ハグのしゅくだい

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 英語に “ hug “ と言うことばがあり、人と人との関わり方法があります。宣教師の教会、家で開かれる聖書講座に、ニューヨークやテキサスの聖書学校の教師や牧師が来て挨拶をすると、握手だけではなく、このハグをしたりしました。日本人には習慣化されてない挨拶の方法でした。それでも親しさや感謝の表し方としては、体温を互いが感じ合うことができて、実感としては優れていると思いました。

 最近、ある講演を聞いていて、その話の中で紹介されていた本を、古書ネットで買ったのです。その一冊は、「しゅくだい(原案が宗政好子、文と絵がいもとようこ)」という題の「絵本」でした。先生が出した宿題の話です。

 屋外派、乱暴派、漫画派だった自分には、絵本を読んだ記憶が、ほとんどないのです。大人になってから話題になっている「フレディーの葉っぱ」とかを買って読んだのですが、幼少期の欠けたところを補う心の動きで、それを埋めようとする衝動に、今になって動かされています。

◯youtube  https://www.youtube.com/watch?v=d3dmBnYrE7I

 こんな風に家に帰って、お母さんやお父さんやおばあちゃんと、家族の間で「ハグ」をする宿題だと、いいですね。主人公のもぐくんは、恥ずかしがらないでハグを求め、家族はみんなそれに、楽しそうに応答しているのは、互いが互いの体温を分け合い、受け合うのは素敵なことですね。

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 父に、よく抱きすくめられました。そしてヒゲの頬擦りをしたり、くすぐったりして、『やめてくれよ!」と訴えてもやめなかったのです。あの skin ship は、懐かしい思い出です。ゲンコツオヤジだけではない、ハグオヤジだったのは、非行化防止のために益だったに違いありません。

 人と人との距離が広がり、ことばや眼や身体での直接間接の接触がなくなってきている現代人でも、温もりと関係と絆が必要なのです。病んでいる人が求めているのは、薬だけではなく、《つながり》でしょう。めいこせんせいが、しゅくだいをしてきたクラスのみんなを見て、『きょうは とても げんきそうねえ〜。』と言ったように、人を元気づけ、生きる意欲を高めるのでしょう。

 華南の街の学校で、一年生の前期の授業を終えた時に、ひとりの女子学生がやって来て、『ありがとうございました!』と言って、『先生お願いがあるんですが、わたしを hug してくださいませんか!』と願ってきたのです。寂しかったのか、なにか感動があったのか、自分の正直な願いを示したのです。

 一瞬間があったのですが、わたしは『はーい!』と言って、帰りかけたクラスが見守る中、彼女を軽く hug したのです。〈言葉のキャッチボール〉で半年過ごした後、hugした学生は満足そうな顔をして、『ありがとうございました!』と言って教室を出て行きました。恥ずかしがらないで、自分の感情を、大人として言い表したのは素敵だなと思ったのです。何か、中国を hug したようで、懐かしい十三年の中国生活の一場面であります。

 25才で、聖霊に満たされた時に、隠れて犯してきた罪、英語表記ですと、sins の数え切れない罪が、いっぺんに赦されたと実感したのです。頭では理解できなかった十字架が分かったからでした。それは味わったことのない心の平安でした。帰ってきた弟息子を、抱きすくめて迎えた父親のように、父なる神に、まるで抱きすくめられ、受け入れられた hug だったのでしょう。

( “ キリスト教クリップアート“ からエサウとヤコブの「和解」です)
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ひろっぱ

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「ひろっぱ」、どこにも、子どもたちが見つけて、遊びの場にし、そう呼んでいた空間がありました。2、30人も集まって、宝島、かくれんぼ、鬼ごっこ、馬乗り、ゴム跳びなどで遊んでいたのを思い出します。林の中や土地を掘って作った穴の地下室に、基地を作ったりもしたでしょうか。

