社会的貢献

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 私が、ほとんど毎日アクセスするブログがあります。昨日配信された記事に、「社会的貢献」のことが記されてありました。どの企業も、業績を上げていかなければなりません。社員がいて、そこには妻や子、家族があるわけです。しっかり食べさせ、冬には防寒服を着せ、雨露をしのげる住まいに住ませ、学齢期になったら子弟に教育を受けさせなければなりません。学びたいのなら高等教育も受けるようにする必要があるからです。企業の責任、企業の役員の責任は、そういった意味で、企業をさせる人々のためにも、『収益」を上げていかなければなりません。これは当然のことです。

 ある人が勤めていた会社が、営業不振で、部門の縮小をせざるを得なくなりました。その部門の責任をしていた方が来られた時、『◯◯さんには、何十人もの部下がいらっしゃり、それぞれ家庭があります。彼らが路頭に迷うことがないように、再就職の世話をしてあげて下さい。それからあなた自身のことを・・・!』と、相談に答えたのです。『そうしたら、きっとあなたの再就職先が、必ず備えられますから。あなたの責任は、部下と部下の家族にあります。彼らを守ってあげ、最善の身の振り方をさせてください!』と勧めたのです。ところが彼は、ノイローゼのようになっていて、その勧めに反して、だれよりも先に退職してしまいました。親族の系列の会社に、根回しをしていたのです。

 企業や上司とは、部下の全生涯にかかわらなければならないからです。子供たちが世間並みに、衣食住が備えられ、教育を受けられ、市民としての最低限度の文化的な生活を過ごせるように配慮する責務があるのです。松下電気が苦境にあった時、役員たちは従業員の「首切り(解雇)」を提案しました。ところが、社長の松下幸之助は、『今まで苦労を共にしてきた仲間を解雇することはできない。この時期を忍べばきっと業績も改善するだろう!』と考え、役員たちの勧めを拒んだのです。昔のような輝きが少なくなったのですが、この企業の輝き、繁栄は、そういった経営者の理念があったからだと思われるのです。ソニーにしても、障碍を持たれた方が働ける職場、部門を設けて、その社会的な貢献を果たしてきて、世界に冠たる企業となったのに違いありません。今、そういった儲けにならない部門、「社会的貢献」を疎かにしているのではないでしょうか。韓国などとの国際競争力が落ちたのは、技術の流失だけのことではなく、このへんにも原因があるのではないでしょうか。

 「楽天」という会社があります。三木谷という方が社長で、「ネット販売」で急成長を遂げているのですが、この会社は、儲け主義ではなく、社会との共存を考えているのだそうです。ブログに、そうありました。この「執行役員」の中には、この「社会的貢献」担当がいるのだそうです。このように、《志を高く持って生きる企業人》がいるのを知って、なんともほっとさせられます。

 国も、《国益》とは、国の利益ではなく、国を構成する《国民の利益》のことであって、弱者切り捨てではないのです。弱者に、手厚い施策をしてきた国は、雨の後の筍のように急成長はしなかったのですが、堅実な国家が作り上げられててきています。そうでなかった国は、いつの日にか崩壊してきています。中学の歴史で、「スパルタ」というギリシャの都市国家のことを学んだときに、身体や頭脳の能力の高い者たちだけが国家の益になり、弱者を切り捨てた国だったことを学んで、理想的な国家は、弱者救済に力を注ぐ国であることを知ったのです。全体主義国家であった、かつての日本やドイツが滅びたのは、これを蔑(ないがし)ろにしたからにほかなりません。弱者への《労(いたわ)り》こそが、国や企業を高く上げることになるのではないでしょうか。

(写真は、「品川シーサイド楽天タワー(楽天本社)」です)

『鏡とみまし山と川と』

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 「故郷」の作詞家・高野辰之は、唱歌の作詞だけではなく、全国百数十校の校歌も作詞しています。彼は、こう書き残しています。『校歌には、その学校の建学の理想が盛られ、校訓が含まれなければならない。生徒は校歌を歌うことを通して生徒としての自覚を深め、誇りを持ち、励まされ、時には戒められ正しく導かれる。校歌はそういう役割を担うものである。その為に校歌は、七五調で親しみやすく口ずさみやすいこと、動揺のない自然の山河などの地方色を含み、比喩は山河に結びつけること。日本の国民性、健全性を大切にし、偽らない中正の考えが含まれること。いつまでも歌い継がれる永遠性を持つこと。』とです。

