望みを持って


私たちの家の北に「男体山」、東に「筑波山」、西に「富士山」が見えます。真冬の晴天の朝、凍てつく様な茜色になった筑波山方面から陽が昇って、なんとも言えない荘厳さを見せてくれます。夕陽を背にした富士山を遠くに見て、懐かしさを覚えてしまいます。残念ながら、建物に邪魔されて、富士山は頂上付近しか見えません。南は、関東平野が広がっています。

曇りの日には、三方向に山はありながらも、姿が隠れてしまって、ちょっと寂しい思いをしております。駅から、本数は少ないのですが、南に行く特急電車に乗ると、乗り換えなしで湘南に行き来することができます。また、ここから小山に出ると、茨城県の水戸や磐城の海に行くJR線があって、無理すれば日帰りが可能です。その他は山また山ですが、岩魚や山女などを焼いて、蕎麦でも食べられそうです。

ちょっと環境変化が欲しいのですが、願いを思いの中に秘めているのが一番いいのだそうです。決して閉塞状態にあるのではなく、〈ブラ旅〉を、ブラブラしながらしてみたいだけなのです。家内は、『温泉でも行って見たら!』と言ってくれますが、それとて〈ヒトリボッチ温泉〉の気分にはなりません。

フランクルが著した「夜と霧」に、収容所の中で、明日への希望をつなぎながら、今日を望みを持って生きている人たちが、過酷な中を生き延びたと書いてあります。『あの人と結婚しよう!』とか、『こんな仕事をしたい!』とか、『あそこに旅をしてみたい!』とか、今日の苦しみの中で、明日や来月や来年のことを考えることがいいと言ってるのです。

冬枯れの奥深い街に住んでいますと、おのずと海が恋しくなってしまいます。潮騒を聞いたり、潮風に当たってみたくなるのです。サザエの壺焼きなんかを食べてみたら、素晴らしいのですが。家内にも、『よくなったら一緒に・・・』と、口癖の様に言ってしまいますが、言い過ぎると重荷になってしまうでしょうか。

今は、孫たちがやって来るのを楽しみにしています。それで今日、家内は、思い立って、散髪に行ったのです。独身時代の彼女は身だしなみで、一週間に一度は、美容院通いをしていたそうで、後は両親に給料を袋ごと渡していたそうです。夏に、近所の美容室に行ったのですが、今回は高いので、理容室に行くと言って、駅前に出かけて行きました。綺麗にして、子どもたちや孫たちを迎えたいのでしょう。

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我慢強さ


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以前に治療した歯が、また〈悪さ〉をし始め、帰国する度に、歯科通いをしてきました。今年の帰国で、家内の治療が長引くと考え、それで、じっくりと歯の治療を始めたわけです。だいぶ削った後に、『抜かないと!』と、地元の歯科医に言われていたのですが、治療前の測定で、血圧が高いと言って、三度ほど抜かれずに過ぎていました。

ちょっと不安に駆られた私は、秋風が吹き始めた頃に、この歯科医に代わって、前回帰国時にかかった、日本橋の歯科医に診てもらったのです。随分以前に、治療した歯でしたが、歯と歯茎の間に、食べかすが溜まって、化膿し始めていたのです。それを、昨年の帰国時に、この兜町の証券取引所の株屋さんたちを患者にされている歯科医に、切開していただいたのです。

その後、中国の華南の街に戻って、いただいた歯ブラシで丁寧に歯磨きを励行していました。そのおかげで、回復していたのです。それを、今年帰国してから、地元の歯医者を訪ねましたら、最初から抜くと言われて、削ったまま、ずっと治療停止状態のままでした。

双方とも《抜かない歯医者》との触れ込みなのです。抜こうとしていた歯は、日本橋の歯科医の話では、この奥歯は、《我慢強さの歯》なのだそうです。この歯を噛みしめることによって、忍耐力が涵養されるのです。七十の私にも、もっと我慢強くしていて欲しいと、日本橋では、抜かないですむ治療を施してくれてきたのです。