 サンパウロに、Liberdade(リベルダージ)と言う地域に、日本人街がありました。日系人たちが、開拓村での働きを終えて、大都市に出てきた、開拓の苦労を終えて住み始めた地域なのです。そこに地下鉄の駅があり、駅の前の花壇の石に腰掛けた年配者たちが、黙(だんま)りとしているのを、通りすがりに見かけました。南米の移民のみなさんの「ひろっぱ」でしょうか。

 そこで、子や孫の世代になって、ご自分は引退し、苦労を顔に刻んで、黙座しているおじいさんたちでした。そこは、余暇を持て余す世代のみなさんの交わりの場でした。缶蹴りをするでも、ゴム跳びをするでもなく、陽だまりに座り込んで、互いの存在を確かめ合っているだけの風景がありました。

 人には、〈群れる習性〉があるに違いありません。子どもたちことも、嫁たちや孫たちのことも、もう話題に尽きてしまっているのかも知れません。越し方の苦労を語ることも、もうないのでしょう。ただ、同じ日本人で、似た様な過去や境遇で生きてきた共通点だけが見え隠れしていました。

 義兄が元気な頃に、サンパウロから20キロほどの隣街を訪ねたのです。そこで1週間ほど過ごしたのです。車でサンパウロの街に行く用がある義兄の車に同乗して、二度ほど連れていってもらった時のことでした。その義兄の住む街に、露天のMercado(マーケット/市場)があって、義姉のお供をして歩いたこともありました。

 日系移民の知人たちと会うと、軽い会話を交わしておいででした。一人のおばあちゃんが、息子さんとお孫さんと一緒に買い物に来ていました。あんなに寂しい顔つきをしたおばあちゃんを見たことがありませんでした。年寄り仲間が亡くなっていき、孫たちとの間では会話もなく、故郷は遠く、〈孤独〉な息遣いや目つきが、実に寂しそうでした。

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 子どもの頃は、ひろっぱで、田んぼや畑の休耕地、里山や小川で遊んだのでしょう。異国の地には、遊び回った箱庭の様な村の佇まいはないのでしょう。義兄の家の庭の大きな池や家の前には、丸かったでしょうかテーブルがあって、訪ねてくるお客さんと椅子に座って、お茶を飲んだりする場所がありました。

 Festa と呼ばれる、パーティーがよく開かれていました。一度は、義兄の移民仲間の親友が、街一のレストランで、歓迎会を開いてくれたことがあったのです。三人で囲んだ5、6mもあるテーブル満載の料理でした。その友人は、リンゴの栽培と出荷を手広くしていた移民の成功者でした。次回来たら、海辺にある別荘にお連れすると言ってくれました。もう義兄が召されて、その機会がなくなってしまいました。

 招待主は、和歌山からの移民の母の子で、日本で苦労し、移民としても苦労されたは並大抵ではなかったと、同じ様な農業移民の苦労をしてきた義兄が言っていました。人は、寄り集まることでの交わりをして、孤独を癒そうとするのかも知れません。

 そんなことを思い出したのは、「がん哲学外来」を始めた樋野興夫氏の話を聞いたからです。宇都宮でもたれているのは、〈がんcafe〉と呼ばれている集いで、コーヒーを飲みながら、差し入れの cookie の載ったテーブルを囲んで、語り合うのです。

 子育てをしたわが家も、人の出入りが多くて、〈宴会〉にはならないのですが、コンパネの合板に、ステインを塗り重ねた手作りのテーブルには、いつも大勢の人がついていました。今は、床上浸水後に、家具屋さんが引き取った家具をいただいて、六人で囲める、小ソファーを入れると十数人で囲めそうなテーブルが、客間にあります。そこに、人がやって来て、coffee や Earl Gray や狭山茶を飲んだり、食事をしたりの談笑が行われています。

 一人の家内のお姉さんの様な、こちらで出会ったご婦人が、最近、見えなくなったと思っていましたら、亡くなったと聞きました。年上の優しいお兄さんが戦死した話を、そのテーブルでしてくれたことがあり、素敵な語らいの交わりをすることができたご婦人した。人には、こう言った交わりの場、〈ヒロッパ〉が必要なのでしょう。

