「とどのつまり」の今なのでしょうか

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『5 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。
6 舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。
8 しかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。
9 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。 (新改訳聖書 ヤコブ3章5-9節)』

 「舌禍(ぜっか)」、「不適切発言」、「暴言」、「失言」と言う言葉があります。『あんなこと言わなければよかった!』と思うことが、自分はしばしばでした。上の娘に、『お父さん、あんなこと言ったら、◯◯さんが傷ついてしまうよ!』と言われたことがありました。一回や二回のことではなく、私の舌はじっとしていない悪の世界でした。

 言葉で失敗する人は、けっこう多くいるようで、どうも自分ばかりではななさそうで、安心しているのではありませんが、お仲間の多さに、同病相憐れむで、とくに有名人のそれは、気の毒に感じたり、影響力の多さに驚かされてしまいます。彼らは、マスコミを味方につけた時はいいのですが、敵にまわしてしまう「骨」なことが多そうです。

 私の父は、明治男だったからでしょうか、食卓に魚が並ぶと、美味しそうに食べておりました。鯛なんかは、食べ終わると、どんぶりに食べ終わった骨や頭を入れて、お湯を注ぎ、醤油をそれに差して、薬味で実に美味しそうに飲んでいました。家内に聞きますと、家内の家でも、同じだったそうで、昔の人は、そんな食生活をしていたのでしょう。

 海洋国家に生まれたのですから、季節に応じて、旬の魚が食卓にのりました。秋刀魚が出回ると、近所中が、七輪の火の上に網を置いて、それを焼くので、どの家からも煙が上って、モウモウと煙だらけになっていた光景をよく覚えています。庶民の魚、大衆魚は安くて、美味しかった時代の話です。

 秋刀魚とは違って、高級魚に、「鰤(ぶり)」という魚があります。醤油に、生姜や味醂で漬け込んだ切り身を、同じ様に、母が焼いていました。父の家は、男5人と母の6人家族で、魚を焼くのも、魚焼き機などない時代でしたから、夕餉の仕度は大変だったようです。

 この鰤は、成長時期、漁獲時期に応じて、名前が変わる魚なのです。稚魚から鰤になるまで、関東では、はまち・めじ・ぶり、また関西では、15センチぐらいまでをつばす、40センチぐらいまでがはまち、60センチぐらいまでをめじろ、それ以上が「ぶり」と呼ばれているそうです。
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 自分の骨格や身体を、魚を食べて形作ってきた日本人の繊細さには驚かされるのですが、先ごろ、話題になっていた「トド」も、二種類あります。

 魚の方は、成長に応じて、呼び名が変わる魚なのです。それで、「トドのつまり」という言い回しがあります。『とどのつまり、日本政府の今回の計画は失敗に終わってしまった!』と言う様に使われる言葉です。言い換えると、『結局のところ・・・』、『最終的に』という意味での言い回しなのです。

 魚の「ボラ」は、ハク(約3センチ)→ オボコ(5~10センチ)→ イナ(約20センチ)→ ボラ(30~40センチ)→ トド(50センチ以上)と、呼び名が変わるのです。「百々」と呼ばれる時期には、それ以上に大きくなることがないために、『結局のところ」、この名前に行き着くそうです。

 ただし、この「トド」は、海に棲息する哺乳類の「トド(セイウチの呼び名)」とは違います。人の身体が、とくに独身の女性の体型を、そんな言い方を、同性でも、冗談でも、笑いを取るのでも、言ってはいけない言葉です。言葉は、とてもtouchy(影響が微妙)で、不注意発言だと人や組織を傷つけてしまうので、注意しないといけない言い回しなのです。

 この「不義の世界」の「舌」で、多く失敗してきた私は、よく「軽口(かるくち)」をたたいてしまったようです。要注意、自戒の今ですが、「とどのつまり」、もう遅きに失した感がありますが、それでもと思っております。骨な人生だったのです。

※ 魚の呼び名は、地方地方によって独特に違っているようです。

(ウイキペディアによるボラ、トドです)
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偏見をなくした夏

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 「民藝」と呼ばれる演芸集団があります。日本を代表する伝統的な歌舞伎とは違って、『多くの人々の生きてゆく歓びと励ましになるような』演劇芸術を目指して、戦後間もない1950年に、滝沢修、宇野重吉などによって旗上げされています。

