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「二ひきの蛙」 新美南吉
緑の蛙と黄色の蛙が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」と緑の蛙がいいました。
「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」と黄色の蛙がいいました。
こんなふうに話しあっていると、よいことは起こりません。二ひきの蛙はとうとうけんかをはじめました。緑の蛙は黄色の蛙の上にとびかかっていきました。この蛙はとびかかるのが得意でありました。黄色の蛙はあとあしで砂をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂をはらわねばなりませんでした。
するとそのとき、寒い風がふいてきました。二ひきの蛙は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないのです。「春になったら、このけんかの勝負をつける。」といって、緑の蛙は土にもぐりました。「いまいったことをわすれるな。」といって、黄色の蛙ももぐりこみました。
寒い冬がやってきました。蛙たちのもぐっている土の上に、びゅうびゅうと北風がふいたり、霜柱が立ったりしました。そしてそれから、春がめぐってきました。
土の中にねむっていた蛙たちは、せなかの上の土があたたかくなってきたのでわかりました。さいしょに、緑の蛙が目をさましました。土の上に出てみました。まだほかの蛙は出ていません。
「おいおい、おきたまえ。もう春だぞ。」と土の中にむかってよびました。すると、黄色の蛙が、「やれやれ、春になったか。」といって、土から出てきました。
「去年のけんか、わすれたか。」と緑の蛙がいいました。「待て待て。からだの土をあらいおとしてからにしようぜ。」と黄色の蛙がいいました。
二ひきの蛙は、からだから泥土をおとすために、池のほうにいきました。池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。
からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、「やあ、きみの黄色は美しい。」といいました。「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」と黄色の蛙がいいました。
そこで二ひきの蛙は、「もうけんかはよそう。」といいあいました。
よくねむったあとでは、人間でも蛙でも、きげんがよくなるものであります。
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これは、新見南吉の「二ひきの蛙」です。2匹のカエルが、自分の方が色が綺麗で、違う色の相手をけなすのです。両者とも互いの違いを受け入れることができずに、なじり合い、喧嘩になります。冬が来て、2匹とも冬眠に入って、時間が経つて、「春」が来て目覚めると「和解」するという話です。
体の色の違いが、冬眠が明けると、2匹とも泥にまみれたになったままの体でしたが、水で体を洗ったのです。そうしましたら、互いの体の色がはっきりとしたのでしょう、互いに、その美しさをみとめ、褒め合う様になったのです。
学校のいじめ、国と国の争いが、人の思いを暗くし、悲しみも増しているこの時代、考えさせられる話です。ウクライナへのロシア軍の攻撃には、伏線があって、やがて、ロシア軍は地中海沿岸のイスラエルに、必ず進軍する、その序曲なのですが。この2匹のカエルの様に、和解ができたら素晴らしいのですが。
こんな話を作った新美南吉が、世に出るために、助けをしたのが、巽聖歌(たつみせいか)でした。聖歌は、クリスチャンでした。わたしたちの長男の妻は、南吉と同じ知多半島の出身でした。聖歌は、わたしが小学校からずっと生活し、上の兄と弟が今も住んでいる東京都南多摩郡日野町(現日野市)で、亡くなるまで長く住んだ街で、何か共通点があり、作品と共に近さを覚えるのです。そういった縁で、日野と紫波町(旧・日詰町)とは姉妹都市となって交流が続いているのだそうです。
どうして、人も国も、互いの存在を認め合わずに、銃をとって攻撃をするのでしょうか。こんなに賢く作られた人間が、愚かな行動をとって、結局は自分も自国も滅んでいくではありませんか。相手の素晴らしさを褒めたらいいのに、いつも邪魔をするのは、誇りなのでしょう。相手があっての自分を道めたらいいのに、そう思う百花繚乱の春、この春は必ず巡ってくるのです。
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