赤い靴の女の子とおじいさん

.

 「赤い靴」は、作詞が野口雨情、作曲が本居長世によるものです。この歌詞は、1921年(大正10年)に発表され、翌年に作曲された、ちょっと物悲しい童謡です。

赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんのお国に いるんだろ

赤い靴 見るたび 考える
異人さんに逢うたび 考える 

 「麻布十番商店街のホームページ」によりますと、〈赤い靴履いてた女の子〉は、実在した少女で、名前を岩崎きみさんと言いました。1902(明治35)年715日に、静岡県不二見村(現・静岡市清水区宮加三)に生まれています。きみちゃんは、未婚の母の子でした。お母さんは、きみちゃんと北海道に仕事を見つけて行き、お母さんは、そこで結婚するのです。
 
 留寿都(るすつ/洞爺湖に近くです)にあった、極寒の開拓農場で働くことになり、3才になっていたきみちゃんを、連れて行くができないと結論したのです。そこで、アメリカ人宣教師夫妻への養子の話が持ち上がり、結局、養子として受け入れられることになります。きみちゃんが3才の時でした。

 この夫婦は懸命に働くのですが、農業開拓に苦労した末に、農業から離れることになり、札幌に引っ越すのです。そこで新聞社で働く機会を得て、その職場で、まだ名の出る前の野口雨情と出会い、交流がなされます。

 雨情も、娘を亡くすという辛い過去があったそうです。それで、お互い通じるものがあったのでしょう。アメリカ人の養女になった「きみちゃん」のことを、お母さんは雨情に話したのです。その悲しみをヒントに、童謡の「赤い靴」の詩を書きあげました。

 どんな事情の女の子かなと、気になっていましたが、そんな実話があったのです。どんなに苦労しても実の親に、養育の責任があります。5年ほど前に、札幌の病院に入院中に、同じ手術を受けた酷寒の旭川の方が、子どもの頃、朝起きたら、肩に雪がつもっていたと言った言葉を思い出し、みなさん苦労して育ったので、きみちゃんのお母さんにも事情があったでしょうけど、もう少し責任感があったらと、残念なお話です。

 『悲しいことが繰り返されないように!」と言う趣旨で、この話が公にされたのだと、麻布十番街のホームページにあります。

 昨年の10月に、一足の靴を買いました。毎日一年間、散歩に買い物に、人の訪問に履いたものです。七月頃に、踵が破れ始めたので、先週末、同じ2000円のスニーカーを買ったのです。

 この日曜日、ラジオ体操に行きましたら、『クリニックにいたでしょう!』と、一人のご婦人が言うのです。マスクをしていましたけど、靴で分かったそうです。と言うのは、わたしが〈赤い靴履いているおじいさん〉だからです。

 歳がいもなく、赤い靴を買ってしまったのですが、足元が明るくていいのです。健康色で、中国のみなさんが大好きな色で、それにわたしは感染したのでしょうか。ちょっと抵抗がありましたが、履き続けたのは正解なのです。8000から10000歩も、二日ごとにに歩くのですが、実に丈夫です。店で聞きましたら、〈大人気商品〉なのだそうです。

 実は、この赤い靴履いてたきみちゃんには後日譚があります。アメリカに行って幸せになったのではなく、9才の時に、病気で亡くなっています。薄幸の少女の物語ですが、わたしの母も同じ境遇でしたが、父の子を四人も産んで、人様の迷惑にならないような人に、かた焼きそばやハンバーグやスイトンを作って、食べさせて育て上げてくれたのです。

▶︎参照 2012年11月7日号「悠然自得/勘違い」

.

月の砂漠

.

.

 先週土曜の夜、明月が、筑波の山の上に輝いていた夕べ、まさに「仲秋の名月」を眺めていました。大陸天津で見上げた月の大きさを思い出して、天然の荘厳さに浸ったのです。人は、砂漠で眺める月にも、砂漠のようにに見える月に感動を覚えるのでしょうか。

月の沙漠(さばく)を はるばると
旅の駱駝(らくだ)がゆきました
金と銀との鞍(くら)置いて
二つならんでゆきました

金の鞍には銀の甕(かめ)
銀の鞍には金の甕
二つの甕は それぞれに
(ひも)で結んでありました

さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人は おそろいの
白い上着を着てました

(ひろ)い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
(おぼろ)にけぶる月の夜()
(つい)の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えて行()きました
黙って越えて行きました

