駅中コンサート

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 雨の日曜日の午後、東武宇都宮線・栃木駅、JR両毛線・栃木駅のconcourse で、ピアノとクラリネットの演奏会があり、家内と聴きに行きました。文化的な街が、さらに前進していけたらと願い、そのピアノの常設を喜んだのです。

 このコンサートで、“ Amazing  Grace “ が演奏されていました。奴隷船の船長が改心して、クリスチャンとされて、その救いの喜びと感謝を歌った賛美なのです。栃木の駅の concourse で、そんな賛美が高らかに響き渡っていました。

 家内は、いつか、この置かれたピアノの前に座って、讃美歌や chorus 賛美を演奏したいと願いを漏らしています。

(駅前とホームの写真は次男が帰りがけに撮りました)

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遊び

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 プロ野球の試合中に、球審が、若い投手を、威嚇するかの様な行動に出たことが、話題沸騰してやみません。思い出したのは、若き阪神のエースだった江夏が、自分の投球の判定に不服で、体当たりして球審をひっくり返して、退場への道を自分で颯爽と進んでベンチに消えた一件です。

 1973年6月12日、甲子園球場での対巨人戦で、王貞治が打者だった時でした。江夏、若干25才だったのです。これも色々と言われたのですが、若気の至りだったのでしょう。野球を愛した父や次兄は、自分でもやっていて、次兄は、東京都予選の〈ベスト16〉で、甲子園への夢を終えています。みんな野球が好きな人、する人、審判する人、球場整備する人、売り子さん、そして見る人なのです。

 観ていて楽しいですし、贔屓選手の活躍は、この歳になっても気になって仕方がありません。Professional の興業、広告などの収益で運営されていて、球団も選手も審判も球場の会社も、それで生活をしているのです。それで、細かなルールが決められていて、娯楽を提供する方も、それを受ける側も、熱くなったり、冷めたり、喜んだり、残念がったりして、楽しむわけです。

 『人間がしてることですから!』と、この一件が厳粛なことにならない様な目で、判断している方が多いのではないでしょうか。角を立てては、Sports が提供する熱狂する思いに水をかけてしまうことになってしまいます。サラリーマンが、試合の展開に一喜一憂して、勝っても負けても、さまざまに批評をしながら、明日への英気を養っている、年寄りも一喜一憂して楽しむ、これがプロ野球の一面です。

 そんなには重大で厳粛なことがなされていない世界なのです。活躍できなくなったりして、お好み焼き屋をしたり、レストランをやったりして、次の人生が、野球人には待っているわけです。それが全てではない、戦争をしているのではなく、Sports をしているのです。達川光男という捕手が、広島にいました。戯(おど)けたり、おおぎょうな手ぶり足ぶりを全身でしては、広島球場を沸かした選手でした。

 悔しさでヘルメットやグローブやバットを、グラウンドに叩きつける様なことをして、自分の感情を表す選手もいれば、貴公子然として静かにベンチに引き下がっていく選手もいます。球審も人ですから、ちょっぴり感情を表現してもいいのでしょう。詐欺をしたり、麻薬に手を出したり、黒社会と交際したりしても、罰を受け、ミソギがすんだら、きっちりと首(こうべ)をあげて、解説者になったり、穏やかに話している元選手たもと監督やコーチを見ると、ホッとします。罰だけでなく、「憐れみ」が大切かなと思うのです。

 ヨハン・ホイジンガ( Johan Huizinga )と言う、オランダの歴史家で、「ホモ・ルーデンス」と言う本を著して有名な方が、その副題に、《遊ぶ存在としての人間》と付けているのです。この人の言われた「遊び心」は、生きていく上で、緊張を解いて、「息抜き」をし、無目的であったり、それほどに重要でも厳粛でもないことに、思いを向けて、しばしの時を過ごすことが、サプリメントをあれやこれやと飲むよりも、健康に好いに違いありません。

