真冬の朝空に

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 何か感じたのでしょう、玄関を開けたら、空に気球が見えたではありませんか。快晴の冬空に、二つの気球が見えたのです。悠々と飛ぶ姿を、鴨が追って跳んでいました。自分たちの領域への闖入者に驚いたのでしょう。

 『後に生きて存れる我らは、彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯くていつまでも主と偕に居るべし。(文語訳聖書テサロニケ前書417節)』

 子どもの頃の夢の一つは、あんな風に空を飛ぶことでした。翼がなくては飛べませんが、やがて、主が迎えにきてくださる時、空中に携挙されることを、今朝も思い出したのです。ある祈祷院の玄関の壁に、この携挙を描いた、一幅の絵が掲げられてありました。間もなく、その時がくることでしょう。

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古湯の金泉湯の湯治を懐かしむ

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 温泉歴、と言うよりは、「湯治歴」の方が良いかも知れません。高校2年の修学旅行で、北海道をバスで周遊したのです。高校生の温泉ホテル宿泊というのは、風紀上いいのでしょうか、近くで酩酊しておかしな大人たちの蠢く動きの中、「修学」ではななく、「社会探訪学」に変えた方が良さそうです。

 函館の近くの湯の川温泉、大町桂月が名付けたと言う層雲峡温泉などは、あの1960年代の初め頃には、とても大きなホテルがあって、高度成長期といった活況を見せていたのです。その温泉浴場は、学校のプールが三つ分ほどの広さで、あふれるような温泉客がありました。

 家族旅行などない時代でしたから、それが自分には初めての温泉体験だったのでしょう。謳い文句は、『〇〇に効く!』の効用だったのですが、温泉願望の年齢にはまだ達していなかったので、何も覚えていません。別府出身の同級生の紹介で、九州を旅した時に、別府温泉にも行ったことがありました。硫黄臭の強さに驚いた覚えがあります。

 23歳の時に、神奈川県の県職員をしていた友人の寮に、招かれて訪ねた時、ビールを一緒に飲んだのです。キャッチボールをしようと言うことで、彼が暴投をして、塀の向こうに飛んで行っってしまいました。それを取りに、塀によじ登ったら、落ちてしまい、左腕を思いっきり地面に打ち付けてしまったのです。家に帰って、兄が通っていた整骨院に跳んで行ったら、『俺にはできないから、親父の所に行ってくれ!』と言われて、レントゲンを撮ってもらったら、複雑骨折でした。副木を当てて、ずっと固定し、息子さんの家でマッサージ治療を続けたのです。

 ところが腕が固まってしまい、どうにもなりませんでした。再度、親父先生を訪ねましたら、さすが熟練の整骨師で、『エイッ!』で伸びてしまったのです。その機能回復で、温泉行きを勧められたのです。職場の上司が、増富村に、学校関係の温泉場があるので、紹介状を書いてくれて、温浴治療をしたのです。4日ほどいたでしょうか、効果覿面で、治って、いまだ問題なしです。

 それから、温泉の効能を認めたのですが、39歳の時に、腎臓の摘出手術をしたのです。その後の養生に、温泉に入るのがいいと言うことで、上の兄が探してくれたのが、あの「信玄の隠し湯」と言われる増富温泉で、今では廃業してしまった古湯の宿、金泉湯でした。そこに一週間ほど湯治で滞在したでしょうか。

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 そこはラジウム温泉で、ラムネのような炭酸水が、細かな泡を体につけてくれ、『これが効くんです!』と、冷湯の中に、ジッと入り続けるのです。みなさん、お腹や胸や背中などに、手術痕があって、大手術の後、そこで湯治をしていたのです。癌治療のみなさんでした。人形峠にも同じ泉質の温泉があるけど、『ここが一番!』と言う湯治客が多かったのです。

 ぬるい温泉が流れ落ちる、岩の出口に、タオルを巻いて、口をつけてラジウム臭のガスを吸うのです。みんな必死だったでしょうか、死なずに生きて来て、もう少し生きたいと願う人ばかりだったのです。39歳の自分には、想像のつかない熱心さに圧倒されたのです。