 これは、童謡で、砂漠を旅する王子や王妃だとすると、現実主義者にとっては、鼻持ちならない歌詞の内容なのだそうです。でも、子どもの頃に、見たことのない砂漠を想像させるには、十分な歌詞であり曲であったのです。

 この「月の沙漠」は、加藤まさおが作詞しています。着想を得たのは、作詞当時、千葉の御宿海岸で、病気療養中だったのですが、砂浜に立ったのでしょうか、そこからはるかに望み見る月に、きっとあるだろう砂漠を思い描いた、空想の詩なのです。

 ウサギが餅つきをしていたり、犬が吠えていたり、獅子吼していたりと、いろいろな想像を膨らませることのできる月です。砂漠は、陽が落ちて、月が登ると、恐ろしく寒くなってしまうので、テントを張って、その中に入らなければならないことが多そうですが、砂漠地帯の月は、幽玄なのでしょう。

.
.

 中国の西、新疆ウイグル自治区に位置するタクラマカン砂漠に、いつか行ってみたいと思いつつも、願いを果たせずの今なのです。そこから、パキスタンに近い、山岳地帯になるでしょうか、桃源郷の「フンザ王国」が、かつてあったと聞き、バス旅行で行けると聞いてからは、夢の実現を考えていました。

 そうしましたら、写真集(市立図書館で借りて見ました))を見、小説の「草原の椅子(宮本輝に作品で、映画化にもなりました)」を読んでから、その思いは、なおさら強くされたのです。映画化されたものも観ましたが、映画は、自分の image と違うのが残念で、ちょっとがっかりしてしまいました。

.
.

 「逃げる」を「北げる」とも書くのだそうですが、「西げる思い」は、今も強くあります。父の世代は、「蒙古の砂漠」だったのですが、わたしたちは、〈月の砂漠世代〉になるでしょうか。作曲した佐々木すぐるは、青い鳥児童合唱団を結成し、多くの学校の校歌の作曲をされた方でした。思い出深い童謡の一つです。

( 「タカマルカン砂漠」、家内撮影の「十五夜月」の光景です)

.

中秋節の月餅

.
.

 毎年、この時期になると、パン店をしていて、一年の稼ぎ商品が、「月餅yuebing/げっぺい」だとかで、それを若い友人が届けてくださったのです。三箱も、四箱も、いろいろな種類の箱詰めで、もう食べきれずに、お使い物で、お世話になっている友人宅に届けたりしました。

 普通は〈卵の黄身/満月をイメージしてです)〉の入ったものですが、nuts の入った餡のものは、抜群に美味しかったのです。わたしたちは、一人一個を食べていたら、華南の街の友人たちは、種類の違う一個一個を小さく切り分けて、少しづつ分け合って食べる習慣があって、驚かされたのです。

.
.

 フライパンほどの大きさのものもあって、びっくり仰天したこともあります。分け合って、相手を思いやる風習は、中国のみなさんの素晴らしい習慣です。食べ物で、季節季節を感じる日本の習慣は、どうも大陸伝来の習慣のようです。

 父が、新宿の中村屋から買ってきて、食べさせてくれたことがありましたが、よく練り込んだ餡子の入ったもので、外見は同じようでした。今日は、帰国後、四回目の「中秋zhongqiujie/ちゅうしゅうせつ」になります。あの美味しい味が忘れられない、2022年の〈月餅の日〉です。どこで観ても、いつ観ても月は月なのです。

 ある年、みんなで月餅を食べた夕べ、一緒に家の外に出て、ワイワイしながら華南の街歩きをしたことがありました。満月が煌々(こうこう)と輝いて見下ろし、わたしたちは見上げていたのです。みなさんお元気でしょうか。老家laojia,故郷に帰った方もいるそうです。

香川県

.

.

