物を大切にする

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 『わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。(箴言18節)』

 『負うた子に教えられ!』、行き道に迷った時に、背中の子が、『お父さん右の方!』と言って教えられることなのですが、長男と同い年の一人の野球人から教えられたことがあります。

 今、時の人となった日本ハム・ ファイターズの監督に就任した新庄剛志のことなのです。就任以降の言動でもありません。BIGBOSS が、プロ野球選手として、阪神タイガースや日本ハムやMLB(米リーグ)で活躍していた現役時代のことなのです。

 私の育った街の家の近くの空き地、旧国鉄の貨物の積み込み積み下ろしに作業上の空き地で、学校から帰ると、三角ベース野球をやっていました。軟球で、ほとんどが素手で球を取り、棒切れを加工したバットででした。庶民の子たちが夢を見ながらの遊びだったのです。

 私たちの長男が、『野球をしたい!』と言うことで、「スポ少」に入った時に、練習着とクローブとバットを買って上げました。『プロの選手になったら、お父さんとお母さんに自動車と家を買って上げるね!』と、野球小僧の常套句を言っていましたが、その言葉は果たすじまいに、野球から、息子は離れてしまいました。

 新庄剛志は、プロ野球選手になった時に、初任給でグローブを買いました。大阪に本社のあるZETT社製で、7500円だったそうです。プロ野球選手としての17年の間、修理を重ねながら、それを使い続けたのです。NLB日本プロ野球では、守備への高評価の《golden globe 賞》を、「10回」も獲得していた選手でした

 プロともなれば、〈使い捨て〉が当然のように思われますが、17年もの間、同じグローブを使い続けると言うことの中に、驚くべき決心や物への愛や感謝などがあるのが感じられるのです。お父さんが、『商売道具は大切にしろ!』が言った、その一言が、その動機付けだったのです。

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 《物を大切にする》と言うと、私の弟の使っている皮の肩掛けバッグを見て、その言葉の意味が分かるのです。当に処分すべき代物で、皮はハゲ縫い目はほつれたのを、自分の手で縫い直しては、手入れをして、今なお現役で、誇らしく使い続けているのです。ほんとうに見栄えの全くない、老いぼれたバッグです。それなのに、教え子たちが、恩師への感謝で贈答してくれた《宝物》は、捨てられないでいるのです。教え子のみなさんが知ったら、どんなに嬉しいことでしょうか。

 家を持たない家内と私のために、中国にいる間中、帰国時に過ごすために、彼の退職金などで買ったマンションの一室を、《私たちのための部屋》として用意してくれていたのです。なんと兄夫婦想いの優しいことでしょうか。家内の帰国時の通院、そして発病、入院、通院で、さらにはコロナ禍で、この部屋は使えないままでいます。

 彼は、シャツの襟を裏返しにして、自分の手で、針と糸で縫い直して着続けているのです。そう言った事を、父を見てたのでしょう。良質な物を使うのを旨としていた父は、誂えたワイシャツの襟が擦り切れると、裏返しにしてもらって着続ける人でした。一棹(ひとさお)のタンスと本箱だけを持つだけの《簡素な生き方》をし続けていたのです。そのタンスの上に背広や小物を入れた紙箱が二つほどあったでしょうか。天に召された時、何も持っていませんでした。物への執着のない人で、持っている物も大切にしたわけです。新庄剛志と弟と父の生き方を思い出した、物の溢れる師走です。

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危機の時代

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 「日本語」について、こんなことが言われています。『世界の言語の中で、<植民地化>されていない唯一のものです!』とです。

 アジア圏では、インドやフィリピンやシンガポールやマレーシアの公用語は、英語です。イギリスには、海外に60ヵ国もの植民地があったのですが、その内のアジア圏の国々ででのことです。日本でも、そうなる可能性がありながらも、国体を守って、植民地になることから守られてきたのです。ポルトガルやイギリスの経済力に包み込まれていたら、早い時期に、ポルトガル語や英語が公用語となていたかも知れませんね。

