萬朝報

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 新聞を読まなくなって、ずいぶん経ちます。父は、巨人フアンでしたから、「読売新聞」を購読していましたので、四人の父の子は、同じ「読売新聞」を読んでいたのですが、今はどうでしょうか。友人の息子さんが、新聞記者になったのを知って、「毎日新聞」を購読して、中国への留学を機にやめて以来、新聞を読まないのです。

 あの新聞の紙とインクの匂いが懐かしいのですが、今では NEWS は、ネットで読みますし、ラジオで聴くようになって、そのままでいます。世界的に〈紙離れ〉の時代になって、どこの国で、新聞の発行部数が激減し、新聞社自身も少なくなっているようです。

 1892年(明治)に、「萬朝報(よろずちょうほう」が、黒岩涙香によって創刊されました。なぜ「萬朝報」かと言いますと、内村鑑三が雇われて記者として、短期間ですが、記事を書いていたからです。gossip 記事の新聞で名を上げて、ある時期、東京一の発行部数を誇った時期がありました。

 テレビが始まった草創期に、「事件記者」のNHKの番組があり、人気を博していたのです。東京警視庁に詰めて、取材をする、テンポの良い番組で、各新聞社の取材合戦が面白く、新聞記者になろうかと思ったほどでした。あの「スーパーマン」も新聞記者だったでしょうか。

 この新聞には、「三面記事」という用語があって、一面が政治中心で、二面が文化や経済欄でしたが、三面は様々な事件の顛末が記されて、多くの読者が、この三面の scandalous な内容を最初に開くのだそうです。発行当時に新聞は、四面でしたから、そんな呼び名があったようです。その先駆となったのが、この「萬朝報」だったそうです。

 そんな gossip 記事の新聞の記者に、どうして内村鑑三が従事したのが意外なのです。有名な「不敬事件」の後、第一中学校の教職を追われた内村を招いたのが、黒岩涙香だったのです。その当時の内村を、高崎哲郎氏(元NHK記者)が、次にように記しています。

 『内村は明治30年(1897)以降降、黒岩涙香(くろいわるいこう)発刊の新聞「万朝報」での明治薩長藩閥政府批判などの辛辣(しんらつ)な論説活動によって、マスコミの寵児となり知的青年層(東京帝大、高等師範(現筑波大学)、高等女子師範(現お茶の水女子大学などの学生ら)の心をとらえた。眠れる獅子が立ち上がり咆哮(ほうこう)しだしたのである。内村はジャーナリストとしての才能も豊かだった。』

 日露戦争に対し、非戦論の立場をとる内村は、「戦争廃止論」を記します。『余はキリスト教の信者である。しかもその伝道師である。そうしてキリスト教は、殺すなかれ、汝の敵を愛せよと教うるものである。しかるに、もしかかる教えを信ずる余にして開戦論を主張するがごときことあれば、これは余が自己を欺くことである。』と記し、黒岩と立場を異にしたので、万朝報を退社してしまいます。その戦争で、87000名もの貴い戦死者を出し、当時の20億円ほどの戦費を費やしたのです。

 節を曲げて、戦争に加担していた新聞が、敗戦後から今日に至るまで、本当に、真実や事実を伝える、新聞本来の役割を果たしているかは疑問です。時々、図書館に行った時に、全国紙と地方紙を読んだりします。やがて、新聞は無くなってしまうのでしょうか。

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箱根

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 1901年(明治34年)、作詞が鳥居忱(まこと、本名は忠一)、作曲が瀧廉太郎による「箱根八里」は、明治後期の「中学唱歌」でした。作詞者の鳥居忱は、栃木市の隣の壬生町に、江戸時代にあった壬生藩の家老の子で、江戸の上屋敷で誕生しています。御雇外国人教師のルーサー・メーソンから音楽を学んだ人の一人でした。その後、東大、東京学芸大学の前身の学校で学び、それらの学校で教授をした人でした。

