spank

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 国道52号線は、国道1号線と20号線とを結ぶ、富士川沿いを通る、「富士川街道」と呼ばれている幹線道路です。甲府から清水(静岡市)に向かう南部町あたりに入る頃でしょうか、その街道筋に大きな立て看板があって、

 “Don’t scold the kids, it’s the way we came, don’t laugh at the old people, it’s the way we’re going.”

  と大きな文字で書いてあるのです。日本語に翻訳すると、

 『子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ!』

 ごめんなさい、逆で、日本語の看板を、” Deeple “ で翻訳したものです。子育て真っ最中、四人の子を乗せて、静岡西部の街に、宣教師さんを訪ねていた時に見かけたのです。それ以前にあったのかも知れませんが、急に、語りかけるかのように、突然目に中に飛び込んできたのです。

 私の子育ては、《叱る》なんてものではなく、借家の中心の柱に、しなる鞭を懸けていて、不従順、不公正、約束不履行などをした時に、父親の一存で、尻に当てたのです。その根拠は、聖書にあるのです。

 『子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言231314節)』

 アメリカの「ピューリタン信仰」は、この聖書のことばに立って、養育を任された子どもたちの尻を、しなやかな鞭で、父親が打ったのです。最初の子が、礼拝中に、何かしていたのを見た、宣教師が、私を呼んだのです。『準、今、彼を spank (ピンピン)すべきです!』と、そう言われた私は、二人の部屋に入って、ズボンを下ろさせて、私の腰のベルトを抜いて、それで spank したのです。

 3、4歳ほどだったでしょうか、彼が最初に覚えた英語は、spank だったのではないでしょうか。性悪説の立場で、子どもの不従順や不公正や約束の不履行の態度を矯正するのですが、初めての子育ての責任を、「鞭をひかえた子」としてではなく、「鞭打たれた子」として成長していったのです。

 女の子たちにも spank をしました。何故するかを説明したのです。親を怒らせたり、恥をかかせたからからしたのではありませんでした。親の怒りは治めてからしました。不納得で、されたことがあったようで、大きくなってから『あの時は・・・』と言われたことがありました。で、結論的には、その結果は《奏功》で、よい結果をもたらせたと思っています。

 長男は、『僕にはよかった!』と言ってくれましたが、どれほど良かったかは聞きませんでした。四番目の子の時は、『あたしたちの時は、ピンピンされたのに!』と、基準が変わってると、姉たちに訴えられたこともありました。それって歳をとって、力も基準が緩くなったのかも知れません。その後には、ちゃんと言い聞かせて、祈って終わったと思います。

 何時でしたか、女学校の校長、福祉司、家栽の調査員をされてきた、伊藤重平さんを、名古屋からお招きして、講演をしていただいたことがありました。この方は、ご自分の子にも、家裁に送致されてくる子にも、鞭など、決して当てたことがありませんでした。お子さんは、立派に育っていて、社会の中で責任を全うされていました。

 私を育ててくれた宣教師と、この「愛は裁かず」と言う本を書かれている立場の伊藤重平さんは、子育ての基準が違っていたのです。親は、それぞれに養育を任された子の養育の責任を負いながら、自分の確信するところで育てるのであって、その方法を、どうするかも任されているのでしょう。

 私の父よりも年上で、名古屋にお迎えに行って、名古屋にお送りしたのです。『ここの五平餅が美味しいんです!』と言って、行き帰りのサーヴィスエリヤの売店で、買ってご馳走してくれたのです。今でも、子どもの我儘は、放置してはいけないと考えています。

 鞭を打った時、子どもたちは、ホッとした表情をしていました。事の良し悪しや、従順さを身をもって体得できたのだと思います。わが家では、《奏功》だったと思っていますが、《真剣に立ち向かってくれたこと》に感謝もしているようです。子どもたちには、〈苦味(にがみ)〉が残っていないように願う、12月にしては温かな朝です。

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 『あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを聞く。(イザヤ3021節)』

 青臭い頃に、三井の番頭さんをされた方と、時々ご一緒したことがありました。三井物産の一族で、その傍系の方で、もう退職なさった後だったのです。小さな印刷屋さんのお手伝いをされておいででした。これから日本の社会を生きていく私に、食事を奢ってくださって、advice してくれたのです。『会議とか打合会とかがあったら喋るんです。はっきりものを言うんです!』、それが《出世のコツ》だと言ったわけです。

