三十一年

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「三十一年前」に、世界を揺るがす様な事件が起こりました。私の父が青年期の一時期を過ごした国ででした。私たちよりも一世代若い多くの青年たちが、その騒動の渦中で亡くなったのです。自分たちの国の指導者の死を追悼した集いの中ででした。

とても悲しかったのを思い出します。その国に、2006年に出掛けました。六十を過ぎていましたが、留学のために、家内と二人でまいりました。一年後、出会った方の推薦で、大学の外国語学部の日本語教師として就職したのです。

その時の同僚で、私のお世話をしてくださった方が、その運動に加わった学生の一人だったのです。お子さんを連れて、教員住宅のわが家に、遊びに来られ、日本の大学院の博士課程で学びたいと言っておいででした。不遇の中を過ごしておいでだったのです。

私の30数年前は、腎臓を悪くして、血液透析をしていた次兄が、体調を崩していて、大変な時でした。それで、私が提供者となって、腎移植の手術を、東京の病院でした後でした。

日本の社会は平穏でしたが、その国は、騒然として、ニュースがひっきりなしに、その状況を伝えていました。私の60、70年代の青年期も、条約の締結の反対の学生運動が盛んでした。国を憂える青年たちが、将来の不安に駆られて、世界中で蜂起していました。

あの手術後、次兄は、職場に復帰し、定年延長で働きを続けできました。今は、悠々自適な時を過ごしています。私は家族のもとに帰って、それまでの生活に戻ったのです。そう30数年もの歳月が過ぎて、今があります。《落ち着いた市民生活》ができることが、今も私の願うところです。

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孤高

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「孤高」と言う言葉があります。「孤高の人」を考えてみると、独房に収監されている人とか、詩人、失恋してしてしまった人など、孤寂(こせき)を覚えている人の様子を言うのかも知れません。

職業としては、裁判官や検察官が、そんな感じを漂わせている仕事かも知れません。厳しく人に接しなければならないので、人との交際にも、言いようもない厳しい制約を自らに課さなければなりませんから、とても孤独な立場にあるのだろうと思っていました。

学生時代の友人でも、親友でも、反社会的な立場にある人とは、闇雲なく交際を表立ってすることはできなさそうです。 ずいぶん窮屈な生き方が強いられていて、大変そうだと思ってしまいます。

そんな窮屈さの中で、そんな立場の人たちにも息抜きが必要に違いありません。登山や釣り、サイクリング、家庭大工、個人ゲームなどは、かえって無聊(ぶりょう)をかこつことになってしまうので、よくないかも知れません。

そんなで、立場を弁えてくれる仲間と、卓を囲みたくなるのかも知れません。食事だったら良いのでしょうけど、件(くだん)の人は、麻雀卓を囲んでしまった様です。時期も悪かったし、囲んだ仲間もよくなかったのです。しかも、賭け麻雀をしてしまいました。

私の父がお世話した方の中に、苦学して検事になった方がおいででした。東京地検の検事で、お相撲さんが花札賭博をして、検挙したことがあったのです。有名な相撲取りでしたが、相撲の勝負も、賭け事にされてしまう様な仕事なのだと聞いていましたから、それでもやってはいけない〈御法度〉の遊びでした。その記念品の花札を、小学生の弟が、この方からもらってきたことがありました。『大人になってするなよ!』の教えと共に。

お相撲さんはともかく、検事さんが賭け麻雀をすると言うのは、お相撲さんがするのとは違います。『仕事がキツくて、息抜きが欲しくてつい!』と言い訳のできない立場です。発覚しても、責任を取らない、潔くない人が、人を罪に定めてきたとするなら、《法》とはなんなのでしょうか。

そんなことを言う私なのですが、潔白な人間なでどではありません。だから、人を裁く立場には立てないのですが、教師になった時、『若気の至りで!』と言う言い訳を捨てて、《聖職者》の責任を重く感じて、悪い習慣を断ちました。それは、自分としても信じられない様な決断でした。