 戦争に負けた後も、そんな危機感があったのですが、避けられたわけです。それと関係があるのでしょうか、日本人の英語力が弱くて、外交上に折衝時に、自国の主張が語られないもどかしさを産んでいる様です。島国の中でことが足りるという状況が、未だに続いているからでしょうか。私は、子どもたちを、私の手元に置いておきたかったのですが、おやにねがいとうらはらに、彼らは英語圏のアメリカで教育を受けたのです。でも、今思うに、彼らが英語を駆使できるということは、好かったと思えるのです。

 在華中に、日本語を学びたいと願って、住んでいた家にやって来ている子どもたちが何人もいました。その学習動機は、日本のアニメと漫画なのです。これは、中国だけではなく、世界中で、漫画とアニメの「日本文化」が、ブームを起こしていると言うことのようです。

 中国の中学生に、『「食戟のソーマ」って何ですか?』と尋ねられたのですが、「食戟」も「ソーマ」も日本語である事を、彼に教えられて、ネットで調べたのです。それは漫画とテレビアニメの主題でした。調理学校を舞台に、その漫画の主人公が「ソーマ」で、調理の対決が「食戟」なのだそうです。

 手塚治虫の「鉄腕アトム」から始まり、宮崎駿のアニメが、大人気を博して、そのブームになっています。今では、「鬼滅の刃」が注目されてるのでしょう。確かに、若手の漫画作家たちの作風や内容には、驚くほどに目を見張るものがあります。梅雨の新宿御苑を舞台にした「言の葉の庭(新海誠監督)」の、冒頭のアニメには驚かされてしまいました。雨に降る様子を描いた動画が、実写で見ているかの様に描かれていたからです。

 そんな作品を、翻訳ではなく、日本語で理解したいのが、現代の世界の若者たちで、<日本語ブーム>が起こっているわけです。東洋の神秘性ではなく、狭い国土の中でつちかわれてきた独自の文化が、脚光を浴びてきているのでしょう。日本文化が解き放つ「感性」に共鳴する人が、世界中に多くいると言うことです。

 NHKのラジオニュースを聞いていますと、「アルファベット化する日本語」が、ますます進んでいるのが分かります。英語やフランス語を日本語の中に入れ込んで、古来ある言語表現を使わなくなっているのです。英和辞典が必要ですが、元の spell が分からないと、引きようがありません。『言葉は生きていて、時代が形作るもの!』だとするなら、それも、自然の流れなのでしょうか。

 「zengakuren」、「tunami」、「karaoke」などの日本語が、逆に外国語の中に入り込んでいるだけではなく、日本語化の傾向はまだまだ進みそうです。戦国時代の頃から「カステラ」、「合羽(かっぱ)」、「アルバイト」などの外国語を吸収しながら、「母語」として日本語を保ち続けてきた事は、驚くべきではないでしょうか。でも、言葉の危機の時代を迎えているのかも知れません。

(「言の葉の庭」の一場面から)

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感嘆の的

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 『目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(詩篇4026節)』

 華南の街の学校の同僚に、「茜(あかね qiàn )」と言うお名前の女教師がおいででした。就学前の男の子さんを連れて、わが家にやって来られたことがありました。日本語の教師をされていて、博士号を、早稲田大学に留学して取りたいと願っておられました。それでも、なかなか道が開かれなかったのです。

 きっと、真っ赤な夕焼けの綺麗な夕方に生まれたのでしょうか、ご両親が、そう命名されたのです。寒くなって来たのでしょうか、北関東の太平山に沈んでいく太陽が、未練を残すかのように、茜色になって沈んでいきます。

 この「茜」は、根の部分が、「赤根」と呼ばれる植物で、草木染めに用いられてきました。野原や道端のどこでも生える草で、蔓は3mくらいにもなるようです。「茜さす」と言うように、枕詞にもなっています。

 あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ 千たび嘆きて恋ひつつぞ居る

 万葉集の中にもみられます。「紅」でもなく、「赤」なのです。私の生まれた村は、奥深い山峡の渓谷でしたから陽の光は乏しく、朝焼けや夕焼けの記憶は全くありません。七十前半から住み始めた北関東は、関東平野の外れで、東に筑波山が見え、晴れた朝は、新しい一日を祝すかのように、その周りから陽が昇ってくるのを眺めることができるのです。それだけで、心が躍って来ます。

 夕べには、富士山から太平山にかけて、稜線をクッキリと浮かび上がらせるように、日が沈んでいきます。それに宵の明星が煌めきを添えています。創世の昔から輝き続けている天体を、地球は、一日をかけて自ら回転しながら、季節によって角度を変えながら眺められ、いつも勇気付けられ、励まされ、また慰められるてきているのです。

 内蒙古の呼和浩特 Hūhéhàotè の草原で見た星空は、驚天動地でした。その深遠

な輝きは、まさに神秘的でした。星雲の中に吸い込まれそうな錯覚を覚えるほどだったのです。。八ヶ岳の自然の家の戸外で眺め、福岡の八女の星野村で見上げた星夜も素晴らしかったのですが、それとは規模が比べられないものでした。見上げる場所で、これほど違うものだと言うことに驚かされました。

 南十字星を見たかった私は、教会のセミナーに参加で行ったアルゼンチンと、義兄訪問で寄ったブラジルで、見る機会があったのですが、天気のせいでしょうか、眠かったからでしょうか、願いを果たせないまま帰国してしまいました。

 2006年の夏に、中国語の語学学校に留学するために、中国東北部の天津に出かけて、イギリスのNPO法人が探してくださったアパートの七階に住み始めたのです。。その 阳台 yangtai(ベランダ)から、大陸の地平線に沈んでいく真っ赤な色に染まった大きな太陽に、圧倒させられたのを、昨日のように覚えています。

 切なかったのは、子どもの頃に、枯れ草の中で見上げた夜空に輝いていた星々です。青く冷ややかだったのは、家出の身の上の寂しさゆえだったからなのでしょうか。同じ星の光なのに、境遇や立場によって、こんなにも違っていたのです。そう言えば、「星の王子様」も、星の追っかけをしていました。

 太陽を周回する「惑星」の一つの地球に、78億7500万もの人が住んでいて、様々な営みが繰り広げられているのですね。愛したり憎んだり、助けたり奪ったり、笑ったり泣いたり、喜んだり悲しんだりしています。宇宙旅行もできそうな時代を、私たちは迎えているのですが、神秘の世界に、どこまで入っていけるのでしょうか。

最高の神秘は「人」ではないででしょうか。万物の創造の最高傑作です。茜色の夕空を染める空を造り、それに感動する人を造られた創造者がおいでです。このお方は、私たちの「感嘆の的」でいらっしゃいます。

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江戸の人

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 子どもたちが学んだ中学校が、わが家から歩いて5分ほどの所にありました。その裏門は「逆コの字」の道路の家の影にあって、そこに、忘れ物を持っては、届けさせられたことが何度かありました。正門は、大通りから入ったところにありました。

 まだ、わが家の子どもたちは小学校に通っている頃でした。その中学の正門から少し行った所に空き地があって、中学生が十数人たむろして、蠢(うごめ)いていたのです。そこを通りかかった時、二人が殴り合いをしていた、いえ、一方的に体の大きい、ヤンキーくんが相手を殴りつけていたのです。『さあ、そのくらいにしよう!』と言って、二人に間に、私は割って入ったのです。

 中学校の教師たちは、校門の中でウロウロ、ゴソゴソと遠目で眺めてるだけで、仲裁に入らなかったのです。そのヤンキーくんに、『俺知ってるか?』と聞いたら、『教会のオッチャンずら!』と答えたのです。教会の前を、小中と通学していたのでしょう。彼も、やめられない所に、私が、中に入ってホッとして、挙げた手を下ろしたのです。