 あれ以来、温泉病にかかったのでしょうか、時々、その増富温泉に出かけたのです。その部落の北側の峠を越えると、レタス栽培で有名な信州長野の川上村に行き着くのです。焼肉なんて食べたことはなかったのですが、村の中に焼肉屋さんがあって、お昼を、家内としたことがありました。放牧も盛んな地で、肉も野菜も新鮮で、あんな美味しいお昼は食べたことがありませんでした。あれから、数年の間、時々、休みの日に出かけたのです。「英気を養う」とは、あのことでした。

 ただ、歳を取った父を案内して、ああいった山間の鄙びた温泉に、連れて行って親孝行をしたかったのですが、61歳はまだ若かったのですが、誕生日を過ぎてすぐに、主のもとに帰っていったのです。し残したことがあるのが、いまだに悔やまれています。

(ウイキペディアによる増富温泉の近くの「瑞牆山(みずがき)」、現北杜市の市花の「向日葵」です) 

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誠実を愛して

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 『人よ彼さきに善事の何なるを汝に告たり ヱホバの汝に要めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫(誠実)を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや (文語訳聖書 ミカ書68節)』

 小学生の頃に住み、3年ほど働いた、八王子の街の景観の中で、『綺麗だなあ!』と思わされたのは、国道20号線の「銀杏」の街路樹でした。春の緑も合わせ、圧巻は、秋に黄金色の葉に変わる姿です。江戸城を、甲州街道上で守るために定められ、家康没後、墓所となった日光東照宮の警護の勤めを任じられた「八王子千人隊」の隊士たちの居住区の近くの甲州街道沿いにあるのです。

 その千人隊士が、通ったのは、日光の「杉並木」です。今でも主要道路になっている、日光街道、日光例幣使街道、会津西街道の「日光神領」内に、松平政綱が、20年ほどの年月を費やして整備したものなのだそうです。今でも、排気ガスにめげずに、きれいな並木の姿を見せています。旅人を、夏の熱射から守っているのです。

 この街路樹は、正綱のように、徳川の三代の将軍への敬意を込めて、寄進したものだと言われています。『ここは道路と歩道の路側帯がある!』と言う役割を担っていたのです。ちなみに、ここ栃木の街路樹は、「トチノキ(栃の木)」で、きれいな花をつけるのです。どこの街の街並みにも、特色的な街路樹が見られるようです。

 ところが店舗前の街路樹を、枯葉剤を撒いて枯らしてしまう企業のあり方に、驚かされてしまいます。それをしたのが、車両販売をし、安全の運転を促進さなければならない企業が、そんな考えをもって、店の景観だけを優先し、宣伝のためでしょうか、店舗の見えやすさのために、街路樹を枯らしてしまった行為は、車両販売会社としては、信じられない行状です。

 昨今の日本有数の企業、これも自動車を生産して来た大企業が、速度テストなどの記録を改竄していたと言うのにも、驚いてしまったのです。気の緩みか、驕りか、その両方が、そんな企業姿勢を見せ付けられてしまうと、父や我々の世代が、地道な努力をして作り上げて来た気概が、傷つけられるのは、許し難いことです。

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 《世界のトヨタ》の土台を据え、織物業が、一時期、日本の主要産業だった時代、その織機の製造にために、工夫をし続けて、諦めずに、最良の織機を作り上げた豊田佐吉は、

 『わしの今日あるのは、天の心というものだ。それなら、こちらも社会へ奉仕せにゃいかん道理だ。誠実というその字を見ろ。言うことを成せという言葉なんだよ!』、と息子の喜一郎に言い残したそうです。この企業を親会社とする、自動車製造会社が、「誠実さ」を踏み躙ったのは、許し難いことではないでしょうか。

(ウイキペディアによる八王子の銀杏並木、豊田式木製人力織機です)

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ふじのりんごと相撲と柳川鍋と

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 わが家の食卓に上る食べ物で、欠かさずに置かれる物、食後の desert に欠くことがないのが、「りんご」なのです四つ葉生協と言う生活協同組合の紹介を受けて、その組合員になって、ほぼ5年になるでしょうか。より良い食材を取り扱っていて、米、醤油、味噌、酢、魚、肉、野菜、果物などを買っていて、このりんごも、その一つです。

 ネオニコチノイド系農薬の不使用の農家が栽培している物で、我が家が購入しているのは、正規品ではなく、擦り傷や汚れのついたりんごで、先週の便で届いたのは「ふじ」でした。味は抜群で、蜜のある物が時々あります。

