国道52号線は、国道1号線と20号線とを結ぶ、富士川沿いを通る、「富士川街道」と呼ばれている幹線道路です。甲府から清水(静岡市)に向かう南部町あたりに入る頃でしょうか、その街道筋に大きな立て看板があって、
“Don’t scold the kids, it’s the way we came, don’t laugh at the old people, it’s the way we’re going.”
と大きな文字で書いてあるのです。日本語に翻訳すると、
『子供叱るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ!』
ごめんなさい、逆で、日本語の看板を、” Deeple “ で翻訳したものです。子育て真っ最中、四人の子を乗せて、静岡西部の街に、宣教師さんを訪ねていた時に見かけたのです。それ以前にあったのかも知れませんが、急に、語りかけるかのように、突然目に中に飛び込んできたのです。
私の子育ては、《叱る》なんてものではなく、借家の中心の柱に、しなる鞭を懸けていて、不従順、不公正、約束不履行などをした時に、父親の一存で、尻に当てたのです。その根拠は、聖書にあるのです。
『子どもを懲らすことを差し控えてはならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。 あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる。(箴言23章13〜14節)』
アメリカの「ピューリタン信仰」は、この聖書のことばに立って、養育を任された子どもたちの尻を、しなやかな鞭で、父親が打ったのです。最初の子が、礼拝中に、何かしていたのを見た、宣教師が、私を呼んだのです。『準、今、彼を spank (ピンピン)すべきです!』と、そう言われた私は、二人の部屋に入って、ズボンを下ろさせて、私の腰のベルトを抜いて、それで spank したのです。
3、4歳ほどだったでしょうか、彼が最初に覚えた英語は、spank だったのではないでしょうか。性悪説の立場で、子どもの不従順や不公正や約束の不履行の態度を矯正するのですが、初めての子育ての責任を、「鞭をひかえた子」としてではなく、「鞭打たれた子」として成長していったのです。
女の子たちにも spank をしました。何故するかを説明したのです。親を怒らせたり、恥をかかせたからからしたのではありませんでした。親の怒りは治めてからしました。不納得で、されたことがあったようで、大きくなってから『あの時は・・・』と言われたことがありました。で、結論的には、その結果は《奏功》で、よい結果をもたらせたと思っています。
長男は、『僕にはよかった!』と言ってくれましたが、どれほど良かったかは聞きませんでした。四番目の子の時は、『あたしたちの時は、ピンピンされたのに!』と、基準が変わってると、姉たちに訴えられたこともありました。それって歳をとって、力も基準が緩くなったのかも知れません。その後には、ちゃんと言い聞かせて、祈って終わったと思います。
何時でしたか、女学校の校長、福祉司、家栽の調査員をされてきた、伊藤重平さんを、名古屋からお招きして、講演をしていただいたことがありました。この方は、ご自分の子にも、家裁に送致されてくる子にも、鞭など、決して当てたことがありませんでした。お子さんは、立派に育っていて、社会の中で責任を全うされていました。
私を育ててくれた宣教師と、この「愛は裁かず」と言う本を書かれている立場の伊藤重平さんは、子育ての基準が違っていたのです。親は、それぞれに養育を任された子の養育の責任を負いながら、自分の確信するところで育てるのであって、その方法を、どうするかも任されているのでしょう。
私の父よりも年上で、名古屋にお迎えに行って、名古屋にお送りしたのです。『ここの五平餅が美味しいんです!』と言って、行き帰りのサーヴィスエリヤの売店で、買ってご馳走してくれたのです。今でも、子どもの我儘は、放置してはいけないと考えています。
鞭を打った時、子どもたちは、ホッとした表情をしていました。事の良し悪しや、従順さを身をもって体得できたのだと思います。わが家では、《奏功》だったと思っていますが、《真剣に立ち向かってくれたこと》に感謝もしているようです。子どもたちには、〈苦味(にがみ)〉が残っていないように願う、12月にしては温かな朝です。
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