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朽ちない栄冠を

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 長男の子は、中学校で野球に熱中していました。今、次女の子、私たちの外孫も野球のシーズンで、頑張っている様子を映した動画が送られてくるのです。アメリカには、日本の甲子園の様な、全米高校選手権大会はないのです。彼は、ホームスクールで学びながらの球児で、地元の学校のチームに誘われて活躍しているのです。日本とは違っていて、season sports で、一年中野球だけをしていないで、他のサッカーやバスケットなどもしています。

 何か楽しくやっている様な感じがしています。将来を考え始めているのでしょうか、野球選手になるのか、自分の好きなことを学んで、それに見合った仕事を見出すのか、そんな時期に差し掛かっているのでしょう。スポーツにしろ、職業にしろ、受け継いでいる信仰にしろ、大切なのは、自己管理なのでしょう。

 パウロは、ギリシャで行われていた古代オリンピックを知ってたのでしょう。信仰生活を、拳闘や陸上競技のスポーツ競技になぞらえて、次のように言っています。

 『競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。(1コリント人92427節)』

 信仰の goal を目指して、走り抜いて、goal in するために、途中で失格者にならないために自制して生きるように、自分の体も心も打ちたたいて従わせていると言うのです。要は、自己との闘いだと言っているのです。「永遠のいのち」を得るために、ボクサーが体重管理をして試合に備える様に、信仰者も自己抑制、自己管理が必要だと勧めています。驕らずたかぶらずに、謙虚に生きることです。

 佐賀県の代表校になって、2007年度の甲子園の大会で優勝した学校がありました。県立の佐賀北高校です。多くの私立校が、日本全国から有望な選手を集めて、強力なチーム編成をしている中、地元出身選手で構成されたチームで、監督をしていたのが、同校の国語教師で、野球部監督をされていた百崎敏克さんです。今年退任される、この百崎氏が、次の様な退任のコメントをされています。

 『甲子園はあくまで目標であって、目的じゃない。それだけが目的なら、日々やっていることが意味をなさない。目的は野球を通じていろんなことを学び、人間的に成長すること。』とです。流石、国語教師でしょうか、スポーツ本来の価値を熟知しているからでしょう、野球もさまざまにある「目標」の一つだと言っておいでです。

 人間的な成長や、人としての感性にためにある一つのことなのでしょう。野球しか、柔道しか、サッカーしかできない人になってほしくないのです。人生の勝利者には、神によって戴冠させていただける栄冠が待っています。『よくやった!』と言われて、goal in したいものです。本物の「目的」に向かって、生きていって欲しいと願うジイジです。
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今も継承され

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 『見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ4319節)』

 もう50年以上も前になってしまいましたが、家内と結婚をして世帯を持って迎えた新年のことでした。友人や知人や恩人や家族親族への新年の挨拶状に、とても豊かな信仰と新鮮な気持ちを込めて、この聖書のみことばを記しました。『見よ。わたしは新しい事をする。』とです。

 これを読んでくださった方の中で、私が奉職させて頂いていた学校の校長先生が、『この聖書のみことばはどこにありますか?』と聞いてこられたのです。私の父と同世代の方でした。お体が不自由で、私の在職中にお目にかかったことは二度ほどでした。この方のお父さまは、札幌の農学校に学ばれた方で、この学校の予備門の「共鳴学校」で校長をしていた新渡戸稲造を慕って、札幌に行き、その教えを受け、札幌農学校を出て、二年ほど教師をされた方でした。

 あのクラークの去られた後に、入学して学ばれた方で、その青年期にクリスチャンなります。ただ残念だったのは、「リビングストン伝」を、共著した親友の有島武郎でした。小説家として大成し、父から譲り受けた農場を使用人たちに解放します。彼は共産主義者マルクスの感化を受けるのです。その感化が、彼の価値観や人生観を狂わしてしまったのです。内村鑑三の弟子の一人として、聖書教室に集っていたのですが棄教してしまうのです。そしてついに、一人の雑誌記者で人妻と軽井沢で情死してしまいます。 

