線路の上の車両を人の力で動かす交通機関のことを、「人車鉄道」と言いました。建設経費の安さ、維持費の軽さ、運行の簡単さで、基幹鉄道への接続を目的とした小規模な地域密着の路面交通機関を、そう呼んでいたそうです。明治から大正初めにかけて、とくに東日本を中心に運行されていたそうです。
栃木市の北部には、石灰石を産出する「鍋山」があって、江戸時代から採掘されていました。それを輸送するために、「鍋山人車鉄道」が、1900年(明治35年))に敷設され、運用が開始しました。質の良い石灰を運ぶため、鍋山の門沢(かどさわ)と両毛線栃木駅間にできたのです。全長15.9キロ、貨車30両、客車8両で鍋山門沢の海抜150mと栃木駅の海抜42mとの勾配を活用しての運行だったそうです。
この石灰石の鍋山の奥に、出流山(いづるさん)があります。ここで、明治維新の前年の1867年に、尊皇討幕をかかげる志士と幕府軍との間で戦闘が行われたと、歴史が伝えているそうです。それを、「出流山事件」と言います。栃木県下でも、かつては、薩長軍と幕府軍との戦いがあったそうで、その志士たちは、下総や上野などからもに集まっていたようです。
そんな歴史のある、「出流山」に、市営の「ふれあいバス」に乗って、紅葉を観るのと蕎麦を食べるために出かけてきました。去年の秋に、この近くの「星野遺跡」を訪ねたのですが、その沢違いの集落でした。昭和45年に発会したとおっしゃっていた「宝壽(ほうじゅ)会(老人倶楽部)」に、家内と二人で入会した記念だったのです。「勤労感謝の日」の今日、14名で出かけました。90歳の元県職員の方を筆頭に、会長の床屋さん、元洋服屋さん、現役の土建屋さん夫妻、その他ご婦人方とご一緒しました。
先ごろ奥様を亡くされた、85歳の床屋さんは、お父さまが、都会からの疎開児童の散髪で、その出流の近くの村にでかけて来たことがあったのだそうです。ご婦人たちも、ラジオ体操を一緒にしている方たちが何人も一緒でした。利根川、渡瀬川、永野川の源流の出流川の美味しい水で、近くで採れる蕎麦を打っていて、こちらでは名物なのです。
秋晴れの一日を、まさに小学校の頃のように、《遠足気分》で過ごせて感謝でした。外に出て、人と交わろうとする家内の心意気が、素晴らしいなと思ったのです。余所者の私たちを、暖かく迎え入れてくださって、バス代も蕎麦代も、会費の中で賄うのだそうです。地域で孤立してはいけないので、地域積極参加型の今を生きております。
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