 そこで、三度めの転校先の小学校の「校歌」を思い出したのです。作詞・岩淵孝(青山師範学校〈現・東京学芸大学〉教官)、作曲・森山保(青山師範学校教授)で、明治45年に制定されています。

1.南に仰ぐ 富士の高嶺
  北にめぐれる 多摩の流れ
  教えの庭の 朝な夕な
  鏡とみまし 山と川と
 
2.名もうるわしき 日野のまちは
  人すなおにて 地味こえたり
   われらの学びの 業を励み
  楽しきこの地の 栄えまさん

 高野が言うように、地勢や健全性が盛り込まれているのです。半世紀あまり経つのに、はっきり覚えているというのは、我ながら「母校愛」に溢れているのだと自認しております。また、高野辰之の学問については、『辰之の学問の底流には「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがある。 『日本歌謡史』『江戸文学史』 『日本演劇史』は代表的著作で、その研究は別々のものではなく、辰之の学問の世界を構築している。辰之の研究は実証的で、資料の収集と検討分析に力を注ぎ、日本の歌謡・演劇・民俗芸能の学術的研究に前人未踏の世界を開いた。またそれは、様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった。 』と、「おぼろ月夜の館・斑山文庫(高野辰之記念ルーム)」のHPにあります。

 日本文学や文化を学びながらも、じつに易しいことばを用いて、作詞をしていることに驚かされるのは私ばかりではないとと思います。高野は、

  白地に赤く日の丸染めて
  ああ美しい日本の旗は

という「日の丸」も作詞をしています。日本が、地理的に、「日の出ずる国」であるところから、このように、「白色」と「赤色(厳密には〈紅色〉というそうです)」の「日章旗」は、理屈抜きで単純で素朴です。去年の夏に乗船した「蘇州号」が、日本近海に進んだ時、「日の丸」が掲揚されました。海風を受けてはためくのを見ていましたら、胸がジンとしてきたのは歳のせいでしょうか、外国に長く住んでいるからでしょうか。私たちの国の「国旗」は、高野が詠むように、実に美しいと思うのです。

回家

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 小学校の音楽の授業で習った「唱歌」の中で、「故郷(ふるさと)」ほど、日本人の心にスッポリとはまり込んだ歌はないのではないでしょうか。1914年(大正3年)に、小学校6年生の「尋常小学唱歌」出発表されています。作詞は、東京音楽学校(現在の芸大)の教授で、「国文学者」の高野辰之、作曲は、同じく東京音楽学校の「声楽」の教授の岡野貞一です。

1,兎追いし彼の山
小鮒釣りし彼の川
夢は今も巡りて
忘れ難き故郷

2.如何にいます父母
恙無しや友がき
雨に風につけても
思い出づる故郷

3.志を果たして
いつの日にか帰らん
山は青き故郷
水は清き故郷

 この歌詞の意味が、ウイキペディアに、次のようにありました。
1.兎を追ったあの山や小鮒を釣ったあの川よ、今なお心巡る思い出深き故郷よ。   
2.父や母はどうしておいでだろうか、友は平穏に暮らしているだろうか。風雨(艱難辛苦の比喩とも)の度に思い出す故郷よ。
3.夢を実現したら、いつの日にか帰ろう、山青く水清らかな故郷へ。

 阿倍仲麻呂が、唐の都・長安で詠んだ、

 天の原  ふりさけみれば  春日なる  三笠の山に  いでし月かも

 これは、海を隔てた故郷を、はるかに思って歌った歌でありますが、「こころの歌」といわれる「故郷は」、高野辰之が、自分の故郷である長野県下水内郡豊田村(現・中野市)を思念しながら作詞をしたようです。志を果たした後に、高野や岡野が帰って行こうとした、《山青き、水清き故郷》は、信州や鳥取の故郷だけのことではなく、「天上の故郷」であったのかも知れません。望郷の念にかられて、何度となくおセンチになって、この歌を歌ったことでしょうか。それは私だけのことではなく、多くの在外邦人の経験かも知れません。兄や弟たちと魚採りをした山間いの流れの水は澄んでいるのでしょうか。また、兄にアケビをもいでもらった山道には、まだ雑木が茂っているのでしょうか。おぼろげに記憶が蘇って来る、「回家(huijia、帰国)」を十日ほどにした朝であります。

