箱根

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 1901年(明治34年)、作詞が鳥居忱(まこと、本名は忠一)、作曲が瀧廉太郎による「箱根八里」は、明治後期の「中学唱歌」でした。作詞者の鳥居忱は、栃木市の隣の壬生町に、江戸時代にあった壬生藩の家老の子で、江戸の上屋敷で誕生しています。御雇外国人教師のルーサー・メーソンから音楽を学んだ人の一人でした。その後、東大、東京学芸大学の前身の学校で学び、それらの学校で教授をした人でした。

第一章 昔の箱根

箱根の山は 天下の険 函谷関(かんこくかん)も物ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
天下に旅する剛毅(ごうき)の武士(もののふ)
大刀(だいとう)腰に足駄(あしだ)がけ 八里の岩ね踏み鳴らす
(か)くこそありしか往時(おうじ)の武士(もののふ)

第二章 今の箱根

箱根の山は 天下の阻(そ) 蜀(しょく)の桟道(さんどう)数ならず
万丈(ばんじょう)の山 千仞(せんじん)の谷
前に聳(そび)え後(しりえ)に支(さそ)
雲は山をめぐり
霧は谷をとざす
昼猶(なお)(くら)き杉の並木
羊腸(ようちょう)の小径(しょうけい)は苔(こけ)(なめら)
一夫関(いっぷかん)に当るや万夫(ばんぷ)も開くなし
山野に狩りする剛毅の壮士(ますらお)
猟銃(りょうじゅう)肩に草鞋(わらじ)がけ 八里の岩ね踏み破る
(か)くこそありけれ近時の壮士(ますらお)

 明治期の中学生は、ずいぶん難しい日本語を学んでいたのに驚かされます。日本語って美しいのが分かりますね。維新後、近代化の中でも、随分難しい日本語を学んでいたのに驚かされます。特に、中国の故事を歌詞に加えた音楽の授業が行われていたのです。

 「函谷関」とは、中国の秦の時代の戦いが行われた場所で、それと「箱根」とを対比させているのですから、作詞者の鳥居は、函谷関を大陸に訪ねたことがあったのでしょうか。漢書を読んで、箱根を重ねて思い描いたのでしょうか。私が訪ねた箱根は、実に素晴らしい景観の地で、初めて行ってから、とても気に入ってしまったのです。車で行ったのですから、険しさの実感はありませんでした。

 中国のサイト「百度baidu」で、函谷関を調べてみますと、
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 いかがでしょうか。箱根の険しさに比べますと、函谷関は、黄土地帯の乾燥した地帯ですから、共通したものを感じないのですが、「万丈の山」、「千仞の谷」と謳われていますが、正月に大学生たちが駆け上り、駆け下りることができるほどなので、歌詞は、ちょっと誇張しているかも知れません。

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四川省の嘉陵江の断崖に、「蜀の桟道」が、復元されて、今でも残されています。その明月峡を歩く様子を写した写真があります。崖を抉って造った桟道と崖に穴を掘り、穴に杭を差し、杭の上に板を並べて造られたものです。命知らずの観光客に人気です。その「桟道」を、日本人は、中国の読み物で知っていたことになります。

 やはり、かつての日本人は、中国に学び、中国に憧れていたのでしょう。後になると、日本人はアメリカに学び、アメリカに憧れるようになります。イエローストンには行ったことがありますが、グランドキャニオンは行かずじまいです。時代が下っていたら、それらの地名が詠み込まれたかも知れませんね。鳥居の出身の壬生は、関東平野の北、平地で黒川のほとりの城下町でした。

 『若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。(箴言22章6節)」

 この箱根で、《日本の夜明け》、明治期の若者たちが、内村の勧めを聞いて、新しい価値観や人生観を身につけて、各方面で活躍していく人の「心」が養われたのは、素晴らしいことでした。明治27年の「キリスト教青年会第7回夏季学校」でのことは、「後世への最大遺物」に記録されています。新しい勧めに、胸躍らされた出来事が、鬱蒼とした「杉並木」の箱根でのことでした。

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