 およそどこにも、〈出世組〉がいます。将来、組織を引っ張っていくだろうと目された人がいて、何人かがしのぎを削って機会を得ようとするわけです。残念なことに、そんな出世欲のない私は、誰かに与(くみ)して、のし上がろうなんて思いはまったくなかったのです。

 面倒みの好い人がいて、その人に見込まれたのでしょうか、その反面、妬まれることがありました。一流大学に学んだ人がいて、8年間大学にいて除籍になって、最初の職場に、同じ時期に就職しました。それなのに pride の高い人で、事あるごとに突っかかってきたのです。文章を書くと、言い方が間違っている、表現の仕方がおかしいと言って文句をつけるのです。

 向こうは国立の理工系、こちらは私立の文化系で、同じ事務方の仕事をしていたのです。皮肉たっぷりの彼の顔は、いまだにはっきり覚えています。そんな嫌な性格、彼も私をそう感じていたのでしょう。その職場に3年いました。

 そう言った人も、いていいのでしょう。いたからこそ、突っ走っていい気になって天狗になってしまったらおしまいだったのを避けられたのです。環境は、自分では選ぶことはできません。与えられた人や物や機会などの中で、それが良くても悪くても、そこで、だれもが生きるわけです。

 でも《出会い》って、素晴らしいものがあります。まさに、『いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行!』と言われた小林ハルさんの言葉は金言です。お祭りばかりの連続だったら、踊っているだけなのですが、修行をしていれば、自分の足元に気をつけて生きていけるわけです。躓かないように、一歩引くことも、避けることも、別の道を行くこともできるのです。

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1 Kings 17:2-6

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 『地震のあとに火があったが、火の中にも主はおられなかった。火のあとに、かすかな細い声があった。 1列王1912節)』

 思い返しますと、岐路に立たされた時に、耳元に、《細い声》が聞こえてきたような時が、幾度もありました。進むも、止まるも、引き返すのも、囁くような導きを感じてきたのです。人生に、《導き手》がいるのです。欲に動機付けられることもありますし、愛に動機づけられることもありますが、結果は真反対に違ったものになってしまいます。

 だれに聞くか、誰にまかせるか、一緒に歩く者と《一致》があるのか、その目的は、また可能性はどうなのか。選択の決定権は、自分にありますが、どんな声にうなずくかが、事を大きく分けるのです。「かすかな細い声」を聞いた、エリヤは、その声を聞き逃さずに応答したのです。

 心が騒いでいたり、恐れや不安で心がいっぱいだったら、聞き逃してしまいます。そのギリギリのところで、普段聞いている声を見極めて、それに思いを向けらことができるなら、人生の危機を回避でき、最善の選択をしていくことができます。そうやって、私もここまで生きてこられました。神さまは、私に傍に置いてくれた妻の声を、『注意深く聞け!』と言い続けられての今日であります。

(“キリスト教クリップアート”から預言者「エリヤ」です)

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仕掛け花火のような

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 人の一生を、〈仕掛け花火〉だとか、〈回わり舞台〉だとか、単に〈お芝居〉だとか言われます。もしをそうであるならその舞台を眺める「観客」がいなければなりません。

 これまでで一番お金と人と時間をかけた演劇を、中国におりました時に観ました。その舞台は、ユネスコの世界遺産に指定された、福建省の武威山郊外だったのです。友人夫妻に旅行に招待していただいて、自然を舞台にした、一大スペクタルショウを観劇したのです。1987年に製作され、「赤いコウリャン」という映画で脚光を浴び、世界的にも高評価を得ている映画監督、張芸謀Zhang Yimouが演出した、「印象大紅袍印 yinxianghongpao」でした。

 山水の名勝として知られる武夷山を舞台に、自然と人間文化をおり混ぜ、九曲溪などの景勝地を背景に、多くの出演者が歌と踊りを演じていました。夜空に映像を映し、美しい照明で、観ている観客を圧倒させていたのです。

