来年こそはの

 

 

年の暮れになって、呉市の野原に咲く「セイヨウカラシナ」です[HP/里山を歩こう]。今年は、マルタンさんが配信くださる、多くの写真を、私のBlogにアップさせていただきました。慰められたり、自然観察に誘われたりされました。ありがとうございました。街中のアスファルトやコンクリートにばかり目が向きますが、「里山」に誘われましたが、なかなか出ていけないままです。「目を向けて来年こそはの年の暮れ」です。

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土埃

 


 

西部開拓のアメリカで、東部から幌馬車を仕立てて、着いた土地を、『俺のもの!』と、杭を打つと自分の所有になったと聞きました。それで、道なき道を、ひたすら走り続けたのです。そんな中、金曜日の夜になると、宿営地に荷を下ろし、馬の鞍を外し、水と餌を十分に与えて休ませました。幌馬車の車輪の修理も、馬蹄の取り換えも、洗濯も、人の心の休息もしたのです。

日曜日になると、洗濯した清潔な服に着替え、家長が導いて、昔ながらの「歌」を歌い、これも昔ながらの「本」を開いて、家族に読んで聞かせ、旅の無事と家族の健康を願ったのです。月曜日になると、馬に鞍をつけ、荷を載せた幌馬車に馬をつなぎ、新しい週の行程を進んだのです。そうした人たちは、順調に旅を続け、病気も怪我も疲労もないまま、目的地に無事に到着したそうです。

その幌馬車の車輪が持ち上げる土埃(つちぼこり)は、すごかったのでしょうね。そのことを想像した時、高校の修学旅行で北海道に行った時のことを思い出すのです。4クラス、4台のバスが未舗装の道路を、土埃を上げて疾走していたのです。3組の私たちのバスは、前のバスの車輪の上げる土埃で、視界を遮られることが多かったのです。

函館の修道院も五稜郭も、札幌の北大も、洞爺湖も、アイヌ民族の居住地も、層雲峡も、マリモの摩周湖も、オホーツクの海原もみんな雄大でした。でも一番の印象は、〈未舗装の道の土埃〉でした。そして、強行軍での疲れたことだったでしょうか。半世紀以上も前の北海道は、そんなだったのです。ところが去年入院手術で訪れた北海道は、見違えるほどに整備され、高速道路網が張り巡らされていました。

痛い経験の日々を、また腕が自由に動かせるのだとの望みを持って、リハビリに励んだのです。若い療法士のみなさんの熱心な施術には、大変感謝したのです。同じベッドで寝起きをし、毎食心配りをされた食事をいただき、同じ階段を昇り降りして、リハビリンターに通いました。時々、〈ご褒美〉に、売店で買った一口羊羹やあんパンを頬張ったのです。

 

 

でも、とりわけ週末は寂しかったのです。病友たちは地元の方が多く、遠くても車で3時間で来ることができて、家族が見舞いにやって来ていました。差し入れのお裾分けをいただくのは嬉しいのですが、ちょっと“ショッパイ”感じがしたりでした。そんな中、友人が、クッキーセットを送ってくれました。《値千金》、大事に何日にも亘って、少し少しと食べて励まされました。友とは好(よ)きものです。

そして遂に、次男夫婦が、訪ねて来てくれたのです。ものの小一時間ほどしかいませんでした。でも、中村屋のキンツバ、榮太郎の和菓子、舟和の芋羊羹などを持って来てくれたのです。病友たちに〈お返し〉もできて、美味しかったり嬉しかったりでした。わが子の訪問、息子の嫁、家族っていいものですね。

今年、「胆振(いぶり)地方」で、大きな地震が起こり、甚大な被害がありましたが、被災者のみなさんは、落ち着かれたでしょうか。江戸防備のために、甲州と江戸の間に、《千人隊》を、幕府の開幕期には、八王子に置いたのですが、明治維新後、職と責任を失った《千人隊》の一部の方たちが、北海道開拓にやって来て、入植したのが、この「胆振」でした。

千人隊の末裔の方が、旧国鉄に務めておられて、わが家の近くの踏切番をされておいででした。弟が招かれて、八王子市千人町のお宅に遊びに行ってたことがありました。この方の親族も、胆振入植をされていたのでしょうか。そこは、北海道でも、冬季に雪の少ない、暖かな地だそうです。

(西部開拓期の幌馬車と芋羊羹です)

