな街、いえ、世界でも一級のきれいな街でした。そう聞いていましたが、実際に、このシンガポールはゴミのない街なのです。その日、日本でも有名な「お好み焼き屋」の支店に、娘や息子と家内と一緒に入ったのです。何となく、どこからか臭っているのです。あまりいい匂いではない臭いでした。みんな、そんなことを思っていたのですが、だれも何も言わないで店を出ました。車の中にも、臭いが付いてきたのです。印度街に行ったときに、どうもフンだようです、この私がでした。その臭いを連れて、この世界的な綺麗な街・シンガポールを歩き回っていたことになります。これが、「また」のお話しの筋書き、中国では「上を向いて歩こう」を、街中で歌ってはいけない理由なのです。

今晩は、ちょっと悪い嗅覚の話になりましたが、子どもの頃、昔の日本も、同じようだったことを思い出すのです。ゴミも痰も排尿も、あたりかまわずだったのです。川は、ゴミ捨て場でしたし、木陰や藪はトイレでした。やはり転換期は、あの一九六四年開催の「東京オリンピック」に帰すると思います。あの時期から、日本は変わって、欧米並みになっていったのではないかと、思い出すのです。この中国も、欧米諸国から色々言われていますが、一八世紀のパリの街は、至極不潔な街だったと歴史は語っています。「日進月歩」、今に東京のような、シンガポールのように変わっていくことでしょう。それまで、上を見たら、すぐに下を向き直して歩くことにしましょう。帰宅後に、外の水道で丁寧に靴底を洗ったのはもちろんのことです。

薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか!

家内が風邪をひきました。と言うよりは、先にひいていた私が移してしまったといったほうがいいでしょうか。外国での罹病は、少々不安なものですが。平熱36度以下の彼女が、38.7度の発熱と咳と下痢も併発していました。寝込んでいるのを知った友人が、次女くらいの年齢の一人の男の子のお母さん(元看護師さんです)と一緒に見舞ってくれたのです。お湯で体を拭いてくださったり、『泊まって看ます!』と言ってくださいました。結局、『今晩、様子をみましょう!』ということで、11時過ぎに帰えられました。ところが朝になっても熱が下がらなかったのです。友人から電話があって、『昼過ぎに迎えに行きますので、病院に行ってみましょう!』と勧めてくれました。迎えの車に乗せていただいて、市立第二医院(中国では大病院を医院と呼びます)に到着。この病院の母胎は、旧イギリス陸軍病院だそうで、諸外国が旧中国の多くの都市で、教育や医療や衛生や福祉事業に、どんなに精一杯に事業を展開していたかが伺えて、深く考えさせられました。

付き添いは、このお二人の他に、もう一人は屈強な、長男と同じほどの年の男性が来てくださって、家の門から、ずっと家内の腕をとって支えてくれたのです。この4人で、戸板ではなかったのですが、20世紀の利器・自動車に家内を乗せて、医者を訪ねたことになります。西洋医薬品にアレルギーがある家内ですので、診察の結果、お医者さん(中国では「大夫」といいます)が、『省立の中医医院に行ったらどうですか!』と勧めてくれましたので、そちらに車で動きました。そこで血液検査とレントゲンを撮りました。ウイルスの感染はないとのことで、中国漢方の薬を処方していただいて、帰宅しました。その薬を、煎じてくれるとのことで、家に持ち帰り、土鍋で煎じて家に持ってきてくれました。今朝も、またとどけてくれたのです。

以前、日本にいましたとき、家内は、多くの病人を家や病院に訪問し、お世話をする機会が多かったでしょうか。『ほっとするんです!』という方々は、家内の助けや、一緒にいてくれることを歓迎していました。そういえば、この1~2年、日本からお米や缶詰や佃煮、様々な日用品を送ってくださる方がいます。郵便料金をみますと、毎回12000円ほどの金額になっています。大きな犠牲を払って、日本の味に飢えを覚えているだろう私たちを、喜ばせようとしてくださるのです。この方も、家内がお世話させていただいたお一人です。昨日は、『恵が、人によくしてきたから、他所の国に来て、こんなに大きな愛や親切を受けてるんだよね!』と、家内に言ってしまいました。

