襟も頭も

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 1957年に、「青春サイクリング」と言う歌が流行っていました。 3番だけをコピーしてみます。

夕焼け空の あかね雲
風にマフラーを なびかせながら
サイクリング サイクリング
ヤッホー ヤッホー
走り疲れて 野ばらの花を
摘んで見返りゃ 地平の果てに
あすも日和の
虹が立つ 虹が立つ
ヤッホー
ヤッホーヤッホーヤッホー 

 3年ほど前に、自転車用のヘルメットを、通販で買いました。時々かぶり忘れをするのですが、たまたまかぶっていない時に、近くのドラッグストアーの駐車場から出てくる車に、正面衝突されたのです。

 夕陽が落ちて、運転者の目に入ったのでしょうか、自転車に乗っている私に、運転手は気づかずにでした。強かに左足とお尻を、道路に打ちつけたのです。左足のふくらはぎに鈍痛が走りました。瞬間考えたのは、『このまま救急車で運ばれたら、帰りを待っている家内が心配してしまう!』と言う思いでした。

 慌てて降りてきた運転者が、大丈夫ではない私に、『ごめんなさい!』でもなく、『大丈夫ですか?』と、商用車を運転する疲れ気味の営業マンが聞きました。その事態の鉄則は、警察に連絡をすることなのですが、それを守らずに、運転者の名刺を要求し、家内に頼まれた買い物を済ませて、足を引きずりながら帰宅したのです。

 驚かせてはいけないと黙っていたら、家内に見破られて、『医者に診てもらわないといけないわ!』と言われ、タクシーを呼んだのです。水曜日で、一度診てもらったことのある医院は休診日で、もう1箇所も同じでした。それで、タクシーの運転手さんが、『箱森に外科がありますので、そこはどうですか?』と、親切に紹介てくださたたので、そこに連れて行ってもらったのです。

 エコーで見てもらうと、左ふくらはぎの筋肉断裂で、全治1ヶ月の負傷とのことでした。丁寧な診察をしていただいて帰宅してから、間も無くして、あの営業マンから電話があって、『警察に届けたので、検証に立ち会ってほしい!』との連絡で、夜9時前に現場に行きましたら、30分ほどの現場検証が行われたのです。自転車持参とのことで、パンパンに腫れていた足でペダルを漕いで出かけたのです。

 『免停になったら困るだろう!』と優しく考えて、被害者の届出はしないでおきました。結局1ヶ月の間、医師の指定日に通院して、治りました。後遺症はありません。一度、自転車にぶっつけた過去のある私は、ちょっと甘かったのですが、車輪が歪んでしまいましたので、保険で中古の自転車も手に入れたのです。

 痛い目に遭いましたので、それ以降は、そのヘルメットをしっかり被って運転中でおります。着用が〈努力義務〉ですが、年配者は義務履行してる方が多いのですが、多くの人は未着用のようです。頭部を打たなかったのは幸いしました。

 この街に住み始めて、三度目の自転車転倒で、空を仰いだのです。『ヤッホーヤッホーヤッホー !』なんて言ってられない、鉄の塊を動かすのですから、今度は加害者にならないように、注意に注意をして乗らないといけないと自戒しているこの頃です。同世代のお爺さんが、『それ幾らぐらい、5000円くらいするんですか?」と、今日も聞かれ、『三年前に三千円ほどで買いました。今は、けっこう高めでしょうか。』と返事をしたのです。

 襟だけではなく、〈頭〉も正す時代になって、努力義務などの不明瞭な決まりではなく、不着用は罰則にするほど、頭部は大事にしないと、被害者にならないためですが、加害者にならないためにも、やはり〈襟〉も正すべきでしょうか。意識上の決心かも知れません。

 親切なタクシー運転手の会社宛、ことの次第と、とくに『お大事なさってください!」と言われ、最後の通院の折にも同じ運転手さんでしたので、巡り合わせの良さにも感謝しまして、手紙を出したのです。そうしましたら、社長さんから丁寧な礼状が届き、とても喜ばれたのです。いろいろとあるこの頃です。