裏表なく生きていく決心をし、夜遊びに誘惑されていた若気の至りを、振り切ったのです。『赤い顔をして生徒の前に立たない!』、そんな単純な決心でした。教師をやめても、その生き方をし続けて、今日に至りました。あの二十代の決心、『どこを切っても、切られても潔くある様に!』は正解でした。面白くなさそうですが、けっこう楽しく生きてこれました。

喧嘩別れして、友情を犠牲にしてしまう〈賭け麻雀〉をよく見てきました。競輪狂いで家庭を壊した人もいました。今、「総長」になれなかった男が、惨めそうに見えて仕方がありません。「孤高を持する人」であった方が、良い一生になったのでしょうに。「孤高」とは、〈俗世間から離れて、ひとり自分の志を守ること〉と、「六法全書」に、いえ普通の国語辞書に、そうありました。

(「孤高の山」の男体山です)

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漂泊

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杜甫の代表作に、「登岳陽楼」があります。

昔聞洞庭水(昔聞く 洞庭の水)
今上岳陽楼(今上る 岳陽楼)
呉楚東南坼(呉楚 東南に坼け)
乾坤日夜浮(乾坤 日夜浮かぶ)
親朋無一字(親朋 一字無く)
老病有孤舟(老病 孤舟有り)
戎馬関山北(戎馬 関山の北)
憑軒涕泗流(軒に憑って 涕泗流る )

この「詩聖」と、後の世になって呼ばれる杜甫は、湖北省で生まれ、すでに6歳で詩作をしたほどの人でした。洛陽で文人の仲間入りをしています。でも漂泊の思いを捨てきれずに、諸国を漫遊した詩人でした。それでも食べていくために、同行の妻と五人の子どもを育てるために、官職に就きますが、芭蕉が語る様に、「旅を住処として、旅に死す」様に、59年の生涯を、湘江(湖南省の大河)の舟の中で終えています。

四川省の成都に、杜甫が家族とともに住んだ「草庵」が復元されていて、そこを、一度は人を訪ね、もう一度は、語学学校の遠足で訪ねたことがあります。そこは観光化されていて、当時の面影を感じさせてはくれませんでしたが、洛陽からは随分と西に離れた地だったのです。

広大な四川盆地の中にあって、「天府之国」と呼ばれ、「三国志」、「麻婆豆腐」、「火鍋」、「パンダ(熊猫)」で有名な地です。大きな空、豊かな土地で、年間を通して晴れ間の少ない土地柄だと聞きました。初めて行った時に、新聞記者をしていた方が、『ここで仕事を見つけますから、ぜひ住んでください!』とお誘いくださったのですが、数年後、天津に1年、そして華南の街で12年を過ごしました。

杜甫の時代、この詩にあるのですが、59年のこの詩人の生涯は、すでに「老病」の年齢だった様です。唐の時代の人の寿命は、現在に比べ短かったのです。もう一つの杜甫の詩に、「春望」があります。

国破山河在(国破れて 山河在り)
城春草木深(城春にして 草木深し)
感時花濺涙(時に感じては 花にも涙を濺ぎ)
恨別鳥驚心(別れを恨んでは 鳥にも心を驚かす)
烽火連三月(烽火 三月に連なり)
家書抵万金(家書 万金に抵る )
白頭掻更短(白頭掻けば 更に短く)
渾欲不勝簪(渾て簪に 勝えざらんと欲す)

人に世の移り変わりは、めまぐるしいのですが、国土の自然は変わらないことを詠んでいます。杜甫は、五十代で、もう白髪になり、髪の毛も薄くなっていたのです。生活を詠み、国を憂い、人生そのものが旅の様に漂泊の思いに浸り、旅を住処として一生を終えたのです。

こう言った杜甫の生き方を憧れたのが、芭蕉だったと、中学の時に教えられました。奥州松島の美しさに圧倒された芭蕉は、行ったことのない、杜甫が詠んだ、「洞庭湖」と比べています。芭蕉作ではないと言われている、

松島や ああ松島や 松島や

『ああ、これも俳句!』、これには驚かされてしまいます。

( “ 百度図片 ” から洞庭湖の風景です)