 四国の愛媛県に一人の牧師を訪ねたことがありました。それで、東名道、名神道を走って、姫路市に寄り、瀬戸内海をフェリーボートで小豆島に上陸し、土庄港(とのしょうこう)からフェリーに乗り換えて、上陸したのが香川県高松市でした。

あれは高松 最終便
聖書(☞グラス)持つ手に 汽笛がからむ
ここは瀬戸内 土庄港
俺(☞恋)も着きます 夢もゆく
春の紅さす いのち(☞ネオン)町(「波止場しぐれ 3番)

 高松市に、源平合戦で有名な屋島があります。権勢をほしいままにした平氏が、京の都から福原に逃れ、そこから筑紫国の太宰府に西走するのですが、そこにも居場所を見つけられずに、ついに、屋島に落ち着きます。しかし源氏の追手は、戦を仕掛けてきまして、そこでの戦いを「屋島の戦い」と言います。

 源頼朝に従った、下野国の那須與一が、揺れ動く船の扇を射抜くという有名な出来事があったのも、この戦の時でした。優れた武将を産んだ下野国、現在の大田原市には、與一(与一)由来の温泉や饅頭や最中(もなか)があって、郷土の誇りなのでしょう。

 この那須は、源氏の武将の出の地ですが、日光の奥、福島県寄りには、平氏の落人(おちうど)伝説のある「湯西川」があります。現地の方の話では、野武士の残党説もあって、観光目的の村興しなのかも知れません。この春、泊めていただいたペンションの女主人に、『わたしの祖先は、源氏一党の末裔(まつえい)だと、父が言っていたんで、泊めていただいても大丈夫ですか?』と言いましたら、苦笑いをしていて、敵愾心なしでした。
.
.

 さて、香川県の県都は高松市、県花と県木はオリーブ、県鳥はホトトギス、県獣は鹿、人口93万人で、県の面積は、46都道府県の中で最小なのです。

 戦後間もない頃に、「二十四の瞳(ひとみ)」という映画が上映されました。瀬戸内海に位置する小豆島の小学校を舞台にした、戦前から終戦後の間の学校物語でした。学校で見たような記憶があります。学校出たての新任の「大石先生(おんな先生)」が担任で、12人の生徒の物語でした。瀬戸内海に浮かぶ小島という舞台は、遠い世界の感じがしていたのを覚えています。

 香川は、律令制下では、「讃岐国(さぬきのくに)」で、壊疽幕府のもとには、高松藩、丸亀藩、多度津藩の三藩がありました。わたしたちの住む街にも、讃岐人が始めたのではない、讃岐うどん店(丸亀製麺)があって、全国展開、いまでは海外にも支店を持っていることで有名な、「うどん」で有名な県なのです。どこにもあるうどんですが、香川県は、うどんの王道は、「醤油」の特産地であるので結局、おいしい生醤油(きじょうゆ)で食べられることも、「讃岐うどん」が人気な理由なのでしょう。

.

.

 わたしは若い時に、岡田稔という牧師の説教を聞いたことがありました。実に穏やかな話し方をされた方で、堅固な聖書主義の立場から、淡々と話される説教に、引き込まれたことがあります。後に、四国学院大学の名誉教授となられた方です。

 戦時下、日本基督教団に、諸教会が統合される中で、当時牧会していた灘教会(神戸市)を、偶像礼拝に反対する立場から、その団体に加盟させませんでした。そのために、三井三池炭鉱での強制労働に服させられます。もの凄くひどい時代だったのですね。戦後、岡田師は教会と神学校を復興されたのです。

 それで、灘教会を退職後、神学校で教えられ、後に善通寺市で伝道をなさったと聞きました。その頃のお説教でした。わたしにとっては、「讃岐うどん」よりも、真の福音主義、聖書主義の伝道者が過した街として、善通寺市はより印象的なのです。四国学院は、キリスト信仰の上に建った、素晴らしく教育的な配慮がなされた学府です。

.

.

 団扇(うちわ)と扇子(せんす)の生産は、全国生産の半分近くを占めているようです。この県の出身者で、「父帰る」や「恩讐の彼方に」で有名な菊池寛がいます。妻子を捨てた父親が、20年ぶりに、妻や妻子の住む家に戻ってきます。明治末期の時代設定です。お母さんと次男、そして娘が父を許して受け入れるのですが、長男の賢一郎は、赦そうとしません。家を捨てた父に代わって、家族を支えた賢一郎だったからです。その父を赦し、受け入れる賢一郎の心の動きを描いて秀逸でした。

 そんな父親には、わたしはならなかったのですが、子と父、母と娘という関係は、意外と複雑な相克なものかも知れません。「エデンの東」のキャルとお父さんの和解の顛末に通じるでしょうか。『わが家は、どうかな?』の香川県でした。

( 生醤油の讃岐うどん、四国学院大学のキャンパスです)

.

モクモクの焼き秋刀魚

.
.