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〈こわい〉でなく平和を

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 沖縄県沖縄市立山内小学校2年、徳元穂菜さん(7)の詩「こわいをしって、へいわがわかった」の詩です。(2022年6月)

びじゅつかんへお出かけ
おじいちゃんや
おばあちゃんも
いっしょに
みんなでお出かけ
うれしいな

こわくてかなしい絵だった
たくさんの人がしんでいた
小さな赤ちゃんや、おかあさん

風ぐるまや
チョウチョの絵もあったけど
とてもかなしい絵だった

おかあさんが、
七十七年前のおきなわの絵だと言った
ほんとうにあったことなのだ

たくさんの人たちがしんでいて
ガイコツもあった
わたしとおなじ年の子どもが
かなしそうに見ている

こわいよ
かなしいよ
かわいそうだよ
せんそうのはんたいはなに?
へいわ?
へいわってなに?

きゅうにこわくなって
おかあさんにくっついた
あたたかくてほっとした
これがへいわなのかな

おねえちゃんとけんかした
おかあさんは、二人の話を聞いてくれた
そして仲なおり
これがへいわなのかな

せんそうがこわいから
へいわをつかみたい
ずっとポケットにいれてもっておく
ぜったいおとさないように
なくさないように
わすれないように
こわいをしって、へいわがわかった

 『こわい!』、沖縄の小学生が、正直な気持ちを詩によんでいました。77年前に、沖縄が戦場になって、その時の悲惨な光景を撮影した写真や被爆した様々な物を展示した展覧会に、家族で出かけてみた時のこの女子小学生の感想なのです。

 上の兄は、山の中から、真っ赤に空を焦がしている街の上空の光景を覚えていると言っていました。昭和20778日にわたる、米軍機の空襲で、街が焼けていたいたからです。” B-29 “ の爆撃機139機が飛来し、死者740名、重軽傷者1,248名、行方不明者35名、被害戸数18,094戸の被害を与えたと記録されています。

 これは、学校に上がる前の年の兄の〈こわい〉経験でした。ウクライナ戦争が、2022224日に、ロシアの軍事侵攻によって始まっています。両軍の犠牲者は、20万人もいると、米軍トップが伝えています。戦争に意味を付け加える前に、避ける努力をせず、泥沼化している現状が、〈こわい〉のです。〈過去の失敗に学ばない〉、これほど怖いことはないのではないでしょうか。

 聖書に次にようにあります。

 『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。  その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9章6〜7節)』

 「平和の君」の介入なくして、「平和」はあり得ません。「荒らし憎むべきもの(マルコ13章14節)」の到来が、聖書で予言されています。暴虐や破壊や殺戮を、このものが行うのですが、「万軍の主」が、最終的に平和をもたらせてくださるのです。それは、「和解」でもあります。神さまは、十字架によって、そこで流された血によって、「平和」、「和解」をもたらされます。

『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。(コロサイ1章20節)』

 十字架の福音は、「和解の福音」でもあります。あらゆる離反、不和、争い、遺恨を持ったままでは、救いに入ることができません。まず赦し、出かけて行ってお詫びをし、和解に努めるなら、平和が帰ってきます。国と国、民族と民族、人と人との間で、一番難しい課題が、そのように解決し、氷解することが先決です。

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[memory]罪の呵責と精算

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 『私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌322節)』

 義兄が転勤した街が、長野県下にありました。招いてくださって、生まれて間もない長男を連れて、家内と三人で、結婚後、初めて特急列車に乗せてもらって訪ねました。

 綺麗な、落ち着いた街でした。そのような街の中央を、遠い山から流れ下る綺麗な川があって、その流れのほとりに、教会がありました。週日の夕べに、伝道集会があって、そこに連れて行ってもらい参加したのです。大きな教団の教会で、お名前を存じ上げていた牧師さんが、その集いの講師で招かれて、お話をされていました。

 今では、聞き心地のよいお話で、繁栄や祝福について語られることが多い中、流石、この年配の牧師さんは、「罪」の問題を取り上げ,「十字架」を語っておいででした。行為だけの問題ではなく、動悸や背景について、罪の根についてお話しされておいでだったのです。