第一章 昔の箱根

箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

第二章 今の箱根

箱根の山は 天下の阻(そ) 蜀(しょく)の桟道(さんどう)数ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
山野に狩りする剛毅の壮士(ますらお)
猟銃(りょうじゅう)肩に草鞋(わらじ)がけ 八里の岩ね踏み破る
(か)くこそありけれ近時の壮士(ますらお)

 明治期の中学生は、ずいぶん難しい日本語を学んでいたのに驚かされます。日本語って美しいのが分かりますね。維新後、近代化の中でも、随分難しい日本語を学んでいたのに驚かされます。特に、中国の故事を歌詞に加えた音楽の授業が行われていたのです。

 「函谷関」とは、中国の秦の時代の戦いが行われた場所で、それと「箱根」とを対比させているのですから、作詞者の鳥居は、函谷関を大陸に訪ねたことがあったのでしょうか。漢書を読んで、箱根を重ねて思い描いたのでしょうか。私が訪ねた箱根は、実に素晴らしい景観の地で、初めて行ってから、とても気に入ってしまったのです。車で行ったのですから、険しさの実感はありませんでした。

 中国のサイト「百度baidu」で、函谷関を調べてみますと、
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 いかがでしょうか。箱根の険しさに比べますと、函谷関は、黄土地帯の乾燥した地帯ですから、共通したものを感じないのですが、「万丈の山」、「千仞の谷」と謳われていますが、正月に大学生たちが駆け上り、駆け下りることができるほどなので、歌詞は、ちょっと誇張しているかも知れません。

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四川省の嘉陵江の断崖に、「蜀の桟道」が、復元されて、今でも残されています。その明月峡を歩く様子を写した写真があります。崖を抉って造った桟道と崖に穴を掘り、穴に杭を差し、杭の上に板を並べて造られたものです。命知らずの観光客に人気です。その「桟道」を、日本人は、中国の読み物で知っていたことになります。

 やはり、かつての日本人は、中国に学び、中国に憧れていたのでしょう。後になると、日本人はアメリカに学び、アメリカに憧れるようになります。イエローストンには行ったことがありますが、グランドキャニオンは行かずじまいです。時代が下っていたら、それらの地名が詠み込まれたかも知れませんね。鳥居の出身の壬生は、関東平野の北、平地で黒川のほとりの城下町でした。

 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22章6節)」

 この箱根で、《日本の夜明け》、明治期の若者たちが、内村の勧めを聞いて、新しい価値観や人生観を身につけて、各方面で活躍していく人の「心」が養われたのは、素晴らしいことでした。明治27年の「キリスト教青年会第7回夏季学校」でのことは、「後世への最大遺物」に記録されています。新しい勧めに、胸躍らされた出来事が、鬱蒼とした「杉並木」の箱根でのことでした。

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秋の遠足

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 線路の上の車両を人の力で動かす交通機関のことを、「人車鉄道」と言いました。建設経費の安さ、維持費の軽さ、運行の簡単さで、基幹鉄道への接続を目的とした小規模な地域密着の路面交通機関を、そう呼んでいたそうです。明治から大正初めにかけて、とくに東日本を中心に運行されていたそうです。

 栃木市の北部には、石灰石を産出する「鍋山」があって、江戸時代から採掘されていました。それを輸送するために、「鍋山人車鉄道」が、1900年(明治35年))に敷設され、運用が開始しました。質の良い石灰を運ぶため、鍋山の門沢(かどさわ)と両毛線栃木駅間にできたのです。全長15.9キロ、貨車30両、客車8両で鍋山門沢の海抜150mと栃木駅の海抜42mとの勾配を活用しての運行だったそうです。

 この石灰石の鍋山の奥に、出流山(いづるさん)があります。ここで、明治維新の前年の1867年に、尊皇討幕をかかげる志士と幕府軍との間で戦闘が行われたと、歴史が伝えているそうです。それを、「出流山事件」と言います。栃木県下でも、かつては、薩長軍と幕府軍との戦いがあったそうで、その志士たちは、下総や上野などからもに集まっていたようです。