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『あの人は手が遅い!』と言ったりします。〈手際〉よく、物事を処理できない人のことを言う様です。これとは反対に、『手が早い!』と言います。これには、もう一つの意味があって、あまり好い意味ではないのですが、男性が女性への接近術が長けている人、喧嘩っ早い人を言うのだそうです。

「手」には多くの言葉があります(”weblio辞典“より)。

手に掛ける
① 世話をする。育て上げる。 「 手に掛けた牛をせり市に出す」
② 自らの手で殺す。 「息子をわが手に掛ける」
③ 自分で、思うように事を運ぶ。

手に手てを取る
仲良く行動をともにする。特に、男女が連れだって行くのにいう。 「 手に手をとって祖国の復興のために汗を流す。」

手を広げる
事業などの規模を大きくする。関係する範囲を広くする。 「商売の手を広げ過ぎている。」

手を袖(そで)にする
手を袖に入れる。何もしようとしない。袖手(しゆうしゆ)。 「 手を袖にして徒に日月を消するのみにて/学問ノススメ 諭吉」

手を取り合う
① 共通の喜び、悲しみなどに駆られて互いの手を握る。 「 手を取り合って泣く」
② 力を合わせる。 「 手を取り合って共にがんばりましょう」

手に落ちる
戦いや争いで、相手や敵に負けてしまうこと。軍門に堕ちる。「信長は光秀の手に落ちた」

手を切る
それまであった関係を断つ。縁を切る。 「悪徳業者と手を切る」

私の愛読書に、「手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった人。その人は・・・祝福を受ける。」、「どこででもきよい手をあげて」などと記されています。弱くされて、困窮している人のために、「手をこまねく」ことなく、「手をのべて」、何くれとなくすることこそ、今日日、私たちのすべきことかも知れません。

「手の焼ける」私を、「手塩をかけて」育ててくれた親に感謝し、「手の離れた」私を見守っていてくれた父と母を思う、六月の初めです。

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破屋

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南信州の山間部で、山の斜面に、へばりついている様な集落があって、当時、飯田に住んでいた娘が連れて行ってくれたのです。『よくも、こんな辺鄙で、畑地のないところで生活してきたものだろうか!』と驚いたことがありました。

どうみても、〈不便〉に思えて仕方がありませんでした。人とは、住んでみると、そして住み慣れると、ほかに移り住むことなど考えなくなっていくのでしょうか。今になると、あの番小屋の様な家に住んでみたい気持ちがしてくるのです。人は本来、自然を住処としていたからなのでしょう。

自分が育ったのも山地でした。戦時中、山奥で、戦闘機の防弾ガラスを作るための石英を掘り出すため、軍命をうけた父が働いている時に、私は生まれたのです。戦争が終わってから弟が同じ家で生まれています。熊や鹿や猪の出る山奥でした。

そしてその原石を運ぶ策動(ケーブルカー)の終着地に、集積場と事務所があって、そこを宿舎にして住み替えたのです。もう少し山奥には、満洲帰りの家族の住む部落もありました。そんな山奥でも小学校があって、分教場もあったりで、日本の教育は、そんな山奥の子にも、機会を与えていたわけです。

山の中で、木の実を摘んでは食べた記憶があります。一番美味しかったのは、秋に熟した「木通(あけび)」でした。うす甘い上品な味の木の実でした。ヤマメの魚影を眺め、冷たい沢の水に足をつけ、空気も鳥の鳴き声も、梢を揺する風の音も、原始そのものでした。

今のコンクリート造の家が、〈終の住処〉になってしまうのでしょうか。最近、引越しの虫が、また騒ぎ出してきて、次の街か村に狙いを定めているところです。叱られて、藪の中に、藁を集めて寝入った、あの時の土や枯れ草の匂いが、漂白の思いを刺激しています。芭蕉の「奥の細道」の冒頭に、