 正月に「お雑煮」、春に「カツオ」食べた日本人は、秋になると「秋刀魚(サンマ)」を食べて、食べ続けて、それぞれの季節を感じながら生きてきたと言えるでしょうか。この秋刀魚も、秋の食材ではなく、一年中、冷凍保存されたものが、売られているので、珍しくありません。

 ただ、マルマルとイキイキしたした大きいの物は、これからの季節に出回るのでしょうか。炭火で焼いたのを、頂いてみたくなっています。子どもの頃は、ほとんどの近所が、モクモクと煙って、同じ秋刀魚を焼いて、夕食の食卓にのせられていたでしょうか。

 父の家では、母が、七輪に火を起こして、網をのせて、その上で、秋刀魚を焼いて、決まって大根おろしをつけて、醤油をかけてくれました。どんな高級魚よりも、「目黒の秋刀魚」で、秋を感じさせてくれ、堪能させてくれた<庶民魚>でした。

 お殿さまが、初めて秋刀魚を食した感動を伝える落語です。江戸郊外の目黒に狩に出て、焼き秋刀魚と出会うのです。いつもお毒味役が毒味をし、骨も抜き、冷え冷えと冷めたものしか食べられないお殿さまが、炭で焼いた、きっとジュウジュウと脂のはねるような、活きのよい秋刀魚を食したのでしょう。それで、『秋刀魚は目黒がいい!』となったのです。

 華南の街の教会で、毎週、お昼が供されたのです。よく出たのが、秋刀魚をブツブツと切って、二口サイズにした物を、大中華鍋で油で揚げて、餡かけにした物でした。美味しかったのです。みんなでワイワイしながら食べたから、なおさら美味しかったのでしょう。

 いつだったか、新鮮な秋刀魚を、「刺身」にして食べさせてくれたこともありました。初めての刺身秋刀魚は抜群に美味しかったのです。これは母ではなく、食堂のおじさんがでしたが。『息のいいのが入ったので、刺身にしますから、食べてみてください!』と、出してくれました。鯵も鰯だって美味しいしのですが、でも秋刀魚の刺身は格別です。焼き秋刀魚は、それ以上に特別です。

 ここまで、キーを打っていると、唾液腺の活動が激しくなって、もう食べたくなってしまいました。この秋刀魚焼きの煙が目にしみた、高校時代のグラウンドも思い浮かんで参ります。いつでしたか長く住んで、子育てをした家で、ガスレンジで秋刀魚を焼いていた時、隣のおじさんが、『廣田さ〜〜ん・・・・・・!』と、怒ったのではないのですが、煙に巻かれて、そんな声がかかったことがありました。あのおじさんは、今も元気でしょうか。

 最近では、台湾や中国の秋刀魚漁獲量が、日本を追い越して、日本は全盛期の<三分の一>ほどに激減しているそうです。美味いものを食べて頂くのを、共に喜ぶべきですが、ちょっと寂しい感じがしてしまいます。

 アパートやマンションで、<炭焼き秋刀魚>は、もう無理でしょうね。車に七輪と炭とを積んで、魚屋さんで秋刀魚を買って、郊外に行ったらどうでしょうか。脂が乗り過ぎてたら、消防車が来てしまいそうですね。やはり、『秋刀魚は秋がいい!』のです。

.

Localな今

.
.

 一昨日は、東武日光線の東武金崎駅から電車に乗車しました。行きは、市民の足の「ふれあいバス」を利用したのですが、帰りの利用だったのです。自動切符販売機に260円を入れて、久しぶりに乗車券を買って、落とさないようにしっかり握りしめていました。まさか栃木県人になることなど考えもしなかったわたしが、東武日光線を利用し、果物の買い出しに行って帰りの乗車などとは夢のようでした。浅草と日光を結んだ私鉄なのです。

 もう一つ「JR両毛線」があります。明治以降の殖産興業で、絹糸(けんし)が生産されて外貨を稼いだ製紙産業が、この県下でも盛んに行われていました。群馬県富岡にその国営の製糸工場があって、「生糸」が作られていたのです。この群馬と栃木両県では、「お蚕(おかいこ)」を飼って、繭玉(まゆだま)」を農家が作り、それを運ぶため、作られた生糸を横浜港で運ぶ貨物鉄道の〈ドル箱〉ではなく、〈円箱〉路線が、この両毛線でした。栃木駅は東武日光線、東武宇都宮線と同じ駅舎なのです。小山と高崎を結んだ路線で、高崎から八高線、横浜線でした。

