この歌は、作詞が森まさる、作曲が橋本国彦で、1946年(昭和21年)に、NHKラジオ歌謡として発表された「朝はどこから」です。

1 朝はどこから来るかしら
あの空越えて 雲越えて
光の国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは希望の家庭から
朝が来る来る 朝が来る
「お早う」「お早う」

2 昼はどこから来るかしら
あの山越えて 野を越えて
ねんねの里から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは働く家庭から
昼が来る来る 昼が来る
「今日は」「今日は」

3 夜はどこから来るかしら
あの星越えて 月越えて
おとぎの国から来るかしら
いえいえ そうではありませぬ
それは楽しい家庭から
夜が来る来る 夜が来る
「今晩は」「今晩は」

朝は「希望の家庭」、昼は「働く家庭」、そして夜は「楽しい家庭」から来るんだと言うのです。実に明るいメロディーです。私は、この日を、『楽しみ喜ぼう!』と鼻歌を歌いながら、朝はを迎えるのを旨としています。嵐の朝も、曇天の朝も、病気や悩みの日もありますが、どの朝も新鮮で、晴れや嵐に関わらず、その新しい一日への期待に胸を膨らませて生き始めます。

その新しい日に、生きる意味があり、誠イッパイ生きるのです。そうして過ごして、夕べを迎えると、快い疲労感と満足感が溢れています。子どもの頃は母が、結婚した今は家内が、夕餉(ゆうげ)を用意してくれ、家に子どもたちがいた時は、夕食のテーブルを囲んでにぎやかに、巣立ってしまった今は、家内と向き合って、その一日や、昔を語り合いながら、感謝で食事を摂ります。

大陸の朝、昼、晩を、幾日過ごしてきたことでしょうか。13年目の晩秋を迎え、秋の朝の気温18℃のベランダに、また朝顔が四輪咲いています。今日も素敵な一日が始まっています。子どもたちも、孫たちも、兄弟姉妹、友人、知人、隣人、祖国の人々、全ての人が、喜びの一日を過ごせる様に願いつつ、朝を迎えています。

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アメリカ社会の「希望の光」

 

 

これは、“TABILABO  “のサイトに掲載されていた記事と写真です。写真の解説に、次の様にありました。

『この写真を撮ったのは、偶然近くを通りかかったPaula Accorsi Picardさん。場所はショッピングセンターの中。左側に立っている老人はエスカレーターの前で不安そうに立ち止まっていたそう。後に続こうとしていた人たちが足止めを食らう中、「何か助けは必要ですか?」と声をかけたのが右側に立っている若者でした。

話をよく聞いてみると、以前エスカレーターのトラブルに巻き込まれたことがあり、乗るのが怖いという。だから若者は、そっと腕を差し出したのです。その光景に胸が熱くなったPaulaさんは、スマホで撮影せずにはいられなかったのだとか。』

家内も私も白髪になって、街を歩く時に、中国の若者が、この様に、腕や肘をとって支えてくださることがあります。誘われて山歩きをした時には、深い谷に降りて上がる時に、息子と同世代の方が、家内を、ずっと、肘を支えてくれて、無事に歩き通せるました。年寄りへのいたわり、弱者への親切は、半端ではありません。

その折、家内は、図々しくも,『負んぶして!』と言ったら、『ここは狭くてできません!』と言われた様です。そんなことを頼めて、聞いてくれる方たちがいるのです。家内が病気だと聞いた、私たちにの知人の友人で、海南島出身の若者が、ギターを持参してきて、演奏しながら歌って、激励してくれたこともありました。そんな経験したことのない様な、優しさを、ここで経験させてもらっています。『小心点儿、小心点儿!/気を付けてください』と声を掛けてくれます。

この国の学校で受けた教育や、家庭で身につけた処世術で、こう言った徳の高い行為が生み出されるには、実に素晴らしいことです。授業を終えると、バス通りの玄関まで、カバンを持って一緒に歩いてついてきてくれた学生さんがいました。もう、好いお父さん、お母さんになっていらっしゃるでしょうか。

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大丈夫

 

 

男の子は、小学生でも、気のゆるせる親友と思(おぼ)しき相手とは、互いに、『オレ、◯◯が好きだ!』と、意中の同級女子を告白をします。直接言えないからでしょうか。女子は、男子よりも成長が早くて、"おませ”ですから、心密かに、『わたし、✖️✖️ちゃん嫌い!」と思っていたのでしょう。同級生で、何人か、幼馴染の小学校の同級生と結婚しているのがいますから、小学校で、人生の伴侶との出会いだってあるのですね。

