特筆

 

MAIN STREET OF GION-MACHI. KIOTO

 

学校で習わなかった漢字が、この頃、よく使われています。「温度」とか「程度」の「度」のつく漢字です。国民性の尺度とも言える「民度」、どれだけ仕合せかを計る「幸福度」など、学校では教えてくれませんでした。ところが、『日本人は民度が高い!』と、自らそう言い、最近では周りの国々のメディアからも、そう言ってもらえます。

幕末から明治にかけて、日本にやって来られた外国人が、ヨーロッパからは、東の果てにある辺境の国に住む人々の生活ぶりや振る舞いを見て、驚いた印象を日記や書物に書き残しています。明治初期にやって来て、「大森貝塚」を発見した、アメリカ人の動物学者エドワード・モースが、次の様な印象を、日記「日本その日その日」に記しています。今の東京大学の前身の学校で教鞭をとった方です。

モースが、瀬戸内海の地方に研究の旅をした時のことです。芸州・広島の旅館に落ち着いて、財布と懐中時計を預けて、しばらくの間、そこから出かけることにしたのです。その時、旅館の女中さんが『お預かりします』と言って、時計と財布をお盆に載せて、モースの泊まった部屋の畳の上に置いたのです。日本式の宿の部屋には、鍵などありませんから、誰でも、いつでも室に入れるわけです。

諸外国を旅をして来たモースは、多くのアジア人が不正直で、人の目を盗んでは悪事を働くのを目にしてきていたのです。きっと被害にあった経験もあったのでしょう。そんなモースの心配をよそに、主人は、『ここに置いておけば安全です!』と言うだけでした。その言葉に不承不承で、不安なままモースは、財布などを預けたまま旅に出たのです。

一週間後、研究旅行を終えて、旅館に戻ったモースは、部屋のふすまを開けて、驚いてしまったのです。その時のことを、次の様に記しています。『帰ってみると、時計はいうにおよばず、小銭の1セントに至るまで、私がそれらを残していった時と全く同様に、ふたのない盆の上にのっていた!』とです

さらにモースは、次の様に記しています。『当時の欧米のホテルでは、盗難防止のため、水飲み場のひしゃくには鎖が付き、寒暖計は壁にネジで留められているのが常だった!』とです。モースは日記に、『外国人は日本に数ヶ月いた上で、徐々に次のようなことに気がつき始める。即ち彼は日本人にすべてを教える気でいたのであるが、驚くことには、また残念ながら、自分の国で人道の名に於て道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生れながらに持っているらしいことである。衣服の簡素、家庭の整理、周囲の清潔、自然及びすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情に就いての思いやり……これ等は恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である。』と記しています。

実は、多くの「お雇い外国人」や旅行をした欧米人が、同じ様な印象を書き残しているのです。江戸末期、明治初期の日本人を、外国人が見て、貧しい中にも、生活に、「節度」があって、和(にこや)かに過ごしていたのを見たのです。「幸福度」も高かった様です。識字率も高くて、庶民が、〈読み書き算盤(そろばん)〉ができ、礼儀や挨拶も、他の国では見られないほどに日常に見られたそうです。日本人であることを、もっと特筆し、誇ってよいのかも知れませんね。

(明治期の京都祇園を撮影したものです)

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一皿

 

 

2014年 シビエ料理
2015年 スーパーフード
2016年 バクチー料理
2017年 鶏むね肉料理
2018年 鯖

これは、「今年の一皿」に選ばれた料理だそうです。これについて、"ウイキペディア"によると、次の様にありました。

『優れた日本の食文化を人々の共通の遺産として記録に残し、保護・継承するためにその年の世相を反映し象徴する食を表彰する。選考は飲食店情報サイト「ぐるなび」内のビッグデータから選ばれた候補項目からぐるなび会員によるアンケートをもとに絞り込み、メディア関係者による投票でノミネート項目を選定し実行委員会にて「その年に流行または話題になったこと」「その年の社会の動きと関係が深く世相を反映していること」「食文化の記録として後世に受け継ぐ価値があること」の三条件をもとに最終審査を行い大賞「今年の一皿」を決定し、その他各賞数件が発表される。』

若かりしころ、新宿だったでしょうか、職場の上司に連れられて行った店で、「鹿の肉」と、「熊の肉」をご馳走になったことがあります。これが、「シビエ」なのでしょうか。「スーパーフード(?)」も「バクチー料理(タイ料理でしょうか)」も食べたことはありません。去年は「鶏むね肉」、今年は「鯖」で、これは食べたことがあります。

ただし、2018年の一皿の「鯖」は、子どもの頃に、「しめ鯖」を食べて以来、食べず仕舞いでおります。ところが家内は大好物で、「鯖の味噌煮」は、夢にまで出てくるそうです。こちらの日本料理店に、「鯖焼き」があって、家内は、二、三度食べたことがありましたが、折角の鯖なのに、『固くて美味しくなかった!』のだそうです。