 そんな歴史のある、「出流山」に、市営の「ふれあいバス」に乗って、紅葉を観るのと蕎麦を食べるために出かけてきました。去年の秋に、この近くの「星野遺跡」を訪ねたのですが、その沢違いの集落でした。昭和45年に発会したとおっしゃっていた「宝壽(ほうじゅ)会(老人倶楽部)」に、家内と二人で入会した記念だったのです。「勤労感謝の日」の今日、14名で出かけました。90歳の元県職員の方を筆頭に、会長の床屋さん、元洋服屋さん、現役の土建屋さん夫妻、その他ご婦人方とご一緒しました。

 先ごろ奥様を亡くされた、85歳の床屋さんは、お父さまが、都会からの疎開児童の散髪で、その出流の近くの村にでかけて来たことがあったのだそうです。ご婦人たちも、ラジオ体操を一緒にしている方たちが何人も一緒でした。利根川、渡瀬川、永野川の源流の出流川の美味しい水で、近くで採れる蕎麦を打っていて、こちらでは名物なのです。

 秋晴れの一日を、まさに小学校の頃のように、《遠足気分》で過ごせて感謝でした。外に出て、人と交わろうとする家内の心意気が、素晴らしいなと思ったのです。余所者の私たちを、暖かく迎え入れてくださって、バス代も蕎麦代も、会費の中で賄うのだそうです。地域で孤立してはいけないので、地域積極参加型の今を生きております。

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mentor

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 私には、mentor  (日本語で「師匠」と訳すのが一番好きです)がいました。この方の好物は、コーヒーでした。しかも高級品種の《ブルーマウンテン》だったのです。彼といるときには、必ず私の分もミルで挽いて淹れてくれました。生活が安定してきたら、ブレンドや特売品でなく、『俺も、《ブルーマウンテン》を、いつか飲もう!』、これが夢で、今日まで生きてきました。

 8年間、一緒にいて、様々なことを教えていただき、その後、この方が、神奈川や京都、札幌などに移られてからも、訪ねたり、招かれたり、交わり会に共に集って、相談相手になってくださった方です。どう妻を愛するかも教えられたのです。

 アメリカのジョージア州の出身で、ジョージア工科大学を出て、空軍のパイロットをされていた経歴をお持ちでした。テキサス州から、日本宣教に出かけた方と出会って、彼も献身して、日本宣教を志し、二十代で来日されたのです。

 日本語が上手で、日本語で教理や神学を、聖書から教えてくれました。九つ違いで、今日「勤労感謝の日( Thanks giving day )」は、この方の誕生日でした。病を得て、67歳で主の元に帰っていかれました。お元気でしたら、86歳になっておられるのです。

 いつでしたか、turkey を手に入れられたとかで、grill して、お裾分けをしていただいて、食べたことがありました。それ以来、華南の街の Subway で、sandwich に入ったものは食べたことがありましたが、あの味が忘れられなくて、『今度!』と言っているうちに時が流れてしまいました。

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 この方が、街中の burger shop で、美味しそうに hamburg を食べてるのを何度か見かけたことがありました。家内もそうだったので、けっこう頻繁に通っておられたのでしょう。まさに American taste ですから、異国で奉仕してる間の束の間、祖国の味を、ホッとしながら楽しんでいたのでしょうか。apple pie も好きでした。

 田舎の大きな電気屋さんの息子だったそうで、大学から帰省すると、お父さんは、地下の冷蔵庫に行って、吊るされている牛肉を、knife で切って、steak にしてくれたと、唾を飲み込みながら、そのお話を聞いたのを思い出します。日本で住んでいた借家は、弟さんと二人の遊び部屋の方がはるかに広かった、とも言っていました。

 大きな犠牲を払いながら、日本人に仕えてくださったのです。2年に一度帰って行かれ、support  してくれている諸教会を訪問し、宣教報告をしておいででした。この方の弟さんは、家内の姉と結婚していたので、姻戚関係でした。

 雲間から秋の日が輝き出てきて、あたりが明るくなってきました。今日は、老人会の遠足で、誘われて、山の奥のお蕎麦屋さんに行くのだそうです。カタクリや名水で有名な地なのです。お小遣いやオヤツは、いくら持っていったらいいのか、と思案中です。