 栃木に参りましてから四十数年ぶりに、定期券乗車をしたのです。家内の入院の見舞いででしたが、手でボタンを押して乗降するような路線に乗って戸惑いました。中央線や山手線の首都圏の主要路線しか利用してこなかったので、Local 線は、初めは「退屈路線」でしかなかったのです。

 乗り換え、乗り換えで上京し、帰りも同じでした。帰りは、段々に寂(さび)れてきて、利根川と渡良瀬川辺りまで来ますと、藪から狸が出てきそうな佇まいなのです。何か都落ちの平氏の気分でもあるかのように感じたのです。しかし利用するにつけ、その《ノンビリ感》、《ユックリ感》、《豊かな自然天然》が特上なものであるのを知らされたのです。

 夏前に、東武鬼怒川線、野岩(やがん)鉄道会津鬼怒川線の湯西川温泉駅を利用しました。まるで地下鉄に乗るようで、地下に platform があり、首都圏から100キロ以遠で地下鉄気分を味わえたわけです。薄暗いホームは、涼しく幽玄で、なんとも言えない雰囲気に満ちていて、退屈感よりも新鮮な気分を味わえたのです。

.

.

 乗物利用は、若い頃は「速さ」、「安さ」、「知らない街の訪問」などでウキウキ気分でしたが、今はしっとりと、田舎風情を楽しめて、食べ物も空気も水も美味しい地方の恵みに感謝しているのです。ほとんど知らない人ばかりの栃木なのに、家内の闘病や散歩を通して、多くの人と出会い、夕食を一緒に食べる人も数人おいでなのです。

 最初の職場で、出張が多かったので、交通公社を利用するために、よく「時刻表」を見たのです。乗り換えのための接続などを調べるうちに、時刻表に嵌ってしまったのです。その職場をやめて、学校で教えるようになって、最初の年の担当科目は、「地理」でした。専門に学んだことがありませんでしたから、授業準備は、死に物狂いでした。今のように、ウイキペディア のサイト検索などできなかったので、指導書と首っ引きで、地図を広げたり、もう悪戦苦闘でした。

 それで、学校をやめても〈時刻表中毒〉の時期が長かったと思います。この時刻表と地図と聖書、そして「ハイデルベルク信仰問答」さえあれば、絶海の孤島でも生きていける気分でした。今も、本屋に行くと、時刻表に目が止まってしまいます。新幹線で地方が結ばれ、ローカル線が廃線になり、宮脇俊三氏の「時刻表2万キロ」などを読みますと、地方の路線や駅、そして旅情が消えてしまったようです。

 立川駅から、五日市線が出ていて、隅っこのプラットホームから蒸気機関車が煙を履いて停車している姿を覚えています。中央線は電化しているのに、奥多摩に向かうのは、煙るを吐く汽車だったのです。鉄道の旅っていいものなのです。

(野岩鉄道の湯西川温泉駅付近、夕闇の両毛線思川駅付近です)

.

強いのか弱いのか

.

.

 ある人の生涯全体を評価する時に、「功罪」、つまり「功績」と「罪責」とが見られるのです。好いことをしたように見られた人であったのですが、その反面で、その真逆な生き方、思想、矛盾があったことが、歴史研究で知られてしまうことがあります。

  『私も弱き人の子であった!』と、プリンストン大学(神学校)を出て、社会事業に生涯を捧げて生きてきた賀川豊彦が、戦時中、自分の立ち続けてきた生き方、主義主張の節を曲げて、軍国日本への賛同に転じたことを、告白しています。日本が、軍事活動を活発化し、天皇の名のもとに、大陸に進出し、東南アジアに兵を送り、真珠湾を奇襲して、東洋の平和を守るという大義で、軍事活動を断行する中での侵略を是とする告白でした。

 当時、「きよめ派」の教会は、再臨信仰のゆえに多くの牧師たち、百数十名もが監獄に入れられました。その中で転向したり、獄死した人も何人もいました。それだけ厳しい尋問、拷問が、憲兵隊によって戦時下に行われていたのです。