この先生が話し好きで、口を開けて、返事のできないでいる治療中の私に、しっきりなしに話しかけるのです。友人の息子や、タクシーの運転手や、知人のことを、歯の治療に関してです。私が中国に行き来していることや家内の病などを話したことがあって、思い出した様に、そんな話題に触れるのです。

ところが応答できないのを承知で、治療の退屈さを紛らすためか、耐えるためにでしょうか、話しかけられるのです。漫談師になっても、やっていけそうなほど話題が豊富なのです。治療が終わって、話の返事をしようとすると、次の患者さんが来ていて、そのままで終わってしまいます。一方通行の話って、どうしたらいいのでしょうか。

そんなで、大切な歯が、ギリギリの所で、残ったわけです。まだ奥歯を噛んで我慢することもあります。この歯が残っていることで、まず自分に我慢できてるのが一番でしょうか。この左右の《我慢強さの歯》が、若者たちに残されることで、きっと犯罪も少なくなれるのかも知れません。

国語辞典に、「奥歯を噛む」について、『悔しさ、苦しさなど、耐えがたいことを、じっとこらえるさまにいう。歯をくいしばる。※杜詩続翠抄(1439頃)九「奥歯をくうて憤発而言た躰也」』とあります。〈地団駄(じたんだ)を踏むためにではなく、自分に忍耐するための我慢をしながら、新しい年を迎える準備中です。

(日本橋の古写真です)

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へそ曲がり

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正月に「お雑煮」を、土用の丑の日には「鰻」を、年の瀬には「蕎麦」を、日本人は食べて来たのですが、これもそんな古い習慣ではなさそうです。12月24日、降誕節の前日に「チキン」と「ケーキ」を食べる様に、いつの頃からか、そうなりました。戦前には、そんな誰もがの食習慣はなかったのですが、アメリカ軍が進駐して来てから、アメリカ文化に感化されて、そうなったのでしょうか。

アメリカでは、この時期に、「七面鳥」をグリルして食べていたのだそうですが、調理が面倒なのと高価ですし、手に入りにくいので、手っ取り早く、「代用品」の〈鶏肉〉、それも、骨つきの足の部分を食べ始めたのです。ケンタッキーフライドチキンが始めたのだそうで、もう日本では、この食習慣も〈日本的〉になってしてしまいました。

「デコレーションケーキ」は、もう少し古く 1910年に、不二家が売り始めたのだそうです。真っ赤な鼻のトナカイのソリに乗った、白いひげで真っ赤な服を着て、袋をかついだ「サンタ」が登場したのはコカコーラが、1930年代に宣伝したことによるそうです。

北欧や西欧、アメリカの文化が、戦後、怒涛の様に、〈商業主義〉の波に乗って、日本に入り込んできたわけです。私の恩師は、アメリカ人ですが、キリストの誕生は、秋の10月頃であって、この時期になったのは、古代の王・ニムロデという指導者の誕生日や、バビロンの祝日、冬至の祭りに合わせた祭り事だと言って、根拠希薄で、特別に祝うことはしませんでした。

サンタクロースが主役になって、大騒ぎする様なものは、異質なのでしょう。子どもの頃、12月25日の朝になると、枕元に、ギフトが置かれていて、大喜びをしたことがありました。あの父とサンタのギフトと、あまり似合わないのが、ミスマッチで面白かったのです。

私も、この恩師に倣って、この文化に馴染めないまま、今があります。私にとっては、毎日が「降誕節」であって、そう言った日常が定着してしまっているのです。ラジオのコメンテーターまでもが、〈Merry〉と祝い言葉を使っていて、ちょっと不思議でなりませんでした。これって口先のことではなく、心の中の出来事なのですから。少々〈へそ曲がり〉かも知れませんね。