 『何やってるんだ?』と聞いたら、『タイマン(一対一の喧嘩のことです)!』と答えたのです。相手は、中学校の生徒会長で、彼の方から、タイマンを挑んだのだそうです。喧嘩慣れしていたヤンキーくんの一方的な優勢だったのです。二人とも、ホッとして別れ、その中学生たちは散って、学校に引き上げて行きました。

 何日か経って、その生徒会長が、お母さんと一緒に、私たちの教会(横にある借家を借りていたのです)、家に訪ねて来られたのです。『先日はありがとうございました!』とお礼と、菓子折りをいただきました。お母さんに、暴力はともかく、お子さんの義に立った勇気を褒めて上げたのです。それっきりでした。

 今日、新聞の記事に、『中村吉右衛門、七十七歳で逝く!』と言う記事を読んで、同学年、戦争末期に生まれ、同じ時代の空気を吸いながら生きてきた〈一フアン〉の私は、重く思うことありなのです。歌舞伎役者の父の子として生まれた吉右衛門、軍需工場長の子として生まれた私、それぞれに生きてきたのですが、吉右衛門は病を得て亡くなり、私は生き残っているわけです。

 若い頃に、《同世代の星》、同じ学生として、東京のどこかですれ違ったかも知れませんが、全く接点などないのです。子どもに教えられて、華南の街の夕べ、youtube で、手に汗を握りながら、ネット配信の「鬼平犯科帳」を観て、同世代人の華々しい吉右衛門の活躍ぶりを観て、暫しの娯楽を取ったことを思い出したのです。

 吉右衛門にお嬢さんが四人おいでで、そのお嬢さんを連れて、Tokyo Disney land に行ったのだそうです。そうしましたら、すれ違った一人の男の子が、吉右衛門を見て、『あゝ《江戸の人》だ!』と言ったのだそうです。「鬼平」でも、「歌舞伎役者」でも、「播磨屋」でもなく、そう言われたことに、いたく感じ入ったのだそうです。

 テレビの画面で観た長谷川平蔵を、「江戸」と結び付けられたことが、吉右衛門には自慢だったわけです。この人の雰囲気が、男の子に「江戸」の風を感じさせた演技者だったわけです。そんな逸話を目にして、四十数年前のことを、私も思い出したのです。《教会のオッチャン》と、自分が〈キリストの教会〉と結び付けて呼ばれたことを、私も自慢にすることにいたしましょう。

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夕と朝

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 『 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。(創世記15節)』

 初冬の朝晩、日の出と日の入りの北関東の空は、抜群に綺麗です。聖書は、夕があって、その後に朝があるという順序で書き記しています。暗くなる夜の到来と、陽が昇り明るくなる朝の到来が、人の世の移り変わりの順序なのでしょう。これまで明けなかった暗い夜はなかったのです。必ず陽の煌めく朝が来るからです。

 不安や恐怖の時代の只中で、人は楽観的なのか、困難さを考えようとしないでいるのか、けっこう、上手に生きられるのかも知れません。まだ貧しかった時代、欧米人が、日本にやって来て、庶民の生活を見て驚いたのは、〈お愛想(あいそ)笑い〉をする笑顔だったそうです。そのはにかむ様子を見せる日本人の笑いに、異質なものを感じたのだそうです。生きるのに厳しい状況下で、苦虫を噛み締めることだってできたのに、そうしないで、ヘラヘラと、ニコニコと笑えるのが、《日本人の特性》なのでょう。

 コロナの渦中で、仕事を失っても、食べ物がなくても、ドッコイ生きて行く法が、私たちには備わっているのでしょう。多くの人たちが、動じずに、静かに生きているのです。神を知っていたユダヤ人は、どんなに嫌われ、迫害されても、理不尽さや逆境の中で、望みを抱いて生き、そして死んでいきました。《神の顧みの日》が、必ずやって来るのを信じていたからです。