 駅から東武鉄道の電車に乗って、南栗橋駅、押上、横浜で乗り換えますと、目の前に横浜球場の見える日本大通り駅に着きます。そうするとプロ野球を観戦できるのです。中華街によって、美味しい中華だって食べられますし、横港観光だってできます。後楽園だったら、もっと近いのです。

 もともと、元気を回復させて、心も体も元気にするのが、「遊び」だからです。テレビやラジオやyoutubeで、試合の動きを知ることだってできます。緊張の現代人には、そう言った「遊び」がぜひとも必要で、プロ野球は、それを提供してくれているのです。だから、「遊び」の中で、とんがったり、つっぱったり、厳粛にならないで、楽しんだらいいのです。

 それは人を朗らかにします。東日本大震災で、お父上をなくしても、健気に生きてきて、才能ある投手になっている佐々木朗希は、「明朗」、「希望」と、好い名を、お父上にもらったのです。『ごめんなさい!』で、なおの期待に応えて、このスポーツを面白く、楽しくして欲しいものです。

(「立川光男選手」のイラストです)

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at Ashikaga flower park

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 五月、百花繚乱の季節です。世界は悲しい出来事で溢れていますが、この時代を慰めるかの様に、自然界は元気です。

 昨日、突然訪ねてきた次男夫妻が、柏餅や餡子饅頭やミックスナッツなどを持ってきてくれ、激励してくれました。その足で、県西の「足利フラワーパーク」に出掛け、撮影したものです。先程、送信してくれた写真です。このブログに転載しました。実に色彩も被模写体も綺麗です。

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高価な人たち

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 どの社会でも同じで、名門や良い家柄、高学歴、良い職業、一等地に居住するなどによって、人の価値が測られるのは、そう言った経歴や背景に大きな価値を社会が置くからなのでしょう。『実は有名校出身なんです!』と、紹介される人がいますし、『〇〇の同窓で後輩なんです!』と誇らしく言う人もいます。『近所に△△さんが住んでいるんです!』と、何も関係がなさそうなのに、人は、そう言いたがるのでしょう。

 神さまは、そんな人の基準で、人をご覧になられないのだと、聖書は記しています。何か資格や能力を持っているかどうか、良いことをしたかどうかなどには関わらずに、わたしたちに向かって、「高価」があり、「尊い」存在で、「愛している」と言われます。万物の創造者、全天全地の統治者、罪を身代わりに贖われる救い主、いのちの付与者、罪を犯した者を赦してくださる神が、そう断言しています。

 イスラエルに、「エフタ」と言う遊女の子が出てきます(士師111)。正妻の子の男の子たちが成長した時、嫡出の子でないエフタを父の上から追い出します。父の家から逃げて出たエフタの周りに、〈ごろつき〉が集まり、彼は頭となって屈強の集団を形成したのです。イスラエルがアモン人と戦った時に、劣勢のイスラエルのギルアデの長老たちは、「首領」になってくれるよう頼みます。黒社会のエフタを、神は用いて、イスラエルに勝利をもたらしたのです。

 「ゲラサ」の地の墓場に住む男の人は、悪霊に支配されていました。人々は彼を、鎖や足かせでつないで監視するばかりでした。同じ街に住みながら、迷惑で邪魔な奴として、『死んでしまえ!』とばかり墓に置いたのです。ところが居合わせたイエスさまは、この人に名前を聞くと、『レギオンです』と、彼の内なる悪霊が答えます。多くの悪霊が住み着いていたからです。イエスさまは、それらから解放されます。解放されたこの人は、「正気に返って、すわっていた。(ルカ835節)」のです。神の御子は、人としての《尊厳》を、彼の内に認めたからでした。

 パリサイ人や律法学者たちによって、「姦淫の現場で捕らえら女性」が、道端にうずくまっていました(ヨハネ83節)。彼女の周りには、興味津々の人の群れがありました。モーセの律法の書には「石打ち刑」に値する罪でした。律法を重んじないイエスさまを陥し入れるために試したのです。イエスさまは、罪のないものが石で、女を打つ様に言いました。誰一人、石を手にして投げることができずに、一人一人、その場を去って行きます。誰も、このじょせいを断罪できなかったわけです。残されたこの女性に、罪に定めることのできるイエスさまは、赦し、罪を犯さずに生きるように言われたのです。