 校長先生が万引きで、逮捕されたと言う挿話をされたのです。当時、それは衝撃的な話として、マスコミに取り上げられたのです。どうして、そんな罪を犯したのでしょうか。取り調べをしましたら、まだ大学に通っていた時に、万引きの経験があったそうです。その時は、捕まらずに済んだまま、教員試験に合格し、学校に勤務したのです。

 つい最近、学校の教師が、知り合いの男性を殺すと言った、衝撃的なニュースが報じられていて、「聖職」と言われていた職業が、ずいぶん大きな damage を負ってしまったのです。自分も教職の経験がありますので、〈けしからん教師〉のw同僚にいましたから、驚きませんが、残念な事件です。

 この女校長ですが、社会的な立場があった時期には、その盗癖は表にあらわれずに、押さえ込まれていたのです。ところが、間も無く退職をする時期に、精神的に不安定になったのでしょうか、正しく処置されずに、長年覆い隠されていたものが、露出して、物に手をつけて盗みをしてしまったのです。

 ある罪は、社会的な立場や責任の重さを意識している間は、覆い隠されているのかも知れませんが、何かの心に不安が襲ってくると、蒸し返されてしまうのでしょうか。長く築いてきた信用を、一瞬にして失う行動に駆り立ててしまったわけです。罪の力に抗しきれず、意志の力だけでは防ぎきれなくて、再発する可能性があると言うことです。これが罪なのです。

 私が、学校に行っていた頃から読んできた聖書の中に、『盗んではならない(出エジプト20章17節)』とか『去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。主の器をになう者たち。(イザヤ52章11節、2コリント6章17節)』などと言う箇所があって、いつも罪に走ろうとすると、この聖句や、そのほかの聖句が brake になっていたのです。でも罪の誘惑が強くて、負けてしまっていたのです。

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 罪責観に苛まれながらも、罪に引きずられて生きていたのが少年期、青年期だったのです。そんな時期を過ごして、罪の呵責を覚えていた時、『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(1ヨハネ19節)』と言う聖句が想いの中にやってきて、『赦されるのだ!』と言う思いが湧き上がったのです。

 その頃、宣教師が開拓し、母が導かれ、そして兄が牧師になっていた教会に、宣教師さんが、テキサスの教会の Conference で、共に励まし合っていて、後にニューヨークの聖書学校で教師をしていた方が、アフリカに行く途次に、この教会に寄られ、その方を講師に特別集会が持たれました。

 話が終わると、その説教者が、『祈りますので前においでください!』と招いたのです。私の思いには、強烈に『出るな!』と引き止める声があって、出られませんでした。翌晩、同じように集会があって、出ましたら、同じように祈りの時がありました。躊躇していた私の席に、兄が来て、出るように促し、フッとついて出てしまったのです。その説教者が、私ともう一人の年配のご婦人の頭に手を置いて、異言で祈ったのです。

 すると、突然、私が嫌ってきた「異言」を語り始めてしまったのです。そうしましたら、激しく泣いたのだそうです。私は覚えていないのですが、義姉が後にそう言ってくれました。悔い改めと赦しの感謝で泣いたのでしょう。同時に、『イエス・キリストの十字架の死が自分の罪の赦しのためであった!』と言う理解が湧きが上がったのです。驚くほどの喜びがやってきました。さらに伝道者への献身の思いが湧き上がってきたではありませんか。

 それが、いわゆる「聖霊のバプテスマ」を、私が経験させていただいた、一連の出来事だったのです。それから、いっぺんに生活が変わったのです。十二分に汚れた者でしたが、馴染んだことごとを捨てられたのです。汚れたものから距離を置けたのです。もう盗みませんでした。酔っ払うことも、おかしな場所に出入りすることもなくなり、赦された確信が溢れたのです。そして翌年の春に結婚をし、その翌年、勤めていた職場を退職し、五月に長男が生まれました。宣教師の開拓伝道の助手とさせていただいて、伝道者になる訓練を受け始めたのです。