 この「ふじ」は、青森県南津軽郡藤崎町で、誕生した品種で、その町名から、「ふじ」と命名されています。りんご栽培は、この藤崎の隣町の「弘前」で、青森市のホームページに、次のようにあります。

 『りんごの原産地は、中央アジアの「コーカサス山脈」と中国の「天山山脈」を中心とした山岳地帯と考えられていて、ここから世界各国に伝わっていきました。原産地が山岳地帯ということで、もともと寒い地域に育つ植物です。
私たちが食べている西洋りんごは、明治4年(1871)に日本に伝わってきました。
青森県へは明治8年(1875)の春、国から3本の苗木が配布され、県庁の敷地の中に植えられたのが青森りんごの始まりです。以来、今年で130年余の歴史になります。
その後、同じ年の秋と次の年の春に数百本の苗木が国から配布され、各農家で栽培が始まりました。
平成30年産を例にとると、全国のりんご生産量は756,100トンで青森県はそのうち445,500トンで、全国の半分以上(58.9パーセント)が青森県のりんごなのです。』

 弘前市の私立東奥義塾が招いた米国人宣教師ジョン・イング師が、翌年の12月25日のキリスト降誕節に、当時の教え子や信者さんたちに、りんごを分け与えたことが、西洋りんごが、青森県に紹介された最初と言われています。

 当時の東奥義塾塾長で、弘前市長や山形県知事を歴任した菊池九郎は、そのイング宣教師から洗礼を受けています。その食べたりんごの種を、自宅の庭に植えて、後年、別の台木(だいぎ)に 穂木(ほぎ)を接木(つぎき)したのが、青森県弘前市のりんごの発祥と言われているそうです。

 1962年に、品種交配などを繰り返した結果、1962年に、製品化された「ふじ」が出荷されています。私が、義兄のいたブラジルを訪ねた時に、義兄の移民仲間の方が、このふじの栽培、貯蔵に成功し、その一箱を、滞在先にいた私のために届けてくださったのです。日本で食べた物と同じような美味しい味だったのです。華南の街の果物屋でも、「ふじ」は売られていて、美味しかったのです。

 さて、ふじ発祥の地の「藤崎町」は、「相撲の神様」と呼ばれた、力士の「大ノ里萬助(18921938年)」の生まれた町でした。。出羽海部屋所属で大関を、七年間も張った相撲取りでした。164cm97kgの小兵でしたが、相撲巧者で、とても誠実な性格だったそうです。稽古も熱心にし、後輩指導は厳しかったのですが、弟弟子たちからは、人望があつかったのだようです。

 私たちの世代は、プロレス、プロ野球、相撲に夢中で、学校の校庭でも、家の近所の空き地でも、素手をバットに、ボールをゴムマリに、野球ゲームに励み、また、その相撲も取ったのです。私たちの通っていた学校の校庭に土俵が作られ、そこで相撲巡業が行われて、兄たちの後をついて見学したことがありました。そこで巡業していたのが、二所ノ関一門で、玉の海、琴ヶ濱などの現役力士がいたのです。
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 兄たちの贔屓が、琴ヶ濱(最高位は大関)で、この力士の得意技が、《内掛け(足で、相手の足を絡めて押し倒す技)》で、これを兄たちは得意技にしていたのです。それを自分も真似て、相撲を散って、内掛けをすると、面白いように相手が倒れて行ったので、自分の得意技になったのです。大男を薙ぎ倒したこともありました。

 大相撲、テレビがない時代、ラジオのアナウンサーの取口の実況を聞いて、土俵上の取り組を思い描くのでした。そんな相撲好きの子ども時代でしたが、テレビを置かなかった頃から、疎遠になってしまいました。でも、一度くらいは、両国の国技館に行ってみたいものです。帰りに、浅草の駒形で、柳川鍋(どじょうなべ)を食べて、父を思い出してみたいな、の極寒の朝です。

(ウイキペディアによるりんごの花、柳川鍋です)

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住めば都の心地して

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 この春で、ここ栃木市に来て6年目を迎えています。家内の入院中や退院後に、実によくしてくださったご夫妻と、その息子さんご家族がいて、時々、小学生のお嬢さんが、遊びに来てくれ、お母さんは、買い物にお誘いくださって、歩いて行けない距離に、車でお連れくださるのです。娘のように、お互いに思うかのようです。

