ガマンと頑張りで

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 『ガマンしないで、適切に冷房機器をご使用ください!』と言う、ニュースでの注意事項を、今朝聞いていて、悲しいかな、ある歌の一節、「 ♭ 我慢だ待ってろ  # 」が、思い出されてしまいました。

今日も暮れゆく 異国の丘に
友よ辛かろ 切なかろ
我慢だ待ってろ 嵐が過ぎりゃ
帰る日も来る 春が来る

今日も更けゆく 異国の丘に
夢も寒かろ 冷たかろ
泣いて笑うて 歌って耐えりゃ
望む日が来る 朝が来る

今日も昨日も 異国の丘に
おもい雪空 陽が薄い
倒れちゃならない 祖国の土に
辿りつくまで その日まで

 これは、望郷の歌の一つなのでしょう。終戦後に、旧満州に攻め込んできたソ連軍によって、はるか北のシベリヤに抑留された日本兵が、山紫水明の祖国を思い出しながら歌っていた歌です。後に分かったのは、作詞家の増田幸治も、作曲家の吉田正も抑留経験者で、収容の兵舎で作り上げたのだそうです。その旧作の歌を、一人の復員兵が、NHKのど自慢で歌ってから、大反響が起こったのです。それからしばらくして、二人の作詞、作曲家が名乗り出て、日の目を見た歌だと言われています。

 ある方が、お父さんの抑留体験を、次のように記していました。

 『私の父はシベリア抑留者です。幸い、昭和24年無事に復員することが出来ました。しかし、4年間の抑留生活については多くを語ろうとはしませんでした。約60万の日本軍捕虜が酷寒のシベリアで強制労働をさせられ、その内約6万人が亡くなっています。父は28年前に亡くなりましたが、生前TVでこの「異国の丘」が流れると泣いていました。シベリア抑留者の血を吐くような望郷の思いを謳った「異国の丘」は、私たちの心にいつまでも残る絶唱でしょう。』

 子どもの頃に、「りんごの歌」、「とんがり帽子」などと一緒に、この歌がしきりに歌われ、ラジオから聞こえてきたのです。父は、戦時下には軍需工場で働いていて、軍隊の経験はなく、抑留経験もありませんでした。当時の若者が、「お国のために」、いえ「両親や妻や子や孫のために」、ある者は兵士として、ある者は軍属として、また背後の工場で働きながら、戦中を生きていたわけです。

 焼夷弾で日本中が焼かれて、広島と長崎には原子爆弾が投下されて、あの戦争が終結し、様々なことがあったのです。この歌を歌いながら、日本の再建のために働いて、平和と繁栄を手にしたのです。

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 中部山岳の山の中で生まれて育ちましたから、都会生活者だった家内の家族の通ったような、食べ物に窮して、着物を手にして、さつま芋や野菜と交換するような戦後を、私の家族は通らなかったのです。よく、「尋ね人の時間」が、NHKの放送があって、大陸などから帰って来ている人の現在の所在を尋ねていたのを聞きました。

 また駅等や電車に車内では、が、アコーデオンを手にしたり、募金箱を手に下げた「傷痍軍人(しょういぐんじん)」がいたのを見かけました。『勝ってくるぞと 勇ましく 誓って国を出たからにゃ・・・』とか、『ここはお国の何百里 離れて今は 満州の・・・』とか歌う、復員兵の声が耳の奥に残っています。

 『ガマンだ待っていろ!』の歌詞を、ニュースを聞いて、戦後の歌の一節を思い出してしまう自分が、そんな世代であることを思ってみますと、ずいぶん昔、いえついこの間を忘れないでいることが不思議でなりません。頬が痩せ落ちてしまった、戦後東京の街角で撮ってもらった父の写真があったのも思い出します。目が映るような雑炊をすすって、子どもたちのために、シャニムに働いた父の世代の《頑張り》があって、生き延びて、令和の時代を迎えていることになるのですね。

(原田泰治の「故郷」、金峰山から富士を仰ぐ写真です)

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