 舞台は、大きく回転し、座席が動いていて、舞台に観客が共にるような錯覚に陥るような演出でした。大きな国の大きなショウは度肝を抜かれるようなものだったのです。題名の「大红袍」と言うのは、武威山の周りで栽培されているお茶のことで、福建省の一大名産です。

 文化遺産の景勝地の観光と特産品の宣伝のための商業活動で、まさに中国的な大きさと計画に、内外の観光客を惹きつけるのを目的にして、功を奏しているようです。同じような劇が、中国の各地で、同じように企画上演されて来ているようです。

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 これよりも、私たち一人一人の生涯の方が、意味や価値があるのではないでしょうか。もちろん演じているのではなく、《生きている》わけです。どうしてかと言いますと、人は神の《被造物》、《最高傑作》だからです。〈失敗作〉などないのです。自己評価が、たとえ低くても、神さまは独特に一人一人に私たちをお造りになられたからです。

 『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(ヘブル415節)』

 そんな私たちの生き様を、創造主はご覧になられているのです。一度きりの生涯が、どれほど厳粛であるかに、多くの人は気づかないままで生きているのです。もしお芝居であるなら、本物の自分でない自分を演じるにでしょうけど、人の一生は、お芝居ではなく、現実なのです。

 そして、一人一人が、どう生きたかの決算を、命の付与者の前ですることになります。もしかしたら、一生涯が、物語のように映し出されて、申し開きも弁明もなしに、評価されるのでしょう。キリストは、「同情者」であり「りかいしゃ」、「弁明者」であり「弁護者」として、私たちの傍にお立ちくださることでしょう。本来は、「審判者」でいらっしゃるのにです。

(武夷山です)
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 話を聞いていて、上手だなっと思った人が、これまで何人かいました。森繁久彌は上手でした。NHKと旧満州の放送局でアナウンサーをしていた過去があったようです。話に「間(ま)」があったからでしょうか、聞きやすかったのです。また若い頃に、「活動辯士」をしたことがある、徳川夢声は、その上を行くのでしょうか。ラジオで、その話を聴いた覚えがあります。この方が、「座談十五戒」を上げておられます。

①一人で喋るな、②黙り石となるな、③反り返るな、④馬鹿丁寧になるな、⑤世辞を言うな、⑥毒舌になるな、⑦こぼすな、⑧自慢するな、⑨法螺を吹くな、⑩酢豆腐になるな、⑪賛成だけするな、⑫反対だけするな、⑬軽薄才子になるな、⑭愛想を欠かすな、⑮敬語を忘れるな、というものです。

 聴いてくれる人のことを考えながら、話すための自戒だったのです。こう言った話し上手から学んだのでしょうか、NHKのアナウンサーに、中西龍(りょう)がいました。わが家にはテレビがなかったので、子どもたちと食事を終え、後片付けが終わって、九時過ぎには床に入ったでしょうか。

 毎晩とはいかなかったのですが、こっそり小型ラジオを布団の中に入れて、九時半になると、イヤホーンで、NHKの「にっぽんのメロディー」を聞いていました。早口の喋りなら敬遠していたのでしょうけど、一日が終わって聞くには、ふさわしい話ぶり、独特な「間」のある話で、三曲ほどのリクエストの歌謡曲を流す番組だったのです。

 聞いて、色々な光景を、私が思い描くのは、学校に行けなくてラジオを聞いて育ったからでしょうか、懐かしさもあって、その番組の隠れ大フアンだったのです。この方が、同じ学校の卒業生であったのも、贔屓の原因だったに違いありません。

 『歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れて行きます。みなさま今晩は、〈にっぽんのメロディー〉、中西龍でございます!』と語り始め、最後に俳句を紹介し、「赤とんぼ」の曲が流れて終わるのです。徳川夢声や森繁久彌を聞いて知っている私は、その話の「間」に倣った話し振りだったのに気付いたのです。

 自分が話をすることを仕事にしていましたので、「間」の置き方に注意しながら話したのを追い出すのです。教員をしていた時には、学校中で一番大きな声だったそうで、生徒がそんなことを言っていました。話す訓練を受けたわけではなく、見様見真似でやっていたので、大声で誤魔化していたのかも知れません。教壇で「間」なんか必要ありませんでした。