 その方のご両親は、県北の街で、牧会をなさってこられて、ご子息に教会の責任を委ねられている、同世代の牧師さんです。こちらに来られると、寄ってくださったり、お土産までいただいているのです。若い頃に、セミナーや聖会でお見受けしたことがありましたから、けっこう時間的には長い知り合いになります。

 その他に、県南の街にお住まいのご夫妻がいて、家内の散髪に、『髪の毛がだいぶののびたでしょう?』と言っては、やって来てくださって、30分ほどの散髪をしてくださっています。お母さまの掛り付け医が、近くにいて、その通院の折に、寄ってくださるのです。お母さまも奧さまも整髪していて、家内のためにも12ヶ月ごとに、忠実に訪ねてくださっているのです。お昼を一緒にして交わりが続いているのです。

 ご主人は、アメリカの西海岸の街に留学中に、クリスチャンになられ、音楽伝道をなさっておられるのです。あの東日本大震災の後は、復興支援のために移住して、上のお子さんは、あちらで誕生されているそうです。長く復興支援活動を続けておられ、今でも時々出かけておいでです。奥さまは、私たちが滞在した省の隣りの省の出身で、東京の神学校を出ておられるのです。

 またご両親は、信州りんごの栽培が盛んな街の出身で、お父さまは東京の会社に勤められ、東北地方の街の支店勤務を経て、退職まで長く都内にお住みだったそうで、県南の街に家を建てられて、今は、ご主人と死別されたお母さまと共に、栃木県においでなのです。散髪後は、カレーライスを食べたり、先日は、近くの大平山名物の焼き鳥、卵焼き、団子を食べに行ったりの交わりがあります。

 家内は、宇都宮で行われている「まちなかメディカル・カフェ in 宇都宮」の交わりがあって、私も一緒に参加しています。12月には、降誕節の祝会があって、一昨年は家内はピアノ演奏をさせていただいたりしていました。この交わり会の事務担当のご婦人は、時々、わが家に食事をお招きしたり、コーヒーを飲んだりさせていただいていて、娘のようにしていてくださり、通院にも手助けで、車を出してくださることもあります。

 この会に、顧問のようにして参加される医師のお勤めの病院で、漢方の専門医をされていて、この2、3回は、通院して診察をして頂いています。そのようなみなさんの他には、家内の散歩仲間、ラジオ体操仲間、自治会の老人会、家内参加の婦人会などで、近隣のみなさんとの交流があります。

 昨日は、「市民教養大学」の終講があって受講しました。もう2単位で「学士さま」です。2年目の受講で、ラジオ体操仲間の方も参加されておいででした。青森県の「三内丸山遺跡」と、群馬県安中市の「中野谷松原遺跡」の比較を、長年発掘調査をされて来て、退職後、國學院大学栃木短大で教鞭をとられる大工原豊氏の講座で、《古代の浪漫》に感じ入りました。まさに「住めば都」でしょうか、すっかり馴染んでいる今日この頃です。

(ウイキペディアによる、栃木の市木のトチノキです)
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今昔

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 1965年の69日の毎日新聞が、経済大国日本なのに、岩手県下には、まだ『欠食児童がいる!』という記事を全国版に載せたのです。それは自分はお腹いっぱい食べていた二十歳の学生身分の頃のことでした。

 時の総理大臣が、佐藤栄作でした。一国の宰相は、その報道に衝撃を受けたのです。『今なお欠食児童がいるのは政治の責任だ!』と言って、大臣の席を立って、花巻空港に飛行機で飛んで、県域の80%が山地である、その岩手を訪ねたのです。『このような問題こそ、われわれ(政治家、政治責任者のこと)の考えるべきこと!』と言って、4億円を国庫から緊急に支出することを決め、閣議決定を、速やかにしたのです。

 県下の小学校を訪ねた佐藤首相は、生徒たちの手をとって握手して回ったたと言われているのです。実に熱血の宰相でした。その時の様子を、生徒会の何人かが、手紙を出すのですが、その一通は、『国民の声をよく聞いて、政治に反映させるのは、本当に政治家の姿だと思います!』と手紙で感謝したのです。