 同級生たちにとっても、それは実に悲しい出来事だったようです。二人とも、内村鑑三から聖書を学んだのです。師であった内村鑑三の悲しみは甚大だったようです。でも森本は、生涯、信仰を貫いたのです。そして、東京で、真の女子教育をしようと学校を始めるのです。

 そのキリスト者のお父さまから聖書を読むことを教えられたのでしょうか、文語訳の聖書で読まれて覚えておいでだったようです。私は聖句の住所を記さなかったのです。それで、その懐かしいみことばを思い出されて、お聞きになられたのか、交わりの手を延べてくださったようです。この校長との出会いで、私は、《信仰の継承》と言うことを考えさせられたのです。

 はるばるアメリカから日本にやって来た一人の教師・クラークが、黒田清隆と一緒に札幌に来て農学校の教頭になります。その一人のキリスト者教師が1年にも満たない在職を通して、多くの青年を主に導き、去られた後も、上級生たちの熱心な証詞によって、下級生が信仰を告白していったのです。そんな中で、有島は棄教しますが、森本はキリスト者として生き抜いていきます。その自分の子にも、信仰の感化を与えたわけです。だれにも同じ様に、信仰の戦いがあるのです。 

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 でも信仰を守り通すことが出来るとするなら、その森本への誘惑が有島よりも弱かったからでしょうか。思想的な情動的な誘惑はだれにもあるのですが。最近暗記したみことばに、

 『・・神は世界の基の置かれる前から、キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました・・愛をもってあらかじめ定めておられたのです(エペソ1章4~5節)』

とあります。信仰が保たれ堅持されているのは、そう意志して、そうしてくださる父なる神さまによるのです。この選びと予定こそが、私たちの信仰を健全に保ってくれる教えだと信じてやみません。

 まさに、武士が剣や朱子学を捨てて、キリストの福音に触れて、救い主イエスと出会って、生涯を明け渡す信仰者となったのは、明治ご維新後に、この日本でなされた「新しい事」でありました。その業は、熊本でも、松江でも、弘前でも、そして横浜でもなされた「神の御業」でありました。

 私の恩師の夫人(師母)は、信仰の家系には「子」しかいないのだと言われますが、クラークの信仰上の「曾孫(ひまご)」で、健全な信仰の継承者だったのです。そして、今もなお、目を見張るような、神の御業が、この困難との烙印を押された、暴れ川の様な、荒れ野の様な日本の伝道の中で、積まれた祈りがあってでしょうか、新しい世代にも、信仰の継承がなされているのです。

(「北海道大学農学部」と「喫茶店」です)

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もう一つの外来

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 食糧事情の悪かった戦後、肺結核にかかった義母は、東京都下の清瀬にあった専門病院に通院していました。近くに東京女子大学があって、そこで学ぶ学生もいたそうです。義母の病友たちにだったのです。今のようにドアーがあって、医師と患者だけの診察室などなかった時代ですから、医者の言うことばが、待合室で聞こえたわけです。

 レントゲン画像を見ながら、その医師が、『君の命は、もうニ、三日だね!』と言う言葉が聞こえてきたそうです。その晩、その女子大生は、医者の宣告通り亡くなってしまったのです。それを知った義母は、患者の心の思いへの配慮のない、その医者の不用意なことばを責めたのです。敗戦後の日本では、医療従事者も頽廃的になっていたのでしょうか。

 権威ある立場にある人の語る「ことばの重さ」を考えていた時に、家内の一番上の姉が、駅前で、小冊子をもらって帰って来たのです。「約翰傳(新約聖書のヨハネの福音書)」の分冊でした。それを手に取って義母は読み始めたのです。

 『1:1太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2この言は太初に神とともに在り、 1:3萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 1:4之に生命あり、この生命は人の光なりき。 1:5光は暗黒に照る、而して暗黒は之を悟らざりき。 1:6神より遣されたる人いでたり、その名をヨハネといふ。 1:7この人は證のために來れり、光に就きて證をなし、また凡ての人の彼によりて信ぜん爲なり。 1:8彼は光にあらず、光に就きて證せん爲に來れるなり。』と、最初のページにありました。