 私に、新しい救い確信を与えてくれたのは、『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ人289節)』と言う聖書箇所でした。義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される救いの確信に入れていただいたのが、聖霊の働きだったのです。

 その後には、〈罪の精算〉に心が向かったのです。盗みを働いた、少年期を過ごした街の大通りにある店に、お金を持って行き、女主人にお詫びをしたり、ご免なさいをして、罪の償いをし始めたのです。捕まって、警察に補導されて、こっぴどく叱られていたら、よかったのですが、遅まきながらキヨちゃんにも詫びられたのです。最近も思い出した、通っていた学校での罪があって、それをどうするか、後期高齢期になってしまった私は思案中です。そうすべきことが多過ぎて困り果てているのです。すべきことがなお残されている今であります。

(女鳥羽川河畔、バスが向かう先の曲がったあたりに店がありました)

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マシュマロのような手で

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 『そして、仰せられた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行い、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」 (出エジプト1526節)』

 先ごろ、救急車に乗っている家内を、女性の消防隊員が、その柔らかな手で冷たくなっていた手を握り続けてくれていました。血圧が低下している危険さを、同乗の隊長に知らせ、高速道路に入ったこと、間も無く病院であること、無事に着いたことなどを家内に、その都度話しかけてくれていたのです。仕事意識以上の心遣い、気遣いが、家内は嬉しかったようです。

 生きているとは、死と背中合わせにいるのを、家内の乗った救急車に同乗して、つくづく感じたのです。『人生至る所聖山あり!』で、若さの中を生きてきたのですが、今は、『人生至る所危険あり!』のように感じてしまうのです。そんな救急車の中で、婦人隊員の《マシュマロのような温かな手》が、家内を応援してくださったのでしょう。

 でも、いつも神さまの守りがあります。先日、聖書のみことばを、娘が送ってくれました。

 『彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。(イザヤ639節)』

 母におぶわれたことや、父の仕事を手伝っていた予科練帰りの屈強なシゲちゃんが、山道を泣きながらおぶってくださったことを思い返すのです。まだ十代半ばだった方です。

 人生、おぶわれ、おぶい、そしてまたおぶわれていく道なのでしょうか。自分独りで生きて来たように思っていた時に、そうじゃなかったのに気づいたのです。私を、目に見えないお方がおぶってくれていました。生まれてからずっとです。あの何度も出会った危険の最中に、気づかない間におぶわれ、手を引かれ、覆われていたのです。今も、同じく背中の温もりが、心臓あたりに感じられているではありませんか。

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おかあさん

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 西条八十の作詞、中山晋平の作曲の「おかあさん」は、理屈なく母親が、「おかあさん」であることを伝えています。同じく「カタタタキ」もありました。

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんにもご用はないけれど
なんだか呼びたい おかあさん

おかあさん おかあさん
おかあさんてば おかあさん
なんべんよんでもうれしいな
おへんじなくても うれしいな

 「肩たき」をしたりしたことあったかな、と思い返しています。オンブはしたことがあったのです。私たちの母は、兄二人を産んだ後、女の子が欲しかったのに、また男の子の私が生まれ、その後に、また男の子を産んでいます。戦時下、三人の男の子を産んだ母は、表彰者だったでしょうか。

 今や83 才、82才、78才、76才の後期高齢者の群の中に、四人ともいて、自分は父なし児、義父母に育てられ、義父は夭逝し、義母一人の手で、母は育ったのです。『兄弟姉妹が欲しかった!』と話してくれたことがありました。

 幼な友だちに誘われて、カナダ人宣教師の教会に行くようになり、そこで母が信じた神さまが、「父(ギリシャ語のabba、アラム語のabba )」であることを知って、自分が父なし子ではないことが分かってから、この父親のもとで、本物の父子関係を持つことができたのです。

 主イエスさまは,15回ほど、祈りの中で神を「父」と呼んでいらっしゃいます(マルコ1436)。この祈り以外にも、神さまを「父」と100回は呼んでいるのです。親愛の情を込めて、父親を呼ぶために、日常語であったアラム語の[abba]を使われたわけです。