月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。
古人も多く旅に死せるあり。
よもいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ、去年の秋江上の破屋にくもの古巣をはらひて、やや年も暮、春立てる霞の空に白河の関こえんと、そぞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取るもの手につかず。
ももひきの破れをつづり、笠の緒付けかえて、三里に灸すゆるより、松島の月まず心にかかりて、住める方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も 住替る代ぞ ひなの家

面八句を庵の柱にかけ置く。

とあります。江戸の随分と辺鄙な所に、芭蕉の庵があって、21世紀の今でも、江戸とは思えない所に住んでいたのです。ああ、この〈騒ぐ虫〉をどう抑えられるのでしょうか。もう五月が、過客の様に行って、六月になってしまいました。

私のペンネームは、〈寄留者〉です。華南の街に住んでいた時は、それに〈大陸の〉を冠して、呼んでいました。〈便利さ〉よりも、『もっと人間らしく、つまり自然と一体になって生きて行きたいな!』と思うこと仕切りです。今度は、「破屋(はおく/やぶれや)」に、〈開拓民〉と呼ばれて住んでみたいのですが、それには年齢制限があるでしょうか。
 
(木通(あけび)の花です)

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落語の醍醐味は、「間」にあるのではないかと思っています。話の間に、短い沈黙を置くのです。『次はなんて言うのか?」』を考えているのでも、次の言葉に期待を持たすためでもなさそうです。なんともいえない、潤滑油のような「間」なのです。

結構、長い話をするのですから、たまには〈ど忘れ〉だってありそうです。話が詰まってしまうのです。それを、「間」にして、上手にやり過ごしています。

噺家(はなしか)で名人と言われた六代目の三遊亭円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上がるほどだったそうです。通常、真打は、30~40年の間に努力して100席ほどが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることが出来た方だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・』と、よどみなく話し出す落語なのですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられたのです。

この円生師匠でも、噺を〈噛む〉ことが、ままあったのです。でも上手に、次に続けてしまうのです。それも噺家の手連れ(てだれ)の技なのでしょうか。それでも、落語家のみなさんが、決して言わない言葉(?)があります。聞きづらい『えー』、『あのー』です。その代わりに、「間」があるのかも知れません。

〈間抜け〉と言われたことが、私にもあります。これを、“ 笑える国語辞典 “ では、『間抜けとは、おろかで要領が悪いこと、また、そういう人をいう。「間」とは、物と物や音と音に挟まれた「抜けている」部分を意味し、「抜けているところ(間)」が「抜けて」いるとは、「抜けているところがさらに何かが抜けている」のか、「抜けているところがちゃんと抜けていない」のか、いまいちよくわからない言葉だが、要は「抜くべきところ(間)」の抜き方が悪くて、物と物や音と音の間隔がアンバランスになっていることをいうらしい。もっとも、語源についてあれこれ考えなくても、間抜けなやつというのはふたことみこと言葉をかわせばすぐ判別できる(自分が間抜けだったら、わからないかもしれないが)。』とありました。

人生にも、この「間」があります。今回の騒動で、強制的な「間」を、私たちは持たされたのですが、それを、〈与えられた間〉と理解したいのです。次が輝いたり、落ち着いたり、楽しくしてくれる「間(余裕)」になります様に!

("pitarest"の裂け目(間)に生える雑草です)

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生かされたこと

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人の願いのうちには、後世に、〈自分がいたことの証〉を残しておきたいと言う願望があるのだそうです。そういえば、一国の大統領や首相を務めた方は、将来の叙勲の前とは別に、在任中の国家への貢献を形で残したいと願う様です。

名を残すだけではなく、例えば、条約の批准、公社民営化、憲法改正など、『あの領導は、こんなに偉大な事業を成し遂げられたのです!』という称賛を、自分と家族、そして一族が受けることを切望するのです。

秀吉は、聚楽第や大阪城の造営や、朝鮮出兵で国土の拡張、豊臣一族の繁栄と栄華を求めましたが、六十年の生涯を終え、『難波のことも夢のまた夢!』と思い返して、何一つ持つことなく、棺が彼を納めたのです。あの栄誉や奢りはどこに行ってしまったのでしょうか。関白職を受け継いだ姉の子・秀次は切腹させられ、秀頼は自害、豊臣は露の様に失せたのです。