 「言」に強烈に捉えられた義母は、それを配っていたアメリカ人宣教師を訪ねて、質問に質問を継いで、「言(ギリシャ語でロゴス、アラム語でメモラ)」である、イエスを知り、このお方が、「キリスト(救い主)」であると信じ、101歳で帰天するまで、その信仰を全うしたのです。

 その肺結核も、「癒し主」であるイエスさまによって癒やされたのです。聖書に、「我はエホバ、汝を癒す者なれ(出エジプト1526節)」とあるみことばを信じてでした。医学の助けがあったことも忘れてはなりません。

 きっと、誰もが求めるのは、《優しい気配りのあることば》で交流できる場なのでしょう。「まちなかメディカルカフェin 宇都宮」と言う定例の集いが、宇都宮で行われています。信仰の友が、家内に紹介してくださって、二度ほど参加したのです。全国で80ヶ所ほどで持たれてるそうです。ところが新型コロナの感染拡大で、やむなく開催を中止したりで、参加が続きませんでした。その後、hybrid での開催になったり毎月継続開催されてきています。

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この日曜日に、hybrid で、「がん哲学外来市民学会 栃木大会」が、宇都宮で開かれました。この学会に急遽入会した家内は、6時間の大会に参加したのです。その四人の講師のみなさんの講演などをお聞きしていました。病む人、病と闘っている人が、白亜、白衣の病院の環境の外に出て、青い空、木々の緑、花々の多彩の世界で、主治医から一時離れて、患者思いの医師と、さまざまな医療の分野に関わっておいでのみなさんや家族との交流の場なのです。まさに「もう一つの外来」なのかも知れません。

 順天堂大学医学部の病理・腫瘍学科教授の樋野興夫医師が始められれている、院外の個人的な患者との交流の場を、「がん哲学外来」と呼んでいます。社団法人となって、2009年に始められているそうです。患者さんや家族の話を聞いて、その面談は無料でなされています。この「学会」には、五箇条のmotto があり、だれでも入会できるとのことです。

1.世の流行り廃りに一喜一憂せず、あくせくしない態度。

2.軽やかに、そしてものを楽しむ。

3.学には限りないことをよく知っていて、新しいことにも自分の知らないことにも謙虚で、常に前に向かって努力する。

4.段階ごとに辛抱強く、丁寧に仕上げていく。最後に立派に完成する。

5.自分のオリジナルで流行を作れ。

 この樋野医師は、新渡戸稲造、矢内原忠雄、南原繁と言った、内村鑑三の教えや生き方に感銘を受けた方で、「われ21世紀の新渡戸とならん」と言った著書を書くほどの人で、多くの著書を著しておいでです。

 私の恩師たちは、がんの病で主のみ元に帰りました。彼らは、地上の生涯を走り抜き、主の安息の中にいらっしゃることでしょう。聖書は、「第二の死」を語ります。そのもう一つの死にそこなわれることのない、「永遠のいのち」の約束を、みなさんは握っておいででした。自分の生を肯定して生き抜いた、彼らから多くを教えられて、今があります。彼らの人生の基調にあったのも、また、この「がん哲学外来」を動かしているのも、人の心にある「愛」に違いなさそうです。

(“ キリスト教クリップアート” の「人を癒す主イエス」です)

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医二代もあり

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 中国の社会も「流行語」に敏感だと感じたのは、わたしたちが滞華中の2010年に、一つの流行語が脚光を浴びていた時でした。この流行語というのは、その時代を映す鏡で、人々の共感を呼んでしまうと、瞬く間に広まってしまいます。テレビも観ないし、中国紙も読まないのに、私たちの耳にも入ってきたのです。