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肩書き

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 出掛ける時に、必ず持って出る物がありました。財布、免許証、筆記具、名刺入れ、携帯電話、家の鍵、事務所の鍵などがあったでしょうか。退職後の今、運転免許証も失効したままですし、現金を使わない時代になったので財布も持って出ません。携帯電話も家の電話を置いていないので、家内と共用で、ほぼ家に置いたままでにしてあります。

 人に会わなくなったので、もう名刺も必要なくなって持っていません。何しろ肩書きがなくなってしまったので、必要のある時には、裏白の広告や広報を、名刺大に切って、そこに、名前、携帯電話番号、email address を手書きで書き込んで、人に渡すくらいの今です。

 まさか帰国することなど考えていなかったのですが、急遽、家内の病気治療のために帰国したのですが、その2ヶ月前ほどに「名刺」を200枚ほど印刷したのですが、持ち帰った荷の中にあったのを、処分してしまいました。交換した名刺も、もう会うこともなさそうなみなさんのものを、先日処分してしまいました。

 【ナイナイ】の今は、ちょっと寂しさを感じることがあります。よく昔は、「◯◯さんの弟さん。』、その後は『◯◯さんのお父さま。』と言われ、今では『◯◯さんのお爺ちゃん!』と呼ばれています。人には、社会的に〈所属の欲求〉があって、それが満たされないと不安になってしまうのだそうです。

 それででしょうか、ある方は、昔使っていた名刺の、会社名や役職名などの印字に二本線を入れて、いただいたことがありました。日曜日の朝に、近所のみなさんと、「ラジオ体操」をしているのですが、顔を覚えているだけで、名前を覚える必要もなくて、おばあちゃん、おじいちゃんですみそうで、お仕事をしている方は、〈床屋のわか◯さん〉、近所の方は、苗字ではなく、『◯◯ちゃん』と呼ぶ仲なので、一度聞いただけでは覚え切らないでいる今日この頃なのです。それに、みなさん〈マスク〉を開いてますので、新参な余所者の顔も覚えてもらえない実情です。

 日帰り入浴施設に行って、何も身につけない裸になると、ホッとします。そこは〈黙浴〉がきまりで、みなさんダンマリと湯に浸かっておいでで、ネクタイも背広も名札もつけていない裸同志で、過去の立場や緊張した顔つきなど不要な場で、会釈だけが交わりの手段で、時々体が触れて、『すみません!』というくらいでしょうか。そこのよさは、〈マスク不要〉で、素顔や表情が見えることです。

 きっと以前は、社長さんや部長さんや教授や校長だったかも知れません。名刺交換もないし、威嚇も睨みも飾りもいらないし、実に平等な世界だなと思うのです。手術痕の多い私は、驚かせないために、そこを隠しながら入浴をしています。

 ところで、今の私の最高の「肩書き(Title)」があるのです。《神の子》、《義》、《聖》であります。稼いだのでもなく、恵みによる三重の「賜物( gift )」なのです。神の御手で印字されていて、決してだれも消せないのです。

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御翼の陰

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♯ なが瞳のように守り 死ぬことのないように  

御翼の陰に われをかくまいたまえ ♭

 昨晩、想いに中に、ずっと繰り返されていた chorus  でした。聖書のみことばに、melody をつけたものです。

 『私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。(詩篇178節)』

 これは、旧約の聖徒、ダビデの祈り、賛美です。どんな堡塁も、砦も、人の作ったものの中に、自分は守られないことを知っていたダビデは、万物を創造し、保って、支配しておられる神、主なる神が自分を守ってくださることを確信していました。その絶対的な信頼を、そう告白したのです

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争い、そして和解

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『これらのことはすべて、神から出ています。神は、キリストによって私たちをご自分と和解させ、また、和解の務めを私たちに与えてくださいました。(2コリント5章18節)』