 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。(マルコ16章15節)』

 「福音」を語る説教者にならせていただいてから、話し方に気をつけていました。救世軍の山室軍平は、説教上手だったと聞いていました。それを聞いた多くの人がが、イエスさまを「キリスト」と信じて入信しています。この方の説教集を手に入れ、手元にあります。「いのちの電話」を日本で始められた菊池吉弥牧師の説教は、何度聞いたことでしょうか。また中国には、宋尚節(Son Shang gjie )と言われる伝道者がいて、中国各地から東南アジアにかけて、福音宣教で訪ね、夥しい人々を「キリスト」に導いたと言われています。

 説教集は読みますが、音声の説教で、印象深かったのは、改革派教会の岡田稔牧師でした。話される態度を学びたかった方です。ホーリネス教会の村上宣道牧師も、説教内容と話の展開が素晴らしかったのです。この方を模範に、このホーリネス派に属する牧師の話し方が似ています。私を育ててくださった宣教師は、話の組み立て方が理路整然としていて、実に聞きやすかったのです。

 説教者の模範としては落語家は違うかも知れませんが、「間」の取り方は素晴らしく、真似たいと思いつつ、今日に至りました。若い頃、寄席に行ったことがあったからでしょうか。その落語家、噺家に、「名人」とか、「名席」とか言われる方がおいででした。橘屋圓喬(たちばなやえんきょう/四代目、慶応元年生まれ、御家人の子、七歳で三遊亭圓朝の弟子になっています)が、数ある噺家の中では最も評価が高いそうです。音源があって、聞くことができます。

 圓生、小さん、馬生、志ん生などは、本当に上手な噺をしていました。今では、youtube で聞くことができますが、笑わせるだけではなく、納得させられたり、うなずかされる話っぷりがあって、『うまいなあ!』というのが、正直な印象です。聖書に出てくるパウロや、聖書から話をしたスポルジョンは、どんな話し方だったのでしょうか、聞いてみたいものです。

(「キリスト教クリップアート」からです)

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16と61

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 阿倍仲麻呂は16歳で、唐の都・長安に、遣唐使船に乗って留学しましたが、私は61で、北京の隣の天津に、家内と一緒に、飛行機に乗って行ったのです。まず香港に行き、そこで一週間過ごして、イギリス、スイス、カナダ、オランダ、ブラジルなどからの若者たちと一緒になって寝台列車に乗って留学しました。

 香港での一週間は、長女が一緒にいてくれて、他のルートでやって来た都合40人ほどが、集まっていました。そのセミナーの最後の説教を依頼され、その私の英語通訳をしてくれました。イギリス関係の施設で、美味しい賄いの食事をいただきながら過ごしたのです。乗車した長距離の寝台列車は満席で、丸一日、賑やかでした。ブラジルから来ていた若い歯科医師の女性が、切符を紛失したりの trouble などがあったのです。

 同じ車輌に、若者の数人のグループが、別の街を訪問する計画で、アメリカから来ていて、compartment の外の通路で、聖書を読んでいた私に、話しかけてきたのです。『親戚の人が天津に行くと、親から聞いているんです!』という話になって、『もしかしたら、デニーズ?』と言ったら、『そうです!』と答えて、不思議な方法で再会を二人は喜んでいました。

 あの日から、帰国再訪問を繰り返して過ごした、二十一世紀の13年間は、阿倍仲麻呂とはまるで違っていて、比べようがありません。16歳の仲麻呂とでは、望郷の思いのふかさは桁違いでした。仲麻呂は、どんな思いで、故郷を思ったのでしょうか。

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 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

 この和歌の意味は、『広い空を振り仰いで眺めると、美しい月が出ているが、あの月はきっと故郷である春日の三笠の山に出た月と同じ月だろう。』なのですが。家のベランダから、晴れた宵には、夜空を見上げて今会うが、この数日は、「三日月」が、鋭利な刃物のように、寒空に光を受けています。

 仲麻呂は、何度も帰国の旅を繰り返しますが、叶えられずに異国日に没しています。70歳を過ぎて、老いた仲麻呂は、どんな思いで死を迎えたのでしょうか。「科挙」の試験に合格して、有能な官吏として、玄宗に重用され、唐の王朝で過ごした人でしたが、55歳の折に、詠んだ上記の和歌は、あまりにも有名です。