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私たちの国の高校野球は、強豪校の多くが、有能な選手を国内留学させて、甲子園に出場を目指す様です。授業料免除、奨学金支給もあるそうです。すでに小学生の頃から、目覚ましく活躍する野球少年に目を向けているのです。勝つため、つまり〈甲子園出場〉と言った大目的のために、青田買いをしているのです。そんな中、チーム全員が秋田県出身で構成する秋田の県立金足農業高校が、2018年の甲子園で大活躍していました。

出場校が、ほとんど私立の中、県立高校が高校選手権大会で、準優勝したのは快挙でした。野球界だけではなく、柔道でも、高校進学のための〈国内留学〉があって、一人の高校生が、私たちが住んでいる街の柔道の名門校に入学しました。時々、私たちの事務所に顔を見せてくれました。

二十代の前半に、私は左腕を骨折をし、住んでいた街の〈名倉堂〉と言う柔道整復院で診てもらいました。複雑骨折で、この方の手に負えないで、三つ先のJR駅の近くで開院されている、この方のお父上の所に行く様に言われたのです。

レントゲンを撮って、治療していただき、副木を当てられて、だいぶ通院しました。骨は繋がったのですが、〈くの字〉に曲がった腕が伸びませんでした。『甲州増富の温泉がいい!』と言われて湯治に出かけたりしたのです。ある時、時を見計らっていた父先生が、『エイッ!』と掛声をかけて伸ばして、それ以来、冬場にも痛みなしで半世紀になります。

あの高校生は、柔道界では、オリンピックに行ったりの活躍はできなかったのですが、お父上と同じ柔道整復師の資格を、3年の学びをして取得しました。その資格をとった彼が、ふと私の家にやって来たのです。そして『お世話になったお礼に、マッサージをさせてください!』と言って、最初の施術をしてくれたのです。

そんな律儀な彼に感謝して、喜んで受けたのです。すごく世話を焼かされた方がいても、そんな感謝をされることがないことが多い中、その気持ちが、とても嬉しかったのです。音沙汰がなくなって、もうだいぶ時が経ちます。先日、冬場に、十数年来起こる腰痛で難儀している中、長男が家内の通院の助けで来てくれた時、電話の向こう側の嫁御の勧めに従って、整形外科に連れて行ってもらいました。

『手術!』とは言われずに、温湿布、電子治療を受けたのですが、今は、家内が近くのドラッグストアに、一人で買いに行ってくれた〈ホッカイロ〉を腰に当てています。まあ、この腰痛と仲良くして行くことにしています。運動や重労働もしましたので、医師の診断は〈老の一部〉だそうです。オイオイ "泣いたりしていませんので、ご安心のほどを。

(子どもの頃の漫画の「イガグリくん」です)

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冬至

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中国の街で過ごした13年間の間、中華民族が、4000年もの間、最もこだわり続けたのが、「春節」だと言うことが分かったのです。この「春節」が近づくと、道筋に、年越し用品、正月用品が並べて売り出されます。みなさんは、それを買い求め、「大晦日」には、家族みんなそろって夕食を食べるのです。

そして祝賀の思いを表す、「対聯(〈ついれん〉おめでたい言葉を赤い紙に書いたもの」を、門や家の入り口の門中と鴨居に貼り出します。新年の祝賀と、邪気を払おうとします。そして日本の正月と同じ様に、盛りだくさんで豊かな食べ物を食卓に並べます。爆竹が鳴り響き、花火が打ち上げられ、煙り街中を満たすのです。

寒い冬の最中ですが、「春」の到来を告げる、この「春節」は、寒ければ寒いほど、待ちわびる思いも強いのでしょう。みなさんは、暮に買ったり、贈られたりした、新調した服を着て、街中を家族連れて歩くのです。春を喜ぶ想いが、溢れかえるのです。