鯖は、水から上がると、すぐに鮮度が落ちてしまい、時間勝負で食べるのだそうです。京都と北陸の間に、その鯖を輸送した「鯖街道」があったそうです。塩をした真鯖を、人が担いで、京の都を目指して走って運んだと聞いています。日本海でとれる鯖を、好んだ人が、京都には大勢いたのでしょうか。

きっと若狭の郷土料理を、京都でも食べたくて、そういった運搬方法で運ばれて、京都でも盛んに、「鯖寿司」が作られて食された様です。1200年ほどの歴史がある様です。発酵食品の一つで、健康食品なのでしょう。でも、私は食べようと思いません。きっと「食べず嫌い」なのかも知れません。美味しいのでしょうね。

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期す

 

 

先ほど来(18日の午後のこと)、机に向かいながら、何となく頭を掻いていましたら、ふと思いにやって来たのが、「白頭掻けばさらに短し」の杜甫の詩の一節でした。

『春望』

國破山河在
城春草木深
感時花濺涙
恨別鳥驚心
烽火連三月
家書抵萬金
白頭掻更短
渾欲不勝簪

これを、中学生に時に、次の様に読んだのです。

国破れて 山河在り (くにやぶれて さんがあり)
城春にして 草木深し (しろはるにして そうもくふかし)
時に感じては 花にも涙を濺ぎ (ときにかんじては はなにもなみだをそそぎ)
別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす (わかれをうらんでは とりにもこころをおどろかす)
烽火 三月に連なり (ほうか さんげつにつらなり)
家書 万金に抵る (かしょ ばんきんにあたる)
白頭掻けば 更に短く (はくとうかけば さらにみじかく)
渾て簪に 勝えざらんと欲す (すべてしんに たえざらんとほっす)

『白髪頭を掻いてみると、頭髪が短くて(薄くて)、櫛(くし)やかんざしを挿すほどの束ねた髪のない自分なのだ!』、まさに私の現状です。もう、十数年になりますが、右肩の腱板を断裂し、その縫合手術のために、私たちの住んでいた街の市立病院に入院しました。結構大変な手術でした、当時同じ様な患者さんが、5人ほど入院していて、手術を担当して下さった主治医は、その道の専門医でした。同じ病室に、私たちの親しい友人のお兄さんがいたのです。

それは偶然の同室で、隣り街で、畳職人をされていた方ですが、全身を大怪我をされて、ほとんど体を動かせませんでした。それで、食事の後片付けなど、細かなことを助けて差し上げていたのです。お聞きすると、同じ年の生まれで、同じ山奥の沢を二つほど西に行った所の出身でした。ある時、この方が長髪を、丸刈りにされたので、看護婦さんにお願いして、バリカンで、私も刈ってもらったのです。

それ以来、手入れが簡単なこともあって、ずっと丸刈りにしてきています。杜甫も、髪の毛が薄くなったのでしょうか、ふと白髪頭を掻いてみたら、男用の「簪(かんざし/中国では以前、男性も用いた様です)」ができないほどに薄くなっているのに気づいたのです。長年の流浪の身の厳しさが伝わってくる様です。

私の毛の薄いのは、父譲りで、そんな杜甫ほどの苦労の辛い体験は、ほとんどありません。男は、「毛」でなく「気」で生きているのだと思っていますので、全く「毛」にしていません。いえ「気」にしていません。こう白頭を掻きながら、今年も暮れていく様です。昨日は、誕生日でした。ずいぶん長く生きてきた、いえ生かされてきたものです。

そうですね、『来年も!』と心を期しているところです。こちらに留まって、助けられたり、助けたり、もう少しの時を、こちらで過ごそうと決めたところです。年明け早々、一時帰国をし、ビザを取得できたら、心を整えて戻って来ようと思っています。家内ともども健康チェックもして、太鼓判が押されたら、そうできることでしょう。

(杜甫を描いたものです。でも、これには髪の毛が見えますが頂きはどうでしょう)

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優しさ


 


 

中央画壇から離れ、50歳の初めに、南海の奄美大島に居を構えて、創作活動に明け暮れた日本画家、田中一村の絵に、生き方に魅了された、今年の後半期でした。写真だけで、実際に見ていないのに、そうなるのは、絵の中に、画家の思想や人生観が無言のうちに表れているからでしょうか。

江戸期の浮世絵師たちの多くは、商業画家でした。版元に依頼されて、商業ベースに載せて、売れる絵を描いていたのです。ところが、この一村は、大島紬の染色工の仕事をしながら、お金ができると、画材を買っては絵を描き継いで行くという、奄美での創作の日々は、中央画壇の評価を得たいがためではなく、お金のためでもありませんでした。