 ある村に、「十人のライ病人(ツァラアト)」がいました(ルカ17章彼らは、群衆の中に入ることができず、隔絶され区別され差別された場所にいました。非業の病に冒された人が、イエスに出会ったのです。彼らは遠く離れた所に立って、 「どうぞあわれんでください」懇願したのです。イエスさまは全員清められたのですが、「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て」、イエスさまに感謝をしています。救いの選びに外れていた外国人でした。イエスさまは、人の作った垣根や塀や差別を越えて、声をかけ近づき触れてくださるお方なのです。

 売国奴と言われた、取税人の頭であった「ザアカイ」が、いちじく桑の木に登り、生い茂った葉の間からイエスさまが、どんなお方かを見ていました(ルカ192節)。イエスさまは、彼の名も、仕事もご存知でした。イエスさまの方から声をかけ、木から降りる様に促されます。そして、「あなたの家に泊まることにしてあるから」と言いました。世間の目や評価に邪魔されずに、罪人の家の客になると言ったわけです。ザアカイは、騙し取ったものの返済を決意するのです。経済的には恵まれていても、劣等感や孤独感などに苛まれた、心を許せる友もいないザアカイの「友」とも、「救い主」とも、イエスさまはなられたわけです。

 こう言った人たちを、きっと「高価」で「尊く」、愛の対象とされたのでしょう。基督者の母に育てられ、父も召される一週間ほどに罪を悔い改め、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます(使徒1631)」と言う恩恵に浴したわたしですが、四人の子たちも、この約束に預かって今日があります。このわたしにも、「高価で尊い」、「愛している」と言ってくださいました。

(「ある信徒」として投稿されたイラストと聖書です)

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カルタ

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 日本語を教える教材に、「カルタ(歌留多)」を用いることがありました。「あいうえお」の五十音や格言を覚えてもらうのですが、「いろはにほへと・・・」の順で、カルタは作られています。「い」は、『犬も歩けば棒に当たる』と言った風に覚えます。元々は、ポルトガル伝来の「カルタ/ carta 」から作られたもので、英語の ” card / カードを意味しています。

 同じ「い」を、『色は匂えど』と言い表すこともあります。地方地方に、土地柄に見合ったカルタがあって、例えば、「上州かるた」とか、「三池カルタ」などが有名です。この「カルタ」の一種に、「花カルタ」というものがあります。俗に言う、「花札」のことです。よく賭け事に用いられるので、評判が良くありません。

 でも、やってみると、実に日本的な感じがしてきて、ゲーム自身も、簡単に見えますが、なかなか奥が深くて面白いのです。そう言えば、大学生の兄が、運動部に入って、上級生から教わったのでしょうか、家に帰って来て、すぐ上の兄に教えていたことがありました。ちょっと背伸びをして大人になろうとしていたのでしょうか。もう半世紀も前のことでした。

 各月の花が、例えば、一月は「松」、二月は「梅」、三月は「桜」といった風に、札に描かれていて、各月4枚の札があって、四十八枚の花札でできています。この「花札」も、今のように統一されるまでは、各地方特有に作られていた様です。幕府や藩や政府によって、禁止されることもしばしばなほど、人を熱中させる魔力があるったのかも知れません。

 この「花札」のもとになる、"カード/ trump /トランプ ” が欧米にはあります。これもから 11/JACK “、12/QUEEN、13/KING “まであって、各4枚(スペード、ハート、ダイヤ、クローバー<クラブ>)づつあります。これに、ゲームの種類によっては、1〜2枚の  JOCKER ” が加わります。これも、各国、各民族によって様々ですが、今では、アメリカ映画で使われているものが、一般的なのだそうです。