今日は、「冬至」です。この日を境に、太陽の光が戻ってくるので、ヨーロッパのみなさんは、この日を喜ぶのだそうです。太陽の回帰、陽の光が戻るというには、冬の寒さに比例した強さになるのでしょう。私たち日本人は、「と」や「ん」のつく食べ物、豆腐、どじょう、唐辛子、冬瓜(かぼちゃのことでしょうか)、蓮根、銀杏、うどんなどを調理して食べる食習慣がありますが、きっとヨーロッパのみなさんにも、国によって、民族によって、独特な食べ物があるのでしょう。

華南の街にいた去年、日本の友人から、「シュトーレン」というケーキを頂きました。ヨーロッパ人、とりわけドイツ人のみなさんが好んで、この季節に食べるのだそうで、実に美味しく頂きました。その味が懐かしくて、今年は、この街で探したのですが、宇都宮にはあるそうで、どうしようかと思っていて、娘が来るので、時季がずれますが、買ってきてもらおうと注文してしまったのです。

今夕は、「柚子(ゆず)湯」にしようかと思っています。前の任地で、柚子を生産している方が、毎年、今頃になると、新しいバケツいっぱいにした物を持って来てくださいました。そう言えば、華南の街でも、よく頂いたのです。

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恩人の死


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戦争が終わって、軍需産業の石英の採掘工場が閉鎖されて、父は、その工場を、平和利用し始めたのです。石英を搬出したケーブルを利用して、県有林の伐採権を得て、木材の切り出しをしていました。搬出先は、京浜地帯の木材市場だった様です。その父のもとで、十代の青年が働いていたのです。

この青年は、戦時中、国防の志を立てて、予科練に志願し、終戦とともに、その志は敗れてしまったわけです。出雲にいた当時、父が好きだった、〈泥鰌すくい〉の手伝いをさせられたことがあって、近く親しい関係があった様です。それで、父を頼って、父が始めた事業を手伝おうとしてやって来たのです。

街から作業現場は、山道を歩いて往復していたそうです。若いこの方が、歩こうとしない私を、父に言われておぶって山奥の家に連れて行ってくれたそうです。しかも若くて屈強の方でしたが、荷物を持ちながら、私を背負い、泣き泣き山道を歩いたことを、母や兄たちから聞かされたのです。

その木材の事業を終わらせた後、この方は、故郷に戻って、日本通運の自動車の運転手の仕事を始め、定年まで働いたのです。父への感謝があったのでしょう、秋には鳥取の二十世紀梨を、年末には出雲そばと「あご野焼(飛魚で作った白身のかまぼこ)」を毎年送ってくれました。

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私たちが結婚すると、四人の家に、同じ様に、毎年送ってくださったのです。私が中国に行くまで、それが続いていたのです。父と母が好きだったので、それを父の子たちにも送り続けてくれたわけです。穏やかな方で、私たちは、父や母が呼んでいた様に、『茂ちゃん!』と、〈ちゃん呼び〉を許してくださったのです。

鳥取に出張した時に、出雲のお宅に寄ったことがありました。美味しい、出雲そばをご馳走してくださり、日御碕(ひのみさき)に連れて行ってくださったり、大東の母の親戚までお連れくださったりしたことがありました。その時、父や兄に聞かされた〈昔話〉を話しますと、ただにこにこと聞き流しておられるだけでした。

先ほど、兄と弟から、茂ちゃんが、今朝、九十歳で亡くなられたと、言ってきたのです。みんなで訪ね様との話が何度も、私の帰国時にあったのですが、兄たちは行くことが二度ほどあったのですが、私は実現しないまま、過ぎてしまっていました。もう一度お詫びをしようと思ったのに、叶えられなかったのが残念でなりません。

葬儀のために、兄と弟が明日一番で、出雲に出掛けると言っています。残された奥様と、息子さんの上に、ただ平安を願うのみです。私の大切な方、恩人との戦争後からの出会いと交流に、終止符が打たれたのです。ただ感謝あるのみです。平安!