 人の一生とは、実に不思議なものであるのを、仲麻呂の生涯から示されますが、二度も帰朝できた吉備真備(きびのまきび)と一緒に帰ることができていたら、どんな老いを、奈良で過ごしたことでしょうか。海上に散ったりした可能性もあったのですが、仲麻呂は長安に舞い戻るのです。李白とも交流があったりした生涯を、大陸で送り、大陸に没したわけす。

 切々たる望郷の思いが仲麻呂の70年の生涯に感じられますが、私たちは、御心なら、華南の街から天の故郷の帰りたいと思っていたのです。ところが押し返されるようにして帰国し、来春、帰国以来4回目の正月を、下野国の栃木で迎えようとしています。大陸なる山に、北関東なる地と同じ月がかかっているのですが、今頃、どの様に輝いているのかが気になる師走なのです。

(長安の都の復元図です)

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山歩き

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 戦国時代、関東一円の支配を競っていたのが、越後国の上杉謙信(輝虎)と相模国の北条氏康でした。両者ともに「関東管領」という立場を得ようとしたのです。室町時代以降、群雄割拠の時代って大変だったのが分かります。越後、相模、駿府(徳川家康)の武将の中で、氏康と謙信は、下野国の太平山の麓にあった、大中寺で「和議」を行います。

 謙信の叔父が、この寺の住職であったことから、場が設けられて、1568年に話し合いが行われています。謙信は、太平山に登り、関東平野を一望するのです。越後国には、これほどの広大な平野はなかったから、感ずるところが大だったことから、その箇所を「謙信平」と呼ばれるようになったのです。

 昨日、家から徒歩で、国学院大学の敷地の前を通りながら、その謙信平へ行く道を左に逸れて、太平の麓への道を歩いてみたのです。舗装で整備されていますが、他にも山道がありましたが、謙信が降った道だったかも知れません。謙信は、単独行ではなく、一軍を率いて歩いたわけです。そこから降ったのです。

 なだらかな道で、枯葉を踏みながら、戦国の世を思いながら歩いていたのですが、車が、エンジン音を立てながら脇をすり抜けて行きましたので、戦国情緒は台無しでした。山道を歩くので、刀を持てませんので、「手鉈(てなた)」を身に付けてでした。猪や熊が出てきたら身を守るための武器で、さながら戦国の武将のような思いでしたが、草鞋(わらじ)ではなく、sneaker を履いていたので、時代考察が足らなかったようです。

 初冬の山は、趣があってなんとも言えない気持ちでした。華南の街の森林公園から、山歩きのコースがあって、何度か歩きましたが、ここもそこも、自然の中に身を置く気分というのは、爽快です。浅草駅から東武電車に乗って、遠足でやって来た小学生たちが、歩いた帰りのコースだったかも知れません。
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天狗党

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 「出流天狗党」の事件が、幕末維新にあったようです。ここは水戸藩が近かったからでしょうか、そこでも「水戸天狗党」の蜂起があったと言われています。さらに北関東で江戸との関わりが強かったからでしょうか、討幕の拠点とされたのでしょう。「戊辰(ぼしん)戦争」の発端になった事件だったのです。鍋山村(今の栃木市出流)の出流山万願寺に立て籠って、尊皇討幕を期す一団が、慶応3年の晩秋に蜂起をしたのだそうです。

 今では、平和な村で、蕎麦が名物で名を馳せていますが、幕末に起こったことも、150年も経つと忘れられてしまっているように、蕎麦祭りに大勢の人が訪ねていました。市営の「ふれあいバス」に乗るために、幸来橋のたもとの停留所から、紅葉狩りに出かけたのですが、巴波川に架かる、この橋は、以前は、「念仏橋」と呼んでいたそうで、ここで、「念仏橋の戦い」があったのです。そこには、栃木宿の四方にあった一つの「木戸(宿場の入口)」があり、その辺での戦だったそうです。