 これも人を夢中にさせるのです。華南の街にいた時に、道路を歩いていますと、使い終わったのか、ゲームが終わったのか、あたり一面に投げ捨てられている様子を見ることが多くありました。賭けに負けて、悔しくて投げ捨てたようです。子どもたちには、見せたくない光景ですが、あちこちで座り込んでしているのは異様でした。カルタも花札もカードも、どこの国でも人を夢中にさせてしまう様です。

 前のアメリカ合衆国の大統領の名前が、「トランプ」でした。この ” Trump"とは、「切り札」という意味を持っているそうです。アメリカの政治や経済など、様々な分野に、難しい課題が突きつけられていますが、あの大統領が、その「切り札」となっていたのかどうか、分かりません。できれば、政の責任者は、ぜひとも「切り札」になっていただきたなと、心から願ってしまいます。

 「江戸歌留多」の「せ」に、『急(せ)いてはことを仕損じる』、「京歌留多」の「お」に、『負うた子に教えられて浅瀬を渡る』、「大坂加留多」の「に」に、『憎まれっ子頭賢し、憎まれっ子神直し』とあります。花札も加留多もトランプも、使う時には、よく切ることが必要なのだそうです。しても熱中させられない様ご注意を。

(「上州カルタ」です)

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寺小屋

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 わたしの通った小学校は、山の狭間の渓谷の奥の山の中腹にありました。兄たちの通う、その学校の校舎が火事になったことがあって、兄はお寺の仮教室(寺小屋でした)で学んでいました。入学する前に、上の兄に連れられて行って、そのお寺の教室の兄の机の横に置いてもらった椅子に、ちょこんと座っていた記憶があります。脱脂粉乳を分けてもらって飲んだのです。入学式の準備は整っていたのですが、街の国立病院に入院中で、式への出席は叶いませんでした

 その小学校には、授業に出た覚えがないまま、東京の八王子に家族で引越しをし、転入した学校は、第八小学校の大和田分校でした。そこでも学校に行った日は少なかったのです。一年後、その隣町に、父が家を買って引っ越したのです。転校先は、日野小学校でした。内山先生が担任でした。この先生に、国語の授業で褒められたのが、生涯唯一の教師からの激励でした。昨日のことのように覚えています。

 木造校舎、床板、薪ストーブ、アメリカから寄贈されたミルク、虫下しの海人草(カイジンソウ)、叱られたこと、たたかれたこと、立たされたことがありながらも、学校に行くのが好きだったのです。まさか、自分が、後になって、教師になるなんて考えもしませんでしたが、行けなかった分を取り返すかの様に、教師になったのかも知れません。

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 教師を辞めて、伝道の働きをしたのですが、娘の主人が長野県の南信の県立高校の英語教師をしていた時、『村歌舞伎が、近くの大鹿村であるから観に来ない?』と誘われて、家内と二人で出掛けたのです。後に映画化される、江戸時代に、幕府の監視をかわしながら演じられ続けてきた「大鹿歌舞伎」でした。

 演目の「藤原伝授手習鑑」の場面で、印象的だったのは、書道をする子どもたちの「寺子屋」でした。道真の時代に「寺子屋」はなかったのですが、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げるに当たって、江戸期に生まれてくる「寺子屋」を場面設定したのでしょうか。この演目が上演され、好評を博したのが1740年代の江戸中期でしたから、芝居上の仮相設定だったに違いありません。

 この寺子屋といえば、18世紀には、日本全国に15000もあったと推定されています。上方では「寺小屋」、江戸では「筆学所」と言っていたそうです。読み書き算盤を、庶民・町人の子弟にも学ばせていたことになります。庶民教育のこの形態は、世界に類を見ないほどのことであり、『当時の《識字率》は50%程だったろう!』と言われていますから、驚きです。

 日本で行われた、庶民教育は、世界を驚かせたものでした。この三本立ての教育が、幕末にやって来た外国人を驚かせたと記録されています。1872年に「学制」が、維新政府によって敷かれるのですが、明治に行われた教育の基盤に、この寺小屋がなっていたのです。大鹿歌舞伎では、〈悪戯生〉がいて、教場を歩き回ったりしていて、自分を見てる様でした。