 舞台といえば、子どもの頃に、村芝居、小屋掛けの巡回一座が、私の育った街にも、時々やって来ました。脂粉や灯りのカンテラを燃やすカーバイトの独特な匂いがたちこめる、田舎芝居の一座の演劇を、夢中になって観た記憶があります。あの時代の匂いも、同時に思い出されるのです。

 父に連れ出されて、竣工間近かの新宿歌舞伎町のコマ劇場に行ったことがあったのですが、何を見たのかは思い出せません。でもあの神社の境内の小屋でのチャンバラ劇は、鮮明に思い出されるのです。あの歌舞伎町界隈で、なにか美味しい物をご馳走してくれたのだけは思い出せますが、のど元す過ぎればで、これも何を食べたかの記憶なしです。

 二人の兄は、誘われても付いて行かず、弟は幼かったのか、私がついて行ったのだと思います。でも父は、一人一人秘密に連れ出すので、兄たちも弟も、そんな機会があったのだろうと思います。父を独占できても、言いふらしたりしなかったので、各自に父との間に秘密があったかも知れません。

 さて、父・滝沢修を、ご子息の壮一氏が書かれて、「滝沢修と激動昭和」という題の著書を出版されていて、このたび、それを読了しました。その人間性に触れて、驚いたのです。

 きっと父の影響もあってでしょうか、この滝沢修の始めたような演劇活動の多くが、社会主義者集団だと思って、自分は毛嫌いしていたのです。何せ、{🎶貴様と俺とは同期の桜・・・♫]と、黄色い嘴で歌う、特攻隊や予科練に憧れた、時代遅れの軍国少年だったからです。

 と言うよりは、スターリンのソ連の粛清や弾圧や拷問を聞かされて知っていた私は、そう言った動きを嫌っていたのです。父は、ジャズや演劇界の役者たちは、一度やったらやめられない「ヒロポン」を打っては活動するのだと聞いたのです。それで警戒の目で偏見していたわけです。

 ところが、この滝沢修は、『生涯借家住まいをした人でした!』とのご子息の本を読んで、家も車も別荘も持たない自分が共感して、興味をもったわけです。

 この滝沢修と同世代人の父は、軍人の家庭で育っていましたが、軍国主義者ではなく、当時の一般的な人だったのでしょう。軍需工場の仕事にも従事していた父は、反共の立場の人だったのでしょう。四人の自分の子を、この世の悪から守ろうとしたのでしょうか、そんな男として生きていく注意事項をよく聞かされていたのです。

 また、ジャズや演劇の世界に生きる人間は、ヒロポン中毒者が多くいることを聞かされました。一度親しんだらやめられない中毒患者となって廃人になってしまうと、父は言ったのです。もちろん芸能界の人たちがみんな、そうだと言うわけではありません。一つの世界の問題を指摘してくれた訳です。

 社会主義者が社会を改善しようとする反面、自分たちは階級闘争や競争相手の粛清に明け暮れているような、ソ連の実情を知らされたのです。仲間を信頼できなくて社会がよくなっていくはずはないのです。

 共産圏諸国の生活の悲惨さ、労働意欲の無さ、物資の欠乏、理想と現実の違いなど、多くの矛盾があって、そういった社会に生きている人たちの息苦しさを知ったのです。そんな社会が続くためには、監視して自由を奪い、独裁的支配しかないのでしょう。映画館で観たニュースに映る民衆の目が、不安と恐れで溢れているのが分かっていました。
  
 しかし、社会を混乱に陥らせるような考えなどは滝沢修にはなく、役者魂に徹した、善良な役者馬鹿だったのでしょう。

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 滝沢修は、妻の文子をガンで亡くしています。彼を支えた妻があっての名優だったことは、文子の最後の言葉によって分かります。亡くなった後に。妻のハンドバッグにメモが残されてあったそうです。

『万一私が手術で死んだなら・・・私は最も幸福な妻であり、母であったと、心から思っていることを信じてください。結婚以来の生活を振り返ってみて、私には感謝のみ残ります。しあわせな生涯を私に送らせてくださって、ほんとうにありがとう、心からお礼を申します。
 家族のみんなのしあわせを心から祈りますのあんまり悲しまないでください。』

