内外

 

 

1968年12月10日に、東京都府中市内で起こった、「三億円事件」から、半世紀が経とうとしています。事件は未解決のまま、実行犯の目星もつかないままなのだそうです。当時、私は、学校を出て2年目で、八王子市内の職場に勤めていました。何時もは見かけないパトカーが、そこにやって来たです。職場の中に、刑事が入ってきて、事情聴取をしていたのです。チラリと、鋭い視線を私にも向けていました。

この事件の現場は、旧国鉄の国分寺駅と京王線府中駅を結ぶ道路と、これに並行したもう一本の道路とを結ぶ道路上(学園通り)で起きています。実は、この写真の様に、「府中刑務所」の壁際を通っていて、ここを、高校の頃、冬期には、"刑務所三周"のランニングコースだったのです。念のため、塀の外側を走っていました。灰色の塀を眺めながら、少しも面白くないランニングでした。東芝電気府中工場が、この写真の手前に道路を挟んでありました。

その府中工場の従業員に支給する年末ボーナスの入ったケースを盗まれたわけです。半世紀前の三億円というのは、当時の私の月給が、27000円(ウイキペディアでは、大卒給与が35000円とありますが)でしたから、想像がつきそうです。そんな事件があったことなど知らない後輩たちが、今でも、この塀を横目に、走り回っているのでしょうか。

府中市内のタクシー会社では、「三億円事件ツアー」と言うのが行われているそうで、そんな観光コースになるなどとは、犯人も想像しなかったことでしょう。あたりは櫟林(くぬごばやし)の武蔵野の風情が溢れていたのですが、そんな面影も失せてしまって、半世紀を迎えるわけです。

6年間通った学校の近くで起こった事件でしたから、特別な思いもあります。もう八年ほど前になるでしょうか、私たちの住む町の隣町から、ある夫妻が、私を訪ねて来られました。息子さんが、この府中刑務所に服役していて、訪ねて欲しいとのことで、訪ねて行ったことがあります。だいぶ検討してくださったのですが、面会は叶いませんでした。その時初めて、刑務所の内部に入らせてもらったのです。ただし、服役区域の塀の外でした。

今では外国人の受刑者が多い刑務所だそうで、一度も服役することなく、私はすみそうです。でも心の中で思ったことや企てたことが露わにされたら、塀の外も内も、法を犯したか犯さなかったか、運がよかったか悪かったか、紙一重の差しかないのかも知れません。塀の外を走っていた高校の時には、『何時か俺も入る可能性だってないとは言えないかな!』と思いながらだったのを思い出します。もうないかな。

(産経新聞による事件現場の写真です)

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深まりゆく

 

 

深まりゆく秋の広島県北広島町の八幡高原に咲く「カワラナデシコ」です[☞HP/里山を歩こう]。今頃の山道を歩くと、落ち着いて、気持ちが好いことでしょう。私たちの住む街は、盆地の様な地形で、巡りの山は、急峻ではなく、歩くには絶好です。

この1ヶ月ほど、風邪でしょうか、それとも緊張感が緩んでしまったのでしょうか、少し体調を崩してしまったのです。中国漢方のお医者さんが知り合いにいまして、先週、この方に診ていただいて、処方の中薬を飲み始めました。免疫力の増強だそうです。生活習慣は慣れたのですが、この地の季節に変わり目には、まだ慣れないのでしょうか。

新しい週が始まりました。素敵な一週間をお過ごしください。蜜柑も柿も栗も美味しい季節ですね。

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予報は小雨ですが降ってきません。でも曇天で、薄暗い午後です。今朝咲いたアサガオで、実に鮮やかな色で素敵です。土曜の午後、先ほどまでは、子どもの遊ぶ声がしていましたが。今は静かです。ここは住宅街、子どもと両親と年寄りが三代で住んでいる家族が多そうです。役割分担があって、まあ静かにみなさんが住んでいます。