 それは、主イエスさまは、父なる神との特別で、親密な関係をお持ちだったからです。ですから初代教会のクリスチャンたちは、神さまを「アバ」と呼ぶようしていたようです。またパウロも、その書簡の中でこの語を2度(ローマ815節、ガラテヤ46節)ほど用いてえいるのです。

 ですから私たちも、主イエスさまによって、神を「アバ,父」と呼べるのです。それは、ちょうど日本語の「おとう」、「お父ちゃん」、「ちゃん」といった親愛の呼び方です。人間をアバと呼ぶだけではなく,天におられる神さまを、「アバ」と呼ぶ信仰が与えられているわけです。

 「アバ」でいらっしゃる神さまに、母は必死に祈りながら、育ててくれたのです。学校に呼び出されては、息子の問題行動を、どう聞いて、どう接したのでしょうか。家に帰って来て、叱ることはなかったのです。そんなで、『よく立ち直りました!』と言う、私の担任のことばを、母はどう聞いていたのでしょうか。

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 学校を終えると、兄弟たちは、父母の元を離れて行きましたが、私は、結婚するまで親元にいたのです。忠実に教会生活をし始め、クリスチャンの妻をもらおうとした時、父は、「ビルマの竪琴」を書いた、竹山道雄の仏教の勧めのような本を買って来て、『読め!』と言って手渡しました。私は読まないままにしていたのですが、父の方が、兄の勧めで信仰告白をして救われたのです。

 祈る母、聖書を読む母、礼拝を守る母、献金をする母、証しする母が、男五人の荒れた家庭の中にいたことの祝福こそが、私たちの幸の礎であったに違いありません。この日曜日は、「母の日」です。いろいろと母や、母の話してくれたことば、作ってくれた食べ物など、懐かしく思い出しています。

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あの経済成長期を越えての今

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 戦後、平和の時代が来て、戦地に行っていたお父さんたちが復員して来て、いわゆる baby boom で、子どもたちが産まれてきたのです。1946年に生まれた方たちからでしょうか。その時の子どもたちが、中学校を卒業して、京浜、中京、阪神の工業地帯で働き始めて、戦後の未曾有の経済成長期の担い手となります。お父さんは、鉄砲を担いで出て行ったのですが、その親の子たちは、ハンマーやドライバーを手にしたり、営業車を運転し、鞄を引っ提げて、いわゆる「企業戦士」になっていきました。

 1964年の秋に行われた、東京オリンピックの開催の準備のために、押し寄せてくる観光客を受け入れるためのインフラ( infrastructure /鉄道網、道路網、空港整備、ホテル建設など)の整備、増強がなされていき、われわれ世代の父や兄の世代は、その働き手でもありました。

 敗戦の廃墟の中にたたずんでいたのも束の間、朝鮮戦争の戦争特需、その後のヴェトナム戦争の戦争特需の中で、懸命に働いてくれた世代でした。われわれの父の世代は、スタルヒン(父の少し後に世代人)・栃木山・初代吉右衛門(歌舞伎俳優)、私たちは、川上・千代ノ山・古橋広之進(水泳選手)、その後の子どもたちは王・大鵬・卵焼き、息子たちの世代は、掛布・SMAP、今は大谷翔平・井上尚弥・シホンケーキでしょうか、どうでしょう。世代世代のスターや選手や歌手がいたし、今でもいるのです。

 その戦後のbaby boomer の世代の子どもたちが、第二次の baby  boomer になったのです。教会のそばに中学校があったのですが、校舎の隅にプレハブ校舎が建てられ、一学年1315学級もある時期を迎えていました。今や、彼らのお父さんやお母さんが、定年を迎えて、家に帰ってきて、すでに七十代、今や朝夕は、day care の送迎用のライトバンが、路上を東奔西走して、彼らを乗せています。退院後の家内も、そのバンに乗って、週一回の行われる、AEON mall に出かけているのです。