 『わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ1633節)』

 同じく、神を知る、いえ神に知られている者として、明日に希望をつないで生きていける《基督者の特性》も、逆境に、真正面から立ち向かって、勇敢に生きられることを、代々(よよ)の基督者が証明して来ているのです。

 狡猾で、不可解なこの世の中で、イエスさまこそ、勇敢な一生を生き、十字架で死ぬことによって、宥めの供物の使命を果たし、死を打ち破って《甦られた》からです。今、父の右の座で、信じる私たちにために《執り成しの祈り》をされ、《助け主聖霊》を下さり、私たちを迎える場所を設けておられ、それが完成したら《迎えてくださる》のです。

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 義母は、終戦後の食糧難の時代、六人の子を養うために、自分の食べる分を削って子に与え、栄養不良で、「肺結核(肋膜炎)」に罹りました。そんな病いの中で、長女が手にして帰って来た、教会が配布した「ビラ(トラクト)を読んで、教会に跳んで行き、質問を繰り返した後、キリストの「十字架」の死、その死から蘇られたことを信じたのです。さらにキリストの「癒し」を信じて、癒され、102歳まで生きて、天に帰っていきました。

 私の母も、産みの両親のない養女の身の上の中で、幼い日にキリストを信じて、万物の創造の神、キリストの父なる神と出会います。その神を、自分の「父(アバ)」と呼んで、信頼して、従って生きました。48歳の時に「卵巣癌」で、余命半年を宣告されたのですが、

 『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(ヨハネの黙示録2212節)』

の聖書を読んで、癒されました。それから元気に生きて、95歳で、同じく天に帰っていきました。その信仰を継承して、私も家内も四人の子も、その配偶者たちも、孫たちも、私の兄弟たちも生きています。それって、神の「憐れみ」なのです。多くのことのあった2021年も、祝福の中を生かされたのです。ただ感謝あるのみの12月です。

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忘年か歳忘れか

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 今日は12月1日、『もう!」という、時の過ぎゆく早さです。老朽化と、一昨年の台風被害で、家の取り壊しが、この街のあちらこちらで行われ、通りに両側が歯が抜けるように、更地が増えている昨今です。かつては、『〈〇〇通り〉と呼ばれて、それはそれは賑やかでした!』と聞きます。先頃、〈銀座通り〉のアーケードの屋根が、取り払われ、昔の繁栄を知る地域の人は、肩を落としています。

 そんな駅前空洞化の進む街の外れに住み始めて、3年近くなります。江戸時代には、日光例幣使街道の宿場で賑わい、江戸との物資の輸送を担う「舟運」で栄えた地域なのに、お年寄りの多さが、目立ちます。日曜日の朝の〈ラジオ体操会〉に誘われ、〈脳梗塞に気をつけましょう!〉の講習会にも誘われ、先頃は〈老人会〉にも誘われ、紅葉狩り&蕎麦食べ会に参加するようになっています。

 すっかり地域に馴染んでしまいました。刻の野菜や果物を頂いたり、お土産のお裾分けも分けてもらい、なんだか父母の時代に住んだ街の〈隣組〉のような関わりができて来ました。そうしましたら、今度は、〈忘年会〉なのだそうです。お酒は飲まないし、今年だって、〈忘れてしまいたいこと〉など皆無な私たちで、感謝して生きた年だったので、参加を躊躇しています。

 この「忘年」という言葉は、中国の故事「忘年の交わり」に由来するのだそうです。もともとは「歳(とし)忘れ」の意味だったのだそうです。それが、過ぎて行一年の苦労を忘れる「年忘れ」に、摺り替わってしまったようです。

 昔は、高貴な人たちが、「歳忘れ」という会合をもっていたのだそうです。そこで和歌を詠み合い、連歌を詠む会が、いつの間にか定着してしまった〈忘年会〉なのです。職場にいた頃、言いたいことを普段は言えない人が、酒の勢いで何でも言ってしまうような無礼講になってしまって、責め合いになるので、嫌いでした。