恋心って、3才くらいからもうあるのでしょうか。それ恋って言えるのでしょうか。『俺は恋文など女々(めめ)しいから書かない!』と決心を固くしていた私ですが、一度だけラブレターを書いて、好きな女(ひと)に渡したことがあります。ところが<実らぬ恋>で終わってしまいました。でも一度だけ書けたことは、勇気があったのだと自負したり、褒めたい気分なのです。

でも、よく"恋文もどき"はもらいました。一番集中していたのは、都内の女子高で教員をしていた時でした。男の極端に少ない世界ですから、どんな男性教師であっても、思春期真っ盛りの少女たちの恋心の対象になるのでしょう。下駄箱によく入っていましたし、プレゼントも入っていたり、追尾されたこともあります。猛アタックをかけてきた子もいました。その学校の敷地の中には、短大や技術専門学校もあって、そこの先生たちからのアプローチもありました。

はぐらかすのに大変でした。『こりゃダメだ!』と結婚を急いだのです。上の兄が紹介してくれたのが、今のワイフです。サイフではありません。私たち四人兄弟は、育った街の評判だった様で、彼女の上司が、われわれ兄弟のことを知っていて、私と結婚をすることを、彼女から報告されたら、『あの兄弟の一人とで大丈夫?』と聞かれたそうです。《大丈夫》だと思って結婚した彼女は、本当に《大丈夫》だったのでしょうか。

来春には、結婚は《四十八周年》になります。"ラブレターの女(ひと)"とは一緒になれなかったのですが、このワイフは、一緒に生活してきた"better half"なのです。彼女だって、《あの人と》と思った男(ひと)がいたことでしょう。でも、今振り返って見て、互いに《この人》こそが《天からの配剤》だったに違いありません。彼女にとって自分は"best"ではなかったのですが。英語のこの言い回しっていいですね。

もう何年も前になりますが、住んでいた小区の正門から出てきた、見ず知らずのご婦人が、入って行こうとしていた私たちを見て、「你们好夫婦nimenhaofuqi」,『あんたたちいい夫婦だよ!と言っていました。異国で助け合って生きてる老夫婦が、このご婦人には、そうそう見えたのでしょうか。

喧嘩(彼女が仕掛けたのはほんの僅か)もよくしましたし、口をきいてもらえないことも、家出だってされたほどです。とにかく欠点だらけ自分に忍耐してくれた年月を思い返して、ダイヤモンドかサファイヤのリングを、私は買って上げたいのです。ところが、彼女は指輪とかネックレスとか、ほんとうに好きではありません。私に経済的なゆとりのないのを知ってでもないのです。外側の飾りで飾らなくても、生きていられる自分を持っているのでしょう。

亡くなった、彼女の上のお兄さんが、30年ほど前に、夫との死別とか何か、人生にあったら、これを売って、子どもたちを連れて、サンパウロに来る様に、《宝石》をくれたそうです。全員の飛行機代ほどの価値があったのでしょう。そのお兄さんが召された今は、子どもたちも独立した今、行き様がないのです。でも彼女は、帰って行く故郷を持っています。そう信じて生きているわけです。もう何年、一緒にいられるのでしょうか。

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有明菫

 

 

これは、東広島市の溜池で咲く「アリアケスミレ(有明菫)」です。[HP/里山を歩こう]のマルタン2号さんが訪ねた日が暖ったので、季節外れの開花だったそうです。秋の花も晩期で、そろそろ来春まで、咲く花を待つ季節の様です。忠実に送信してくださる写真と記事を、ずいぶん楽しませていただきました。有難うございます。

私は、もう随分昔から、中国の東北部の満州里に咲く、歌に歌われていて知った「アゴニカ」に出会ってみたいと願ってきています。ロシアのシベリヤとの国境付近の原野で、春に咲く花だそうです。雪を割って咲き出すのでしょうか。子どもの頃、病弱で臥せっていてラジオを聞いて育ったのですが、「復員の時間」、「尋ね人の時間」と言う番組がありました。戦争中に外地で生活したり、戦争で派兵されていた方の「戦後の消息」を知らせていました。

 『○○にお住まいだった〇〇。△△さんがお探しです!』と、アナウンサーが話していたのです。満州のソ連国境に住んでいたみなさんは、この花を知っておいでなのでしょう。南方にいらっしゃった方は、南洋に咲く花をご存知なのでしょうね。きっと大きな慰めになったなったことでしょう。こちらも、めっきり木々に咲く花がなくなってきてしまいました。時々、家内が切り花を買ってきます。今は、「菊」の一種がテーブルの上に飾られています。