次いで天下を収めた徳川家康は、百家争鳴の戦国の世を平定して、長期政権の基礎を据えましたが、七十五歳で亡くなり、久能山と日光に、亡骸は葬られました。家督を息子や姻戚に譲らねばなりませんでした。まさに栄枯盛衰、人の命は、かくも短いものなのです。富と地位を得ても、王も将軍も大統領も首相も、寿命には勝てませんでした。

『虎は死んで皮を留める!』のだそうですが、いったい、自分は何を残すのか、考えてみましたが、何一つ見当たりませんでした。内村鑑三は、『金を残せ!』そうできなかったら『事業を残せ!』、それもできなかったら、『思想(書)を残せ!』と言いました。歴史を見て、そうできた人は、ほんのわずかでした。そして、もう一つ、これなら誰にもできることを上げたのです。『勇ましく高尚な生涯を生きよ!』とです。

私の恩師は、書を残し、弟子を残しました。私の書庫には、その本がきちんと納められていて、時々紐解きます。ところが私は、一冊の本も著すことがありませんでした。また一人として弟子を持つこともありませんでした。さりとて、勇ましくも、高尚でもなく、凡凡たる生を積んできただけです。

この凡庸とした生を、どう言ったらよいのでしょうか。自分で、自分の生を肯定でき、感謝でき、満足を覚えるなら、それでよいに違いありません。欠点の多い私を、多くの方たちの忍耐や激励や諭しが与えられて、『生きよ!』と声を掛けてくださり、他方面にわたって助けてくださいました。

一人の妻の夫であったこと、四人の子の父であったこと、幾らかの学生の教師であったこと、そう生きられたことを感謝しています。100まで生きたいのですが、こればかりは自分では決められません。ただ定められた来た道を、さらに前に向かって、一歩一歩と行くのです。生きたこと、いえ《生かされたこと》で満ち足りたいのです。

(「アマナイメージズ」の張子の虎です)

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社会的距離

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最も密集している場所を考えてみると、ラグビーの「スクラム」ではないかなと思うのです。私が学んだ高校の体操の時間、冬場には、そのラグビーをやりました。スクラムを組んで、肩や頭や耳の密着度は、半端ではないのです。男同士で、あんなに密着が許されている競技は、他にありません。

汗臭い男の匂いを放つスクラムの中にいると、変な趣味のない私でも、一体感や仲間意識の強さに、圧倒されるほどいい気分になったのを思い出します。自分のチームの確保するボールを、一歩でも前に進めるための闘いは、今思い出すだけでも、『またやってみたい!』と思わせられ、醍醐味にあふれていたものでした。

バスケットボール、ハンドボール、テニスボールをやってきましたが、授業でのラグビーをした経験が、なんとも一番懐かしさを感じさせられています。

「社会的距離(なんですか、最近のコロナ禍の中で英語では"ソシアル・ディスタンス“ と言ってますが)」という言葉が、社会学の中にあります。親子の距離、友人間の距離、師弟の距離、恋人の距離、夫婦の距離などがあって、それぞれの密着度が違います。” タッチング/touching “ と言う学問用語があって、他者の入り込めない距離があるのです。

私には、母のおんぶや抱っこ、父の抱きすくめ、兄からのパンチ、友人との肩組み、好きになった女の子のそばに寄りたい願望、恋人願望、そして結婚関係、様々な人との距離があって、自分とまわりにいる人たちとの距離を測りながら生きてきています。

サンパウロの地下鉄の駅近で、日本人のお年寄りが、寄り集まっていた光景が、印象的だったのです。しかも、無言で、ある一定の距離の中に集団化していたのです。異様には感じませんでしたが、同国人、同郷人の間の〈その距離〉が興味深かったのです。寂しさを埋め合わせる様な接近が見られたからです。