 その憲兵隊に呼び出され、厳しい尋問の後に、賀川が書き残したのが次の文章です。

「『わが兄弟、わが骨肉の為ならんには、たとひ誼はれてキリストに棄てらる・とも、わが願ふところなり』 『国の為には、たとえキリストに棄てられても国に殉ずる覚悟がなければならぬ。国に殉ずる心根こそキリスト精神そのものである。苦難は新しき栄光である。死は勝利の緒であり、十字架は誇の冠そのものである。来れ、来れ、苦しみ、憂き悩みも厭はず勇み歌はん、国を愛する愛をば、愛をば』、死ぬべき時は今だ!君国為に殉じてこそ十字架精神を始めて高揚出来るのだ!血を以て真理を守ることを教へたキリストはアジア解放為に血を流すことを祝福しないではおかぬ。非法を以つて、真理をおおひ暴虐を以つて弱小民族を強奪するチヤーチルや、ルーズベルトをして絶対に勝利を得しめてはならない。血の最後の一滴までをも皇国に捧げよ!その血を捧ぐる時は今だ!真理を防衛せんとするものはその血を惜むな!十字架にのみ勝利はある。キリストの弟子は十字架を負いて皇国に殉ぜよ。』

.
.

 人は追い詰められると、依って立ってきた 信仰の節を曲げてしまうほど弱い者なのでしょうか。その変節や転向について、戦後も触れずに、この人は生きたのです。神戸の新川の貧民窟で活動をし、ベストセラーとなった「死線を越えて」を書き、生活協同組合を起こした人でした。戦後、ノーベル平和賞、文学賞の候補になりながら、受賞できませんでした。

 わたしは若い時に、「死線を越えて」をひもときましたが、「カタコーム(地下墓所)の殉教者」という本も読んだのです。ローマ皇帝ネロによる迫害と殉教の物語です。永生の望み、キリスト信仰、復活信仰を持つ、ローマの信仰者たちは、キリストか皇帝の二者択一を迫られて、闘技場の中で、飢えたライオンの餌食にされるのですが、その死を恐れずに、信仰を守り通して、キリストを王として死んでいきました。

 ところが混乱や矛盾の戦時下の主張に触れず、戦後を生き、71年の生涯を、その賀川は終えていると言われています。わたしは裁くのではなく、事実を知って、弱い人である自分を誤魔化さずに、正直に生き、弁明しなければならないことは弁明し、謝罪をしなければならないことは謝罪して欲しかったのです。この方は、同窓の先学だからです。

 教会の歴史の一つの側面は、名のない夥しい数の殉教者を出し続けてきているということです。例えば、ポリュカルポス(使徒ヨハネの後継者でスミルナの教会の監督)は、イエスを呪えば釈放されると言われながらも、イエスさまへの信仰を曲げずに、殉教の死を選んでいます。ペテロもパウロも、信仰のゆえに殉教したと伝えられています。

 そんな時代が、わたしの時代に再び巡ってくるのでしょうか。そのような、官憲の迫りや脅しに、『自分は耐えられるだろうか?』としばしば考えながら、夜明けを迎えたことがいく夜も、若い頃にありました。『殉教には特別な恵みがある!』と教えられ、その時には、「恩寵の神」が、殉教者の冠を被らせてくださることを知って、今も、そう信じております

 地上の横暴な君主、その君主を利用する勢力が、どんなに猛り狂って、襲いかかってきても、万軍の主、王の王なる主に従うことが肝要です。共産ソ連の迫害を耐えたイワンのことを思い出しております。このイワンは、死の前に、第三の天に引き上げられ、死後に行く輝く永遠のいのちの世界を目撃して、その望みにあって、殉教の死の恐怖に耐えたのです。『耐えられない試練はない!』、からです。
.

決して揺り動かされない国

.

.

 「地震大国」、日本を言い表す言葉がいくつもある中で、最も的確な表現だと思えてなりません。華南の街にいる13年の間、一度だけでしたが、台湾で起きた地震が、大陸を揺らしたことがあって、ちょうど友人の7階の家に、夕食に招かれていた時、テーブルだけでなく棟自体が大きく揺れたことがありました。

 そして、帰国した途端、少なくとも月に一、二度は地震を体感してきています。今日も昼前に、『アッ!』と揺れ感じたら、数分後に地震速報を伝えていました。盤石の基礎の上に建っている建物のように思えますが、太平洋プレートの断層がずれて、地震が生じると言った地球の危うさに驚かされます。関東大震災を経験した父が、地震のたびに、『戸を開けろ!』と叫んだ声を、地が揺れるたびに思い出すのです。