 住んでいるアパートのそばに、「うずま公園」があって、そこに一基の供養塔があります。石塔に「西山尚義(謙之助)」と刻まれています。美濃国の人で、勤皇の志士、23歳で、その戦いで戦死した後、そこに葬られたのです。イギリス支配で、麻薬中毒者で溢れていた、清国の上海の街の植民地支配の惨憺とした窮状を、つぶさに見た高杉晋作の恐れは、当時の若者たちに共通する思いであったのでしょう。

 家族連れの子どもたちが遊具に乗ったり、お年寄りが談笑したりする、長閑な公園の近場で、そんな戦闘があり、死者が出たとは思えないほど、隔世の感がいたします。

 こんな近くに、幕末を感じさせ、その激しい時代の動きが、北の方の鍋山や出流山、日光例幣使街道の宿場町にもあったわけです。日本の歴史の中で、最も大きな動きのあった時期でした。

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希求

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 先日、近所のみなさんに誘われて、バスに乗って、栃木市の北に位置する出流山に、紅葉刈りに行き、こちらでは名物の蕎麦を食べに出かけた時に、十歳ほど年上の方と、テーブルを囲みながら話をしていました。戦争体験者で、地元でのことをお聞きました。また、家内が行っているリハビリ仲間のご婦人が、週初めに訪ねて来られて、ご自分の子供時代の「薙刀教練」のことなどを話してくれたのです。

 ここも空襲があったそうです。宇都宮には、航空基地があったので標的にされたのだそうですが、ここは、群馬県の太田市の空襲の帰り道に、余った爆弾を落として、米機が帰還したんだそうです。なぜ、太田市街が爆撃されたのかと言いましと、そこに、主に軍用の飛行機の製造工場があったからだそうです。

 太田市は、北関東随一の工業都市であったそうで、今でも日本有数の街だそうです。この街には、「SUBAR U(富士重工業)」があります。この会社、その前身は、日本の航空機やエンジンメーカーとしてアジアで最大、そして世界有数の航空機メーカーの「中島飛行機製作所」だったのです。

 その製造の記録が残されています。会社が始まってから終戦まで、製作された機種は民間機21種、陸軍機40種、海軍機65種の計126種でした。総生産機数は2万5935機もあったのです。ものすごい数の飛行機がつくられたまちだったわけです。その太田市の工場では、陸軍機1万2334機、海軍機3003機、民間機74機の計1万5411機を製造しています。

 立川や横田の基地の近くで少年時代を送った私は、戦後、米軍機の爆音を聞きながら過ごしたのです。時々、墜落したことがあって、煙が上がるのをみたことがありました。弟は、何か拾って帰って来たことがあったかも知れません。中島飛行機の会社ですが、地下工場の建設計画があって、その途中に、戦争が終結してしまったのです。

 ですから、徹底的に爆撃された街でした。その爆撃機の帰り道に、栃木が爆撃されたのを、70年も経つと、笑って話せるようになるのですね。様々な戦後があり、その体験を語る人も少なくなって来ているようです。家内のお父さんは、その中島飛行機で仕事をしていました。私の父は、飛行機の防弾ガラスの製造に関わっていますから、戦争とは無縁ではありません。県都、宇都宮にも「中島飛行機製作所」の工場がありました。

 平和の時代に、自分は育って、子どもはもちろん、孫たちも、戦争とは無関係に生きていけるようにと願っています。孫たちの年齢では、もう兵士になって戦場に駆り出された、暗い歴史があるわけです。平和を希求すべきなのに、世界は戦争の火種を抱えたり、現に戦争が避けられない危機的な状況にあるのは悲しいことです。そんな今だからこそ、平和であることを願う年の暮れです。

(「群青色」による太田市の市立美術館です)

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山梨県

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 中部山岳地帯に金峰山があります。標高が2599mあり、山梨と長野の県境に位置しています。その一帯には、水晶の鉱床があって、およそ千年ほど前に発見されてから、掘り出されてきているそうです。この水晶の基盤が「石英」で、これが、硬質な防弾ガラスの原料として使われています。

 旧軍隊の戦闘機や爆撃機には、この防弾ガラスが使われ、国策事業として、その採掘が、山梨県の「黒平(くろびら〈地元の人は“くろべら”と言っています〉鉱山」で始められました。若干、三十代初めの父は、鉱山学を学んだ関係で、その軍需工場に、軍命で遣わされました。

