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「降誕節」、神が人となられて、人々の間にお生まれになられたことこそ、この方が「救いの君」で、神のご計画されたことの成就でした。それでキリストの教会は、そのことを感謝して、偉大な神さまを礼拝し賛美してきたわけです。
飼い葉桶の中に寝かされた赤児、訪ねてきた羊飼いたち、星が煌めいていた夜の出来事が物語られ、絵に描かれてきました。ところが、その飼い葉桶は、家畜の餌の干し草が入れてあって、家畜が、涎を流しながら食べて、洗われることのなどなかったものです。匂いだって半端ではなかったはずです。一説では、死者を覆う布で、赤児のイエスさまは産衣として包まれていたかも知れない、と言われています。輝き、イルミネーションなどもなく、薄暗い中での誕生でした。実際には、そんな様子だったのでしょう。
しばらくたって、東方の博士がやってきた時に、王の出現を聞いて、怯えた王ヘロデは、ベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を殺させています。しかし、み告げによって、イエスさまは両親と共に、エジプトに難を逃れています。すんでにところで、殺されそうな危機を、イエスさまは経ているのです。そんな血生臭い出来事が続いていたのです。
北欧やアメリカなどの家庭で、このシーズン、樅の木が飾られ、綿製の雪の白さ、煌めく星などで飾り立てて、清さや美しさや喜びに溢れています。ところが二千年前の誕生の様子は、まるっきり違っていたのです。少しもロマンチックでも、ムーディでもなく、静かでもない中に、神の子はおいでになられたのです。聖書を精読すると、これこそが誕生の事実でした。
降誕を祝うなら、どうしても誕生間もない頃に、多くの男児が殺された一件に目をつむることも、33年半の後の「十字架の贖罪」の死も、それらを抜きにしては、考えられないのだと思うのです。この神の子の到来は、罪を犯した人を救うために、神がご計画され、イエスさまを神の子と信じる人たちの罪の身代わりに、十字架に死ぬために、イエスさまはお生まれになられたのです。
旧約聖書に預言された、救い主の姿は、絵に描いたようでも、美形の俳優が演じる様な華やかなものではありませんでした。イエスさまの誕生の、およそ500年前に書かれた、「イザヤ書」という預言書には、次の様に預言されてありました。
『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(53章2~3節)』
「見とれるような姿もなく」、「輝きもなく」、「見栄えもない」と、やがておいでになるキリスト、メシア、救い主の外貌を、イザヤは預言したのです。通りすがりの人が目を見張ったりすることなく、光に包まれていたような気配は、全くありませんでした。また豊かな家庭ではなく、木工大工の養父に養われ、夭逝したヨセフに代わって、その大工職を継いで、母や、父違いに弟妹を養ったようです。ご生涯のお姿は、まさに「苦難の僕」でいらっしゃったのです。
肩をいからせ胸を張り、大股で歩き、あるいはサラブレッドのような名馬に乗り、長船(おさふね)の様な刀匠が鍛えた剣を腰に下げたり、錦糸銀糸の衣に、飾り立てた鎧をつけた軍神の様にでなく、「下僕」のように、汗で埃の中を、粗衣を纏い、粗食を食べ、太くなった指で杖を持つ姿でいらっしゃったのが、救いの君でした。
私たちの願う姿など、何一つありませんでした。もっと驚くことが預言されてありました。
『多くの者があなたを見て驚いたように、--その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた--(イザヤ52章13、14節)』
見る人が驚いてしまうような「醜さ」を持たれたお方だったのだと言うのです。『彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。(53章2節)』とあります。わが家の近くの「うずま公園」の樹木は、春になると、みずみずしい若芽を出し、若葉を開き、青葉を繁らせています。ところがイエスさまは、荒地に生出でる植物の根の様に、細く節だらけだったのかも知れません。
イエスさまの誕生を、人は美化したいのです。あの歓喜の讃歌、「第九」が演奏され、ハレルヤコーラスが歌われ、星空が広がり、溢れるほどの花々で飾られた世界に、この幼子を置きたいのです。人は抱いてあやすことのできる赤児の様であって欲しいからです。
でも、〈私の期待通りのイエスさま〉像を捨てなければなりません。私の願う様にではなく、私の身勝手な願いなどではなく、神のみ思いを、ありのままで受け入れることこそ、救い主と出会う道なのでしょう。
サウル王のような、ダビデのような、アブシャロムのような美貌、身長を持たない、尊ばれたり、羨ましがられる姿をとらずに、イエスさまはおいでくださったのです。
救い主に容貌への期待だけではなく、救いの計画、人の取り扱いも、神の定めを受け入れることが必要なのでしょう。降誕を祝うなら、その事実を求めて、あふれるほどの感謝と賛美で、接しなければなりません。御降誕は、贖罪抜きには考えられない、神さまがなさった出来事でした。
(宵に輝く「金星」です)
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