中国でのしばらくの生活の中でも、父子、母子、戦友、友人の間の「肩組み」の中に、その社会的距離を、私はよく見かけたのです。自分では、もうしなくなった「肩組み」を、ちょくちょく街中で、見かけたのです。中国での男性間の心理的な、また肉体的な密着度の高い関係で、一番近いものは何かというと、《戦友間》なのだそうです。軍隊に行くことの多い国柄、国防に励んだ者同士の距離が、最も近いのだと聞きました。

中国で、国語教師をしている間、一度だけですが、女子学生から、『先生ハグしてください!』と言われたことがありました。ちょっと驚きましたが、けっこう積極的な国民性も分かっていましたから、躊躇なく、肩を合わせるハグを、みんなの見守る中で交わしたのです。彼女は、『ありがとうございました!』と言って教室から出て行きました。その年度の最終授業の後でした。私の授業への感謝もあったのでしょうか。

〈社会的な距離を取る様に〉との現代の社会現象の中で、人間関係の希薄化が、ちょっと心配になっています。必要以上の距離の中に、人への拒否、それによる孤独化の傾向が、少々心配です。接近拒否、接近躊躇は、人間本来の性向に反するからです。群れようとする集団化は、基本的な願望です。所属と接近の要求が、誰にでもあるからです。

ここの川の鯉は、群れています。それに引き換え、白鷺は孤高を楽しんでいる様に見えても、時々、目の前の屋根に群れて止まっているのを見受けます。生物の基本的な願望が阻止されない様に、父や母とのこと、兄や弟との喧嘩、友だちとの取っ組み合い、知人との握手、初めての口づけなど、遠い日が昨日の様に思い出されます。

(「音楽の手帳」からスクラムです)

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創造的休暇

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「引力」を小学校で学んだのですが、丼やコップを落して、割ってしまうのは、不注意だからとばかり思っていたら、「引力」が原因で落ちるのだと分かって、自分のオッチョコチョイのせいにしないで、安心したのが昨日のことの様です。T大学に落ちたのも、引力が原因だったのかも知れません。

それは、「万有引力の法則」で、太陽系や宇宙の中にも働いているという法則で、アイザック・ニュートンが発見したものでした。アイザックは未熟児で生まれたそうで、誰も長生きするとは思いませんでしたが、84歳の長寿だったそうです。彼の誕生前に、お父さんを亡くし、おばあさんに育てられた内向的な性格でしたが、薬学に関心を向けて育ったそうです。

アイザックについてこんな話を見つけました。

『アイザック・ニュートンは万有引力の法則だけでなく微分積分学や光学の研究などでも優れた研究成果をあげました。
 1643年に英国で生まれて1661年にケンブリッジ大学に入りました。その学生時代にロンドンでペストが流行し、ケンブリッジ大学が休校に追い込まれました。ニュートンはペストを避けて1655年から1656年の間、故郷のウールスソープに戻りました。ここでの18カ月は研究するための時間として十分でした。
 彼がリンゴが落ちるのを見て万有引力の法則に気付いた、という有名な伝説は、ここで生まれました。ニュートンの三大業績はすべてこの時期にになされたと言われています。そのため故郷に戻っていたこの期間は「ニュートンの創造的休暇」と言われるようになったのです。ニュートンは近世を中世から切り離した画期的な研究者、という評価を生みました。
 17世紀はヨーロッパの各地で ペストの流行が頻発した世紀でした。アムステルダムでは 1622年から1628年にかけて3万5000人程が死亡し、パリでは 1612年から1668年にかけて流行が何度かありました。ロンドンでも何度もペストが流行し、1665年の流行をダニエル・デフォーがルポルタージュの形で本にしました。(「独立メディア塾」の記事から)』
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今日も、世界中に甚大な結果をもたらせている「新型コロナウイルス騒動」の最中ですが、世界中で、「21世紀のニュートン」が誕生しているかも知れませんね。昨晩、華南の街の大学の先生から、FaceTimeがあって、『大学の再開は、九月以降にずれ込むかも知れません!』と言ってきたのです。アメリカに留学中の若い友人夫妻、私たちの住んだ家の持ち主ですが、間もなく卒業ですが、帰国がままならないと言っていました。