情熱を注いで、描きたいものを描くという生き方が、魅力的ではないでしょうか。阿(おもね)ることもなく、衒(てら)うこともない生き方が好いのです。浮世絵で日本画家の鏑木清方の個展が、横浜であって、その警備のアルバイトを、私はしたことがありました。美人画の大家で、明治から昭和にかけと大御所でした。素晴らしい絵でした。

一村の絵には、人物画、美人画がほとんど見られません。ただひたすら鳥や花や景色を描き続けたのです。死後になって脚光を浴び、評価を得ますが、生前は、顧みられることがありませんでした。ライになって故郷を追われ、奄美の療養所に入所していた少女の母の写真から、肖像画を描いてを上げたという話を聞きました。この少女だけではなく、多くの患者さんの絵も描いたそうです。

この方は、社会的な弱者に対する「優しさ」を持っておられたのです。そんな心の思いになりたいものです。

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お似合い

 

 

本庶佑さん夫妻、”ベストカップル“ですね。夫人は、ご主人に手を握られて、とても幸せそうです。ノーベル賞授賞式に出席されたお二人です。ご夫人の弁によりますと、『若い頃の〈亭主関白〉が、優しい主人に帰られてきました!』だそうです。

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冬景色

 

 

[HP/里山を歩こう]に、東京多摩のKAさん(12月14日)が投稿された写真です。『2010年12月30日の暮れの押し迫った時、長野県木曽の自然湖に出掛けました。・・・1984年の長野県西部地震で、王滝川が堰き止められ出来た湖とのこと・・・橋上から朽木が林立している辺りを眺めました。朝陽が眩しい中、ふと手前に変形状の部分が目に入りました。その部分だけが輝いており、面白い被写体になりました。』とありました。

 

 

広島県呉市・灰ヶ峰、落ち葉が積もった林床に、「サンヨウアオイ」の緑が目立ちます。枯葉の中の緑、自然界のいのちとは神秘的なものです。

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父子

 

 

作詞が落合直文、作曲が奥山朝恭の「櫻井の別れ」という歌が、明治32年(1899年)に発表されました。

1 青葉茂れる櫻井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

2 正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまで来つれども
とくとく帰れ 故郷へ

3 父上いかにのたもうも
見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅

4 汝(いまし)をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己(おの)れ討死なさんには
世は尊氏(たかうじ)のままならん
早く生い立ち 大君(おおきみ)に
仕えまつれよ 国のため

5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む折からに
またも降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀れと聞かざらん
あわれ血に泣くその声

この歌は、楠木正成(まさしげ/1294〜1336年)と、その十一歳の子、正行(まさつら)との父子の別れを歌ったもので、足利尊氏との「湊川の戦い」を前にしてのことでした。正成は湊川で、壮烈な戦死を遂げ、正行も後に、足利の武将・高師直(こうのもろなお)と四條畷(しじょうなわて)で戦って討ち死にしてしまうのです。この「櫻井」は、大阪府島本町にあり、私の師のアメリカ人起業家が、しばらくここに住んでいました。

楠木正成は、戦前、「忠君愛国」のシンボルとして祭り上げられたのですが、敗戦後は、戦時の過ちが叫ばれる中、その惜別の美談は語られなくなって行きます。しかし、「志操の堅さ」と「戦術的才能の優秀さ」では、真田昌幸・幸村父子とともに、わが国屈指の武将、人物としての高い評価を、今でも受けています。

この歌を、父がよく口ずさんでいたのです。きっと小学校の修身の時間に、歌い覚えた歌だったのでしょう。そんな戦国時代や、主従関係の厳しい武家社会に生まれなくてよかったなと、常々、私は思わされるのです。父が、鎌倉武士の末裔を自慢していたのですが、何百年も前の身分が、この時代には通用しないのです。

でも父から、戦争時代の話を聞いたことがありませんでした。心ならずも軍国主義化して行く時代の流れの中で、軍命に従わざるを得ない状況に、父があったのでしょう。先日の「追思会」の折に、知人の母君との出会いを話させていただいたのですが。父が軍属で、爆撃機の製造に携わり、その爆撃機がこの国の多くの街を爆撃したことへの「お詫び」と「つぐない」とで、いつかこの国に来たいとの願いが叶えられ、やってき来て間も無く、お会いした旨を話したのです。

過去に引きずられる必要も、親の罪責を子が負う必要もないのですが。そんな黴(かび)の生える様な〈浪花節気質(なにわぶしかたぎ)〉も、何か自分の一部の様に感じて、捨て切れません。葬儀で、その話をした翌日、村内を行く葬列の中で、一人のご婦人が、『お話がすごく良かったです。ありがとうございました!』と言ってくれました。その村の近くにも、日本軍が上陸しているのですから、加害者の子の話を、その被害者の孫が聞いていたのかも知れません。