 華南のわが家のベランダの真下に、バス通りに垂直に交差する「T字路」が見えました。ある朝、一台の自転車が、信号で止まっていた車と車の間から飛び出して、バス通りから交差点から右折して入って来た車と接触事故を起こしたのです。自転車の荷台の積荷が投げ出されただけで、人身事故にはなりませんでした。それで、路線上に、車と自転車を止めて、大きな声を張り上げて、自己主張と相手を非難する声が上がっていました。

 こういった光景を、よく見たのですが、南に住む人たちは、どんなことがあっても、手を出して殴り合うことをしなかったのです。実に激しい口喧嘩だけで済ませてしまいました。ところが、天津に一年いた間に、男対男、男対女、女対女が、殴り合いをし、路上や菜市場(market)の中などで、組んず解(ほぐ)れつ、上になったり下になったりして喧嘩をする様子を、何度も見ていました。そして南に越して来たのでが、そう言った巷間の争いを一度も見たことがなかったのです。ですから、その南北の地域性の違いに驚いていました。

 言い合っている言葉が、華南の方言ですから、内容は分からないのですが、あんな風に激しく言い合うと、日本人ですと、きっと手が出てしまうに違いありません。よく、『かヤロー!』という言葉が使われると、『何おー!』と、瞬間的に殴り合いになる傾向が強い様です。よく喧嘩というか、殴り合いを、自分がしたことが、若い時にありましたが、いつもそう言った風で、血気盛んだった過去を恥じます。

 アメリカ映画を見た時にも同じでした。もちろん、西部劇では、酒場で殴り合いが必ずあって、酒瓶を投げたり、椅子を持ち上げて使う場面が、見せ場としてあるのですが。題名は忘れたのですが、長い航海に乗り合わせた船客同士が、船内の狭い世界で、ストレスが溜まるのでしょうか、政治信条の違いでしょうか、時々揉め事が起こるのです。そして激しく詰(なじ)り合うですが、鼻と鼻を擦り付け、肩と肩をぶっつけ合うのですが、「拳(こぶし)」は、体の後ろの腰あたりで、両手を結んでいて、拳を握らないし、使わないで、言い合うだけだったのです。

 中国人(南方の人)とアメリカ人、これに対する日本人の違いや似たことは、「言葉」に対する捉え方の違いなのでしょうか。「自己主張」の上手下手なのでしょうか、状況を言葉で言い表して、上手に相手の過失を非難し、自己弁護をする、「言葉の使用能力」の違いなのでしょうか、そんなことを考えてしまいます。

 「五一五事件(1932年5月15日に起きた青年将校らによる反乱事件)」で、激した青年将校たちが、殺そうと銃を向けた時に、『話せば分かる!』と言ったのが、時の総理大臣の犬養毅首相でした。銃弾を受けた犬養首相は、『いま撃った男を連れてこい。よく話して聞かすから!』と言って、最期まで「言葉」で説得しようとしたそうです。しかし、名相はその銃弾に倒れてしまったのです。

 この犬養首相は、福沢諭吉が始めた「慶應義塾」に学んだ方でした。この慶応の校章は、ペン先が二本交差する図案で、その意味は、「ペンは剣よりも強し」です。76歳で銃弾に倒れた犬養首相が言った、『話せば分かる!』と言った言葉は、若き日に学んだ、学校の建学理念や精神の影響なのでしょうか。

 もう百年も前の出来事ですが、21世紀は、もっと短絡的になって、衝動的になってしまっているのではないでしょうか。若者がキレるだけではなく、高齢者やご婦人がキレる事件が多くなっています。物が豊かになって、物を持つことで満足する人が多くになって、人対人が、物対物の無機質になったり、神経過敏になって、交わり方が下手になっているようです。昨今、〈切れる刃物〉を振るう者が多くなってきています。

 〈不正に対して事実だけを言う〉がいいのだそうです、責めたり、なじったりしては厄介なことが起こるから厳禁です。さまざまな争い、不和、喧嘩には、《和解》、《赦し》、《平和》が必要です。神と和解し、神に赦されても、人とも和解し、赦されなければなりません。

(「イラストAC」からです)