 41歳で文子が亡くなった時、長男・壮一が13才、長女・直子が10才、次女・雅子が6才で残されています。修は、大阪公演に出演で留守でした。豪邸に住むことだってできた、映画や演劇やテレビに引っ張りだこの俳優でしたが、慎ましく質素に生きた人だったようです。

 私は、演劇人や歌手などの人たちは、家庭を顧みず、奔放に生きている人の集団だと思っていましたが、自己を律し、人気取りのためにではなく、こよなく演じることを楽しんで、しかも命懸けで俳優として生き抜いた滝沢修への敬意を覚えたのです。演劇人への偏見がなくなってしまいました。

 軍国主義も社会主義も、国家建設には理想的な考えではなくて問題だらけのようです。共産主義者と疑われ特高警察に拘束されても、どんな境遇を生きても、滝沢修は屈することなく、一人の舞台俳優として、愛する妻と子たちがいて、素敵な生を生き抜いたのです。ご子息の父への熱い思いにも触れた、そんな今年の夏でもあったのです。

(ウイキペディアによる滝沢修、劇団民藝本部です)

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秋よ来いの心境です

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 咲いても、一輪車か二輪だった朝顔が、少し気温が低めになってきたからでしょうか、十輪以上も開くようになりました。

 8月7日が立秋でしたから、それから2週かも経って、八月下旬、甲子園の高校野球も、明日は決勝を迎えます。石橋高校、大社高校の活躍を、「バーチャル高校野球」のサイトで観戦し、甲子園に行って観たいと思ったほどの今夏でした。
 
 天気の長期予報は、
十月頃まで、この暑さは残ると言っていましたが、もうおごっそさんで、十分です。まだ赤とんぼの舞う姿を見かけませんが。満を持している感じがして、『秋よ来い🍂』の心境です♪

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やっと、でしょうか

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 さしもの猛暑も、昨夜は涼しくなって来たようです。虫の音が聞こえ、秋を告げ🍂、やっと一息つけそうです。

 iPad が、雷様(雷様)の大暴れで、落雷や停電の影響でしょうか、Wi-Fi をcatch できなくなってしまいました。昨日は、息子が診断してくれ、iPhone で操作を指示してくれましたが、要を得ず、週末に駆け付けてくれるようです。

 今日は、最高気温予報は32℃で、午後は雨のようです☂️。降り方が半端ではありません。文句なし、生きていますのでご安心ください。

(5点セットのベランダと室内の花々です)

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男のけじめ

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 父が、『急に老けてしまった!』のを感じた時がありました。父が34歳の時に、三男として生まれた自分でしたが、この自慢の父親は、男五尺強、十六貫で、dandy だったのです。

 背丈はありませんでしたが、明治男の標準で、恰幅は良かったのではないでしょうか。東京圏の出身で、都会的な sense を持ち合わせていたのです。身の回りには、日本橋の三越で、誂(あつら)えた背広、Yシャツ、黒川靴、ネクタイ姿で、お洒落に颯爽と電車通勤をしていました。

 また持ち物は少なかったのですが、それを大事にする人でした。子ども心に驚いたのは、Yシャツの襟や袖口が擦れてくると、裏返しに出して使い続けていました。しかもクリーニングに出したYシャツに、母にピカピカに磨かせた靴を履いていたのです。

 病んで伏せている父を見たことがありませんでした。熱があると、熱いお風呂に入って、鉢巻をして、『ウーン!』と唸りながら寝ると、翌朝は定刻に起きて、朝餉を終えると、着替えて通勤してしまうのです。医者とは縁のない様に見えたのです。

 ところが、通勤の小田急電車が急ブレーキをした時に、くも膜下出血を起こしたのです。丈夫だったと自負していたので、自分では軽いと思っていたのでしょう。しばらく放っておいたのですが、けっきょく地元の市立病院に入院してしまったのです。

 その頃は、すぐ上の兄のジャンバーを羽織り、運動靴を履いて、退職後の第二の職場に通勤ていたのです。自分の会社をいくつか持っていたのに、それを畳んだか、人に譲ったのか、洒落(しゃれ)男が変わっていく様子に、驚いたのです。もう構わなくなってしまっていました。六十前でしたが、父の変化に驚いていたら、退院する朝に、脳溢血を起こして、そのまま亡くなってしまったのです。それは衝撃的でした。