福建省普江市(厦門の近くの海辺の町です)の漁船船長の逮捕、釈放。日本の準大手ゼネコンの会社の社員の逮捕、拘留、解放など、中日の間が、少しギクシャクしている昨今、我が家のテラスにも、瓦礫が放り込まれたりしていました。そんなこんなの国慶節の休みにもかかわらず、時間と労力をさいて、愛を示してくださる、こちらの友人たちに、大きな感謝を覚えた次第です。薬でしょうか、愛の力によるのでしょうか、『素麺と大根おろしとみかんとトウフが食べたい!』と、この数日食べていなかった家内が、食欲を見せてきました。一瞬の不安は、「友情」がかき消してくれたようです。明日は、ほかの友人がご主人と二人で、家内を見舞ってくれるそうです。一味違った「国慶節」のすばらしい連休です。そういえば、家内が食べた素麺も、このご婦人が送ってくださったものでした!

建国記念日

「国慶節」、1949年10月1日に、中華人民共和国が誕生したのを記念した、国家の誕生を祝う日です。昨日は、祝福の花火が打ち上げられる音が、近所に林立している高層ビルにこだましていました。町の中には「慶祝」と記されたバナーが掲げられ、街頭は老若男女であふれていました。長く、イギリスや日本などの外国の支配に甘んじてきた中国が、再び自分たちの手で国を建て上げたのですから、その喜びは大きかったことでしょう。あの日、このような現代の中国の経済的な躍進、世界第2位の経済大国なることを、誰が予測したことでしょうか。13億人(ある方は19億人と言っていますが)の喜びを肌で感じた昨日でした。

私たちの国にも、「建国記念の日」があります。「建国をしのび、国を愛する心を養う日」と言うことで、1966年2月11日から祝日となっております。アメリカが、1766年7月4日に「独立宣言」に署名がなされたのを記念に、フランスが、1789年7月4日に、バスチーユ牢獄襲撃・政治犯解放で「フランス革命」が始まった日(パリ祭)を記念にし、シンガポールが、1965年8月9日に、マレーシア連邦から分離独立したのを記念して制定されたのと、私たちの国は違っています。どう違うのかと言いますと、紀元前660年1月1日(旧暦、新暦で2月11日)に、神武天皇が即位した日を記念にしているのです。歴史的に文書記録が残っていないことと、神武天皇自身が実在したかどうか不明であることなど、「神話」の領域の出来事に由来している点が、他の国々にと違っているのです。ただ韓国には、「光復節(1945年8月15日、日本がポツダム宣言を受諾した日)」の他に、「開天節(紀元前2333年10月3日に古朝鮮王国が建国されたとする「神話」による記念日)」がありますが、これは日本と似ていますし、日本と深く関わった建国の記念日です。

戦中、戦前は、神武天皇の即位を記念して、「紀元節」と呼ばれていた日です。神格化して戦争を推し進めたことから、戦後処理をした占領国・アメリカは、その経緯を嫌い、この日を廃止した経緯があります。私は、「王」としての「今上天皇」の立場を認め、昭和天皇が「人間宣言」をしたその決定に従って即位された「今上天皇」を、その人格の高さからしましても尊敬している一人です。最近、日本のテレビ界では、「坂本龍馬」に再び脚光が当てられ、江戸幕府の崩壊と新日本誕生の様子が注目されています。長州の木戸孝允、高杉晋作、薩摩の西郷隆盛、大久保利通、土佐の坂本龍馬、武市半平太などの幕末の志士たちの活躍は、少なくともテレビの画面を観ただけでも、心踊るものがあるのではないでしょうか。中国の若い友人が、毎週、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を録画して見せに来てくれるので、テレビの映しだす幕末の様子には精通しているのですが。この幕末の青年群像、歴史的な事実によっても、最も日本が躍動した時であり、日本歴史の中で屈指の変化の時期だったと思うのです。