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神奈川県

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 父の出身は、神奈川県横須賀市でした。旧制の横須賀中学校に、『試験官の前で、教育勅語を暗唱したら、合格にしてくれたよ!』と、父一流の言い方を面白く話してくれたことがありました。旧日本海軍の技官を祖父に持つ、軍人の家庭で生まれ育っています。武士や軍人の家庭らしく、ずいぶん厳しく躾けられたのだ、と言っていました。曽祖父は、日本が、軍艦をイギリスから購入する時には、その使節団の一員だったのだそうです。

 その時、羊毛の毛布を買って来て、父の家にしまわれてあったのです。肺炎に罹って、死にそうになった私に、冷えないように体を温めるために、それを横須賀に行って持ち帰って、入院した私にかけてくれた父でした。父の義母の葬儀に、なぜかp三男の私を連れて行ってくれました。

 そんなで、父の生まれ育った横須賀、神奈川県は、生まれた県、育った県についで思い入れのある県なのです。すぐ上の兄と弟で、叔母と従兄弟の住む、父の生家を訪ねたことがあります。私が華南の街から帰国した時、兄たちに誘われてでした。叔母から、父の昔話を聞きたかったのですが、あまり聞き出せず、残念だったのです。帰りに、「三笠」と言う旧海軍の軍艦が停留されて記念館になっていて訪ねたり、お昼にお寿司をご馳走になったのに、名物の「横須賀カレー」、そして焼き鳥を食べたのです。

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 旧軍港を遊覧する船にも乗ったのです。父が中学生の時、その浦賀水道を遠泳したそうで、父の「垂乳根の故郷」が、本当に自分の故郷のような思いにもされたのです。かつて征夷大将軍になった源頼朝の家来だったとかでしたが、今になると、『それが何なの?』の父唯一の自慢話でした。この街に教会があって、『親爺が連れて行ってくれたよ!』なのだそうで、『主われを愛す 主は強ければ 我弱くとも 恐れはあらじ・・・』を愛唱する父でした。

 高校の頃、県下の湯河原に海水浴で一夏遊んだことがありました。上の兄の同級生のお父さんの会社が借り切っていた家に、兄に連れて行かれて、食事やおやつや飲み物付きで、2週間も水泳三昧だったのです。早朝、浜で網にかかった小アジを買って、親指でお腹を裂いて、わさび醤油で食べさせてもらった味が、今も思い出されます。

 相模川の上流に、受験期に、四、五人で出かけて、川遊びをしたりで、受験の圧力から逃れた時がありました。結局、特別な受験勉強などしないまま進学してしまいました。今思うに、進学したから、どこどこ大学に入れたから、何をやってきたかなど、まるで大きな問題でも、決断でもなかったのだと思わされています。これからを思う日々に、様々に思い出しています。

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 横浜にある大きなデパートで、「鏑木清方(かぶらききよかた)展」が開かれた時、『会場警備のアルバイトがある!』と横浜在住の友人に誘われて、学生服を着て、展示場の警備をしたことがありました。優しい筆で女性を穏やかに描いていて、浮世絵師の流れを汲む、その高名な日本画家の絵に圧倒されました。鏑木清方は、晩年を鎌倉で過ごしています。

 私は、明治学院で学んだのですが、ローマ字を紹介し、医師であったヘボン(Hepburn )は、神奈川宿の成仏寺に、幕府の監視のもとに住みます。『毛唐を切り捨てる!』と、用人として紛れ込んだ暗殺者が、仕える内に、ヘボン、その人格の高潔さに、暇乞いをして去ったと言う逸話が残されています。その横浜に、男女共学の「ヘボン塾」を開き、それを母胎にして、築地に用地を得て、「明治学院」を開学しています。

 下の息子を連れて、小田原に行ったこともありました。北条氏の小田原城(改築)の天守閣に登って、「相模国(さがみのくに)」を眺め、相模湾に目をやった思い出があります。日本史を学んだ者として、明治維新を遂行した薩長軍が、徳川幕府を支持した藩の城を焼き払ったり、解体してしまったことは、愚行でした。歴史的な建造物を破壊してしまったのは、あの日のタリバンと同じで、組織は倒しても、歴史的な遺跡となるべきものを保護しなかったのは極め付けの愚かなことでした。