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 世の中は、景気後退ですが、福祉の世界は盛況です。ただ過当競争でしょうか、思ったほどの収益のあがる事業ではなくなってきているそうです。公費の福祉費の援助で経営が成り立っているのです。この業界に、初期に参入していた人たちの右肩上がりの好機は過ぎたのでしょう。

 人への福祉が、儲けの世界にすり替えられてしまってはいないでしょうか。残念なことです。福祉や社会事業に対する社会的な責任を果たしたり、基本的には人への労りではない事業者が、その意味や意義を失わせているのだと言われています。そんなおかしな時代に、ブレーキは効くのでしょうか。お金で、問題を解決していく行政に、納得できないのは、お金の価値が分かっている、一生懸命に働いて来た頑張り世代であったからかも知れません。

 我慢や責任を学び取らされた世代が、その影響力をなくしてしまう時代に起こっているのでしょう。成長と衰微も一対の出来事なのかも知れません。

(テレビ、冷蔵庫、洗濯機を「三種の神器」と言われたのです)

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泥沼の先にあること

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 子ども頃に、長靴を履いて、泥沼にはまってしまい、長靴を履いている意味がなくなって、泥だらけで、大変な目にあったことがありました。その難儀さは、抜け出せないところにあったのです。泥の入り込んだ長靴で、足を抜くのが大変でした。長靴を脱いで仕舞えば良いのですが、泥の中に残したら、見つける方が大変だったのです。

 ウクライナ戦争のロシア侵攻、それに反対する日本も含めたヨーロッパ諸国の関係が、まるで〈泥沼状態〉になりつつあるのが懸念されます。あの日中戦戦争が、いつの間にか、暴挙を改めなかったことと、何か似ているのを感じます。結果が想定できたのに、またやめられたのに、取り返しにつかない状況に落ち込んだのと、同じ轍(わだち)にはまるのでしょうか。

 ナチス・ドイツも、ファシスト・イタリヤも同じでした。世界中が傷つき、疲弊し、泥沼の中に引き摺り込まれていきました。一国の暴挙が、世界経済に与える影響の大きさにも驚かされます。電気代、ガス代に請求額が尋常ではありません。食べ物も随分と高くなっています。便乗もあるのでしょう。

 子どもの頃に、近所の男の子が、池にハマって溺れそうになりました。『池に落ちたら、左足が沈む前に右足を上げれば大丈夫!』と言って実験したのです。彼は体全体が沈むのを見落としていたので、溺れたのです。

 この時代は、もうその片足でさえ上げる力がなくなり、その機能が働くなってしまっているのでしょう。

 『しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。(ルカ2120節)』

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 これは飛躍かも知れませんが、〈エルサレムが軍隊に囲まれる事態〉がくると、イエスさまが言われました。そんな事態が起きそうな前触れでしょうか、このウクライナ戦争の行方のことです。ロシアと同盟国とが、合い図って、最終的な攻撃目標とするのが、「エルサレム」なのではないでしょうか。

 イスラエルに攻撃してくる国々について、旧約聖書は、次のような国々を挙げていると、読み取れます。[ロシア、ヨルダンの一部(エドム)、トルコ(メシェクとトバル)、イラン(ペルシャ)、エチオピア、リビア、ウクライナ/ドイツ(ゴメル)、クルディスタン、トルキスタン、アルメニア(トガルマ)]などです。

 そんな攻撃を受けるエルサレム、そして国家として奇跡的に再生したイスラエルについて、次のような予言のことば、祝福のことばがあります。

 「主はモーセに告げて仰せられた。 『アロンとその子らに告げて言え。あなたがたはイスラエル人をこのように祝福して言いなさい。「主があなたを祝福し、あなたを守られますように。 主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。 主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。」 彼らがわたしの名でイスラエル人のために祈るなら、わたしは彼らを祝福しよう。』(民数記2227