 寺小屋は、「フリースクール(free school)」の様な教育形態なのかも知れません。幼い友人が、学校の授業や宿題で使ってる tablet  の導入で行われる、画一教育全盛の今、それとは違って、各自の習熟度でなされる個性的な教育の原型が、寺小屋にはありそうです。明治以降、先生が偉くなり過ぎなのも気になります。わたしの中学の担任が、教壇を降りて、われわれと同じ床に立って、挨拶をしていたのが思い出されます。

 初めての教育体験は、さながらお寺の本堂で行われた「寺小屋」で、古びた教室が、だだっ広かったこと、兄の級友にも可愛がられた記憶があります。校則などなかったので、弟が自由に出入りできたのは、火事のせいだっただけではなく、日本の田舎の良さだったかも知れません。

(「寺小屋発酵塾」のイラスト、山間の「大鹿村」です)

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『翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。(創世記
2818節)』

 念願の「枕(まくら)」を買いました。母が用意してくれたのは、父のまくらには、「あずき(小豆)」が入っていたのですが、母も子どもたちも「そばがら(蕎麦殻)」でした。以前は、それが一般的だったのです。きっと父の育った家では、危急の時のために「食料」になる様に、平時にはまくらに、食料に窮した時のために、小豆が確保されていたのでしょう。昔の人の知恵ってすごいですね。

 去年の誕生日に、家内が  present に、有名寝具店の高級枕を贈ってくれました。上等過ぎて、中身の少ない自分の頭には合わなくて、結局、そうでない家内が使っているのです。自分は、家内のものを使っていたのですが、化学繊維のurethane 製は、どうも好きになれなかったのです。それで、子どもの頃に使っていた「そばがらまくら」を、スーパーの二階の衣料品店で見つけて買ってしまいました。850円だったのです。

 使い勝手がいいというのでしょうか、自分の頭に記憶があるのでしょうか、ピッタリ合っているのです。American size で大きなまくらが流行って、それが愛用されてきたのですが、小さな頭には持て余し気味で、しっくりしなかったのです。頭を動かす時のそばがらの動く音が耳に心地よいのです。イスラエル民族の族長の一人、ヤコブは石を枕にした、と聖書にありますから、それで熟睡できたのでしょうか、驚きです。

 華南にいた時に、ある方が、「ふんどし(褌)」をしていて、家内が、『洗濯しますから、洗うものを出してください!』と言ったら、下着と褌を出して、家内は笑いながら洗濯機にかけて、干していました。この方が帰ってから、贈り物を送ってくれた中に、そのふんどしが、わたし用にと、二本入っていたのです。もちろん新品でした。

 日本男子にはこれがいいのです。母に、サラシで作ってもらったことがありました。それは、「越中(えっちゅう)」と呼んだのですが、「六尺」というふんどしもあって、水泳をする時に、古来日本人は、水泳パンツの代わりに、これを使っていたのです。溺れた時に、解いて使ったり、溺れた人のふんどしを掴んで救助するのに良いからでした。

 六尺の長さで一本の晒(さらし)は、包帯にもなりますし、おぶい紐にもなったりで、実に重宝なのです。中学の臨海学校では、その「赤フン」をしめたのです。男子校でしたから、しめ方から始まって、懐かしい思い出です。あの少年たちも、年を重ねて、ひ孫を抱く様な年齢になっているのに、時間の過ぎゆく早さ、盛んな時の短さに、感じ入ってしまいます。

 住む家があり、寝る布団があり、頭を置く枕があって、静かに、平安に夜を過ごすことができて、なんと恵まれ、感謝なことでしょうか。ウクライナでは地下鉄のホームや階段で、戦火を避けて、夜を過ごしているのを聞きますと、申し訳ないような思いがしてきます。東京空襲で、防空壕にいた一瞬の光景に覚えがある、と家内がいいます。つくづくと枕を見てしまう朝な夕な、石ではなく、蕎麦殻枕でよかったと思うことしきりであります。