 〈感謝会〉の方がいいですね。家族で参加するような食事会になるような会社もあったようです。まあ〈ご苦労様会〉で、賞品がもらえたり、プレゼントの交換会になるのならいいですね。そんな意識改革があったらいいのに、こう言ったことは旧態依然が、日本の社会なのでしょうか。

 昔の賑わいを忘れられないのは人の常、先日の年配者の紅葉狩りの遠足で、会長の床屋さんが、『俺のオヤジが、学童疎開の子どもたちの頭を刈って上げるために、バスに乗ってやって来たのは、この村だったよ!』と、オヤジさんの出身の村を語っていました。奥深い村から、賑やかな栃木の街に出て来て、丁稚奉公をして、〈暖簾分け〉で独立したのでしょうか、お嫁さんをもらって店を出して、二代目を継いだ会長も80後半のお爺さんです。折角の出会い、正月前に、二十年来自分で刈ってきた坊主頭を、綺麗にしてもらいに行こうか、思案中です。

(賑わっていた頃の栃木市の繁華街です)

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一編の詩

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『私」をもっとよく見て!

 「何が見えるの看護婦さん。あなたに何が見えるの。あなたが私を見るとき、こう思ってるでしょう。気むずかしいおばあさん、利口じゃあないし、日常生活もおぼつかなく、目もうつろにさまよわせて、食べ物をぼろぼろこぼし、返事もしない。  

 あなたが大声で、『お願いだから』と言っても、あなたのしてることに気付かないようで、いつもいつも靴下や靴をなくしてばかりいる、おもしろくもおかしくもないのか、言いなりになってる、長い一日を埋めるためにお風呂を使ったり、食事をしたり・・・、これがあなたが考えてること、あなたがみてることではありません。

 でも目を開けてごらんなさい、看護婦さん、あなたは私が見えてないのですよ。私が誰なの、あなたの命ずるままに起き上がるこの私が、誰か教えてあげましょう、ここにじっと座っているこの私が、あなたの意思で食べているこの私が誰なのか。

 私は十歳の子どもでした。

 父がいて、母がいて兄弟姉妹がいて、みなお互いに愛し合っていました。

 十六歳の少女は足に羽をつけて、もうすぐ恋人に会えることを夢見ていました。 

 二十歳でもう花嫁。私の心は躍っていました。守ると約束した誓いを胸に刻んで。

 二十五歳で私は子どもを産みました。その子は私に安全で幸福な家庭を求めたの。

 三十歳、子どもはみるみる大きくなる。永遠に続くはずの絆で母子は互いに結ばれて。

 四十歳、息子たちは成長し、行ってしまった。でも夫はそばにいて、私を悲しませないように見守ってくれました。

 五十歳、もう一度赤ん坊が膝の上で遊びました。私に愛する夫と私は再び子どもに会ったのです。

 暗い日々が訪れました。夫が死んだのです。夫のことを考え、不安で震えました。息子たちはみな自分の子どもを育ててる最中でしたから。

 それで私は、過ごしてきた歳月と愛のことを考えました。いま私はおばあさんになりました。自然の女神は残酷です。老人をまるでばかのように見せるのは、自然の女神の悪い冗談。体はぼろぼろ、優美さも気力も失せ、かつて心があったところには今では石ころがあるだけ。でもこの古ぼけた肉体に残骸にも、まだ少女が住んでいて、何度も何度も私の使い古しの心をふくらませます。

 私は喜びを思い出し、苦しみを思い出す。そして人生をもう一度愛して生き直す。

 年月はあまりにも短すぎ、あまりにも早く過ぎ去ってしまったと思うの。そして何者も永遠ではないという厳しい現実を受け入れるのです。

 だから目を開けてよ、看護婦さん、目を開けてください。

 気むずかしいおばあさんではなくて、『私』をもっとよく見て!」

(認知症で生涯を終えたイギリスの女性(ヨークシャー・アシュルティー病院)の遺品の中から見つかった一編の詩)

(ヨークシャーの風景です)