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もう少し日が経つと、お米屋さんに注文してあった「餅」が、毎年の様に、父の家に配達されてきました。その餅が、適当な硬さになると、父は、竹製の裁縫用の物差しを当てて、大きさを定め、包丁で平餅を等分に切って餅箱に入れて、正月の準備をしていました。それは父の性格が現れるのでしょうか、実に几帳面(きちょうめん)な作業でした。

元旦の朝、四人の息子に、『允、憲、準、徹、いくつ喰う?』と聞いて、母と自分の数を合わせて、七輪に持ち焼き用の網を乗せて、丁寧に返しながら焼いてくれるのです。焼けると、母が小松菜と鶏肉を具に、醤油ベースの出汁の大きな鍋の中に入れて、さっと煮て、碗に盛って、母が暮れの29日頃から作り置きした御節料理と一緒に、『いただきまーす!』と言うやいなや食べ始めるのです。

美味しかったし、楽しかった。関東風のさっぱりした雑煮は、まさに正月の味覚でした。昔ながらの御節料理を、父が作り手の母を褒めていました。あの時は、取り合いも、摑み合いの喧嘩もなく、ずいぶん和やかでした。あの時が「団欒(だんらん)」だったのでしょう。いつもは、まるで〈戦場〉の様な家でしたが、いつの間にか、みんなが和やかになっていきました。兄弟喧嘩は、父の家では"リクレーション"だったのです。

この育った家は、常時、窓を解き放っていましたから、みんな近所に筒抜で、ずいぶん荒っぽい家族集団だったのです。家内が、私と結婚をする旨、知らせた時、家内の上司が、『あの家の息子と結婚して大丈夫?』と心配したそうです。その上司は、兄たちと弟と、私の子供時代を知っていて、そう言ったそうです。何しろ有名だったからです。

それが、街中の心配をよそに、みんな落ち着いて、会社員や教師や倶楽部長になったりしてしまったので、これまた『変われば、変わるものだ!』と、街中を驚かせてしまったのでしょう。もう今や、みんな七十代の高齢の世代に入って、上の兄など、そろそろ「ひ孫」が生まれるのではないでしょうか。

この暮れ、兄たちと弟は、一緒に食事をすると言っています。私は参加できないのですが、みんなが羨ましがるほど、仲が良くなっているのです。これって、あの頃の"リクレーション"の《実》なのでしょうか。

(これにちょっと似ていたのが父の家での「お雑煮」でした)

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そう言う

 

さあ、
暗黒に向かって「光あれ」、
悲しみに向かって「喜びあれ」、
憎しみに向かって「愛あれ」、
圧迫に向かって「開放あれ」、
争いに向かって「平和あれ」、
敵に向かって「友よ」、
病に向かって「治癒あれ」、
鬱に向かって「気晴らしあれ」、
心配性に向かって「楽観であれ」、
涙に向かって「笑顔であれ」、
喧嘩に向かって「和解あれ」、
怠惰に向かって「勤勉あれ」、
多忙に向かって「休息あれ」、
恐れに向かって「安心あれ」、
孤独に向かって「慰めあり」、
拒絶に向かって「受容あれ」、
束縛に向かって「自由あれ」、
奴隷に向かって「解放あれ」、
滅びに向かって「再生あれ」、
破壊に向かって「再建あれ」、
汚れに向かって「聖くあれ」、
過去に向かって「明日がある」、
過ちに向かって「赦しあり」、
人の悪意に対して「挫(くじ)けない」、
敵対者に向かって「味方がいる」、
そして死に向かって「永遠の命がある」と言おう。
高価で尊い私の心に敵対して立つものに向かって、そう言おう!
失敗を恐れるな!
過去に怯えるな!
ありのままの自分でいよう、
新しく変えられるのに期待しよう、
生かされている事実に立って、そう言う。

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生きよ!

 

 

[HP/里山を歩こう]が、昨晩配信してくださった、広島県呉市の黒瀬川の川沿いに咲く、セイヨウカラシナとヒメジオンです。《たくましさ》を感じさせてくれます。

昨晩、出先の家の隣の建物の27階から、13歳の少女が身を投げました。「感謝と喜びの夜」なのに、自らの命を断たなければならない現実が、すぐ隣にあるのを知らされて、しばらく強烈な〈無力感〉を覚えさせられてしまいました。何かして上げられなかったかと思って、できなかったからです。