 河北省の河北大学の校内で、構内速度制限が5km/hに定められているのに、高級欧州車が猛スピードで走り抜け、校内でローラーブレードを楽しんでいた女子大生をひき逃げして、運転していた学生が校門から逃走しようとしたのです。事件を知った学生たちに、一般道に出ようとした寸前で、その学生を取り囲んだのです。その学生が、とっさに叫んだのが、『我爸爸是李剛(俺の親父は李剛だ)』でした。

 この学生の父親は、公安警察の幹部だったそうです。彼も親の生き方を見て育ったのでしょう、親の権威をかざして、自分の窮地を切り抜けようとしたのです。親の社会的な立場と、子である自分の立場を混同してしまうことが多そうです。

 中国では、裕福な親の子を「富二代」とか、官僚が親の子を「官二代」と言ったりするのです。どこの国でも大同小異に違いありません。『俺のオヤジは⚫️⚫️だ!』、そのひき逃げ事件の男の様な「官二代」が、わが物顔に好き勝手をしている様が、鼻持ちならずに、世間から揶揄されて、恥をかくのです。

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 父親が、政界や官界や財界で偉かったりする子どもを、私たちは〈親の七光〉と言っていました。子は偉くもないのに、威勢が良いのです。でも〈偉さ〉って何でしょうか。先日、ある牧師さんを訪問しました。この方のお父さまも牧師で、お兄さまも牧師をされて、良い意味での「牧二代」と言っていいでしょうか。

 この方は、お父さまの生き方に共感して、ご自分も牧師になりたいとの思いがあって、大きくなっていったのでしょう。それで神学校で学ぼうと思っていたこの方に、お父さまは、『社会にひとまず出て、そこでの経験や学びが大切ではないか!』との勧めことばに従って、中学校の教師をなさった後、神学校に行かれたそうです。

 社会を知らない、世間知らずの方が多い中で、人生の酸いも甘いも知った上で、牧会する遠回りの道を選んだのだそうです。人は、どこか人生の段階で「従順」を学ぶ必要があります。子どもの頃には両親に、学校では教師に、会社や職場では上司に学ぶのです。

 家内の湿疹が酷かったので、家内の知人の方に聞いた医院に、先日の夕方行きました。内科医で、皮膚科もしているとのことでしたので、一緒に参りました。事務の方は実に丁寧で洗練された応対をしてくださいました。ところが、腕をめくって医師の前に家内が座ると、この方は、まったく目を合わせることも、湿疹の症状見ることも触ることもなく、家内の書いた病気の既往症の欄だけを見ているだけでした。ものの数分後、投薬だけを言って診察が終わりました。患者が心ひそかに聞きたかった『お大事に!』も言わずじまいでした。

 この人も、父親の後の「医二代」で、人を学んでいない、人を知らない医師でした。目や表情やことばを用いて、医術を行うという基本が学ばれてない、息子ほどの年齢の医師でした。思いやりのこもった一言が、病んで体も心も重い病者に、生きる力を与えるのを知らないのは残念なことです。診察を終えての投薬や支払いの窓口の応対は、抜群に良かったのです。そっけない医者との mismatch が、かえって面白く感じて、家に帰りました。
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roller skating

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 初めの話ですが、その社会では、タクシーの運転手も党の幹部も官憲の役人の給料は、一律、同じなのが建前なのですが、そのような社会の中での「官二代」は、けっこう「医二代」のわが国も同じなのでしょう。それなのに、あの一件は、わずかな額の示談金で済ませてしまったと聞きました。

 ご馳走を食べられ、物の溢れた家庭で育った加害者と、貧農の子たちの被害者との間に起こった悲しい出来事には、矛盾がありそうです。でも正しい価値観や生命観を学ばない悲劇の方が危険です。名も財もない親の子たちが沢山います。でも、《乾いたパン》を食べても、ローラーブレードで余暇を楽しみ、感謝して生きた方が、人間としては素敵ではないでしょうか。明らかな良心で生きられるからです。

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それを治めるべきであった

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 人類最初の殺人の記録が、創世記に記されてあります。兄のカインが、弟のアベルを、野に誘い出し、「襲いかかり」殺しています。