 旧約時代の預言者のアモスが、その預言書を記すにあたって、その冒頭に、次のように書き記しています。

 『テコアの牧者のひとりであったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、地震の二年前に、イスラエルについて彼が見たものである。 (アモス11節)』

 主の再臨の前兆について、聖書は次にように記しています。

 『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。 (マルコ138節)』

 預言者は、地震に揺らされる地球に居を置いて生きている読者に、預言しているのです。安心し切っている人々、アモスの時代も今日も、地に住む者に向かって、どんな時代かを語り始めるのです。わたしが生まれてから起こった多くの犠牲者をもたらせた地震には、2011年の東日本大震災(18446人死亡)、1995年の阪神淡路大震災(6437人死亡)、1948年の福井地震(3769人死亡)があります。

.
.

 地震は地面を揺らすだけではなく、わたしたちの立っている、長年培った自信や確信、経済的な基盤、祖先から受け継いだ屋敷や田畑、将来の計画、明日の予定などでさえも揺さぶり、打ち砕いてしまいます。東日本大震災で、想像を超えた津波に襲われた海岸地帯の様子を、その数年後に訪ねたことがあります。海辺の墓石が倒されていて、そこに雑草が生い茂っているのを見て、墓に入れられた亡骸でさえ押し流されてしまっていたのです。

 成功者や覇権的国家が誇り、あがめているような強固だと信じられてきた組織も支配も、今も揺り動かされています。理想的な国家を築くためだったのに、主導権争いで排除された指導者がいなくなっても、また野心に燃えた指導者が、次に立ち上がり、一度崩壊した国家が、再び頭をもたげようとして、今朝も武器を使用して、隣国を侵略しています。

 人種、家庭、職場、商業、工業、農業、技術、教育、そして宗教でさえも揺り動いて、浮動しています。そんな浮動の世界の中で、決して揺り動かされないのがあります。それは、《神の義》と《聖霊が説き明かす真理》と《キリストの贖い》です。ゆめゆめ、限りある人の決定と支配によって、この世界が永遠に続くかのようなことを考えてはなりません。

 『この「もう一度」ということばは、決して揺り動かされることのないものが残るために、すべての造られた、揺り動かされるものが取り除かれることを示しています。  こういうわけで、私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。こうして私たちは、慎みと恐れとをもって、神に喜ばれるように奉仕をすることができるのです。 (ヘブル122728節)』

 朝起きた時、驚くようなニュースが目に飛び込み、耳に聞こえてくるような時代の只中に、私たちはあります。見て聞くわたしたちは、驚き怪しむのですが、やがて、度重なる報道に思いが麻痺していくのでしょう。でも、万軍の主に目を止め続けるわたしたちは、冷静にことの成り行きを見守ることができそうです。盤石な「神の国」が、着飾った花嫁のようにして、やがて天からくだってくるのです。

 紀元前700年代に予言されたことと、二十一世紀に生きる私たちと無関係とは言えません。そこに、わたしたちへの警告と、どう備えていくべきかが記されているのです。

(2011年の東日本大震災時の報道写真です)

.

この道を歩く

.
.

 健康管理に、「散歩」を勧められて、それを実行しています。ある距離を強く速く歩き、その後、ゆっくりと漫歩する、これを繰り返すのが、一番好い散歩術なのだそうです。これは散歩道ではありませんが、中国と中近東にかけて、人や物や文化が往来した「絹の道」がありました。

 その道をたどって日本にたどり着いた物が、「正倉院」に収められていると、日本の歴史で学んだことがありました。時と人は過ぎ去りましたが、物言わぬ物は、数千年の歴史の中にあり続けていることになります。

 「道」と言えば、日本には、「日本の道百選」と言われる道が、各都道具県に2〜4つほどづつ選ばれています。1987年に、当時の建設省と「日本の道100選」選定委員会によって選ばれています。何年か前に、札幌に出掛けて、そこにあった「札幌大通〜札幌の憩いの場〜」も、私の子ども頃に遊んだ「旧甲州街道〜宿場町の面影を残す道〜」も、私の祖先が馬上凛々しく参内のために歩んだ「若宮大路〜鎌倉の歴史ある道」も選ばれています。