 事態に即応する政治の姿は、自分の所属する会派のお金にばかり思いを向けている昨今の政治家とは大いに違い、劣化甚だしい今を感じて、悲しくなってしまいます。

 この岩手県は、古来、〈にっぽんのチベット〉と言われた貧しい地でした。仙台に向かって流れていく北上川には、人減らしで、生まれて来たわが子を水に流したという悲しい現実のあった地なのです。ところが、今や、アメリカ球界の寵児と言われる、193cm95.3kgもある大谷翔平は、奥州市の生まれ、花巻東高校の出身です。60年の今昔、欠食児童のいた県が産んだ野球選手が、信じられない契約金を得ている違いに驚くのです。

 岩手県人の今昔、政治家の今昔、さまざまに違いのあるのに驚きながら、世界の三分の一の人たちが、いまだに貧困と戦い、人類全体が、将来に不安を覚えて今を生きているわけです。それにしても、佐藤栄作の即弾力や行動力には驚かされます。

(ウイキペディアによる岩手県花の「桐の花」です)

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人が歩いて来た街道で

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 五世紀頃、唐の街道整備に倣って、日本でも統治上、街道の整備が行われ始めてきました。江戸期には、「五街道」が整備されたのです。江戸勤めの侍や旅の商人、温泉療養や寺社参拝で、江戸期の人たちは、幕府の整備した街道を、少ない携行品で旅をしました。今のような観光目的の旅は、富裕層だけの特権だったのでしょう。かく各地方にも街道が整備されていました。

 その起点とされたのが、江戸の日本橋でした。その主要街道は、東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥羽街道で、「五街道」と呼ばれていました。

 江戸から京の都までの53宿の「東海道」、江戸から武州千住、下野宇都宮から日光までの21宿の「日光街道」、江戸から宇都宮、そこから分岐して磐城白河までの24宿、白河以北の陸羽街道・仙台道・松前道・外が浜道郡山、福島、陸中盛岡、陸奥青森、三厩まで、そして海を渡って蝦夷松前を経て函館までの114宿の「奥羽街道」、江戸から上州高崎、信州下諏訪、信州妻籠、草津に至るまでの67宿の「中山道」、江戸から内藤新宿、甲府、下諏訪までの44宿の「甲州街道」でした。

 各街道には、「一里塚」が置かれ、「宿場」が設けられ、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、高札所、代官所が置かれていました。五年前に越して来て住み始め、今年は六年目に入った、この栃木市は、中山道の倉賀野宿から、日光に至る「日光例幣使街道」の宿場だったのです。幕府の佐野藩の統治下にあった街で、街の中央に代官屋敷跡があって、そこを見学したことがありました。

 そんな宿場町や、街道沿いに、「報謝宿(ほうしゃやど)」と呼ばれる宿泊施設が、たまにあったようです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりしている人に、宿と食べ物を提供する、今で言う、民間の篤志家による福祉施設があったのです。旅の途中で病んだり、路銀をなくしたりした場合、宿や食事の世話をしていたそうです。

 家内の入院を機に、住み始めた街は、何よりも、日光東照宮の造営、維持のために、さらには近郷の物資の搬入は搬出にために、初期料や郷土品や日用品や資材を集積するための「舟運(しゅううん)」の河岸で栄えた商業の盛んな所でした。その舟運を担った巴波川の周辺は、そんな時代の雰囲気を残していて、舟子たちの掛け声や舟唄や、綱手道を舟を曳いて歩く水夫たちの舟唄が聞こえてきそうです。

 陸路は人が動き、舟運は物資が動き、日本中で、都賀舟や高瀬舟が、荷を運んできて、鉄道ができるまで盛んに行われたのです。今のような自由に行き来をすることができない時代で、街道筋には関所や番所があって、今のように国外に出かける時、県庁から「査証(Visa)」の発行をして、それを携行しなければならないように、国内の移動には、「通行手形」が必要でした。

 その通行手形は、武士の場合は領主が、庶民の場合は在住地の名主などが発行したもので、それを携行する必要があったのです。江戸期には、「出女」、「入り鉄砲」が厳しく取り締まられていたと小学校で学んでいましたが、女性だけの旅行は大変難しかったそうです。参詣や湯治の場合は、緩やかな方法で、関所を通過できたそうです。