 カインは、「怒り」、「憤り」、「妬み」、「恨み」、「憎しみ」などの思いが心の中にあって、それが「殺意」に変わっていきました。そして殺人を犯してしまいます。いのちの付与者である神さまは、弟を殺してしまった兄カインに、戸口で待ち伏せている「罪」について、『それを治めるべきであった(創世記47節)』と語っています。

 英欽定訳聖書では、それを “ rule over ” と訳しています。私たちに必要なのは、さまざまな悪い感情を、治める必要があります。治めずにいると、罪の思いは肥大化してしまい、制御することができなくなります。

 多くの感情は、「思い違い」、「誤解」があって生み出されています。罪への誘惑者は、それを増幅し、心を満たさせ、爆発させるのです。だから、悪い感情は、初期に治める必要があります。弄(もてあそ)んでいる間に、取り返しのできない結果を生み出すからです。

( “ キリスト教クリップアート “ の「カインとアベル」です)

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一事専心

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 わたしには、1週間に一日、「温泉曜日」が決めてありまして、それをほぼ励行しております。時々、腰痛がおきてしまいますから、その予防本能からでしょうか、腰を温めると、具合がいいので、そうしているのです。若い時に、自治会での側溝掃除で、あのコンクリートの蓋を、自力で上げて痛めた、中国語では「老病laobing」、「老毛病laomaobing 」と、老いた者の病のように聞こえる「腰痛持ち」なのです。

 起き上がれないほどに痛んだことが、二、三度ありました。歩けないで、這うようなことがあったりで、十日間も寝たこともあったのです。それ以来、起こりそうな予兆があると、もう絶対に無理をしなくなったので、今では酷くなることはありません。テニスの壁打ちもできるほどになったのですが、それさえも、もう無理をしないようにしています。

 いつもは歩くのですが、先日は少し遠いので、市内を運行する〈ゆうゆうバス〉に乗って、1時間ほどの日帰り温泉に行ったのです。露天風呂の休憩用の椅子に座っていましたら、咲き終わった花のようなわたしなのに、甘くみられたのでしょうか、「蜂」が飛んで来て、まとわり着こうとしたので、素早く身をかわして、お湯の中に逃げ込んで難をのがれました。

 吸蜜の作業中だったのでしょうか。その蜂の生態について、ある新聞に、蜂が一生の間に、どれほどの蜜を吸って、巣に戻るのかが記されてありました。

 『1匹のミツバチ(働き蜂)が一生に集める蜂蜜の量は小さなスプーンで1杯分、5グラム程度とされる。米国の行動生態学者の試算によると、ミツバチは1回平均25分飛行し、約500個の花を回る。450グラム入りの瓶には合計で1万7330回、延べ7220時間かけて約870万個の花を回った結果が詰まっているそう(山陰中央新聞「明窓」欄)。』

 わが家にも、息子が届けてくれた「マヌカ・ハニー」があり、まだわずかですが、瓶に残っています。その蜂蜜を集める作業が、どんなに大変なことかを知って、労働の量と時間の対価として計算したら、ものすごい高額になるのを知って、何か申し訳ないように感じてしまったのです。

 内村鑑三が、1894年(明治27年7月)に、箱根で行われた「キリスト教徒第六夏期学校」で、『・・・われわれが死ぬまでにはこの世の中を少しなりとも善くして死にたいではありませんか。何か一つ事業を成し遂げて、できるならばわれわれの生まれたときよりもこの日本を少しなりともよくして逝きたいではありませんか。』と、明治を生きる青年たちに挑戦しています。

 自ら働くことを通して、何かをこの世の中でなすことによって、良い社会を作り出すのは、青年期にできる価値あることです。人の一生を、無為徒食で終わるのではなく、一事にこつこつと取り組むことなのでしょう。誰に誉められなくとも、自分に課せられた分、自分の責任を果たすことなのでしょう。最初に神が創造された人の《耕し守る責務》です。