 父が六十一で召されて、父よりも二十近く長生きをしている今の自分を、ちょっと距離を置いて眺めてみると、ずいぶん構わなくなってきたのに気づくのです。着なければならない時のための背広もYシャツもネクタイも残してありますが、着る機会がありません。

 この人生の cycle の変化を、しっかりと受け止めなくてはいけないのかも知れません。『もういいよ!』と言わないための努力が必要になってきている様です。ちょっと出かける時も、『好きな娘(こ)に会ってしまう時のために!』と、気配りを怠らなかった頃の思いを忘れずに、世間に対しても、みすぼらしくない様にする努力が必要なのです。

 「笑」が何十個もプリントされた物、賛美チームの物、シンガポールの名所をプリントした物、もう何年も何年も着古して、Tシャツは色褪せ、生地が薄くなり、襟元が破れてきています。そんな着古した物を着ている自分も、もう十分に、草臥(くたび)れてきているのです。

 ところが、ユダ族のカレブは、モーセに次ぐ指導者とされたヨシュアに、次の様に言っています。

『今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。
しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(新改訳聖書 ヨシュア記 14章10~11節)』

 彼は、八十五歳になる自分が、四十歳の時と同じ様に『今も壮健です。』と、カレブは言ました。自分の氏族の受けるべき相続分を、そう言って願い出たのです。人は外観だけでなく、やはり内面なのでしょう。ボロをまとえども、心は輝かせているべきです。
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 信長は、「人間(じんかん)五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」と、「敦盛 幸若舞(こうわかまい)」を舞ったのですが、私は、26の時に、人生に永遠の希望を持たせていただいて、半世紀強を生きてきました。恥多いこれまでですが、悔いなし、罪を赦され、死を恐れずに、明日への望みを得て、今を生きられて溢れる感謝でおります。

(ウイキペディアによる父の生まれた街の市章、織田信長像です)

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当たりなのか外れなのか

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 「親ガチャ」と言う言葉がある様です。おもに若者が、自分の親を評して、そう言うのだそうです。この「ガチャ」は、スーパーの入り口でしょうか出口に、子ども相手に、100玉を入れて、ガチャガチャとノブを回すと、何が出てくるか分からない、プラスチックの入れ物に入った、人形などが出てくる、あれです。

 百円の価値などない物に、出たとこ勝負、運などによって手に入れ様とする、賭け勝負の遊びの子ども版だと言えそうです。けっこう、あの機械の前にしゃがみこんで、誘惑されている子どもたちを多く見かけたものです。でも、そう言った光景を、最近はあまり見かけません。

 ガチャガチャの機械は、今は廃れて、入り口にロープで閉鎖され、閑古鳥が鳴いていて、いつもの散歩コースにある大駐車場を持った、大人版のパチンコ屋と同じなのでしょうか。〈何が出るか?〉、〈どれだけ出るか?〉で誘っている点で、似ています。儲かるとか、得をすると言った、努力や研鑽や克己などとは全く違った思いを、幼い子どもたちに植え付けてしまっていたのです。

 わが家は、ガチャをさせないで、けっこう厳しく、尻叩き(英語ではスパンクspank と言います)までされた子どもたちなのです。そろそろ五十代になっている今、ほんとうは、「親ガチャ」なのに、『よく育ててくれた!』と、とくに娘たちが、lip service をしてくれています。彼らには、《当たり🎯》だったのでしょうか、〈ハズレ!〉だったのでしょうか、今や親が、歳を重ね、しかも病気がちで、気の毒で励まそうとして、そう言うのでしょうか。

 でも「スポ少」と言う、家に籠りがちの子どもたちに、強くなって欲しくて、スポーツをさせようとする願いからでしょうか、野球やバスケットボールやサッカーなどが盛んに行われていて、それはさせてあげたのです。今頃の季節には海水浴にだって、よく連れ出しました。あの高額な入場料のディズニー・ランドにだって何度も連れて行ったのです。

 賭け事の子ども版に踊らされた子どもたちが、ちょっと大きくなって、それと同じで、親を選べない現実と、当たり外れ、外ればかりのガチャガチャに絡めて、「親ガチャ」と言うのです。外れガチャこそが、自分の両親だと思わせてしまったのは、随分と子どもたちは不幸ではないでしょうか。