それで、私の提案ですが、「明治維新」に脚光を当てて、この江戸城無血開城のなされた日、第十五代将軍・徳川慶喜の退位の日、明治の始まりの日を「建国の日」としたらどうかと思うのです。私は、龍馬だけではなく、高杉晋作、吉田松陰の薫陶を受けた彼に、強い関心を持っております。まだ山口県萩に入ったことはないのですが、幕末に、玄界灘を渡って中国にまで行って、国際都市・上海で見聞を広めた彼の心に去来したことを知りたいと思っております。龍馬にしろ晋作にしろ、「私利私欲」、「党派心」、「出世欲」に死んだ、国を衷心から思うことの出来る「国民」、「政治家」、「教育者」、「企業家」が、この国で養い育っていくことを切に願うのです。

中国の誕生日を心から慶祝します。国土のように広い心で、残留孤児を拾い養ってくださったみなさんに、心から感謝したいのです。その同じ心で、中日の友好を推し進めていって頂きたいのです。この広いい中国の隅々で、気高い精神を宿した素晴らしい青年たちが、日々に生長しているのを、身近に感じております。「建国記念日」、本当におめでとうございます。

ジョン・ウエイン

『ジョン・ウエイン、大将に!』というニュースを読んで、驚きました。「駅馬車」というハリウッド映画で有名だった映画スターが、『えっ、どうして大将に?』と思ったからです。日本では故人に、褒賞を与えることがよくありますから、『あっ、アメリカでも、有名俳優が無くなって30年もたった段階で、特別な称号を与えたのか!』と感心したのですが、どうも違ったようです。私の読み違いでした。『ジョンウン大将・・・』だったのです。つい先日も、朝の10時からの講演会に出席するために、あわてて5分前に滑りこんで、『間に合った!』と思いました。ところが、講演会が始まる様子がうかがえないのです。今度はしっかりと時計を見ましたら、8時55分を針が指していました。1時間早く、家内をせき立てて家を出たことに気付いたのです。『またか!』でした。

こういった失敗は、数しれない私です。今年帰国中、兄の運転する車に乗って、買物に出ました。郵便物を出そうとして車を降りて、郵便局に行こうとしていた私に、兄が、『これも出しておいてくれ!』と頼まれたのです。4~5分歩いて郵便局のポストに投函した私は、鼻歌気分で駐車場に戻ったら、『取り替えたものは?』というのです。『あ、拳ちゃんのはがきは、俺の手紙と一緒にポストに入れたよ!』と答えたのです。そうしたら兄が怒ったのです。どうしてか分からない私に、『郵便局のカウンターに行って、年賀状の当選の懸賞と交換をしてくれって言っただろう!』と言うではないですか。まったく、ポカンとしている私を車に残して、兄は私が出したポストのある郵便局に交渉に行ったのです。どうも、兄の頼みごとを上の空で聞いていたようです。兄から渡されたのを、手の中でしっかり見直せばよかったのに、手にしたままでポストに投入してしまった訳です。

もう何年も前に、ハワイだったか、トロントだったか忘れましたが、団体で旅行したことがありました。入国審査の壁面のテーブルの上で、審査の書類に記入していました。書いた書類を、その時は見直したのです(通常は一度書いたらそのままなのですが)。自分のパスポートの番号ではないのです。どうしてか、しばらく訳を考えてていましたら、どうも隣の人のパスポートの番号を書き込んでしまったのです。こんなことを書き続けたら、日が暮れますので、もう止めることにしましょう。

祖父、父、孫の三代で、一国の支配者になるのは実にまれなことなのだそうです。私は、おっちょこちょいのまま老いてまいりましたから、こういうニュースを聞きますと、今度は、『何かの間違いなのでは?』と思ってしまうのですが、しっかりニュースを見、聞いてみますと、どうも本当のことなのです。先ごろ、中国の新しい言葉に、「富二代」があると、学生から聞いて学んだ私は、『これは「官(役人)三代」だという《新語》が誕生したのだ!』と思わされた次第です。母も私に、いえ、私が母似の「おっちょこちょい二代」であるのは事実のようですが,「三代」であるかは、祖母を知りませんので確かめられません。ただ、私のおっちょこちょいは、死ぬまで治らないのでしょうか、このまま付き合うのは少々辛いものがありますが。