(口絵は、谷内六郎が描いたCD「故郷」です)

惜別

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 10年ほど前に、中国の中学生の意識調査をしています。その中で、「知っている日本の人物名」の項目があって、第一位は、時の首相「小泉純一郎」、第二位は、当時の日本のプロサッカーで名を馳せていた「中田英寿」、第三位が「浜崎あゆみ」でした。その第九位に、「藤野先生」が挙げられていました。いったいこの「藤野先生」とはだれなのでしょうか。日本人の私たちには馴染みのない人物なのですが。

 魯迅の作品の中に、この「藤野先生」があります。中国の中学生は、この作品を読んでいるようで、470人がこの方を挙げたのです。本名が、「藤野源九郎」で、仙台医学専門学校(現東北大学医学部)の教授でした。実は、魯迅がこの仙台医専で学んだ時の「恩師」だったのです。魯迅の公私にわたって面倒を見たのが藤野源九郎でした。留学生の魯迅に特別な教師愛を示したので、彼は生涯、北京の彼の家にあった自分の机に面した壁に、この藤野源九郎の寫眞を掲げて、朝な夕な眺めていると、この作品の中で述懐しています。この写真は、「惜別」と裏面に書いて、藤野源九郎が魯迅に別れに際して渡したものでした。

 多くの日本人が、一段低く見ていた中国の人たちを、この藤野源九郎は、特別な愛顧をもって世話をしたのです。「解剖学」の講義ノートを持ってこさせては、いちいち内容から誤字や誤文法まで添削をし、その講義が終わるまで続けてくれ、その筆記したノートが三冊もあったようです。魯迅は、それを一冊に綴じて、一生の記念品としたのですが、引越しのおりに業者が紛失してしまったようです。

 魯迅は、医学の道を断念し、文筆の道に進路を転換していますが、そのきっかけとなったのが、藤野源九郎が見せた「幻燈(スライド)」でした。ある時、授業が早めに終わったのでしょうか、残りの時間に、日露戦争の様子を写したスライドが映写されたのです。魯迅は、この中で、スパイを働いたとして、日本軍に処刑される中国人と、それを、ぼんやりと見ている周囲の中国人の様子を見ました。魯迅は、この時の衝撃を、『愚弱な国民は、たとい体格がどんなに健全で、どんなに長生きしようとも、せいぜい無意味な見せしめの材料 と、その見物人になるだけはないか!』と、「吶喊(とっかん)」という作品の中で書き残しているのです。魯迅が感じたのは、医療よりも、まず同胞・中国人の「精神の改造」こそが最重要なことだと心に決めました。それで、指導教官の藤野源九郎に、退学し、帰国することを告げたのです。藤野は大変残念に思って、写真の裏に、「惜別」と記したわけです。

 私の教え子が二人、今、「杜の都」仙台・東北大学で学んでいます。医学ではなく「経済学」ですが、こんな出会いがあったら素晴らしいですね。ちなみに、藤野源九郎は、仙台が東北大学医学部に昇格したおり、『専門学校卒には教授資格なし!』という学校の判断で、結局辞職し、奥様の郷里(福井・三国町)で開業医をされたそうです。狭量な日本には落胆されますが、中国の魯迅の精神に、大きな影響を与えた人物として、日本人の私たちは知っておくのが好いと思います。

(写真上は、魯迅の出生地の「紹興」、下は、「仙台の七夕」です)

1+1=2

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 こちらで日本語を教えるために、何冊もの本を読んでいるのですが、ある本に、筒井清忠氏(京都大学、帝京大学の教授)の文章がありました。

 『フランスでは、ラ・フォンテーヌやヴィクトル・ユゴーの詩文の暗誦を、初等教育で徹底的にやっている。これによって文章のリズムと言うものを身体を通して体得し、かつまた長い風雪に耐えてきた、人間にとってどうしても欠かすことのできないヒューマニズムというものを自然に身につけていくようにしているのである。』

 この「ラ・フォンテーヌ」はいつごろの人だったのかといいますと、1621年~1695 16年の人ですから江戸時代初期、ヴィクトル・ユゴーは、1802年~1885年の人ですから幕末から明治期だったことになります。そうしますと、日本でしたら、「近松門左衛門」の戯曲や、近代日本語を作ったと言われる「夏目漱石」の作品を読むことが必要なのかも知れません。さらに、「古典」と言われる作品、「万葉集」や「源氏物語」や「古今和歌集」にまでさかのぼって学んだらいいことなのかも知れません。