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接点

 

 

去年、北海道の病院に入院中、道内を転勤して働いてきた、私より少し若い方、と言っても,すでに退職されていましたが、彼と同じ病室でした。お仕事の細かなことを聞きませんでしたが、道内の遺跡について詳しく、埼玉県にある遺跡まで訪ねたりしておられました。

この方が、「オホーツク文化」の存在を、実に情熱的に知らせてくれたのです。若い頃の僅かな教員経験しかない私には、新しい情報の提供でした。網走に、その遺跡があり、道内のあちこちに遺跡があると言っていました。興味を引いたのは、「黒龍江(ロシアではアムール川と呼ばれています)」周辺に起源があって、そう言った大陸との繋がりの文化だったことです。

それまで、「南蛮貿易」などの《南方志向》だった私が、北に思いを向けることができたのは大きな変化でした。高二の修学旅行で、初めてオホーツク海を眺めた時の印象は、実に強烈だったのですが、その印象を呼び起こしてくれたのが、この方との出会いでした。

小学生の頃、旧友から、川の近くの小高い丘に、「貝塚」があると聞いて、そこに行ってみました。眠っていたものを呼び起こされた様でした。土を掘り起こしたら、鏃(やじり)や土器の破片を見つけられたのです。古代の人の生活と、昭和を生きる私との接点を見つけた感動は、実に大きかったのです。中学に入ると、高等部の考古学部の発掘調査に、担任が誘ってくださって、何度も、あちらこちらと出掛けては、手伝いをしたのです。

そんなで、「考古学」を学びたかったのですが、いつの間にか、その情熱がしぼんでしまって、時が過ぎたのです。それが、この「オホーツク文化」について、熱く語る方と出会って、興味が、心に再燃したわけで、《ヤケボックリに火がついた》様です。奥様から和菓子を頂いたりで、おじいさんのこれからの趣味には、ちょっと面白いかも知れません。いつか網走の「モヨロ貝塚(遺跡)」や紋別や北見の遺跡を訪ねたい気持ちが溢れています。

森繁久彌が、「オホーツクの舟唄」を作詞しています。

知床の岬に はまなすの咲くころ
思い出しておくれ 俺たちの事を
飲んで騒いで 丘にのぼれば
はるかクナシリに 白夜は明ける

旅の情けか 酔うほどにさまよい
浜に出てみれば 月は照る波の上
今宵こそ君を 抱きしめんと
岩影に寄れば ピリカが笑う

別れの日は来た 知床の村にも
君は出てゆく 峠をこえて
忘れちゃいやだよ 気まぐれカラスさん
私を泣かすな 白いカモメよ
白いカモメよ

「朔北(さくほく)の地/辺境の北方をそう言う様です)」、稚内から海を渡って「アムール川」に、古代人の足跡を追ってみたいのです。日ロ関係が改善されてたら、いつか実現できるかも知れません。私は、この人たちの子孫になる可能性だって、ないとは言えません。だからこんな関心と感動があるのかも知れません。うわー、そこに接点がありそうです。

(モヨロ貝塚で出土したものです)

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循環する人格的感化

 

 

ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、『精神のない専門人、心情のない享楽人、この無のものは、かつて達せられたことのない段階にまで登り詰めたと自惚れている。』という言葉を残しています。随分辛辣(しんらつ)なことを言う方です。ドイツ人気質の学者だからでしょうか。

この「精神のない専門人」と言うのは、利潤を求めようとする時、『不正なことをしない!』と言う<倫理観>を持たない経営者のことを言っています。儲けるためには手段を選ばないで、営利主義に走る経営者が多いのかも知れません。鉄面皮の様に、優しさとか、『みんな益ために!』と言った気持ちに欠けている経営者のことです。アルバイトをしていた時に、そんな経営者がいました。

そして「心情のない享楽人」とは、「天職」としての自分の仕事を、精一杯励んでしようとする気概を持たない労働者のことです。ヴェーバーは、人の仕事を「天職」、つまり天が備え、与えたものという理解を持った人でした。勤勉に働くのは、自分に課せられた「仕事」の意味や価値や使命を知っているからなのだと言うのです。アルバイトをし、社会人として働いた職場にも、自分の仕事への不満を持って、楽しく溌剌と働かない人が、結構いました。