 東京に出てきた父が買った家は、旧甲州街道沿いにあった家でした。なんの変哲もない、まだ舗装前の石ころも転がる道路でした。その道が、江戸期には主要街道であったことを知ってから、大名も御家人も商人も、この目の道を黙々と旅をしたことを想像すると、興味が尽きなかったのを思い出します。

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 首都高の江戸橋の出入り口に、アジアの32カ国を結ぶ、“ Asian Highway ” の起点があって、福岡から海を渡って、釜山、ブノンペン、ニューデリー、カプクレ(トルコとブルガリアの国境)を終点とする、[AH-1」があります。この首都高の標識を見ると、東京がトルコ国境まで繋がる一本の道路で結ばれていると言う、不思議な感覚に襲われるのです。その日本橋のたもとに立った時と同じ感覚で、世界を捉えられるのも不思議なものです。

 そういえば、随分、あちらこちら歩き、旅をしてきたのです。今は、散歩道を辿り、春夏秋冬の植生を目にし、人と行き交うのもまた興味深いのです。今朝は、眼下に見える日光例幣使街道は、冬の冷たい雨に濡れています。

父は、南新宿(旧甲州街道の近く)に家を買おうとし、繁華街に近いので、これから成長していく4人には相応しくないと思ってやめたり、また自分が転校し、卒業した旧制中学校のあった街の近く、国道1号線(旧東海道)沿いに家を見つけたのですが、そこもやめ、東京の郊外に家を買ったのは、私たち4人のためには懸命な決断だったようです。

(ウイキペディアによる、日本橋、アジアンハイウエーの起点です)

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枕する所

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 熊本地震で被災した友人が、次に起こる地震を考えると、家の中で眠ることができないで、車の中で、幾晩も過ごしたと言っていました。心理的な窮屈さに、身体的な窮屈さが重なっていましたので、熟睡はできなかったそうです。

 父親に叱られて、家を出て彷徨い、野宿をしたことが自分にもありました。枯れ草の中や、貨物列車の車掌室の長い板の椅子の上でした。きっとあの感覚に、地震の怖さが加わって、体験者だけしか感じられないことなのでしょう。

 今正月の能登半島地震でも、家屋の倒壊で、布団の中に眠れない人たちが多くおいでのようです。旅館をされておいでの方が、被災されたみなさんに、布団や毛布を供出されているニュースを聞いています。それで、やっと体を伸ばして、大の字になって眠れたことを感謝されておいででした。

 主イエスさまが、次のように話されたことを思い出しております。

 「イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』 (文語訳聖書 ルカ伝958節)」

 神の国を解き明かされたイエスさまに従った弟子の一人との語り合いの中で、言われたのが、このことばです。イエスさまに付き従うと言うのは、温かな寝具などない生活だったのです。イエスさまご自身、住む家も、宣教センターも、もちろん別荘もお持ちではなく、枕もベッドも毛布もない、そんな伝道生活を送られておいででした。

 召された弟子たちにも、その覚悟を求められたのです。中国の内陸を、中国服を着て、辮髪(べんぱつ/かつての中国人の髪型)にし、中国食を食べ、中国語を話して、福音宣教をしたハドソン・テーラーがいました。病気で子どもや夫人を亡くされたり、ご自分も病んだりしましたが、その奉仕は驚くほどのものがありました。最後1905年に、湖南省で召され、そこから天に帰って行かれています。

 この方も、イエスさまの真実の弟子で、今そのお孫さんが、志を継いでおられるそうです。

 今冬は、暖冬だと言われていましたが、実際には、極めて寒く、被災地の避難場所では、暖房設備がなく、低体温症が大きな問題となっています。また感染症も大きな問題となっているのです。ただご無事を祈ることしかできず、実際に行動の取れないもどかしさに、申し訳なさを感じてしまいます。災害関連死と言う悲しい事態から、被災者のみなさんが守られ、枕を高くして眠れる日が、一日も早く戻ることを切に願う週末です。

(ウイキペディアによる被災地の珠洲市の見附島です)

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コッペパン

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 ここ栃木県では、「早乙女」を、「そうとめ」と読むのです。県下のさくら市の地名で、苗字にもあるようです。「(喜連川/きつれかわ)早乙女温泉」がるあります。ちなみに、山形県山形市では、「さおとめ」と読むのです。春に田植えをする主力であった女性を、そう呼んでいたようです。