 日本人の語学力の弱さが叫ばれて、外国語の学習が奨励されていますが、やはり、それ以前に「母国語」を正しく理解しておかないと、外国語の理解も十分ではなくなると言われています。私の受けた国語教育を考えてみますと、少なくとも小学校と中学と高校で12年間、大学の4年間も日本語で学んできましたから、都合16年間学んだわけです。ところが一般的に、日本人は、自分の考えや思っていることを言い表すことが下手だと言われています。それで、『私は話し下手で・・・』と言い訳をします。それは『話は下手だが、やることはやる!』といった自負が隠されているようです。本当にそうでしょうか。

 一昨日、私たちの若い友人が、一人の友人を連れて相談にやって来られました。標準語と方言を混ぜながら話をし、通訳してもらいながら、4時間ほど交わりをしました。大学の法学の先生と、夫人と子どもの問題の相談所の責任をされていらっしゃる方でしたが、実によくお話になるのです。その前の日は、7人でひとつのテーブルについて、新年の食事会にまねかれたのですが、中国のみなさんは、しっかりと「自己主張」をし、テーブルを白けさせない努力をされているのです。日本人だと、座が白けてしまうのに、そういったことがないのです。もちろんん話が混線するほどに、自分の話をしているので、私たち日本人に比べて、はるかに話術に長けているのです。

 『男は無口がいい!』と言われて育てられてきたのが仇になっているのでしょうか、弁舌の達人を、『おしゃべり!』と言って軽蔑されてきたのが、日本の社会ではないでしょうか。『話さなければいけないときに話せない!』これが、私たちの課題です。◯☓式〉の教育で、オートメーションのベルトにのせられて画一な教育を受けて、大量生産されてきた結果なのではないでしょうか。「弁論術」などは、まったく学んだことがないのです。数学で、『〈1+1〉は、どうして答が〈2〉になるのかを、文章で言わなければならない』、理科で、『落葉を観察して、どうして葉が落ちるのかを文章で説明すること』、これが欧米の教育なのだそうです。微分や積分が理解できても、クラスの前で、『どうしてか?』を述べることがなされないと、本当の教育ではないのかも知れません。このような教育がなされたら、日本人はもっと有為に世界に貢献できそうですね。

(写真は、「坊ちゃん(英語版)」の表紙です)

運転免許証の更新

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 去年帰国した時に、所要があって高知まで出かけました。その時、高知龍馬空港で、「レンタカー」を借りたのです。2006年の夏に、中国に来ましてから、運転をしたのは、帰国時に、3度くらいでしょうか。しかも短時間の運転でした。こちらに来まして、友人がいる街にでかけて、『運転をしてみてくれますか!』と、免許を取り立ての青年から頼まれて、場内で運転をしてみました。もちろん左ハンドルで、夜間でした。前後にも対向車線にも車がないので、全くスムーズな運転ができたわけです。初心者のかたに、『流石ですね!』と褒められてしまいました。私は、アメリカで運転免許証をとりましたので、左ハンドルは苦にならなかったのです。

 ところが、高知空港から、国道に出て高知市内のバイパスを通っていた時に、つい進路変更をしてしまいました。ところが追い越し路線に入るタイミングが悪くて、大クラクションを鳴らされてしまったのです。40年も運転してきましたが、運転にブランクがあると、感覚が戻ってこないという危険を感じてしまいました。幸い衝突を免れたのですが、大変に迷惑をかけてしまったわけです。全く、青葉マークの初心者の車線変更だったわけです。この経験から、どんなに経験が長くても、実務から離れていたら、やはり「初心者」なのだということを学ばされたのです。

 路面凍結でスリップしたり、高速道路で前方が渋滞しているところに猛スピードで突っ込みそうになって、ものの30cmで止まったことなどが思い出されます。相当危険な経験だったことになります。鋼鉄の塊が、スピードで走るのですから、いかに危険であるかということも知らされてきました。運転のうまさというのは、速さでも、ハンド巧者でもなく、「安全第一」の運転であるということを学んだわけです。