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遊びと労働

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オランダの歴史学者に、ホイジンガという方がおいででした。ある本の中で、この方の述べられたことが引用されていました。「遊びと労働」についてでした。「仕事(労働)」だけではなく、「遊び(余暇を楽しむ)」ことに触れています。

日曜日と週日、昼間と夜間、青年期と老年期、冬至と夏至、正月(西洋ではXmas )とその他、夏と冬と言う対になったものの様に、「労働(仕事と言っても好いでしょう)と「遊び」があるのでしょう。

奉公に出た丁稚さんの楽しみは、主人からお小遣いをいただいて、弟や妹にお土産を持って帰省できる、盆と正月だったそうです。それを「藪入り(やぶいり)」と言って、旧暦の一月一六日、七月十六日なのです。「故郷(中国語では  老家 laojia ”と言いますが漢字としては実感が強いですね)」、つまり親元に帰って、過ごす日々の楽しみが、日常の奉公を支えていたと言ってもいいのでしょう。

労働だけでは、人間は耐えられない様にできているのでしょう。日常の義務や任務から解放されて、ホッとできるひと時が、激務の時を支えているとも言えるでしょうか。今年の後半は、ラグビー熱がものすごい一年でしたが、前後半の間の “ half time ” が、それと同じ様な役割を持っていそうです。

ただし、正しく日曜日、昼間、青年期、正月、遊びをしないと、意欲を削いだり、怠心が生じたりしてしまいます。私は、本業の他に、スーパーマーケットの床掃除を、月に二、三度でしたが、20年ほどやっていました。自分たちの事務所を建て上げる時、工務店に頼まないで、自分たちの手で建てたのです。その掃除からの収入が、建設期間の十数カ月間の働き手の生活の一部を支え、後には、子どもたちの教育費に当てることができたのです。

その労働が明けると、私はタオルを手に、朝湯の銭湯や日帰り入浴施設や山間の温泉場に出掛けて、息抜きをしたのです。パチンコとか麻雀とか競馬などをしませんでしたから、500円ほどで湯に浸かって、ボーッと山の稜線や飛ぶ鳥を眺めて、昼時には、蕎麦をすすって、小さな安らぎの時を過ごしたのです。

床を洗浄し、モップをかけ、乾いた床面にワックスをかける作業でした。学校に行っていた時に、大手のホテルのアルバイト中に、ポリシャーを使ったことがあって、その経験を買われて、その仕事を得ることができたのです。「労働と遊び」、これが一対をなすのを身を以て経験したことになるでしょうか。

あの忙しさと緊張を解かれて、今の時があります。けっこう懸命に生きて、義務を果たして来れたんだと自負しているのです。多くの人の助け、協力、理解があってでした。今住んでいる、この街の北の方に、入浴施設があって、一度行ったことがありました。同じお湯、似た様な環境でありながら、労働の日々の合間ではなかったので、あの頃の様な感動がないのに気づかされるのです。

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渓谷の谷間に浴場があって、川の対岸の壁に、ぎっしりと氷柱が下がっていた温泉がありました。あの感動は忘れることがありません。ちょうど今頃の季節、厳冬の凍てつく日が続いていた日だったと思います。あの「遊び」の時々があって、「労働」の日々が支えられていたことになります。

(懐かしい山間の公共の日帰り温泉です)

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仕事

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市役所では、『まだまだ!』と思っている私を、とうとう「後期高齢者」の枠に入れてしまいました。孫たちだけではなく、正真正銘の〈senior/シニア/おじいちゃん〉になってしまって、もう納得しております。

そういえば、時代の主役は、とっくに息子や娘になって、今や、孫の時代を迎えようとしているのかも知れません。号令一下、妻や子どもたちを従えて、車に乗せ、海水浴やキャンプや親戚の家に連れ出し、一切の責任を自分の肩に負い、気負いながら、家族を守りながら東奔西走した日々があったのを思い返しています。