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和解

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「二ひきの蛙」   新美南吉

緑の蛙と黄色の蛙が、はたけのまんなかでばったりゆきあいました。「やあ、きみは黄色だね。きたない色だ。」と緑の蛙がいいました。

「きみは緑だね。きみはじぶんを美しいと思っているのかね。」と黄色の蛙がいいました。

 こんなふうに話しあっていると、よいことは起こりません。二ひきの蛙はとうとうけんかをはじめました。緑の蛙は黄色の蛙の上にとびかかっていきました。この蛙はとびかかるのが得意でありました。黄色の蛙はあとあしで砂をけとばしましたので、あいてはたびたび目玉から砂をはらわねばなりませんでした。

 するとそのとき、寒い風がふいてきました。二ひきの蛙は、もうすぐ冬のやってくることをおもいだしました。蛙たちは土の中にもぐって寒い冬をこさねばならないのです。「春になったら、このけんかの勝負をつける。」といって、緑の蛙は土にもぐりました。「いまいったことをわすれるな。」といって、黄色の蛙ももぐりこみました。

 寒い冬がやってきました。蛙たちのもぐっている土の上に、びゅうびゅうと北風がふいたり、霜柱が立ったりしました。そしてそれから、春がめぐってきました。

 土の中にねむっていた蛙たちは、せなかの上の土があたたかくなってきたのでわかりました。さいしょに、緑の蛙が目をさましました。土の上に出てみました。まだほかの蛙は出ていません。

「おいおい、おきたまえ。もう春だぞ。」と土の中にむかってよびました。すると、黄色の蛙が、「やれやれ、春になったか。」といって、土から出てきました。

「去年のけんか、わすれたか。」と緑の蛙がいいました。「待て待て。からだの土をあらいおとしてからにしようぜ。」と黄色の蛙がいいました。

 二ひきの蛙は、からだから泥土をおとすために、池のほうにいきました。池には新しくわきでて、ラムネのようにすがすがしい水がいっぱいにたたえられてありました。そのなかへ蛙たちは、とぶんとぶんととびこみました。

 からだをあらってから緑の蛙が目をぱちくりさせて、「やあ、きみの黄色は美しい。」といいました。「そういえば、きみの緑だってすばらしいよ。」と黄色の蛙がいいました。

 そこで二ひきの蛙は、「もうけんかはよそう。」といいあいました。

 よくねむったあとでは、人間でも蛙でも、きげんがよくなるものであります。

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 これは、新見南吉の「二ひきの蛙」です。2匹のカエルが、自分の方が色が綺麗で、違う色の相手をけなすのです。両者とも互いの違いを受け入れることができずに、なじり合い、喧嘩になります。冬が来て、2匹とも冬眠に入って、時間が経つて、「春」が来て目覚めると「和解」するという話です。

 体の色の違いが、冬眠が明けると、2匹とも泥にまみれたになったままの体でしたが、水で体を洗ったのです。そうしましたら、互いの体の色がはっきりとしたのでしょう、互いに、その美しさをみとめ、褒め合う様になったのです。

 学校のいじめ、国と国の争いが、人の思いを暗くし、悲しみも増しているこの時代、考えさせられる話です。ウクライナへのロシア軍の攻撃には、伏線があって、やがて、ロシア軍は地中海沿岸のイスラエルに、必ず進軍する、その序曲なのですが。この2匹のカエルの様に、和解ができたら素晴らしいのですが。

 こんな話を作った新美南吉が、世に出るために、助けをしたのが、巽聖歌(たつみせいか)でした。聖歌は、クリスチャンでした。わたしたちの長男の妻は、南吉と同じ知多半島の出身でした。聖歌は、わたしが小学校からずっと生活し、上の兄と弟が今も住んでいる東京都南多摩郡日野町(現日野市)で、亡くなるまで長く住んだ街で、何か共通点があり、作品と共に近さを覚えるのです。そういった縁で、日野と紫波町(旧・日詰町)とは姉妹都市となって交流が続いているのだそうです。