そう、『彼は、こう言った現実の中に、おいでくださったのだ!』と思わされたのです。命の付与者の前に、人が生きていて、自らの責任で生きているのだ、と思わされました。隣にいる人の〈生きていけない現実〉に、それでも私たちは、して上げられることがあるのだとも思わされました。諦めませんし、この悲しい現実に押しつぶされません。娘さんを、こういった形で亡くされたご両親や兄弟のために、何かできるかを考えています。

どんな現実があっても、人が生きていけるように願い、何か助けて上げたい思いでいっぱいです。自分も、生きにくい、この世の中で、自らを鼓舞してくださる出会いがあって、今日まで生きられたことを思い返しています。私が聞いた『それでも生きよ!』と言われる、天来の声を聞いて欲しいのです。

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カスがいい

 

 

『♯十五、十六、十七と、私の人生暗かった♭』と、十代の女性演歌歌手の藤圭子が、可愛らしい顔に似合わず、歌っていたのが思い出されます。この藤圭子と同じ故郷の大雪山麓の中学校の一級下だった方が、こんなことを、ご自分の著書の中で記しておいででした。

『藤圭子は、学業成機が優秀で評判でした。』とです。向学心もあったに違いありません。でも、ご両親が浪曲師で、街から村へと渡り行く「旅芸人」で、高校進学を断念せざるを得ませんでした。それで、ご両親を助けておられたそうです。お母様の目が不自由で、彼女が長女だったこともあって、大変な苦労をされたのだそうです。

東北の街で生まれ、北海道内を渡り歩いて、自分でも、前座で歌を歌ったり、浪曲を演じたりしていた様です。東京に出て来て、錦糸町や小岩などの盛り場を、お母様と一緒に流して歩いて、「三曲200円」と稼いで、家族を支えていたそうです。まさに、歌の歌詞の様な生き方を、幼い日からして来た様です。

そういえば、私の十代前期も暗かったのです。恵まれた環境の中にいて、何不自由なく生きられたのに、心の中に闇が広がっていたのです。それって、子どもから大人になって行く過渡期で、〈思春期の闇〉と言えるでしょうか。何かトンネルの中にいる様な、不快感、圧迫感があって、上手く生きられなかったのす。

バスケットをしたり、映画を観たりしていも、勉強もままならなかったのです。それでも、学外からの〈実力テスト〉になると、なぜか、学年で十番以内に入ったりの〈チグハグ〉な時期でした。そんな自分に担任は気付いていた様です。中三の最後の卒業の通信簿に、『よく立ち直りました!』と行動評価を書いてくれ、ほんとうに立ち直ったのです。

 


盗みを働いたり、停車中の電車のドアーを開けてしまったり、喧嘩をしたり、タバコを吸ったり、お酒を飲んだりの〈危なっかしい年齢〉を、ヨロヨロと通り過ごすことができたのです。徒党を組んでではなく、何時も単独犯でした。通報された学校も、呼び出された親も知っていたのに、なぜか処罰されなかったのです。私立の中学でしたから、停学とか退学もあったのですが、『もっと悪くなるといけない!』と考えたのでしょうか。

重大なことがあったのに、何もなかったかの様に通り越した私は、大学にも進学でき、何と学校の教師にもなれたのです。「子は鎹(かすがい)」という言葉があります。きっと私の母は、『子はカス(クズや不用品のワルのことです)がいい!』とでも思ったのでしょうか、嘆く代わりに、ただ天に向かって手を挙げて願うばかりだったのでしょう。

でも、私は心を天に向けて、『ごめんなさい!』と言って、《赦されたこと》を確信したのです。それ以降、燦々と降り注ぐ陽のシャワーの中で、嬉々として生きて来れるようにされ、感謝しているのです。こんな恥な過去を書ける年齢になったのでしょうか。『何と詫びようか、お袋に?』と思ったまま、その機会も得ずに、お袋は天に帰って行ってしまいました。でも、『今の俺の姿を見たら、安心してくれることだろう!』、と勝手に思っている年の暮れです。

(以前の中央線ホームから西武国分寺線ほーむ、「子は鎹」の落語の漫画です)

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十二分

 

 

「知足(ちそく)」と言う漢語があります。辞書に、『[老子「自勝者強、知レ足者富」から〕]足るを知ること。身の程をわきまえてむやみに不満をもたないこと。 「 -守分」』とあります。

人の欲望って、際限なく強く、大きくなるものなのでしょうか。自分の来し方を顧みますと、「縁」のないものが幾つかありました。[褒賞(ほうしょう)]と[栄誉]と[お金]でしょうか。平々凡々の凡人で生きて来た様です。