子どもたちが戯れていて、時々叱る声がしてきます。朝早く、毎日ではないのですが、お年寄りの調子外れの”KTB(カラオケ)“が、大声で聞こえてきます。時間の感覚がない様で、ちょっとボケ気味かも知れません。色々の異国の生活です。

一昨日は、中国漢方医に、免疫向上の中薬を処方していただくために出掛け、昨日は、歯医者に、連れて行ってもらいました。水曜日の夕方、炒った大豆を出していただいて、美味しかったので、前歯で噛んだら、欠けてしまったのです。ビールの瓶の栓を、前歯であけるほど丈夫だったのに、その無茶のせいで前歯を治療したのが折れてしまいました。

以前、家内が日本語を教えた中学生の男の子のお父さんが歯医者で、実に丁寧に、仮の歯を入れてくれ、10日後に、本物を入れてくれます。ドイツ製の機器を使っていて、元医大の教授で、今はご自分で開業されています。日本の歯医者さんに遜色なく、かえって優れているかも知れません。

好い日曜日をお迎えください。

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ユーモアと死

 

 

これまであった人の中で、素敵な男性を挙げると、その一人は、上智大学の教授のアルフォンス・デーケンさんです(今も健在で名誉教授です)。受講生は親しみを込めて、先生を、“Mr”で呼んでいました。「death education/死の哲学」の研究者で、「死生学」を専門としておられ、興味津々の私は、二十数年前に、この方の講義を受講し、四ツ谷まで毎週通ったのです。

1932年生まれで、ドイツのナチス政権下に少年期を過ごしておられ、少年として、ナチスの政策に追随しない決心を表明して生きた方です。「死」を語りながら、「ユーモア」も、デーケン教授は、講義で触れておいででした。『ドイツの有名な定義に、[ユーモアとは『にもかかわらず』笑う]があります。苦しんでいるにもかかわらず、相手に対する思いやりとして、笑顔を示す。 これは心のいやし、夫婦関係・親子関係・患者さんおよびとても大切な人と の関係のいやしとなるのです。ですから、ユーモアは心のいやしに特に重要だ と思います。』

『死とユーモアは、とても深い関係があります。不思議に思われるかもしれませんが、生きることと死ぬことが表裏一体の関係であるように、私たちが人間らしく、より良く生きていくためにはユーモアは不可欠です。(中略)外国のホスピスへ行くと、多くの日本人はびっくりします。それは、どこも共通して、末期患者のケアにあたる人たちが実に明るく、ユーモアに満ちているからです。ホスピスで交わされる会話もまた、快い笑いに満ちています。お互いに今、ここで出会っている時間を、精一杯楽しもうという気持ちから、自然に出てくる喜びと感謝が、ユーモアのある楽しい雰囲気を生むのでしょう。』とおっしゃっています。

私が受講していた頃に、ガンを発症されたとおっしゃっていました。もう亡くなられたかと心配していましたが、今も講演活動をされて、お元気なことを知りました。また、講義の中で、「悲嘆のプロセス」の学びもありました。

  1. 精神的打撃と麻痺状態
  2. 否認(相手が亡くなったことを認めたくない)
  3. パニック
  4. い怒りと不当感(なぜ、私だけがこんな不幸に見舞われたのか? 等)
  5. 敵意とうらみ(なぜ、夫は私を見捨てて自殺したのか? 等
  6. 罪意識
  7. 空想形成・幻想
  8. 孤独感と抑うつ
  9. 精神的混乱とアパシー(無関心)
  10. あきらめ―受容
  11. 新しい希望―ユーモアと笑いの再発見
  12. 立ち直りの段階―新しいアイデンティティの誕生

素晴らしい人生の終わりに、まだ元気な今、その準備をすることは大切なことです。誰も一度は死ななければならないからです。若いから、死とは無縁だとは言えませんね。

(デーケン教授の出身地の「オルテンブルク」の城です)

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堅牢

 


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この上の写真は、東京都日野市(当事は南多摩郡日野町でした)の駅前の古写真です。この箇所から100mほどの所に、八坂神社があって、その祭礼の日に撮影されています。