 さて、その苗字の児童文学者の早乙女勝元さんが、その自伝、「その声を力に」で、「コッペパン泥棒」という、小学生の頃の事件を述べています。それを、引用した藤原辰史さんが「給食の歴史(岩波新書)」の中である出来事を取り上げておいでです。

 『ある日、学校でコッペパン泥棒が出た。早乙女少年は、とっさに犯人が同じ貧乏暮らしの金田くんだと思った。金田くんは「自分のパンの半分を、弟や妹たちに持ち帰るのをのを知っていたからだ」。「学校でも給食のパンは、たいそうな貴重品で、登板から机上に配られてくると、先に目分量を確認せざるを得ない」。ゆえに、先生は怒り、「身に覚えのある者は、5分以内に前に出よと声を震わせた」。早乙女少年は「先生、ぼ、ぼくです」と身代わりなったのである。

 授業の終了後、校舎の裏に呼ばれた早乙女少年は、さきほどの理由を聞かれ、説明したのだが、先生は首を振って、「金田がパン泥棒じゃあない。むろん、お前もだ。真犯人は別にいる」と言う。名前も特定していて、「やつのこころをいれかえる」絶好のチャンスを、早乙女少年の身代わりによって失ってしまったのである。あまりにもおとなしく弱いので「勝元」ではなく「負元」とあだなされていた早乙女少年に先生は、「負元とばかり思っていたが、そうでもなさそうだ」と笑った。その勇気を見込まれて級長にさせられた、という。』

 様々なことがある学校の先生の大変さが伝わってくる、盗難事件です。半端なく貧しい級友がいて、一緒に立たされて、急に仲良くなって、ポケットを弄って小銭が出てきたので、カンパ金にして、彼に上げたことが、私にはありました。彼は、戦争孤児だったのでしょうか、本当にボロを身にまとっていて、いつの間にか転校していなくなってしまったのです。

 日本中が貧しかった時代があっての今の豊かさです。その豊かさの陰に、今も貧困があるのも現実です。それにしても、勝元少年の身代わり犯を申し出るの一件には、すごい勇気だと感心してしまいます。どういった顛末で、コッペパン紛失事件が収まったか分かりませんが、「ああ無情」の話も思い出されます。ジャン・ヴァルジャンがその主人公でした。

 『181510月のある日、ディーニュミリエル司教の司教館を、46歳の男が訪れる。男の名はジャン・ヴァルジャン。姉の子ども達のために、1本のパンを盗んだ罪でトゥーロンの徒刑場で19年も服役していた。行く先々で冷遇された彼を、司教は温かく迎え入れる。しかし、その夜、司教が大切にしていた銀食器をヴァルジャンは盗んでしまう。翌朝、彼を捕らえた憲兵に対して司教は「食器は私が与えた」と彼を放免させた上に、残りの2本の銀の燭台も彼に差し出す。人間不信と憎悪の塊であったヴァルジャンの魂は司教の信念に打ち砕かれる。(ウイキペディアから)』

 聖書に次のような箇所があります。

 『30:7 われ二の事をなんぢに求めたり 我が死ざる先にこれをたまへ

30:8 即ち虚假と謊言とを我より離れしめ 我をして貧からしめずまた富しめず 惟なくてならぬ糧をあたへ給へ

30:9 そは我あきて神を知ずといひヱホバは誰なりやといはんことを恐れ また貧くして窃盗をなし我が神の名を汚さんことを恐るればなり(文語訳聖書 箴言3089節)』

 自分の人生から、不真実と偽りの二つがないように、信じている神様を辱めるような生き方をしないように、私も生きようと決心し、そう心に決め、主に祈りながら、今日まで生きてきたでしょうか。正直に、公正に、公義を愛して生きることでしょうか。

 そう言えば、小学生の自分を夢中にさせた、東映のチャンバラ映画に、「早乙女主水之介」という侍が出てきて、額に、三日月の傷を持っていました。とても強かったのです。演じたのが市川右太衛門で、息子さんは北大路欣也で、同じように映画スターになっておられます。勧善懲悪の教えがあったのです。この早乙女勝元さんは、直木賞作家で、東京大空襲の体験から、反戦、平和主義を貫いておいででした。