 人生の時々に、人はなすべきことがあります。歳を重ねて社会的な責任を果たし終えた今でも、まだ、年老いた者にもすべきことが残されてあります。そして孫たちが、もう何年かすると、学業を終えて、一人に社会人としてなすべき天職と出会おうとしています。

 蜜を集める蜂が、群れの長(おさ)にならなくても、課せられた一事に専心して生きる姿を見せています。それに倣って生きるのは、素晴らしいことに違いありません。彼らが、自分の果たすべき一事と出会えるように願う、7月であります。

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ゆっくり生きる

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 『私はあの事などを思い起こし、私の前で心を注ぎ出しています。私があの群れといっしょに行き巡り、喜びと感謝の声をあげて、祭りを祝う群集とともに神の家へとゆっくりと歩いて行ったことなどを。 (詩篇42篇4節)」

 「偏屈さ」とか「愚直」と言ったことが、時代の流行や進展に逆流するように思われています。こう言った言葉は、明治や大正、さらには昭和一桁世代を匂わせる、〈かび臭い遺物〉だとでも思われているのでしょうか。それで、『昔にこだわり過ぎていて、進歩のない証拠だ!』と言って、若いみなさんに嫌われるのです。

 確かに、昔は、時間の動きが緩やかでした。江戸から京都に旅をしても、自動車も新幹線もなかったのですから、歩くか、裕福な人は、籠や馬や舟に乗ることができたわけですから、人の動きものんびり、ゆったりとしていたことになります。時間も人の動きも緩慢なことは、急(せ)かされませんので、かえって観察眼は鋭かったのではないでしょうか。

 芭蕉が、「奥の細道」の紀行文を記していますが、歩行者ならではの観察眼が、そこに記されています。実に緻密に景色や人心の機微を観察しています。新潟の上越に行った時、佐渡に目を向けて、芭蕉の読んだ俳句、

 『荒海や佐渡によことう天の川』

を思い出していました。そんな発想は、何処から来るのだろうかと思うこと仕切りでした。俳聖と呼ばれる人でなければ、表現し得ないに違いありません。別な意味では、時間が、〈のたりのたり〉と流れていた時代の産物なのかも知れません。

 これまで、どの道の達人も、滅入る様な、長い下積み時代を過ごさなければなりませんでした。仕事場の片付けだとか、明日の準備だとか、先輩たちの下仕事をしなければならない時代がありました。その積み上げられた、無駄のような時間や作業の間に、培われた何かが、そういった達人たちの高い質を作り上げてきたのです。

 間もなくやってくる7月23日は、「土用丑の日」です。鰻職人は、『串差し何年!』と言った時代を経て、初めて焼き職人になれるのだと言われてきました。後輩いじめのように取る方がいますが、『たかが鰻、されど鰻!』なのです。その道その道に、練達者に至る道は遠くて、険しいわけです。

 ところが、現代は、「即性栽培」のもやしのように、一夜漬けの漬物のように、瞬時のうちに大成してしまう人がいます。松下幸之助や本田宗一郎のように、研鑽と努力によって、町の並みの店主から身を起こしたのとは全く違うのです。そういった彼らの「愚直な努力」、「偏屈なこだわり」を、『無駄だ!』と退けてしまうのです。数秒の間に、一人のサラリーマンの一生涯の収入の何百倍もの資金を手に入れてしまうのです。

 日本の社会を安全に支えてきたのが、『愚直の努力です!』と、以前、「失敗学」の専門家の畑村洋太郎さんが、ラジオで言っていました。小学校や中学を出て、生涯かけて、単純な作業をし続けてきた方々の、「愚直の努力」が、事故や災害や失敗を最小限にとどめて来たのだそうです。そうして来た彼らが職場から去ってしまった後に、大きな人災事故が発生しているのだそうです。

 聖書も、「忍耐」や「自制」や「待つこと」を勧めます。「あわてること」が、失敗の原因何でしょう。失敗の多い日を生きてきたわたしは、あれやこれやと思い出しては恥ずかしくなっています。暑い日本に、「ゆっくりと生きる!」、そんな生き方が、一番なのです。 

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