真ん中は、甲武鉄道の多摩川の鉄橋で、1919年(大正8年)に撮影されています。立川から八王子に向かう蒸気機関車ですが、私の世代は、乗ったことのある代物(しろもの)です。ただし、中央線はすでに電化されていましたから、それではなく、五日市線が、まだ蒸気機関車で、電化されていなかったので、乗れたのです。

下の写真は、明治20年設立の日野煉瓦(レンガ)製作所が、甲武鉄道の資材として製造した煉瓦で出来た橋脚です。明治に出来た当時の物で、現在なお使用されている、堅牢な《優れ物》です。

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ホッと

 

 

以前、ある会社が、『次のうち、どれかひとつだけ手に入るとしたら、あなたに必要なものは何ですか?』と言うアンケートを実施しました。対象は20代の若者です。その選択肢は、次の9つでした。

有り余る金。
誰もがひれ伏す権力。
知らない人はいないというぐらいの名声。
互いに信頼できる親友。
心から愛し、愛される人。
温かい家庭。
誰にも負けない美しい容姿。
一生かけて極めたい仕事。
とことんのめりこめる趣味。

このアンケートの結果はと言いますと、
男性の一位は「有り余る金」で、二位は「温かい家庭」。
逆に女性の一位は「温かい家庭」で、二位がお金でした。
三位は男女共通で「心から愛し、愛される人」。
四位はというと、男性は「一生をかけて極めたい仕事」で、
女性は「信頼できる親友」でした。

富か、名声か、家庭か、友か、仕事か、趣味か、人生に必要なものを一つ選ぶというのは、本当に難しいことです。応答する人の価値観、人生観が問われることかと思われます。

このアンケートから、だいぶ年数が経っていますから、これの応答した人たちは、もう40歳代になっていることでしょう。多くの人が結婚をし、子どもを育て、男性なら仕事に脂が乗っている時期に違いありません。大きな地震が日本を襲い、異常気象が起こり、戦争の噂も聞き、いじめがより陰湿化してきているなど、社会は大きく変化している今、どう答えられるでしょうか。

<その後>、この人たちに再アンケートをしてみて欲しいものです。私など、自分の課せられた仕事を終え、第二の人生を、国外で生きているものには、もう求めても得られないものもあります。あんなに頑強に見えた映画俳優が、病んで闘病し、あるいは亡くなっていることを見聞きしますと、結局は、健康で長生きすることに尽きるのでしょうか。

でも健康で長生きできても、人生は70年、80年、壮健でも100年でして、結局は誰もが亡くなっていくわけです。アンケートの項目は、人生の目的ではなく、その時々の励みになる項目なのでしょう。イスラエルの賢人が、『空(くう)の空、すべては空!』と言いました。この人は、誰もが羨むほどの富と権力と快楽を得たのですが、全てが過ぎ去ってしまい、行き着くところは<空>だと言うのです。

私は、この賢人からではなく、産んで育ててくれた、高い教育を受ける機会などなかった母から、子どもの頃に、《空》の先にあるであろう、《永遠のいのち》の実在を教えられて、『あるんだ!』と信じて、今日まで生きてきているのです。いよいよ《実在》の思いが強くなってきています。もう少し具体的にいますと、帰って行く《永遠の故郷》が、日本以外にもあるんだと、そう信じているのです。

でみアンケート結果の中に、「心から愛し、愛される人」や「温かい家庭」があって、なんともホッとしました。

(陣馬高原に咲く「りんどう」です☞[H/里山ウを歩こう]に寄稿の[町田のこうさん]の撮られたものです)

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子曰く

 

 

中学生になって、国語の時間に、『子曰く(しいわく)』という言葉に出会いました。これは、『孔子がおっしゃるには』との意味で、「四書五行」を学んだ江戸時代の若者が、老師が読み上げるのに習って、漢籍書を日本語読みにした名残でした。武士の子弟は、武術だけではなく、「読書」も 欠かせない学びの学課でした。木版で書物が印刷され、それを読んだのです。