 ニュースによりますと、日本の最近の自動車事故の死亡件数が、ひところ1万人以上だったのが、半減してきているそうです。罰則規定が厳しくなった効果なのかも知れませんが、好いことだと思っています。それでも、日本でも、ここ中国でも自動車事故は日常的に起きています。こちらでよく見かけるのは、「電動車(バッテリー自転車)」と車の接触事故です。交差点が最も多いようで、便利で速い乗り物ですが、実に危険だということが分かります。それで家内は、『絶対ダメ!』と、買おうとする私を留めるのです。この電動車は、エンジン音がないので、歩行者にとっても危険極まりないのです。何度引っ掛けられそうになったか知れません。みなさん、車も電動車も自転車も歩行者も、あまり信号とか規則を頓着しないのに、思ったほど事故が起きないのを見て、われわれ外国人は不思議に感じてしまうわけです。暗黙の掟があるのでしょうか。

 昨年の秋に、向かいのアパートの駐輪場においていた自転車がなくなってしまいました。頑丈なチェーンで、鋼鉄製の車止めと自転車をつないでおいたのですが、チェーンを切られて運び出されたようです。まあ、『乗らないで!』というサインかも知れません。来たばかりの頃は、免許証を取ることを考えていましたが、もう今はその願いはどこか霧散してしまいました。ただ私の日本の運転免許証が、この17日で失効します。海外にいた証明があれば、更新が可能ということですから、帰国しましたら、免許センターまで行くことにしています。きっとあまり運転の機会はないのかも知れませんが、「身分証明書」の代わりに、持っているべきだと思って、そうすることにしています。日本では正月明け、正月気分の全くない華南の静かな午後であります。

(写真は、高知市の「高知龍馬空港」に着陸体制の飛行機です)

『話せばわかる!』

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新年早々から、こんなことをブログに書くのを躊躇(ためら)ったのですが、意を決して書くことにしましょう。中学生の時に、「真空地帯」という映画を観ました。木村功という俳優が好きになったてしまった作品で、1952年に、野間宏が、日本の陸軍の「内務班(軍隊の営内居住者のうち軍曹以下の下士官及び兵を以て組織された居住単位である )」の実態を書いた小説の映画化でした。

海軍の家系の父から生まれた男の子として、平和な時代であったのですが、少々「軍国少年」のような考えをもっていたのが、中学時代の自分だったと思います。海軍兵学校の制服に似ていて、釦(ぼたん)でないホックで前を留める制服を着用していたのも、なんとなく気分を高揚させていたのかも知れません。バスケットボール部に所属していました。高校生、卒業していった大学生や社会人の先輩たちが、しょっちゅう出入りしていた運動部でしたから、そこで「男学」を学ばされたのです。産毛の中学1年生が、この世の荒波に揉まれていったわけです。そんな時期だったでしょうか、この映画を見て衝撃を受けたのです。

軍隊とは、「武士集団」で、男の鑑のような人たちの世界で、勇気とか果敢さとか、「滅私奉公」の心意気で、凛々しい男の世界だと思っていたのです。ところが、映画の中の軍隊は、古参兵が新兵を訓練するといって、暴力を振るうのです。誰かが過ちを犯すと、全体責任で、一列に並ばされてビンタを張られるわけです。「伝令」とか、「鶯の谷渡り」とか言われた体罰をさせられ、それを眺めて卑しく笑う古参兵の姿が描かれていたと思います。エンピツを指に挟んで、それで指をギュッと握られるような、拷問も行われていたようです。『エッ、栄えある日本の軍隊ってこんなだったのか。嘘だろう。これって脚色され誇張された、誰かの創作ではないのか!』と思わされて、それでも、『軍隊の実態は、こんなだったんだろうか?』と思ったりしていたのです。

この映画で木村功が演じたのが、木谷一等兵でした。軍隊生活4年の古参兵で、陸軍刑務所から出獄してきて、その内務班にいたのです。彼が、古参兵の特権で、ビンタを張る場面がありました。「皇軍(天皇の軍隊と言われていました)」の輝きなど全くない陰湿な世界に、「軍国少年」の夢や憧れは、無残にも砕け散ってしまったのです。そういった世界の影響でしょうか、運動部が強くなるための精神性を高めるために、この軍隊方式を受け継いでいたのです。横並びにされて、ビンタを張られたり、殴られたことは何度もありました。本当に、男は、こういった世界で生きることによって、「男になる」のでしょうか。それで、下級生をビンタし、ビンタされた下級生がが、またビンタを張るといった悪弊が受け継がれてきていたのです。