 父に愛されて育った私は、〈内弁慶〉だと言われました。家では威張っていて、外ではからっきし弱虫なのです。そんなで病弱な私を強くしようと、『泣いて帰ってきたら、家に入れないぞ!』と、父は言ったのです。殴られても、泣いて尻尾を丸めるのではなく、殴り返す様にされて、相手が give up するまで頑張ってしまう子になってしまったのです。

 もしかしたら、「子ガチャ」、「教師ガチャ」、「市長ガチャ」、、今日日、関西圏には「知事ガチャ」がいるのでしょうか、どこでも大騒ぎをしている様です。「首相ガチャ」だと騒がれて、退陣して、首長の座を下りるニュースで、日本が驚いているとかですか。

 ある聖書の言葉に、私は励まされて、『生きていていいんだ!』と思わされたのです。

『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。(新改訳聖書 イザヤ43章4節)』

 ヤコブ(後に、主なる神によってイスラエルに改名されています)の子孫が、不信の子、不従順な子、つまり「子ガチャ」なイスラエルの民を、族長たちとの契約の故に、「高価」、「尊い」と言う風に見て、遇してくださると言う箇所です。自分も、ずいぶんなガチャ人間でしたが、キリストに故に、「高価で尊い」とされ、愛を実感できたのです。ただ憐みのゆえでもあります。
 
(ウイキペディアによるガチャガチャです)
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大社高校、準々決勝へ

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 甲子園に、驚くべき勝利の雄叫びが上がりました!
 山陰島根の大社高校が、西東京代表の早稲田実業高校にサヨナラ勝ちで、打ち勝ち、投げ勝ち、応援勝ちしました。
 この大社高校は、亡き母の故郷の代表です。母は、女学校に行きたくても行けませんでした。勝ち気で、今市小町と噂の高かったと言われたのだそうですが、涙を飲んで勉学の道をあきらめて、郡是(グンゼ)の工場で働きました。
 そんな背景があって、島根には特別な思いがあり、出雲の地の高校が勝ったことを、今宵は喜んだのです。
 父が学んだのは、市立の旧制中学校で、ある家庭の事情で、東京府下の私立中学校に転校しています。高校野球では、時々名の上がる学校ですが、中学校野球をやったかどうかは聞きませんでしたが、一緒にキャッチボールをしてくれたほど、野球好きでした。
 とにかく、そんな縁(えにし)があって、嬉しいのです。百年前の甲子園で行われ始めた、中等学校の野球大会にも出場したチームで、早稲田実業も共に選ばれていて、百年目の対決だったそうです。大社高校は、107年ぶりに2勝目を挙げた様です。
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 大方の予想に反しての勝利、準々決勝への8チームに選ばれたことになります。19日に、鹿児島県代表の神村学園高校と対戦します。暑いのは日本列島、さらに熱いののは甲子園です。準々決勝に進むすべてのチームの健闘を願っています。

(ウイキペディアによる大社高校、こうしえんです)
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台風一過

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 台風予報で、『車が横転するほどの強風が吹く恐れがあり、十分注意を!』と言われたほどの7号台風でしたが、朝5時には、穏やかな空でした。ベランダでは、いくつもの朝街が開いています。まさに台風が通り過ぎた穏やかな、栃木巴波川のほとりの朝です。

健闘を讃えて

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 第106回高等学校野球選手権大会(於甲子園球場)に、栃木県で栄冠に輝いた、県立石橋高校が出場しました。一回戦では、宮城県代表の聖和学園高校に、5対0で勝利し、二回戦に進みました。今日の第三試合で、青森山田高校に、0対5で、惜しくも負けましたが、その健闘に元気をもらえたのです。

 県立高校の出場校数が少ない大会で、ここまで善戦したことを、県民の一人として喜びたいのです。専用球場もなく、練習時間も少ないのだそうですが、与えられた条件や環境の中で、精一杯励んだことに拍手したいのです。県大会でも、本県の雄である作新学院、国学院栃木校をくだしての全国大会への出場でした。

 この石橋高校は、1924年(大正13)に創立されていて、県内でも有数の進学校なのです。家内の通院する獨協医科大学病院から、バスに乗車して、宇都宮線(東北本線)の石橋駅まで、バスに乗ったことがあり、その途中にある学校なのです。