 その赴任の山奥の旅館の別館が、家族の宿舎とされ、そこで、父母の三男坊として、12月に私は生まれ、2年後の晩秋に弟が誕生しています。父は、そこから山奥の採掘現場に通い、甲府の街に事務所を持っていて、馬で行き来をしていたようです。鉱山から索道ケーブルで、沢違いの村に石英が運ばれ、トラックで甲府駅に運び、京浜地帯のガラス工場などに届けられていたのです。

 上の兄は、甲府の街の上空が、アメリカ軍の空襲で、真っ赤になっていたのを覚えているそうです。大きな被害を被った街でしたが、山奥は平穏だったそうです。その石英の採掘の鉱山は、敗戦と同時に閉山となり、父は、県有林から木材を切り出して、しばらく事業をしていましたが、四人の男の子の教育を考えて、東京に出たのです。小学校一年の一学期まで、その鉱石の集積場の近くの宿舎で生活をしていました。大きな倉庫があって、そこで遊んだり、秋には、山の中に入り込む兄たちについて行って、「木通(あけび)」採り、沢で「山女(やまめ)」追いにくっついて動いていました。いわゆる私の「ふるさと」なのです。

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 私は、昭和40年代には廃校になってしまった、沢違いの村の小学校に、昭和26年に入学したのです。二人の兄は、級長でした。村長、郵便局長に並ぶ、村での立場だったそうで、それで選ばれたのでしょう。私は、肺炎で入学式にも、授業にも出ないまま、東京都下の八王子に転校してしまったのです。学校の記憶は、病気をする前に、上の兄にくっついて行って、隣に椅子を出してもらって、それに座っていて、お昼になって、弁当を分けてもらい、脱脂粉乳を飲ませてもらっただけの学校の記憶があります。

 次兄は、その、学校の「分校(本校が火事で焼けた後、上の兄はお寺、次兄は別の箇所に通っていました。私が上の兄と机を並べたのは、お寺でした)」に通っていて、悪戯をしてるのを、父の仕事場から見つけられて叱られていたのを覚えています。それが、故郷の記憶です。猟師たちが仕留めたのでしょう、策動で運ばれて来た熊や鹿や雉(きじ)が、大きな motor の横に転がされているのも覚えています。

 そこに、私たちは生まれたばかりの長男と3人で、宣教師の助手としてやって来て、つまり「故郷回帰」で、中国に留学するまで、32年間過ごした街なのです。長女、次女、次男は、その隣町の「母子センター」で産婆さんのお世話で誕生しました。ハエがブンブン飛んでいて、当時流行りの無菌室には真反対の施設でした。子どもたちにも私たち親にとっては、忘れられない地なのです。


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 城を持たなかった、「風林火山」で名を馳せた武田信玄の館のあった街です。「ほうとう(味噌煮込みうどん)」、「ぶどう」、「桃」の美味しい地なのです。「甲斐国」、「甲州」、日本橋を発って、内藤新宿、八王子、上野原を経て、信州の下諏訪宿で中山道に至る「甲州街道」の重要な役割を担った街でした。甲府は、江戸幕府の親藩で、江戸防備のための役割を果たしたそうです。それで「粋(いき)」な雰囲気の残る街でした。

 聞くところによりますと、新しい事業を始めるに当たって、テスト的に始める街なのだそうです。ここで成功したら、全国展開していくと言われていました。現在は、80万人強の人口を擁する県です。長く住んだ街から、富士山が見えるのですが、御坂山地が間に遮って、頂上付近しか見えないのは残念でした。何と、今住んでいます栃木市の四階の窓からは、富士の裾まで遠望することができるのです。

 右肩の腱板断裂の手術で手術を受けた時、入院した市立病院の同室に、教会においでの方のお兄さんがいて、しばらくご一緒でした。沢違いの山の中の出身で、同じ年の同じ月の生まれでした。この方にバプテスマをさせていただいたのが、日本での最後の機会でした。そして間もなく、中国の天津に出かけたのです。