 どうして、人も国も、互いの存在を認め合わずに、銃をとって攻撃をするのでしょうか。こんなに賢く作られた人間が、愚かな行動をとって、結局は自分も自国も滅んでいくではありませんか。相手の素晴らしさを褒めたらいいのに、いつも邪魔をするのは、誇りなのでしょう。相手があっての自分を道めたらいいのに、そう思う百花繚乱の春、この春は必ず巡ってくるのです。

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それでも

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 小学校にも中学校にも、薪を背負って、歩きながら書を読む「二宮金治郎像」がありました。これから学ぶ子どもたちに、倣うべき模範の人物が、農政改革、農業の改善や増収のために、その果たした功績の多大な人物として訴えかけ続けてきたわけです。教育者の中には、この人を挙げるのに異議を唱える人などいません。

 わたしも背負子(しょいこ/弟が山小屋の仕事で使うために小屋主に作ってもらった物でした)に薪や荷物をつけて、金次郎のしたことに真似たことがありましたが、漫画を見ていただけで、その精神に倣うことはありませんでした。でも、その門をくぐった校舎の教室や、その他の教室で、多くの忍耐強い良き教師に教えられたことには感謝が尽きません。

 わたしの学んだ小学校の校歌に、『鏡と見まし山と川と』と一節がありました。遠望する逞しく聳える富士山を仰ぎ、多摩川の押し流す清流を見ながら、切磋琢磨して、奮励努力して学んで欲しいという願いが込められていました。

 今朝の新聞に、県下のある小学校の校門の脇に、その二宮金治郎ではない、一人の人物の像が置かれているのだと掲載されていました。わたしは、これを読んで、この街の大人たちは、この人を鑑にして、小学生たちが、その人から学んで、生きていって欲しいと願ったに違いありません。

 その人は、野口英世です。福島県の猪苗代の人で、郵便配達を仕事としていたお父さんの子として生まれ、幼少期に囲炉裏に落ちて手に傷を負います。その負った手の傷を治してくれた医師に倣って、医師を志して学び、後に細菌学者として生きた人でした。

 黄疸や梅毒の研究による業績によって、多くの賞を国外から贈られいます。でも、これから学ぶ小学生が、模範としていく人物としては、どうしても首を傾げたくなっているわたしなのです。人が生きていく方便があり、それを上手に使って生きていく才が、この人にはあったようですが、それはいいのです。一番気になるのは、梅毒のスピロヘーターという細菌の研究、ワクチンの開発のために、何をしたかが問題なのです。

 研究の被験者に、ついての記事が、次の様にあります。「571人の被験者のうち315人が梅毒患者であった。残りの被験者は「対照群」であり、彼らは梅毒に感染していない孤児や入院患者であった。入院患者は既にマラリア、ハンセン病、結核、肺炎といった様々な梅毒以外の病気の治療歴があった。対照群の残りは健常者であり、ほとんどは2歳から18歳の子供であった(ウイキペディア)。」

 そして、被験者から、〈同意を得ていない点〉が一番の問題なのです。人間の弱さは、誰もが持ち合わせていますが、若い頃の行状は、不問にふされてもいいのかも知れません。でも、1928年、51歳で死んだ時に、黄疸病に感染したことが原因だとされますが、亡骸の解剖によって、若い頃に罹患した梅毒が直接の原因だとも判明されています。自堕落に青年期を過ごしていたのです。

 偉くなったし、その勇名を世界に鳴り響かせたこと、多くの褒賞を得たことは、驚くべきことです。命懸けで生き、人間性も何もかもがごちゃごちゃとした人間像は、小学生の model には、相応しくないのではないでしょうか。

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 業績だけが大切で、そのためにやった非人間的なことには目をつぶるなら、結果だけが人間評価の基準なのでしょうか。人生のすべての中で、どんな人間観、患者観、研究者の理念、在り方などで、疑問視される様な人物は、自分の孫たちに、『鑑としなさい!』とは言えません。

