寺小屋

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 わたしの通った小学校は、山の狭間の渓谷の奥の山の中腹にありました。兄たちの通う、その学校の校舎が火事になったことがあって、兄はお寺の仮教室(寺小屋でした)で学んでいました。入学する前に、上の兄に連れられて行って、そのお寺の教室の兄の机の横に置いてもらった椅子に、ちょこんと座っていた記憶があります。脱脂粉乳を分けてもらって飲んだのです。入学式の準備は整っていたのですが、街の国立病院に入院中で、式への出席は叶いませんでした

 その小学校には、授業に出た覚えがないまま、東京の八王子に家族で引越しをし、転入した学校は、第八小学校の大和田分校でした。そこでも学校に行った日は少なかったのです。一年後、その隣町に、父が家を買って引っ越したのです。転校先は、日野小学校でした。内山先生が担任でした。この先生に、国語の授業で褒められたのが、生涯唯一の教師からの激励でした。昨日のことのように覚えています。

 木造校舎、床板、薪ストーブ、アメリカから寄贈されたミルク、虫下しの海人草(カイジンソウ)、叱られたこと、たたかれたこと、立たされたことがありながらも、学校に行くのが好きだったのです。まさか、自分が、後になって、教師になるなんて考えもしませんでしたが、行けなかった分を取り返すかの様に、教師になったのかも知れません。

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 教師を辞めて、伝道の働きをしたのですが、娘の主人が長野県の南信の県立高校の英語教師をしていた時、『村歌舞伎が、近くの大鹿村であるから観に来ない?』と誘われて、家内と二人で出掛けたのです。後に映画化される、江戸時代に、幕府の監視をかわしながら演じられ続けてきた「大鹿歌舞伎」でした。

 演目の「藤原伝授手習鑑」の場面で、印象的だったのは、書道をする子どもたちの「寺子屋」でした。道真の時代に「寺子屋」はなかったのですが、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げるに当たって、江戸期に生まれてくる「寺子屋」を場面設定したのでしょうか。この演目が上演され、好評を博したのが1740年代の江戸中期でしたから、芝居上の仮相設定だったに違いありません。

 この寺子屋といえば、18世紀には、日本全国に15000もあったと推定されています。上方では「寺小屋」、江戸では「筆学所」と言っていたそうです。読み書き算盤を、庶民・町人の子弟にも学ばせていたことになります。庶民教育のこの形態は、世界に類を見ないほどのことであり、『当時の《識字率》は50%程だったろう!』と言われていますから、驚きです。

 日本で行われた、庶民教育は、世界を驚かせたものでした。この三本立ての教育が、幕末にやって来た外国人を驚かせたと記録されています。1872年に「学制」が、維新政府によって敷かれるのですが、明治に行われた教育の基盤に、この寺小屋がなっていたのです。大鹿歌舞伎では、〈悪戯生〉がいて、教場を歩き回ったりしていて、自分を見てる様でした。

 寺小屋は、「フリースクール(free school)」の様な教育形態なのかも知れません。幼い友人が、学校の授業や宿題で使ってる tablet  の導入で行われる、画一教育全盛の今、それとは違って、各自の習熟度でなされる個性的な教育の原型が、寺小屋にはありそうです。明治以降、先生が偉くなり過ぎなのも気になります。わたしの中学の担任が、教壇を降りて、われわれと同じ床に立って、挨拶をしていたのが思い出されます。

 初めての教育体験は、さながらお寺の本堂で行われた「寺小屋」で、古びた教室が、だだっ広かったこと、兄の級友にも可愛がられた記憶があります。校則などなかったので、弟が自由に出入りできたのは、火事のせいだっただけではなく、日本の田舎の良さだったかも知れません。

(「寺小屋発酵塾」のイラスト、山間の「大鹿村」です)

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