勤勉に働くことが、仕事を成功させ、そうすると評価が高なり、給料が増えると言う好循環があります。それが会社を富ませ、さらに業績をあげさせ、優良企業となって行きます。何時でしたか、あるホテルでセミナーが開かれていた時、そこの従業員のみなさんが、高い意識を持って、楽しそうに働いていたのです。誰もが、そう感じていたのです。

それで、『どうしてですか?』と聞きましたら、『待遇が好いからです!』と言っていました。好い仕事を生み出し、企業を富ませるのは、そんな単純な原理なのでしょう。経営者だけが豊かにならないで、利益を従業員に分配することが、高い企業評価に繋がります。自分の仕事を正しく評価されると、好いサーヴィスを生み、好い製品を製造させるのです。

また、マックス・ヴェーバーは、政治家にとっての特に重要な素質として「情熱」、「責任感」、「判断力」の三つを挙げています。国や自治体の代表として、それを好くしようとする政策を提案していく「情熱」を持つことが、政治家には必要です。正しく「判断」し、「責任感」を持つことも必要です。そう言った指導者がいる国や自治体の住民は、安心して生活ができるのでしょう。それで、国や自治体や市民が安定していくわけです。

とどのつまり、人も組織も《自惚れないこと》、《怠けないこと》、《享楽に溺れないこと》です。「小国主義」を掲げたジャーナリストで、後に政治家となった石橋湛山は、素晴らしい政治家だったのではないでしょうか。実に短期間でしたが、内閣総理大臣をされた湛山は、甲府一中の中学生の頃に、大島正健校長の薫陶を受けたことが、彼の人となり、政治家の姿勢を作り上げた、と後になって語っています。

その大島正健は、17歳の時に出会い、人格的影響を与えられたのは札幌農学校で出会ったウイリアム・クラークでした。一年にも満たない、ほんの短い間の人格的薫陶だったのです。その青年期の一人の人との出会いと薫陶とは、この人の一生を貫いています。これを《循環する人格的感化》と言うのでしょうか。

(石橋湛山が、母校の後輩に書き残した書です)

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郷愁

 


今朝、ベランダの寒暖計は、7時半で、18℃でした。同じベランダで、また二輪の朝顔が咲き、秋の花ではないのですが、私たちに目と心を楽しませてくれます。お母さんを呼ぶ小学生の声が、響いています。家内が”ベランダ会議“をする隣家のおばあちゃんが、風邪をひいた様で、顔を見せていないそうです。先ほど娘さんに、家内が声をかけていました。

今日は、弟の誕生日で、今朝2時頃、目が覚めて、「誕生祝い」のメッセージを送信しました。上の兄2人は、島根県で生まれたのですが、弟と私は、軍需工場の責任を任された若い父の赴任地、中部山岳の山の中で生まれました。熊や鹿の出る様なあたりでした。40年以上前に、兄弟4人で訪ねたて以来、訪ねていません。いつかまた、生まれ故郷を訪ねて見たいものです。

あの「故郷」の歌の意味が、“ウイキペディア”に次の様にありました。

1 野兎を追ったあの山や、小鮒を釣ったあの川よ。今なお夢に思い、心巡る忘れられない故郷よ。

2 父や母はどうしておいでだろうか(「います」は「居る」の丁寧形ではなく、古語の尊敬語「坐す」なので、「ゐます」とはしない)、友人たちは変わりなく平穏に暮らしているだろうか。風雨(艱難辛苦の比喩とも)のたびに、思い出す故郷よ。

3 自分の夢を叶えて目標を成就させたら、いつの日にか故郷へ帰ろう。山青く水清らかな故郷へ

この年になると、父も母もいませんし、幼い日の 友の消息は分かりません。でも思い出だけは、鮮明に残っています。これが「故郷」なのでしょう。

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走る孫

 

 

この秋の運動会のでしょうか、2人の孫の持久走の走りを撮った写真が、今朝送られてきました。後ろ姿でひた走る姿がいいですね。前に向かって、自分の前にある、生きるべき行程を、力強く走って行く様に願ったところです。もう2人の孫も、元気に成長している様です。孫たち4人の成長を祝しているジジとババです。

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懐旧

 

 

人生の最も好い8年間を一緒にお過ごして、多くのことを教えていただいた《お師匠さん》は、アトランタの大学の工学部を出て、空軍のパイロットをされておいでしたが、日本を愛して、二十代の中頃にやって来られたのです。1972年の8月に、中部圏の地方都市で、ご自分の事業を開拓されて、私は8年間彼の働きの助け、きっと邪魔の方が多かったかも知れませんが、一緒に働きました。