ユダヤの古書に、『蛭(ひる)にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。陰府(よみ)と、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。』とあります。陰府と不妊の胎、地、火は、深くて大きくて際限なく広がっていくからでしょうか。

つくづく思うのですが、父が大富豪で、巨万の富を残してくれて、自分の「相続分」が溢れる程にあったら、きっと良からぬことに使って、身を滅していただろうと思うのです。私の父は、豊かだった時期があったのですが、晩年は、家と、書庫にわずかな書籍と、一竿(ひとさお/家具などの量子で言う様です)の洋服ダンスに中に収まる程のわずかな物で満足して生きていました。

それに引き換えると、私などセーター7着、パンツが10枚、靴だって5足ほどあります。溢れる程ではありませんが、十二分に備えられている生活ができています。生まれてから、「食べられない日」は、病気と断食した日以外にはありませんでしたし、財布の中には、いつも千円札が入っていました。

蛭の様に、際限なく欲しがれば、きりがないのですが、ほどほどに生きて来れた、この凡々たる生活で満足しています。日本に帰れば、僅かばかりに年金が、口座にあるでしょうか。盗みもしなかったし、人も騙さなかったし、人に乞うこともなく生きて来れたのですから、感謝でいっぱいです。まさに《知足》の人生で、《十二分》であります。

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冬の花

 

 

冬の今頃、広島県呉市の黒瀬川流域に咲く、カタバミの花です[HP/里山を歩こう]。蝶々の食草なのだそうです。昨晩配信してくださいました。この一ヶ月ほど、私たちの2階の家は、南側の9階の隣の建物の影になって、午後3時にならないと、陽が射してこなくなっていました。それも僅か1時間ほどです。

昨日が「冬至」でしたから、今日から、太陽が少しづつ高くなって行くので、陽が戻ってくることでしょう。今日は「日曜日」です。好い一日、一週でありますように。

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冬至

 

 

何と、わが家の寒暖計は、 19℃を表示しています。今日は、12月22日、「冬至」なのにです。例年ですと、家の中に縮こまっているのに、こんな暖かくて好いのでしょうか。窓は開放、子どもたちの遊ぶ声や近くの建設現場から、槌音が聞こえて来ます。

私たちが子育てをして、長く住んだ街にいた頃、毎年、この一週間くらい前に、バケツ一杯の「柚子(ゆず)」を届けてくださる方がいました。山の中で柚子を栽培している農家の方でした。下の子どもさんを、火傷で亡くされて、悲しみで意気消沈されていたお母さんを、家内とお訪ねして、慰めたり、励まして差し上げたことがありました、

柑橘類の匂い、とくに柚子の匂いは独特で、料理にも使ったりしますが、きっと 「柚子湯」にする様にと、届けて下さったのです。この時期になると、思い出される出会いと匂いと冬のお風呂です。この「冬至」には、この他に「南瓜」も煮て食べる習慣がありました。ここ中国では、米の粉で団子を作り、それをゆでたものに、砂糖を加えた「きな粉」をまぶした「団子」を食べるのです。昨晩家内の日本語クラスの女の子のお母さんが、わが家の台所で作ってくださったのです。

柚子湯も南瓜もありませんし、その上、温かなので、冬至気分はしないのが残念です。でも来週からは、寒波襲来で、寒さが戻ってくる様です。

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割烹着

 

 

いわさきちひろの絵です。私の母の生まれた翌年に生まれておいでです。この方は、子どもの頃、電車に乗って、窓が曇ってると、そこに絵を描き、描き終えると他の窓に移って行って描き続け、乗客が席を譲って描かせるほどに、この方は、絵を描くことが好きだったそうです。こういうのを、「栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し」と言うのでしょうか。

 

 

『あの子が欲しい、この子が欲しい!」と節をつけて言いながら、こんな風に、私たちの時代は、集団で遊んでいたのです。子どもたちの向こうに、お母さんが描かれています。《昭和のお母さん》が着ているのは、「割烹着(かっぽうぎ)」で、私の母もよく着ていました。スーパーのプラスチックの袋でなく、「買い物籠」を提げているのがいいですね。また、妹をおんぶしているなんて、もうこう言った姿を見ることがなくなってしまい、とても懐かしいものです。

今日(アメリカ時間)と25日は、孫娘たちの誕生日です。こんな風に遊んだりすることは、二人ともないのでしょう。ただ、健康であり、人に愛され、人を愛する様になって欲しいと願う〈大陸のジジとババ〉なのです。

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