 『エフライムの山では見張る者たちが、『さあ、シオンに上って、私たちの神、主のもとに行こう』と呼ばわる日が来るからだ。」 諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 主はヤコブを贖い、ヤコブより強い者の手から、これを買い戻されたからだ。 彼らは来て、シオンの丘で喜び歌い、穀物と新しいぶどう酒とオリーブ油と、羊の子、牛の子とに対する主の恵みに喜び輝く。彼らのたましいは潤った園のようになり、もう再び、しぼむことはない。 そのとき、若い女は踊って楽しみ、若い男も年寄りも共に楽しむ。「わたしは彼らの悲しみを喜びに変え、彼らの憂いを慰め、楽しませる。 また祭司のたましいを髄で飽かせ、わたしの民は、わたしの恵みに満ち足りる。--主の御告げ--」(エレミヤ3161014節)』

 戦火の火の粉を、私たちもかぶるかも知れません。しかし、神さまは、直接介入されて、ご自分の民と国とその都エルサレムを守られるのです。アメリカやイギリスが、経済的に軍事的に衰退して、エルサレムを守ることができなくなった時に、万軍の主、栄光の王が、ご自身の御手で、直接守られると信じます。

( “ キリスト教クリップアート” から「エルサレム」です)

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さきほど

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揺れている

コトコトと音がし

何かがきしんでいる

なぜか柚子の匂いがしてきた

カラスが鳴いている

静かになった

そうしたら『窓と玄関の戸をあけろ!』の父の声を思い出した

もう揺れてない

微かな揺れだった

茨城かな、福島かな

いや、めずらしく千葉南部の速報

静かな川面を思い出した

早暁四時過ぎの五秒間ほどのこと

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生きよ

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 『初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 --このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。--(1ヨハネ112節)』

 与えれられたいのちを、自らの〈唯ぼんやりした不安〉の中で、自死の道を選んでしまった芥川龍之介の《生きようとする思い》を、追いやってしまった、35歳の自死を知って驚いたのです。明晰な頭脳を持っていたのに、太宰治の38歳の心中にしろ、川端康成の老いてからの72歳での自殺、〈言葉〉を駆使して文学活動をした人たちの自死について、これまで、私は大いに考えさせられてきました。

 〈言葉〉の森の中で、生きようとする言葉、生かしてくれる言葉を見出さないで、森の迷路にはまり込んでしまったに違いありません。芥川の死の床には、聖書が置かれてあったそうです。そこには、「西方の人」と題をつけて、芥川が、昭和2710日に書いた主人公、イエスさまが取り上げられているのです。彼も熟読しての〈イエス観〉が述べられていたのです。

 書き足りなかったのでしょうか、「続西方の人」を、前編の2週間後の723日に記し、それが、「遺稿」となっています。それは芥川の死の直前の作品です。中学や高校で学んだ教科書の中に、「トロッコ」、「羅生門」、「蜘蛛の糸」、「杜子春」など、芥川の作品が取り上げられていて、興味深く学んだ記憶があります。ただ一つ疑問だったのは、自死するような人の作品を、国語教科書に載せることでした。

 これからを生きて行くために学ぶ必要のある子どもたちに、生き抜かないで果てて、自己放棄し、責任放棄をした人の作品が、どんなに文学的には高い価値があったとしても、相応しくないのではないかと言う思いでした。

 文才などない私は、聖書を読んで、聖書を読んできた母の生き方からかも知れませんが、そのイエスさまが、「キリスト(救い主)」であることを、紆余曲折を経て、やっと信じた、いえ信じさせていただいたのです。そして聞いてきたこと、読んできたこと、解説されてきた聖書が、自分を生かす《ことば》となったと言うべきでしょうか。

 芥川は、ショペンハウエルの厭世観に強く影響されていたそうです。この神の子でいらっしゃる方の語られた《ことば》に、芥川が触れなかったことになります。文学的な関心は向けても、「わたしを求めて生きよ(アモス54節)」と言われた「救い主」と出会えなかった、ぼんやりとしたままで終わってしまった悲劇だったと言えるでしょうか。

 人は、明確な《はっきりした平安》の中に、生きて行くことができるのです。いのちを付与された神さまは、生きとし生ける者の全てに、「生きよ」とおっしゃっています。

(“キリスト教クリップアート”からです)

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