 「文武不岐(ぶんぶふき)」を掲げて創立された学校で、野球部は、1935年に創部されているそうです。国公立大学に多くの卒業生が進学している様です。公立学校の健闘は、素晴らしいことです。猛暑の中に、味合う清涼な水の様に、爽やかにされたことに感謝したいのです。

(写真は、ウイキペディアと石橋高校のHPからです)
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美しい日本語に接してきて

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「操作」、デジタル大辞泉によりますと、
読み方:そうさ
[名](スル)
1 機会などをあやつって動かすこと。「ハンドルをーする」「遠隔操作」
2 自分の都合のよいように手を加えること。「株価をーする」「帳簿をーする」
とあります。

 誰かが、または何かの団体や国家や組織が、ある目的のため、奸計を行うために、故意に、意図的に圧力をかけて、世の中の動きを Control してきているように、最近、思えて仕方がありません。「特別警戒」と言って、NHKがニュースで言い始めて、それで日本中が大慌てを起こしてしまったのです。観光地の宿泊キャンセルがたくさんあったほど、大きな影響がありました。

 言葉を伝えるマスコミで、文字や言語の中に、以前とは違ったものを感じてなりません。情報に伝え方です。それでなくても、この数年の砂漠の様な、夏の暑さに見舞われていたのにです。専門家が大慌てしてしまった煽りで、社会不安を生んでしまったのです。緊急なことは、もっと注意深く発信して欲しいのです。

 日頃感じていることですが、その一つが、ニュースなどの言葉に、カタカナ語が濫用されていることです。辞書を引かないと、意味がわからない表現が多くなっていることです。もしかしたら、意味をぼかして伝えようとする意図が感じられてならないのです。厳粛さが伝わらないようにしている様に、パニックが起こらない様にと、何か操作が感じられてなりなりません。

 美しくて、意味深調な表現のできる日本語があるのに、日本語を使わないで、とくに英語、たまにフランス語が、カタカナ語、たまにはドイツ語で書かれ、語られています。今は、ニュース原稿や、官庁のコメントなどを作成する文書方が、若い人が担当されているのでしょうか。その書き上げた文書を、点検する機能が働いていないのではないかと勘ぐりたくなります。

 英語には、nuance(ニュアンス)の違いだったり、at、on、for、inなどの助詞をつけたりすると、意味が全く違う場合が多いのを学んだのを思い出します。そんな戸惑いを覚えながら、中学生になってから、英語を初めて学んだ日を覚えているのです。その担当をされたのは、高等部の教師で、私たちが三年生になる頃は、有名な大学に、フランス語教師として転身されて行かれました。

 英語が、こんなに豊かな表現をしているのに驚かされ、そんな風にしての学習も楽しかったのです。そればかりではなく、国語の担当教師が、一人は僧侶で、教科書を教えてくださり、もう一人は、特別講義をされた高校3年の担任の先生でした。「奥の細道」の小冊子を買って、それを教科書にして学んだのです。文語体、古い日本語を学ぶために、素読しました。その文章の簡潔さ、言葉の重さを感じて、私は、すっかり虜にされたのです。

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『月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋に蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立る霞の空に白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、
 草の戸も住替る代ぞひなの家
面八句を庵の柱に懸置。』

 『なんと美しい言葉、文章なのだろう!』と驚き、芭蕉と曽良の旅姿が想像でき、その旅先に行ってみたいと思わされたほどでした。そんな心打たれた中学一年生だったのを覚えています。まだヒゲが生える前だったのに、気分は、もう高校生になったような不思議な気持ちでした。

 自分の国の国語を、もっと大切にして、誇るべきではないでしょうか。英語への憧れは、大谷翔平ではありませんが、やめた方が良さそうです。家庭の中で、歯切れの良い父の語る言葉、母の穏やかでやさしい表現の言葉で育てられたのです。日本人は、受け継いできた文化や習慣や言語に、もっと自信を持つべきだと、仕切りに思うのです。その上で、諸外国語に慣れ親しんでいったらいいのです。元禄二年八月十六日、敦賀で次の句を、芭蕉が詠んでいます。

寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋

(ウイキペディアによる芭蕉の旅立ち、葛飾北斎の描いた芭蕉の旅姿です)
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