私が以前、住んでいました街に、国立大学があって、その工学部の大学院に、中国の青海省の省都・西寧から留学生が来られていました。わが家に食事にお招きしたりして、親しく交わりを持っていました。お父様は、青海省の政府の要人だそうでした。そういったことをおくびにも出さないで、スーパーマーケットでアルバイトをしながら、博士号をとられたのです。家から送られてきた、本場の「月餅」を頂いたりしました。当時、『中国に行かれませんか。父に話しますから、西寧の大学で日本語を教えてくださいませんか!』と頼まれたことがありました。仕事の責任があって、その時は、せっかくのご好意でしたが、お断りしなければなりませんでした。彼女は今、北京の国の政府の要職にあって、世界を跳び回っておられるご婦人です。

 彼女の招きによってではなく、6年前に中国にやって来ました。住所録に記してあった彼女の連絡先に電話を入れましたら、『そうでしたら北京に来られませんか。我が家から奥様と一緒に学校に通われたほうがいいでしょうから!』と、また誘ってくれたのです。そのときには、こちらの学校で教える責任があって、それも断わらざるを得なかったのです。

 この方のことを思い出したのは、今日が3月10日だからです。昭和20年(1945年)の終戦の年のこの日、東京大空襲が、最も激しかった日だそうです。「帝都東京」は壊滅的な被害を受け、多くの犠牲者を出し、美しかった街が焼土と化したのです。我が家は、中部地方の山の中にありましたので、空襲にあうことはありませんでした。それでも父は、仕事の関係で、東京を往復をしていましたので、空襲下に晒されることもあったようです。ですから、東京都民は、『この日を忘れないようにしよう!』『戦争の怖さを語り継ごう!』と声を上げ続けています。

 

 さて、この方が留学されている間に、何度か旅行をされたそうです。広島にも、興味津々で行かれました。そして、昭和20年8月6日の原爆投下の被害を、後世に語り継ぐために建設された、「原爆記念館」を見学したのだそうです。彼女は、この広島で、特別な思いがあったようです。私に、その見学体験の感想を話してくれたのです。『日本は、〈被害者〉として、原爆の記念館を建設して、その被害を忘れないようにしていますが、それは片手落ちです。あの戦争では、日本は〈加害者〉でもありました。ぜひ、広島の記念館の隣に、「戦争加害の記念館」を建てて、加害者であったことも忘れないで頂きたいと思いました!』と、少々激して言われたのです。それを聞いて、中国のみなさんの本心を話してくれたのだと思いました。だれにでも話されなかったのですが、私には心を許して、そう語ってくれたわけです。

 日本の学問水準の高さを認めて、アメリカ留学の機会を、選べたのですが、日本の大学院で学ぼうと決心してやって来た彼女でしたが、思いの深いところには、お父様やお母様、おじい様やおばあ様の世代に被った、辛い体験を聞いてこられたのが分ったのです。こう言った思いがありますから、一国の政治の指導者の靖国参拝は、容認できないのでしょうか。 

 この彼女の広島旅行の話しを聞いて、中一の私たちに、「奥の細道」を教えてくれた高校の教師の話を思い出すのです。中国戦線の前線で戦った、この方の〈武勇伝?〉は、12歳の私には衝撃でした。どうしてそんな酷い体験談を話したのか、今でも解せないのです。この大陸で、人道に反した蛮行を繰り返したことの、それは独白であります。

 私たちは、『戦争だったから仕方がない!』とか、『過去のことだから!』と言い訳をするのではなく、真摯に、父や祖父の時代の「血の責任」を、考えるべきだと思っております。そのような思いで、こちらで生活をしていますと、『過去のことであって、先生には、責任がないのですから、いいのです!』と、学生のみなさんが言ってくれます。そうですね、償いをしようとしても、私のような者にできることではありません。ただ、一人の日本人として誠実に、みなさんの間で生きる以外なさそうですね。まだ卵をぶつけられたことなど一度もない私たちですが、後どれだけ、こちらにいられるでしょうか。

(写真は、大空襲後の東京の街の様子です)

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