今朝のニュースで、「体罰を受けたバスケットボール部の主将が自殺」と言った記事がありました。顧問の教師から体罰を受けたのを苦にしての自殺だったようです。二十一世紀になっても、こういった「蛮風」が残っているのですね。そこまで追い込む体罰が、運動部を強くするのでしょうか。自分を殴った上級生や先輩の顔が浮かんできます。自分が殴った下級生の顔も思い出してしまいます。スポーツの世界が、健全な精神を涵養することを忘れて、「勝つこと」だけが目的になってしまうと、おかしなことが起こるのでしょうか。やはり、人間を狂わせてしまう「暴力」は、どんな理由があってもいけないことです。かつて犬養毅首相が、青年将校たちに言った、『話せばわかる!』は、忘れてはいけない言葉ではないかと思わされたのです。

(イラスト画は、http://sauber.yaekumo.com/prof/p_inukai.htmの『まあ待て。話せばわかる!』と言った犬養毅首相です)

快活に生きよう!

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   2013年、愛するみなさまにとりまして、祝福に満ちあふれる一年でありますように
  心から願い、年頭のお挨拶を申しあげます。

 この朝、私の思いにやってきたのは、『偶然の一日でなく、必然の今日を喜び楽しむ!』でした。きっと一日一日に、意味や価値や目的があるに違いありません。眠れたことを喜び、清新な新しい朝の空気を、腹一杯にすい、快活に生きようと心に決め、精一杯の一日を明るい光の中に生き、夕べに一日を感謝する、『これが365日の一日一日であってほしい!』と願いました。病む日も腰痛の日も、落胆も悲しみもあることでしょう。その様な日は、いち早く頭を上げて、心の思いを温かさや希望で満たそうと思っております。

 困難なことにばかりに目や心を向けていると、生きる意欲や楽しみがそがれてしまいます。ですから「見ること」と「思うこと」の心の領域が、いつも明朗で、澄んでいるようにしたいと、また心に決めました。好奇心や探究心や意欲といったものを忘れないようにとも思っております。ちょっと欲張っていますね。そんなことを思っております。

 新しい年に期待し、みなさまのご健康と平安を心からお祈りしております。
 よきお交わりをいただけますように願っております。

2012年を想う

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                     2012年を想う

 『・・・2012年が、起死回生の祝福の年となりますように、この大晦日の午後、衷心から祈り、切に願っております。「生きている幸せ」を、思い起こさせてくださって、一言お礼を申し上げます。ありがとうございました。
 追伸;私の左手首には、『 Unite To  be ONE! がんばろうNIPPON 』のリストバンドが、いまだにはめられたままです。 』

 この文章は、昨年の大晦日の〈2011年度最後のブログ「悠然自得」の記事の終りの部分〉です。私が、「起死回生」を願った2012年が終わろうとしています。私たちの国が、自然災害が起こりうる不安、原発事故による被災地の復興の遅れ、日本を代表する企業の業績不振からくる経済の落ち込み、政治の迷走と交代、9月以降の領土問題を中心に、外交関係の緊張と硬直、そんなことが国内にありました。一方、アメリカ大統領選挙、中国や韓国の指導陣の交代(実際には2013年に入ってからですが)、ギリシャの経済破綻によるヨーロッパ圏だけではなく世界への影響、アメリカ経済の不安、銃の乱射事件、国際社会にも、大きな課題を残したままの越年となります。多くの喜ばしいこともありましたが、その筆頭は、山中教授の「ノーベル賞」の受賞でした。生き方も、奥様の愛し方も一流でした。

 私たちは、こちらでの生活が七年目になりました。家内も私も、それぞれに母親と死別をし、家内は上の兄とも死別をした年でした。今は悲しさも癒えて、前を向きなおしております。とくに、生涯の十分の一の年月を、外国で過ごすことになり、今さらながら不思議な導きを感じております。故国にあったものをすべて処分してしまいましたから、国籍と法的な住所を残すのみです。私の、こんな歩みについてきてくれた家内は、あちらこちらと跳び回って、友人たちや病んでいる人たちを訪ね、中学生たちに日本語を教えたりして、大陸の生活を楽しんでいます。『心配ないの?』と聞くと、『全然ない!』と答えています。