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 飢えを、少なからず知っている世代としては、コッペパンを盗んで、お腹を一杯にしたかった気持ちが、痛いほど分かります。食べても、またお腹は空いてしまうのですから、心が満たされなくては、いつも盗みに誘惑されてしまうわけです。もう一度、コッペパンに、コロッケを挟んで、ソース味で食べてみたいものです。あの美味しさは、ハンバーガー・サンドに勝る物だったのです。

(ウイキペディアによるコッペパンです)

のちの日を笑ふ

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 恥ずかしながら、まだお酒を飲んでいた頃に、酔いにまかせて、格好を助けたかったのでしょうか、だいぶ夜も遅くなった電車の中で、

 妻(つま)をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱

戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む

くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記(ぼき)の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る

あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず

人やわらはん業平(なりひら)
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ

見よ西北(にしきた)にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火(てんくわ)ひとたび降(ふ)らん時

妻子(つまこ)をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕(うで)を摩す
ガリバルヂイや今いかん(以下省略)  

と歌ったのです。よくも恥ずかしくもなく、あんな風に歌ったものだなあと、25歳で酒をやめた私は、あの頃を思い出して、今でも赤面を禁じ得ないのです。

 隣に座っていたおじさんが、この方も、お酒に酔っておいでで、若造の私に、『きみー!』と、声をかけて来たのです。『いないんだ、才長けた妻なんて、どこにもいなんだぞ!』と、与謝野鉄幹の詩を否定するように、ご自分の現実でしょうか、それをぶっつけて来たのです。未婚の私が、結婚を、そろそろ考え始めていた頃でした。

 聖書の箴言31には、次のような箇所があります。

10 誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし

11 その夫の心は彼を恃み その產業は乏しくならじ

12 彼が存命ふる間はその夫に善事をなして惡き事をなさず

13 彼は羊の毛と麻とを求め喜びて手から操き

14 に商賈の舟のごとく遠き國よりその糧を運び

15 夜のあけぬ先に起てその家人に糧をあたへ その婢女に日用の分をあたふ

16 田畝をはかりて之を買ひ その手の操作をもて葡萄園を植ゑ

17 力をもて腰に帶し その手を強くす

18 彼はその利潤の益あるを知る その燈火は終夜きえず

19 かれ手を紡線車にのべ その指に紡錘をとり

20 手を貧者にのべ 手を困苦者に舒ぶ

21 彼は家人の爲に雪をおそれず 蓋その家人みな蕃紅の衣をきればなり

22 彼はおのれの爲に美しき褥子をつくり 細布と紫とをもてその衣とせり

23 その夫はその地の長老とともに邑の門に坐するによりて人に知るるなり

24 彼は細布の衣を製りてこれをうり 帶をつくりて商賈にあたふ

31:25 彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ

26 彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり

27 かれはその家の事を鑒み 怠惰の糧を食はず

28 その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ

29 賢く事をなす女子は多けれども 汝はすべての女子に愈れり

30 艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん

31 その手の操作の果をこれにあたへ その行爲によりてこれを邑の門にほめよ

 この聖書の記事は、微笑みを絶やさない、穏やかな女性が、理想像のように語られている箇所です。この時代が求める理想の女性像とは、ちょっとかけ離れていますが、他者、とくに弱者を顧みることにできる、愛に動機づけられた女性を、ことさらに家族愛に溢れている女性、そんな様子を聖書は推奨しているのでしょう。

 理想と現実の違いがあるかも知れませんが、男子が女子(ひと)を得る過程に、神さまの導きがあるのを知るのです。今春、五十三年を迎え、二人が互いに支え合って生きてこられたことに、深く感謝する日々なのです。華南の街でも、今住むこの街でも、道行く私たちを見て、「好夫婦」だと言われるのですが、もしそう見えるなら、ただ神さまの助けや祝福があってのことに違いありません。

 子どもたちの安心も、老いても仲良く過ごしている様子なのです。駅のコンコースの「街かどピアノ」を弾きたくなった家内と、この月曜日に、散歩がてら出掛けました。時々声をかけてくださる方たちがいるのです。奥様の葬儀帰りに、たまたまピアノの演奏を聴いたのだそうです。奥さまがクリスチンだったとかで、讃美歌がお好きだったのを思い出して、しばらくお聞きになって、声をかけてこられたそうです。

(栃木市の街角ピアノの案内です)

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