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お殿様料理

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 江戸時代には、諸藩に、独自の教育機関である「藩校(藩黌)」がありました。米沢藩の「興譲館」、熊本藩の「済済黌」、水戸藩の「弘道館」などが有名です。平成から令和の時代になって、各藩のお殿様の子孫を集めて、第十八回の「藩校サミット」が、今年11月20、21日、お隣の壬生町の城址公園ホールで開かれました。

 壬生藩には、初代の鳥居忠英(ただてる)によって創立された学問所があって、後に「学習館」と呼ぶようになったそうです。今回、二十九名のお殿様の当主が参加されています。『 summit はないのでは!』、『背広姿もどうでしょう?』など、石高(こくだか)順に、雛壇の上に並んだのでしょうか。

 その趣旨は、『江戸時代に藩校で行われていた教育・精神を再認識し、現代に生かそう!』と言うものです。藩校での学びは、漢籍の中国の古典を学び、壬生藩では「朱子学(南宋の朱熹の教え)」が学ばれていたのだそうです。儒学の一派で、あの新井白石は、この教えの優れた師でした。

 朱熹の教えが、21世紀に当てはまるかどうかは、ちょっと時代錯誤なのかも知れませんが、日本の大学に「朱子学科」がないところを見ると、研究対象にはなっても、もう一度封建制度を導入することもあり得ませんから、研究主題にするのは好いかも知れませんが、若者に学ぶようには願いません。在華中、朱熹が過ごしたと言う村を訪ねたことがありますが、あんな山奥にいたのかと驚きました。

 それで、家内が壬生町の獨協医科大学病院に通院していますので、壬生ニュースが入ってくる機会が多いのですが、その中に、「壬生御殿様料理」、今年になったら「御姫様料理」が町内の食事処で出されるようになっているのだそうです。

 初代藩主が、徳川家康の竹馬の友だったからでしょうか、けっこう贅沢ができる豊かな藩だったのでしょう。日光東照宮に参内した将軍の江戸への帰り道の宿舎になった城ですから、残された献立表は御馳走だったことでしょう。

 その献立表をもとに、地元の料理人が作った料理だそうです。

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 このお殿様の食べた料理のことを考えていたら、米沢藩の藩主・上杉治憲(鷹山)のことを思い出しました。この方は、高鍋藩主の子でしたが、十七歳で米沢藩の藩主になっており、藩改革を断行しています。遊郭、女郎屋を領内に無くしたり、自らも謹んで生きたのです。先代の藩主に男子がいないことで、姫に婿入りしています。夫人は、房事のできない障碍を持っておられて、子を産めなかったので、ただ一人の妾を持って、後継を得たのだそうです。それでも正妻として、三十ほどで亡くなるまで、深く真心をもって、夫人を愛したそうです。

 上杉治憲は、絹ではなく麻布の衣服を着て、「一汁一菜」の食生活を常としていたそうです。農村改革もし、質素を旨として生き、三十代半ばで、この家督を子に譲って隠居してしまいます。1822年(文政五年です)に亡くなった時、その死を悲しむ領民の葬列が、領内に尽きなかったほどに、領民に慕われたお殿様でした。

(旬香の「お殿様料理」、「100年前の食事」です)

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埼玉県

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 長男家族が住んでいて、中国にいる間中、彼と住所を同じにしてもらったので、家内と二人、しばらく埼玉県民でした。中学校の同級生や上級生が、飯能や東村山から来ていて、何度も国分寺から西武線に乗って出かけたことがあります。どこの駅だったか忘れてしましたが、埼玉県下の乗り換え駅で、停車中の電車の最後部の車掌室に入り込んで、ドアーの開閉ボタンを操作してしまって、こっぴどく車掌や駅長に叱られたことがありました。