格好をつけたのはいいのですが、山道を降った車の前方で、旗を降ってるいる男の人が見えました。『何だろう、こんなところで?』と思ったら、静岡県警の交通違反取り締まりだったのです。道理で帽子を被っていました。格好いいお父さんが、速度違反の切符を切られて、しょげて、俯いているのを、車の中から〈八つと二つの目〉で見ていました。頑固親爺も肩なしでした。

そんなことを思い返しながら、本格的な「終活」に入ったのを実感しています。ウイキペディアに、『終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最後を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括をする言葉である。』とあります。

「葬儀不要」、「墓不要」を家内に言ってあります。だれかに懐かしく思い返され、悪いことには触れないで、いいことだけが語られる様な式は、して欲しくないのです。造物主の元に帰ることができるので、亡骸を埋葬する場所はいりません。中部山岳の街の上流の流れのほとりで生まれましたので、その流れに灰の一部を、そして13年過ごした華南の街の旧新の両市街を分けて流れる河に、残りを流して欲しいのです。それも大変ですから、巴波川に、そっと流してください。

財産はありませんので、遺言状を書く必要はありません。遺産は無形の思想や精神であって、どんな夫、父親、祖父、友、弟、兄であったかを思い出して戴くだけで十分でしょう。

そういえば、39才の時、家内と4人の子どもに向けて「遺書」を認めたことがあります。すぐ上の兄に、腎臓を提供するために、左腎を摘出手術をすることになって、〈もしか〉のことを考えて書いたのです。家内が、その決意を支持してくれたのは感謝でした。次男は、3歳になったばかりの時でした。

百まで生きさせて戴くつもりですが、どう考えても、もう十年、十五年、そんなところでしょうか。最近、順天堂大学病院の哲学外来の樋野興夫医師の書かれた本を読んで、「死にゆくとは仕事」という考えを知って、うなずいたのです。

鶏小屋の金網のケージを作る作業が、私の社会的仕事の最初のものでした。それから、今している「家内を支える仕事」、現地を離れていますが、華南の街で「継続したい仕事」もあります。もしかしたら、私の方が、家内よりも早いかも知れませんが。一緒に戻れることを願いつつあります。

そして最期に、「死にゆく仕事」が残されているんだと思えるのです。いつも思うのは、〈双六(すごろく)〉の様に、〈上がり〉になる様に、家内や子どもたちの迷惑にならないことだけを願っています。でも、これからは迷惑なしには、後期高齢期を生きられないのですから、万端よろしくお願いしておきます。

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遊び

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滝廉太郎の「お正月」、新しい年が来るのが待ち遠しくて、よく歌った記憶があります。

もういくつねると おしょうがつ
おしょうがつには たこあげて
こまをまわして あそびましょう
はやくこいこい おしょうがつ

もういくつねると おしょうがつ
おしょうがつには まりついて
おいばねついて あそびましょう
はやくこいこい おしょうがつ

男の子は凧(たこ)や独楽(こま)、女の子は追い羽根(おいばね)が、正月の遊びでした。私たちの世代には、そんな遊びがあって、とても懐かしく思い出します。家の中では、「福笑い」や「カルタ」や「トランプ」で遊んだのです。

独り遊びもありましたが、ほとんどは「集団遊び」でした。『勝ってうれしい花いちもんめ、負けて悔しい花いちもんめ、隣のおばさんちょっと来ておくれ、鬼が怖くて行かれない、お布団かぶってちょっと来ておくれ、お布団ぼろぼろ(若しくはびりびり)行かれない、お釜かぶってちょっと来ておくれ、お釜底抜け行かれない、(鉄砲かついでちょっと来ておくれ、鉄砲あるけど弾がない、)あの子が欲しい、あの子じゃわからん、この子が欲しい、この子じゃわからん、相談しよう、そうしよう』とです(東京都下版)。