 街の桶屋のおじさんが、良い桶を作ることだけに専心して、鉋を使って作り上げ、それを喜んで使ってくれるお客さんの必要のために生きて、ただの桶屋さんで一生を終わった人の方が、小学生の模範になるのではないでしょうか、誠実さや勤勉さなどの方がいいからです。もちろん若気の至りを悔いているなら、いいのでしょうが、それでも、なのです。

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都上り

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 『主はシオンを選び、それをご自分の住みかとして望まれた。 「これはとこしえに、わたしの安息の場所、ここにわたしは住もう。わたしがそれを望んだから。 わたしは豊かにシオンの食物を祝福し、その貧しい者をパンで満ち足らせよう。 その祭司らに救いを着せよう。その聖徒らは大いに喜び歌おう。 そこにわたしはダビデのために、一つの角を生えさせよう。わたしは、わたしに油そそがれた者のために、一つのともしびを備えている。 わたしは彼の敵に恥を着せる。しかし、彼の上には、彼の冠が光り輝くであろう。」(詩篇1321318節)」

 イスラエルの民は、年に三度、民族的な行事として、「都上り」を励行していました。「過越の祭り」、「七週の祭り」、「仮庵の祭り」に、エルサレムの神殿に、捧げ物を携えて、それぞれの町や村から、青年男子は上るのです。

 彼らは、黙々と苦行者の様にして道を歩んだのではありません。神への讃歌を喜び歌いながらシオンに入ったのです。その歌は、「詩篇」の「都上りの歌」と呼ばれる、120〜134篇のダビデの詩でした。実は、この詩篇にmelody をつけた賛美chorus があり、よく礼拝の折に賛美したことがありました。

 イスラエル人、ユダヤ人にとっては、生ける神、エホバとかアドナイと呼ばれる神を礼拝するための「都上り」でした。流浪の民ユダヤ人は、世界のどこに居留しても、エルサレム、シオンを、故郷の様に思い、「シオンに住まれる主」への礼拝、感謝、賛美を捧げたのです。その離散した地から、19世紀になると、Zionism と言われる民族的な動きが起こり、世界中に散っていたユダヤ人たちに、「シオンに帰ろう!』とする思いが湧き上がって、ついに、1948年5月14日に、建国に至るのです。

 東京に遷都されるまで、京都が日本の都でして、「京に上る」という言い方で、位置付けられていました。ところが明治維新以降、東京が都に定められてから、鉄道網が敷かれていき、全国を網羅する様になるのですが、どの列車も、東京に向かって走る列車は、「上り(のぼり)列車」になっています。
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 昨日、上の息子が出演するという「レイアロハ・フェスティバル」が行われる「新小岩公園(東京葛飾)」に、急遽行ってきました。まさにわたしにとっては、下野栃木からの久々の「都上り」だったのです。貰ってもいけないし、上げてもいけない「コロナ」のことを考えたのですが、春の晴れた晴天の下、野外で行われる festival ですので意を決したのです。

 東武日光線、東武亀有線、JR総武線と乗り継いで、新小岩駅で降りて、荒川の流れの端の広大な区立公園で行われた、Hawaiian  festival に参加したわけです。招かれてお話や司会をする息子の応援でした。15でハワイのヒロの高校に入学して学び、ハワイの教会で奉仕をした経験がありますので、挨拶語もシャツも、『Aloha!』が、彼には似合っていました。

 主催者の方の賛美も、フラダンスも、お話もみんな素晴らしかった週末の土曜日でした。そこは、まるでハワイでしたが、フラダンスや模擬店やお店の賑やかさ以上に、フラで賛美をした最後のステエジは圧巻でした。一時、生ける神が崇められたのが最高に有意義な時だったのです。都のはずれ、下総国の境の片隅で、主が褒め称えられたのは素晴らしいことでした。こんな「都上り」だったら、毎週出かけてみたいものです。
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