 そういえば、箱根で、親しく交わりをしていた諸教会の「聖会」が行われて、何度か参加しました。内村鑑三は、「夏季学校」で、「後生最大遺物」に説教を、大勢の若者に向けて語り、どう生きるかを説いたのです。『  ♯ 箱根の山は天下の剣』と歌われた東海道に関所付近は、素晴らしい経験の地で、何度行っても美しいと思わされました。小学校の担任が、江戸幕府の教えの中で、〈出女入り鉄炮〉を警戒していたのだと学んだのが、妙に印象に残っています。『関所役人が目を光らせていたんだろうな!』と思ったものです。

 人口924万人で、県民気質として、好意的であっても爆ても。次のような点が挙げられています。

1  かっこつけが多い  見栄っ張り  3  プライドが高い  4  出世欲があまりない  5  趣味や遊びが大好き  6  社交的  7  せかせかしていない

 父のことを思い出して、父もこの七点に近いのではないでしょうか。と言うことは、父に似た自分の優点であり、劣点であるかも知れません。これで生きて、他の人に迷惑をかけないように生きて来たので、人生及第ではないでしょうか。

(「横須賀カリー」、「鏑木清方」の絵です)

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老病

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 春間近かに「東風(こち)」、夏になると「いなさ」、『秋風が吹く!』と、よく言われ、夏が終わって、肌寒い季節の到来を告げる、風が運んでくる季節の詩的な描写です。もう「小嵐(木枯らしにおなじ)』も吹こうかとしている11月なのですが、暖かな日が続いています。

 季節の変わり目、腰痛が起こりました。中国語に、「老病laobing」という言葉がありますが、〈年寄りの病い〉を言うのではなく、「持病」のことを言っています。道路の角地に教会の建物がありました。その回りにある側溝の掃除が春先になると、自治会でいっせいに行われていました。毎年出ては、近所のみなさんと一緒になって〈どぶさらい〉をしたのです。側溝を跨いで、コンクリートの分厚い蓋を、手で上げた時に腰を痛めてからでしょうか、季節の変わり目に、この老病が出てくるのです。

 高校で、groundや道路をずいぶんと走らされましたので、それもあっての腰痛でしょうか。また夜間の床清掃の仕事を長年しましたので、それも原因かも知れません。世に〈腰痛持ち〉ってけっこう多いのだそうで、〈季節の変わり目に〉が惹き起こさせるのです。

 立っていられないような時もありましたが、今は軽症、と言うよりは、やって来そうな時期になると、娘の買ってくれた《腰band 》を、箪笥の底から出して、巻くのです。今季は、家内の勧めで新手の対策をしています。。「ホッカイロ」を腹巻につけましたので、温められるので具合がいいのです。今冬は、酷くならないと信じております。


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 腹巻と言えば、映画の見過ぎでしょうか、六尺のサラシの白布を腰だかお腹だかに巻いていた時期があります。コツが必要なのでしょうか、慣れないもので、上手に巻けないのです。太っていませんでしたから、いつもづれ落ちいるうちに、しなくなってしまいました。

 一緒に働いた方の家を訪ねた時、腰痛に苦しんでいる友を見て、その酷さに驚かされたことがあります。私を迎えるために、玄関に這って出て来られたのです。若い頃に、「碍子(がいし)」の会社で、重い物を運んでいて腰を痛めたそうで、それで会社を辞めておいででしたが、四十過ぎても、まだ腰痛に苦しんでおいででした。電気の送電線の鉄塔に、絶縁のための白い陶器の部品がありますが、それを「碍子」と言います。

 きつい仕事や sport をした人は、加齢と共に、体の不調が出てくるのでしょうか。怠けて生きる方が、身体が長持ちするのかも知れません。でも春風が吹く頃になると、心だけではなく、体が喜んできます。その前には冬を過ごさねければなりませんが。

(「碍子」と「ファイテンサポーター」です)

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