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 多くの人と出会い、助けられながら子育てと、奉仕をさせていただいた県で、今でも、様々な出来事が、夢の中に出て来ます。自分の生涯で、生まれてから小学校入学まで過ごし、二十代の中頃から、一番好い時を過ごした街、県なのです。山歩き、温泉行き、葡萄や桃の収穫、蚕の世話などもさせてもらった地でした。「ふるさと」を、室生犀星は次のように詠みました。

ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたうもの

 そう、犀星は、「好ましからざる地」のように詠んだのです。ここから、さほど遠くではありませんが、私の「ふるさと」は、記憶の中に鮮明です。若かった父や母の姿、元気な兄たち、可愛い弟の姿が、あの時のまま思い出されて来ます。悲しくもないのに、懐かしさは涙を誘うのでしょうか。

 なぜ中国で13年もの間過ごしたのかと言いますと、父の掘った原石で作られた防弾ガラスを搭載した爆撃機が、中国の諸都市に爆弾を落として、多くの命を奪い、傷を追わせ、家財産を焼き壊したことへの「償いの思い」が止み難かったからでした。三人の兄弟たちには、そんな思いはなかったのでしょうけれど、私には、ズシンと重く迫ったのです。13年も過ごした華南の街も、その中心の市街地が爆撃され、三十数人が亡くなったと、河岸の歴史石板に事実が刻まれていました。

 人の世の歴史には、様々な繋がりがあるのでしょう。父と子、国と国、業と業、時と時には連続性があるというのが、不思議なのです。父の家の床の間には、長く、父の堀った石英の上に、見事に結晶した水晶が、置かれていました。どなたに上げたのでしょうか、いつの間にか無くなっていました。父の加担戦争は、その事で集結させたのかも知れません。

 今日は、日本軍が真珠湾攻撃をした、80周年の記念日になるのです。昨夕、訪ねて来られた家内の「rehabilitation」の仲間のご婦人は、二人のお兄様を、戦争で亡くされ、薙刀(なぎなた)の教練をしたとおっしゃっておいででした。「平和」や「平安」を、『祈りなさい!』と仰る神の願いが、高く掲げられるのを求めてやみません。

(「アケビ の花」、「甲州種のぶどう」、「石英」です)

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大雪

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 今日は、二十四節気の「大雪(たいせつ)」、ここ栃木市は、奥日光や那須に比べて、降雪量は少ないそうです。住み始めて、これまで、空に舞う雪はあったのですが、積もったのはまだ見ていません。

 雪景色が見られる前に、雨混じりの「霙(みぞれ)」の素手に触る冷たさの記憶があります。そんな中、丘陵の崖から、兄たちが作った橇(そり)で雪遊びをしたのが楽しい思い出です。

 中国に行く数年前に、古着をたくさん持って冬の大連に、家内と2人で、知人を訪ねました。ちょうど日本の正月で、中国の春節には、まだもう少し日がありましたが、街中は、降った雪が踏み固められていて、路面凍結でした。

 雪の多い土地に住んだことがないので、冬用の spike の付いた靴を履いたことが無かったので、まさか大連で、歩いたことがないほどの氷の上を歩かされたのには、驚きと、油断だったのです。

 覚悟をしてましたが、厳冬の大陸の寒さは聞きしに勝るものでした。降り積もった雪が、ice burn (路面凍結)で、家内が何度も転びそうになったのです。それで、天津の語学学校に留学する時に、次女の婿殿に、靴にはめる spike と、降雪時用のコートを送ってもらい、備えをしました。

 生乳工場のアルバイトで、アイスクリームの貯蔵庫に、箱入りの製品を積む作業をした時、零下35の冷蔵庫にいたことがありましたが、あの痛寒さを、大連で感じたのです。靴屋を探して家内に靴を買いましたが、spike は天津では不要だったのです。中国にいる間中、押入れのケースの中にしまったまま、帰国時に、置いて帰って来てしまいました。

 いくつも街に住んで、大雪(おおゆき)の経験は、子どもの頃と、中部山岳の街の三十数年の間に、2回ほどあったでしょうか。ここでも山を越すと、新潟県に寄った地には、これから積雪の季節がやってくるのでしょうか。そうしたらローカル線に乗って、駅弁を持ち込んで、車窓から雪景色、窓ガラスを打つ「霙」を眺めてみたいものです。

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