江戸幕府の学問所を、「昌平黌(しょうへいこう)」と言いました。今の東京大学の母体になるでしょうか。湯島の昌平坂にありました。直参だけではなく、藩士や郷士や浪人の子弟も、そこで学ぶことができたそうです。優秀な人材は、ここに送られて、儒学、漢学、国学を学んだのです。江戸期の日本の教育は、世界に注目されていて、士族以外でも、多く庶民が読み書き算盤ができ、識字率は世界に抜きん出て高かったそうです。幕末に訪れた欧米人が、驚くほどだった様です。

先週は、「読書週間」だそうです。読書離れが甚だしくて、スマホの出現で、なおも読書をしなくなっていくことでしょうか。そういえば、駅前や繁華街にあった、本屋が消えてしまって、それに歯止めがきかない時代なのだそうです。「書を捨てよ町に出よう」を著した寺山修司は、自分では、そんなことを言いながらも、多くの書を読み、書物を書いているのです。

この評論集が、1967年に出されてから、若者の書物離れが始まったかも知れませんね。それは二十二で社会人になった年でした。給料をもらう様になった私は、寺山に倣わないで、本を買っては読み始めました。本を買う負担は、結構多かったのです。五十代には、事務所に本がいっぱいになっていましたが、こちらに来た後に、全部処分されてしまいました。これって◯◯ですよね。

まあいいか、持って行くことができないものだからです。でも、先日、"Amazon"で、その蔵書の中にあったのと同じ作者の同じ本を、2冊買ったのです。どうしても読みたくなって、誘惑されて買ってしまいました。今、弟の家に届けてもらってあります。若い頃に、大いに啓発された本です。

季節は好いし、やっぱり昔の人が言った、《読書の秋》の到来なのでしょう。スマホを覗き込むのではなく、電車に座りながら、読書をしているご婦人の知的な美しさは絵になりそうです。昨日初めて、この町の地下鉄に乗って、駅まで出掛けました。朝早かったので、学生がほとんどでした。30分ほど乗ったでしょうか、学生が降りてしまって、私の座ったシートと前のシートが、12人分あって、そこに座った10人が、スマホに見入っていました。行きも帰りも、見ていなかったのは、隣の年配のご婦人と私だけでした。

せっかくの《読書の秋》なのに、どなたも本を読んでいないのは、ここも日本も同じなのでしょうか。孔子は、現代のこんな世相を、どう感じるでしょうか。きっと、『君子、スマホに近づかず!』と言うことでしょう。目を悪くしたり、会話がなくなくなって、コミュニケーションを取れなくなっている元凶、《危うき》に近かづかない様に、弟子たちに、『子曰く』なのでしょう。

(幕府の学問所のあった湯島の「昌平坂」です)

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牛肉面の日

 

 

[90日滞在査証]での入国ですので、昨日は、家内と二人で、最も近い国外とのことで、台湾の金門島に行って来ました。福建省のアモイ(厦门xiamen)から、船で片道40分ほどの往復の旅でした。知人が、港の近くにおいでですが、連絡をしますと、ご迷惑がかかりますので、連絡せずに上陸して、すぐに<トンボ帰り>をしました。

これまで、知人の家に泊めていただいたり、ホテルに投宿したこともありますが、多くの場合は、日帰りなのです。いつも 、ちょうど上陸が昼前でずので、「牛肉面niuroumian」を食べるのです。この「码头matou(日本語で港とか波止場でしょうか)」の真ん前にある食堂ででした。この島には、牧場があって、牛肉が特産だそうで、それを食材にした麺で、大好物なのです。

厦門には「鼓浪屿gulangyu」という島があって、かつての「租界」があった場所で、その諸外国の領事館や学校などの建物が残る、観光名所です。鄧小平氏が、この街に力を入れたからでしょうか、とても整った綺麗な街です。厦門大学があって、優秀な教師陣が優秀な学生を教えているそうです。