日本人の奥様との間に、二人の男の息子さんがおいででした。温厚な方で、近所の方には、とても評判の好い方でした。貸家住まいをされ、純和式トイレで、アメリカの地方都市の名門の出身でしたが、日本風の地味な生活をされておいででした。前立腺の病気で、2002年に66才で召されました。

この方は、ジョージアの片田舎(フロリダ州タラハッシーに近い州の南部の街です)で、”GE(General Electric)“の電気製品を扱う<街一>の電気店を経営するお父さんとお母さんに愛されて育ったのだそうです。彼が日本で住んでいた家は、『子どもの頃に、ジョージアで住んでいた家の自分の遊び部屋は、この家と同じほどです!』と言っていました。アトランタの大学で学んで帰京すると、お父さんは、地下の「牛肉貯蔵庫」に降りていって、吊るされている牛の一番良いところを切って、ステーキにしては食べさせてくれたそうです。

彼は、<アメリカ版御曹司(おんぞうし)>で、街では自慢の息子を持つ両親として知られていた、そんな羨ましくも、次元の違う話を聞かされて、一緒に働いたわけです。<日本版>の私は、太刀打ちができませんでしたが、ただ尻尾を丸めているだけではなくて、実は爪を研いでは、反発していたのです。<御曹司対決>で、彼も若く、私も若くて、正直にぶつかり合ったと言うのが正しいと思います。それだけ近く親しかったと言うことでしょうか。

彼が、2002年9月に召されたのですが、その直前、入院中の彼を見舞った時に、彼の方から、先ず、私を赦してくれました。そして『I am sorry /御免なさい!』と、ご自分の若い日の不足と未熟さを詫びられたのです。それを聞いた私も、心から悔いて、『私の方こそ、御免なさい!』と言いました。私は、私の家族と彼の家族の間であった軋轢や不和、たぶん不理解でしたが、それについて、第三者に言うことをしませんでした。内々にしたのです。

この方のことを思い出しますと、レイ・チャールズが歌った、”Georgia On My Mind “と言うジャズの名曲を思い出すのです。このチャールズは、黒人差別に反発し、故郷の南部ジョージア州との関係を悪化させたことがあったそうですが、その優れた歌唱力は、誰もが認めるほどで、1979年に、この彼の歌った歌が、ジョージア州の州歌になったのは有名な話です。この中国だと、私たちの住む省は、アメリカ合衆国のジョージアと同じ様な位置にあるかも知れません。

北京語を話す都会人には、この地方都市は田舎に見えるでしょうし、訛り言葉がはっきりしていると言われています。最近、北で育った方の言葉との違いが聞き取れる様になり、私たちの話し言葉は、基本的に、「普通語putonghua」だと言われます。12年前に、天津で中国語を最初に学んだ名残なのでしょうか。あの師匠の英語も、“ジョージア訛り”だったのでしょうね。懐かしい方です。

(アメリカの通貨で“4分の1ドル”で州の名産「桃」がデザインされています)

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詩人

 

 

秋の夜の会話  草野心平

さむいね
ああさむいね
虫がないてるね
ああ虫がないてるね
もうすぐ土の中だね
土の中は痩せたね
君もずゐぶん痩せたね
どこがこんなに切ないんだらうね
腹だらうかね
腹とつたら死ぬだらうね
死にたくはないね
さむいね
ああ虫がないてるね

福島県いわき市出身の草野心平(1903年〜1988年)が、25才の時に 作詩したものです。週の半ばに、家内と知人宅を訪問し、夕べのひと時を共に過ごしているのですが、秋の夜半の虫の声が、徐々に強くなってきています。やはり秋たけなわと言った感じがしてまいります。昔、鈴虫を友人からいただいたことがありました。とても好い鳴き声がして、一秋の何日かを楽しんだことがあります。

"チンチンチンチロリン"と鳴くのでしょうか。寒くなってきて、痩せてきて、切なくなるほどで、心平青年は死にたくもないのです。人のいろいろな感情を知ってか知らぬか、秋の虫の鳴く声を、ただ、心平は静まって聞いているのです。

この「虫」を読んだ後、草野心平は、「蛙」と「富士山」を取り上げた詩を多く詠んだ詩人でした。スケールの大きな詩を詠んでいます。自分の職業欄に何と書いたらいいのか迷ったら、「無職」と書く代わりに、「詩人」と書き込めたら素晴らしいですね。寺山修司は、自分をそう呼んでもらうのを好んだそうです。

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