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新聞を読まなくなって、ずいぶん経ちます。父は、巨人フアンでしたから、「読売新聞」を購読していましたので、四人の父の子は、同じ「読売新聞」を読んでいたのですが、今はどうでしょうか。友人の息子さんが、新聞記者になったのを知って、「毎日新聞」を購読して、中国への留学を機にやめて以来、新聞を読まないのです。
あの新聞の紙とインクの匂いが懐かしいのですが、今では NEWS は、ネットで読みますし、ラジオで聴くようになって、そのままでいます。世界的に〈紙離れ〉の時代になって、どこの国で、新聞の発行部数が激減し、新聞社自身も少なくなっているようです。
1892年(明治)に、「萬朝報(よろずちょうほう」が、黒岩涙香によって創刊されました。なぜ「萬朝報」かと言いますと、内村鑑三が雇われて記者として、短期間ですが、記事を書いていたからです。gossip 記事の新聞で名を上げて、ある時期、東京一の発行部数を誇った時期がありました。
テレビが始まった草創期に、「事件記者」のNHKの番組があり、人気を博していたのです。東京警視庁に詰めて、取材をする、テンポの良い番組で、各新聞社の取材合戦が面白く、新聞記者になろうかと思ったほどでした。あの「スーパーマン」も新聞記者だったでしょうか。
この新聞には、「三面記事」という用語があって、一面が政治中心で、二面が文化や経済欄でしたが、三面は様々な事件の顛末が記されて、多くの読者が、この三面の scandalous な内容を最初に開くのだそうです。発行当時に新聞は、四面でしたから、そんな呼び名があったようです。その先駆となったのが、この「萬朝報」だったそうです。
そんな gossip 記事の新聞の記者に、どうして内村鑑三が従事したのが意外なのです。有名な「不敬事件」の後、第一中学校の教職を追われた内村を招いたのが、黒岩涙香だったのです。その当時の内村を、高崎哲郎氏(元NHK記者)が、次にように記しています。
『内村は明治30年(1897)以降降、黒岩涙香(くろいわるいこう)発刊の新聞「万朝報」での明治薩長藩閥政府批判などの辛辣(しんらつ)な論説活動によって、マスコミの寵児となり知的青年層(東京帝大、高等師範(現筑波大学)、高等女子師範(現お茶の水女子大学などの学生ら)の心をとらえた。眠れる獅子が立ち上がり咆哮(ほうこう)しだしたのである。内村はジャーナリストとしての才能も豊かだった。』
日露戦争に対し、非戦論の立場をとる内村は、「戦争廃止論」を記します。『余はキリスト教の信者である。しかもその伝道師である。そうしてキリスト教は、殺すなかれ、汝の敵を愛せよと教うるものである。しかるに、もしかかる教えを信ずる余にして開戦論を主張するがごときことあれば、これは余が自己を欺くことである。』と記し、黒岩と立場を異にしたので、万朝報を退社してしまいます。その戦争で、87000名もの貴い戦死者を出し、当時の20億円ほどの戦費を費やしたのです。
節を曲げて、戦争に加担していた新聞が、敗戦後から今日に至るまで、本当に、真実や事実を伝える、新聞本来の役割を果たしているかは疑問です。時々、図書館に行った時に、全国紙と地方紙を読んだりします。やがて、新聞は無くなってしまうのでしょうか。
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