こう言った、〈ペストによる休校がニュートンの創造的休暇を生んだ〉事例に倣って、様々な法則が発見されているかも知れません。まさに「災い転じて福となす」になるに違いありません。今回の強制的な外出禁止で、不自由を味わったのですが、研究室や机の上では、驚くことが起こっているかも知れません。

今日日、最強のコロナ治療薬が、世界中で研究されています。私も、机に向かって見たい気持ちにされております。「一つの主題」について、教えられたこと、学んだことを思い返しています。家内も、友人の著した本や、図書館の貸し出しなどで借りた本を、一生懸命に読んでいます。もしかしたら「ユリの法則」が発見されるでしょうか。

(東京の小石川にあるリンゴの木です)

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魯迅

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仙台市の郊外に、耳鼻咽喉科があって、そこに入院し、手術を受けたことがありました。東京近辺にも上手な鼓膜再生手術をす医師がいるのですが、知人からの『仙台に名医がいます!』との紹介があって、身の回りの持ち物を鞄に詰めて、北に向かって東京駅から新幹線に乗りました。

仙台駅から、地下鉄に乗って、下車駅からタクシーで、目当ての病院に着き、五日間ほど入院し、手術を受けたのです。私の耳の鼓膜は、左右とも再生手術が必要とのことでした。術後の痛さは格別なものがありました。

帰京する日、仙台市内を見物をしようと、市内遊覧バスに乗って、伊達政宗の居城であった青葉城址(仙台城)に行ってみました。病院の周りは住宅街でしたが、駅周辺は綺麗な街でした。幕末の戊辰戦争での消失はなかったのですが、太平洋戦争末期のアメリカ軍の空襲で、城が消失してしまっていました。広瀬川が緩やかに流れていて、静かなたたずまいを見せていたのです。

この街には、戦前、仙台医学専門学校がありました。今の東北大学の医学部に当たります。東北大学のサイトに次の様にあります。

『この建物(仙台医専6号教室)は、「近代中国の父」といわれる文豪魯迅(ろじん)が学んだ場所、「魯迅の階段教室」として広く知られています。 1904年の建築後、改修・移築を経ながらも、今なお彼が留学していた頃の面影を残す歴史的な佇まいを見せています。』
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「狂人日記」や「阿Q正伝」や、この教室で教えを受けた、藤野厳九郎先生を語る「藤野先生」を著しいている魯迅は、1904年に、この医学校で学び始めています。やがて医学から、同国民の啓蒙のために文学に転向していくのですが、その切っ掛けとなったのは藤野先生との出会いと教えでした。その経緯は次の様に伝えられています。

『2年生に進級した魯迅は、細菌学の授業で思いがけないくらいに悲しいものを目にする。当時医学校では講義用に幻灯写真を用いていたのだが、授業時間が余ったときなどは日露戦争の「時局幻灯」を映して学生に見せていた(このころは日露戦争で日本がロシアに勝ったということで日本中がその勝利に浮かれていた)。そこでは、日露戦争のニュースで、ロシア軍スパイを働いた中国人が中国人観衆の見守る中、日本軍兵士によって首を切られる場面が流れており、観衆は万雷の拍手と歓声をあげたのだ(幻灯事件)。文章の中ではこのように書かれている。「いつも歓声はスライド1枚ごとにあるが、私としてはこの時の歓声ほど耳にこたえたものはなかった。のちに中国に帰ってからも、囚人が銃殺されるのをのんびり見物している人々がきまって酔ったように喝采するのを見た―ああ、施す手なし! だがこのときこの場所で私の考えは変わった。」魯迅は、今必要なのは医学ではなく、国民性の改革だと考えを変え、医学を捨てて仙台を離れる決意をしたのだった。』

魯迅は、「中国近代文学の父」と称されるまでの文豪になっていきます。今でも、魯迅は仙台市民に覚えられていて、「魯迅記念広場整備事業」が、仙台市によって進められ、2021年に完成予定だそうです。落ち着いたら、また訪ねたい街であります。

(魯迅の誕生地の「紹興」と学んだ東北大学の教室です)