 その他に、「哲学の道〜思索にふける道〜」と、呼ばれているものもあります。次の様に、この道が解説されています。

 「京都・東山の麓に哲学の道と呼ばれる絶好の散策スポットがあります。南は永観堂の北東方向の若王子神社あたりから始まり、北は銀閣寺まで続く疎水に沿った散歩道です。京都疎水は明治時代の京都の一大事業として作られた人工の水路です。南禅寺の水路閣も疎水の水を流すために作られたものです。哲学の道に流れている疎水は大津で取水されたあと長いトンネルを経て蹴上(けあげ)に到達します。蹴上から分水して北上する疎水が南禅寺水路閣を経て哲学の道に流れています。哲学の道は、疎水の西側に散歩用の石畳が敷かれ、日本の道百選にも選ばれている散歩には最適の道です。右の航空写真で見ると哲学の道の部分が緑の線として見えます。住宅地の中を緑の絨毯が敷かれているようです。」

 多くの哲学者が、哲学しながら歩いたのだそうですが、それは、「善の研究」を著した西田幾多郎の京都時代の散歩道だったそうです。彼の弟子の田辺元、三木清らは、師に倣って、同じ道を辿ったので知られています。幾多郎は、こんな和歌を詠んでいます。

人は人 吾はわれ也 とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり

 幾多郎は、石川県出身の「加賀の人」で、第四高等学校(現金沢大学です/中退)から東京帝国大学に進んで、哲学を専攻し、日本屈指の哲学者であります。哲学などとは無関係な私ですが、京都は魅惑的な街ですから、同じ道を思索しながら散歩をしてみたいな、と思うのです。はなから、思索など程遠く、美味しいラーメンやコーヒーやケーキのことを考えてしまいそうでなりません。
.


.

 そう言えば、京都の北になるでしょうか、大原に二年連続で、訪ねたことがありました。静かな村で、最初の訪問の夜には、小雪が舞っていたのです。その大原から、薪を頭の上にのせて、京都までの道を下って売りに出かけた「大原女(おはらめ)」のことを聞きました。村の道の駅や喫茶店に寄って、村の話を聞いたりしたのです。閉じ籠り症候の今日日、思い出すのは、旅の記憶ばかりです。

(秋の「哲学の道」と「大原女です)
.

昔ながらの物や生き方

.
.

 感心していることがあります。13年の留守の間に、忘れていた感触を、栃木に借りたアパートの一室で、実に懐かしく楽しんでいます。小学校の友人の家が畳屋さんで、彼のお父さんのしている作業を、座り込んでジイーッと眺めていたことがあります。右利きでしたので、母が持っていないような大きな針に、これも見たことのないような太めの糸を通して、肘を使って締め上げて、上手に作業をしていました。

 あの時と同じように、伝統的な仕事をしたであろう、畳が、この一部屋に敷いてあるのです。稲藁の畳床にい草の畳表で覆ってあるのに、丈夫なのです。その上に立って、窓から東を見ますと、筑波山が遠望できるのです。寝そべった時や、裸足で踏んだ感触は、なんとも言えずに懐かしさが蘇ってきて、父の家で、兄や弟たちと相撲をしたり、喧嘩してすり減らした畳を思い出すのです。

 その畳のある部屋に住んで、3年半が経ちます。しかし、畳表を替えてあった青々としていたのですが、経年ででしょう、その色は薄れてしまいました。わたしが蚊取り線香を落として、ちょっとした焦げ目がついてある以外に、ほとんど擦れていないです。

.
.

 その丈夫さ、持ちのよさに、今さらながら驚かれされております。日本と言う風土に中で長く育まれた生活様式、道具などには、極めて優れた技能や工夫がみられるのです。この生活している畳部屋に、もし障子や襖があったら、その趣きは倍加するのではないでしょうか。

 自転車ですが、スーパーや Do it yourself 店で買う物は、安いのですが壊れやすく、国産品は高いのですが、良品なのです。もう価格競争に勝てなくて販売戦線から離脱してる現況ですが、丈夫で長持ちします。どちらを使うかは個々の決定です。でも、やはり良質な物、真価が試されている物。長らく使われているものは、それなりの支持があるようです。

.

 風呂桶にしても、檜の桶などは、もう贅沢品で庶民の手には届きようにありませんし、価値を認める人も多くなくなってきています。父が、風呂に入って髭剃りをすると、その剃刀(かみそり)を、ガラスのコップの中においで、指を動かしながら研いでいました。ああやって物を大切に使い続けたのです。それが生活の知恵でしょうか、昔ながらの物、考え、決まりがあって、物を大切に使う生き方があったわけです。

.