 私は、学校で日本語を教えており、感謝なことに、来学期も来年度も機会が与えれています。とても身の引き締まる思いをしております。この9月15日の前後には、多くの教え子や、友人たち、天津で中国語を教えてくれた教師までもが、『大丈夫ですか?』、『何かあったら助けますので、遠慮なく言ってきてください!』、『こんなことになってごめんなさい!』など激励やお詫びがあました。つらい思いはしましたが、いつもと変わらず過ごしております。1月の下旬に帰国を予定しております。「査証」の更新の申請をしなければなりませんし、「運転免許証」も更新期限を過ぎましたので、これもと思っております。もう一つ、大切な用がありますので、このためにもすべきことがあります。福州にいることが最善だとするのなら、その必要も満たされ、「査証」が取得されれば戻りたいと思っております。

 この2012年のみなさまからの激励や援助やお便りに、心から感謝しております。 新しい年の祝福を心からお祈り申しあげます。(添付の写真は、今夏8月に訪ねた島で、若い友人に出迎えてもらった時のものです。)
                       2012年大晦日

ハイデルベルク

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『生きている間に一度行ってみたい外国の街!』の一つは、ドイツのシュトゥットガルトの近くにある「ハイデルベルク」という街です。ドイツの地図を見てみますと、ライン川の支流のネッカー河畔にあります。街の中心に、ドイツ最古の大学があり、また歴史的な王城もある学術都市なのだそうです。ロンドンやパリやベルリンではなく、『ここがヨーロッパを最も感じさせてくれる街ではないのか!』と、昔から思っていましたので、とても惹きつけられているのです。

もう何年も前に、あるドイツ人の伝記を読んで、とても感銘を受けたことがありました。その本を翻訳された方に手紙を書きました。そうしましたら丁寧な返事をいただき、一緒に、『むずかしくないのでこれを読んでみてください!』と、その伝記の主人公に関する「ドイツ語資料」のコピーを、しかも大量に送ってくださったのです。学者というのは、ドイツ人に関心がある人は、みんながドイツ語を理解できると思っておられるのでしょうか。ある方に翻訳してもらおうと、お願いしたのですが、その方の行方が不明になってしまい、そのまま書類が消えてしまったのです。この方は、先年、召されたと聞きました。本当に申し訳ないことしてしまったと思っております。

その主人公が、ハイデルベルクを含むのでしょうか、シュヴァーベンという地方の出身だったのです。そういった人物を輩出した地に、なんとも言えないほどの関心があって、もし許されるならと思っているのです。もう少し生きていられる間に、訪ねられたらいいのだがと思っております。今年、私の長女が、出張でヨーロッパのいくつかの街を歴訪して、色々とメールで知らせてきてくれました。どうも、ドイツに行って、美味しい「ドイツ料理」を食べる機会があったようです。その話を聞きましたら、今度は、「脳」だけではなく、「胃袋」も、ドイツに行きたくなってしまったようで、なんとも食いしん坊が露見してしまったようです。

日本という国が、大きく変化してきた歴史的な要因を調べてきますと、ヨーロッパ視察をしてきた人たちが、ヨーロッパの文明や思想、さらには高度な科学技術を、実際に見て、手で触れた報告をされてからだと思うのです。『天は人の上に人を造らず、人の下の人を作らず』という思想を知らせた福沢諭吉のようにです。どれほど日本が立ち遅れているかを痛感させられて、「欧化政策」を急進的にし始めていくのです。アジアでは、そういった動きをしたのは我が国だけでした。死にものぐるいの努力で、まあ肩を並べるところまで到達し得たのかも知れません。そんなことから、やはりヨーロッパ、ヨーロッパでもドイツといった思いが強いのかも知れません。

学校を出て、最初に務めた職場に、ある体育大学の先生が、非常勤研究員の一人としていました。彼は、ドイツに留学して、学んで帰るときに、ドイツ人の奥方を連れて帰国していたのです。どうも日本人とドイツ人は似ていて、相性がいいのだと言われていたのを、この方が証明していたのです。ヨーロッパ圏で国境を超えて侵略したドイツと、アジア圏で隣国を侵略していった日本とは、やはり政治的、外交的にも似ているのかも知れません。『ダンケシェーン(ありがとう)』だけしかドイツ語を知りませんが、片言が話せたらいいなとも思っていますが、まあ、してみたいことが多いというのは、気が若いのでしょうか。困ったものです。

(写真は、ハイデルベルクの街の風景、下は、ドイツの地図で南部にハイデルベルクが位置しています)