 車掌室で、どう言った手順で操作するのか、幼い頃から、興味津々で見て知っていたので、two cushion (二段階)で上から下へ、下から上にボタンを入れ替えるのです。お客さんの乗り降りがなかったので、ドアーに挟まったりしないですんだのは、幸いでした。蛇腹(じゃばら)の制服を着ていたので、どこの中学生かが分かっていたのですが、警察にも学校にも通報されず、ただ厳重注意で済んでしまいました。突拍子もない悪戯小僧でしたが、バスケットボール部で、埼玉の American school  に、中学校の日米親睦の練習試合に行った時でした。そんな関わりが、埼玉県とありました。
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 河岸段丘の「長瀞(ながとろ)」は、中学校の遠足で出かけたことがありました。荒川の流れの侵食による景観は、大正時代に天然記念物に指定されて以来、関東圏の研究者や観光客には人気の地形を誇っています。先日も長男家族が、ここを訪ねたとかで、数葉の写真が送られてきました。

 徳川幕府の親藩で、重要な位置をしめていた「川越」が、ここ栃木や佐原(千葉県)と同じように、「小江戸」と呼ばれて、江戸時代には栄えていました。東京からは江戸が消えてしまったのですが、栃木や佐原に並んで、江戸を感じさせてくれる街並みが、この川越には残されていて、観光客を呼んでいます。ここに「年金事務所」があって、年金の受給申請のために何度も通いました。

 かつては、「武蔵国」で、「さきたま」と呼ばれたのが、「埼玉県」です。江戸からも近かったので、荒川の「舟運」が、利根川、渡良瀬川、巴波川の舟運の栃木と同じで、栄えていたのです。志木市役所のそばにも、「河岸」跡が残されているのを見つけたことがあります。

 さらに志木の北に「行田市」があって、古墳群の街として有名です。隣の熊谷には、家内の従兄弟が住んでいて、行田を通過すると、首を長くして古墳を見ようとしますが、秩父鉄道の駅からは、距離があって見ることができませんでした。
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 そこには「埼玉県立さきたま史跡の博物館」があって、出掛けてみたくてウズウズしています。その稲荷山古墳から、1968年に、「金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)」が出土して、大騒ぎになったことがありました。百十五の文字が、「金象嵌(きんぞうがん)」で刻まれています。また、1873年(明治6年)に

、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある「江田船山古墳」からは、「銀象嵌の銘文を有する鉄刀」が出土していました。

 「辛亥年七月中」と刻まれていますから、紀元471年(531年説もあります)に当たるようです。中国では、「宋」の時代、ヨーロッパでは、東ローマ帝国の時代で、皇帝レオ1世の晩年の頃です。日本の歴史は、残念ながら文書による記録が残されていないのです。庶民は同じように生産に携わり、生活をしており、一方豪族たちは、権力闘争などが繰り広げられていたのでしょう。

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 埼玉と熊本とは、相当な距離があるのですが、同じような剣が出土しているには、交流があったことを証明しています。どんな関係があったのでしょうか、興味津々です。物言わない遺物からは、まあ想像する以外に何もできないわけです。古代の日本人の営みが、一部分でも知ることができたことは、素晴らしいことです。

 21世紀、ここ埼玉県は東京経済圏で、県との境界線を超えた緊密な関係が、とくに東京都との間にあります。長男はお茶の水に通っています。私鉄が、地下鉄と相互乗り入れで、横浜の中華街まで、乗り換えなしで通勤通学可能です。

 律令制の下で「武蔵国」の北部にあたります。今では、人口735万人を数え、全国規模で第4位に位置しています。多くの「日本一」が、埼玉県にはあるようです。教育熱が熱いのでしょうか、「学習塾」、「教育費の割合」、「図書貸出数」などが最多です。学習の余暇に食べたくなりそうな、「アイスクリーム」、「ケーキ」などの消費が多いのだそうです。

 じっくりと落ち着いて住んだ覚えがないので、住んだ実感がないまま、栃木県民になってしまいました。長く住んだ中部の街から、野球小僧の長男、弟妹、友だちを車に乗せて、所沢にある西武球場に何度も何度も西武戦を観に行ったことでしょうか。東京ドームには、行かずじまいでした。
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