(正成と正行親子の「櫻井の別れ」の図です)

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輝き

 

 

広島県呉市の賀茂台地の黒瀬川沿いで、12月の冬になっても咲く「すみれ」だそうです[HP/里山を歩こう]。暖かな陽だまりにでも咲いたのでしょうか。人は、人の目のある中で咲きたがるのに、野の花は、天に向かって咲くのです。自分を誇るのではなく、戴いた《いのち》を輝かせているのでしょう。

昨晩配信していただいた写真です。

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口福

 

 

ここで、中国語をご紹介してみましょう。例文は、次の様です。

四川的表妹带来了许多家乡的特产,让我大饱口福。

日本語にしますと、『四川省の従姉妹が、持参してくれた田舎の特産物は、美味しくて私を口福(こうふく/ふるさとの味に幸せを感じることでしょうか)にしてくれました!』との意味です。

思い返しますと、今年九月には、次男夫妻が訪ねてくれて、色々と持ってきてくれました。その中に、「梅干し」があったのです。 大事に大事に、貴重品扱いで食べてきて、先週、最後の1つを食べ終えたのです。祖国の味に舌鼓を打ち終え、口福も噛みしめたのです。実に微妙な塩加減で、唸(うな)らせてくれた味でした。

また十月には、友人のご婦人は、「和菓子」をお持ちくださいました。ご自分の住む町の老舗の和菓子屋さんのものでしょうか、えも言われないで、口福でした。甘いだけではなく、微妙な味加減は、匠(たくみ)の成せる業でした。日本には、何十、何百年もの伝統の味が残されているのですね。

十月には、どなたもお出でではなかったのですが、この月の感謝祭には、「ターキー(七面鳥)」を、アメリカの家庭では食べるのです。その日は、私の師の誕生日でした。一、二度、ご馳走になったことがありました。味付けでしょうか、肉自体にでしょうか、実に美味しい味がして、うまくて口福にしてくれたのです。でも、しばらく食べてないなぁ!

年末になって訪ねてくれた友人は、この時期に、ドイツで食べる「シュトレーン」と言う、干し葡萄やナッツなどの入った輸入品の焼き菓子を、「ウガンダ産京都焙煎のコーヒー」とともにお持ちくださったのです。ドイツや北欧にも、季節季節の食べ物があって、人を口福にするのですね。その他に、日本の味も頂きました。

昨日も、友人の家庭に招かれて、ご主人は上海に、ご子息は東京においでですが、他の友人たちも一緒にごちそうになり、弟さんの老婆(laopo奥さん)が、〈田舎料理〉を調理してくださって、また口福にさせていただきました。健康が与えられ、生きる幸せを口や舌でも感じられるのです。感謝しなくてはなりません。

どうも、“故郷(の味)は、遠くにありて味あうもの”なのでしょうか。これが幸福の秘訣です。

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日の出ずる国

 

 

犬吠埼灯台の向こうに見える日の出です[HP/写真を楽しむブログ 撮影地と撮影方法]。日本の本土で、一番早く、日の出が見られるポイントだそうです(冬季を除く/地球が傾いているからですが、冬季は納沙布岬からだそうです)。

 

 

芦屋浜の朝焼けです[京都のエイちゃん/12月11日撮影]。関西圏で見る朝の空も綺麗ですね。芦屋市の案内には、『潮芦屋ビーチは、南芦屋浜地区の南西に設けられた人工海浜で、南に開けた砂浜と潮溜りのある磯を持ち、子どもから大人まで自然の浜辺を感じ、体験できる空間として人気のスポットとなっています』とあります。

 

 

長崎市の「道の駅 夕陽が丘そとめ」の夕日です。長崎市の案内に、『外海地区には絶景がたくさん!雄大な角力灘(すもうなだ)と夕陽はもちろんのこと出津文化村や世界遺産候補となった「出津教会堂と関連施設」や「大野教会堂」などなど!遠藤周作文学館が隣接しており、文学者遠藤周作とその文学の世界を堪能することができます。」とあります。古来、「倭奴国(、わのなのくに)」と呼ばれ、「日の出ずる国」の景色は変わらなく美しいのですね。

祖国の全土に、「創造の美」が溢れているのです。四季が巡り、降る雨が集められて流れて河川をなし、草や花や木々を茂らせ、田や畑を潤し、海に注いでいます。その大自然から、様々な食べ物を得て、人の生が育まれてきています。そればかりではなく、自然の微妙な美しさが、私たちの感性を育ててくれています。その様にして成り立つ国土に、生まれて育った私は、この地を愛して、感謝で、私の心は溢れています。

来たばかりの天津、その紫金山路の脇の七階の建物のベランダから見た、壮大な大陸の夕陽に圧倒された日々が、懐かしく思い出されます。ここ中国大陸にも、住む人を感動させる美しい自然が溢れております。

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