前回の金門行きは、結婚記念日でしたので、アモイに帰って来て、「ニッコウ厦門ホテル」に投宿し、久しぶりに日本料理をいただきました。結婚以来初めて、ちょっと贅沢をしましたが、今回は日帰りのスルーでした。美味しかったので、満足な「牛肉の日」の一日旅行でした。

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誕生会

 

 

この土日、お二人の「誕生祝福会」の宴席に呼ばれました。この街でも名のあるホテルを会場に、大変なご馳走だったのです。お一人は、「十八歳」の誕生日で、ここ中国では「成人」の年齢で、ご両親、祖父母、兄弟姉妹、友人たちがお祝いに呼ばれ、私たちも、孫を祝福をして欲しいと、とくにおばあちゃんにお招きをいただきました。

もうお一人は、「七十六歳」になられるご婦人で、香港においでの息子さんが、パーティーを開かれて、お呼ばれしたのです。隣では党大会が開かれるほどの一劃にあるホテルでした。「寿shou」という文字がスクリーンに映されていて、主に友人たち100人もの人が駆けつけていました。

お嬢さんは、来年、高校卒業の後、イギリスかアメリカに留学を考えていて、絵の勉強をされるそうです。この省の観光地に一緒に旅行したりしたこともあり、綺麗に成長されていました。同世代の方は、香港にお住まいで、この街にもお住まいを持っていて、度々行き来をされていて、友人たちに祝福を願っておいでです。

この国で、交わりをもたせていただいている長幼お二人の誕生日をお祝いすることができ、感謝な二日連続の誕生会でした。

(野生化した「ウキツリボク」が満開、チロリアンランプとも呼ばれています☞[hp/里山を歩こう]からです)

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古写真

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この写真に写った個所は、小学校二年生から、大学三年まで住んだ街の懐かしい場所の新旧二葉の写真です。上の写真には、東京と高尾の間を結ぶ中央線の踏み切りがあります。高尾行きの電車が、日野駅を出たところで撮影されています。右に見える三角屋根の建物は、地蔵堂で、ここで、地域の寄り合いをしていました。

この踏切を開閉する番をしていたおじさんと父が懇意で、この踏切から線路伝いに、改札を通らないで、駅のホームに上がって通勤していました。弟が、よく父の感謝を届けていて、おじさんに可愛がられていました。旧国鉄の電車の部品を作っていた会社の経営陣だっので、そんなことができたのでしょう。

実は、この坂から上がってくる道路は、江戸の内藤新宿から、甲州路を通って、信州の下諏訪宿で、「中山道」に繋がる「甲州街道」の旧道なのです。多摩川の渡しを渡って、丘陵に上がっていく道の途中を、南北に「甲武鉄道」が敷かれ、これがやがて「中央線」になっていくのです。同じ箇所の下の写真は、日野駅の区画整理で、踏み切りをなくして、線路と丘陵との間の向う側に、新しい道を敷設した後の写真です

その踏切から50mほどの坂の途中に、父が家を買って住み始めたのです。この電車は、立川駅から多摩川を渡って来たもので、豊田駅、八王子駅へと向かって進んで行きます。電車の後方には、甲州街道、国道20号線が走っていて、住み始めた当時の駅の写真が、下の写真で、国道と交差する様に、高架で中央線の電車がみえます(この下の写真です)。

 

 

こんな写真を見つけることができ、とても懐かしく眺めています。電車の形式が、いかに古いかを伝えています。このコンクリートの道路が、国道20号線で、右上の方に、日野坂が続いていて、登りきった所に、トラック製造で有名な日野自動車の工場がありました。その正門の近くに、私たちが結婚して一年ほど住んでいたのです。見える電車の後ろ側の丘陵の麓に、アメリカ人起業家が住んでいて、この方の事務所がありました。

バス停のサインが、駅の真ん前に置かれているのも、交通量や駅の通勤客が少なかった当時だったからできたのでしょう。この駅舎の作りは、民家造りで、造られれた当時と同じ形を、今でも維持していて、JRの駅舎としては有名なものです。父母や兄弟が、よく利用した駅ですから、実に懐かしいのです。郷愁の街と駅です。

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