陣取り、鬼ごっこ、馬乗り、馬跳びなんかもありました。夕方のラジオ番組が始まるまで遊んで、「笛吹童子」などの番組を聞こうと家に帰って、ラジオの前に座って聞き入ったのです。

テレビもゲーム機も無かった時代の素朴な伝統的な遊びが、代々受け継がれていた様です。体のふれあいが懐かしいですね。遊び仲間の距離で、体温の温もりを感じられる様な近さで遊んでいた記憶があります。竹馬にも乗りましたし、兄が作ってくれた雪橇(ゆきぞり)で、崖を滑り降りたりもしました。

ザリガニやハヤ(川魚)を釣ったり、屑屋のおじさんの助けで、小川の流れで、金目のものをすくったり、水道管の繋ぎの真鍮製の栓を掘り起こしたこともありました。そんな手伝いで、お小遣いをもらったりしました。

家に帰って、宿題をやった様な記憶がないのです。病気にならない時の外遊びに懸命だったのを思い出します。同じ学年での遊びではなく、近所の子どもが長幼が混じりながら、よく遊んだのです。面倒見のいいお兄さんがいて、遊んでくれたでしょうか。その遊びで、人間関係のルールを学んだのだと思います。

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垣根

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植木の「垣根」って、最近では、あまり見かけません。腱板断裂の怪我をして、中国から帰って来た足で、札幌の整形外科医院に入院したのが、三年前になります。手術を終えて、リハビリを継続して受けていた頃、何度か外出許可をもらって、札幌の街を歩いた時に、気付いたことがありました。北海道の家の多くが、垣根なしなのです。

半年後に、家内を連れて検診で、札幌を訪ねた時に、遠距離バスで、函館に知人を訪ねた時も、函館周辺でも、同じ様に、多くの家が垣根がなかったのです。それらは、私には新発見でした。私自身が、垣根や塀のない家に住み続けてきたので、そう感じたことでした。

作詞が巽聖歌、作曲が渡辺茂の「たきび」の歌詞は、次の様です。

かきねの かきねの まがりかど
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
きたかぜぴいぷう ふいている※

さざんか さざんか さいたみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
しもやけおててが もうかゆい

こがらし こがらし さむいみち
たきびだ たきびだ おちばたき
あたろうか あたろうよ
そうだんしながら あるいてる

バケツの水に、新聞紙をつけて、十分に水分を吸った新聞紙で巻いた、サツマイモを、掃き集めた落ち葉の焚き火に入れるのです。芋が焦げないで、しなやかな「焼き芋」が作れるのです。スーパーの入り口で焼いて売っているものとは、一味も二味も違って、実に美味しくできあがります。

子どもたちを連れて山奥のキャンプ場に行った時、消化用にバケツに水を張って置きながら、落ち葉を集めて焚き火をしたことが何度もありました。必ず、サツマイモを持参して。「焼き芋」を作ったのです。

そういえば、「焚き火」も、消防法とかで禁止されているのでしょうか、見掛けることはありません。先週、集まりへの出席で、出かけた道筋の農地から、煙が上がっていました。しかも二箇所で見掛けましたが、珍しい光景でした。以前は、どこでも見られた里の風情でしたが。

今年は、家事が自分の仕事で、食料の買い出し、調理、ゴミ出し、洗濯などをこなした一年で、家内に長くやってもらった分の〈お返し〉をしたのかも知れません。それで、春先に、「しもやけ」が手にできてしまい、痛痒さを久しぶりに味わったのです。〈生味噌〉の代わりに、メンタームを塗って直しました。

今日は、市立図書館に行って、矢内原忠雄全集を読んできました。若い頃に傾倒した人の著作を読み直して、再び強烈な迫りを感じたのです。家内は、「夜と霧」を読み直して、借り出して帰って来ました。行き帰りの道筋に、山茶花の垣根がけっこう多いのに気付いたのです。これから、木枯らしの季節になるのでしょうか。

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