真情

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 『・・・狭い日本には住み飽いた!』と歌って、多くの若者たちが、中国の満州に夢を繋げ様と、出掛けて行きました。それを鼓舞するかのように、大正11年(1922年)に世に出た、「馬賊の唄(宮島郁芳作詞)」でした。歌の持っている力は大きいのです。

俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ

俺に父無く母も無く
別れを惜しむ者も無し
ただいたわしの恋人や
夢に姿を辿るのみ

国を出た時ゃ玉の肌
今じゃ槍傷刀傷
これぞ誠の男子じゃと
微笑む面に針の髭

長白山の朝風に
剣を翳してふし見れば
北満州の大平野
俺の住まいにゃまだ狭い

御国を去って十余年
今じゃ満州の大馬賊
亜細亜高嶺の繁間より
繰り出す手下が五千人

今日吉林の城外に
駒の蹄を忍ばせて
明日は襲わん奉天府
長髪風に靡かせて

さっとひらめく電光に
今日の獲物か五万両
繰り出す槍の穂先より
荘竜血を吐く黒龍江

銀月高く空晴るる
ゴビの砂漠にゃ草枕

 4億が、現在では14億の人口を擁する中華人民共和国ですが、戸籍に未登記な人々が1億(公式)もいて、実際には、それよりも遥かに多いとも言われてる隣国は、戦前の若者には、雄飛したい国だったのです。

 結局、その野望、理想は、敗戦で崩壊してしまうのです。私の父も、満州にいる叔父を慕って、狭い日本から出掛けた一人でした。私の上の兄は、その理想国にあやかって名前が付けられたほどだったのです。

 もし、この大陸進出から終戦までの間に、日本がしたことで、良いことがあったとするなら、鉄道線路を敷設したことと言えるかも知れません。その判断は、中国のみなさんがされることなのですが。

 今でも、その当時の路線が使われ、近代中国の発展のために寄与してきたことは事実です。もちろん、近年では、高速鉄道網が、瞬く間に張り巡らされています。東北部では、人や物資の輸送は、旧来の路線が活用され、世界の物作りの基盤となっています。

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 そこに「南満州鉄道」があって、父は、若い時期に一時期、そこで働いていた様です。どの様な仕事をしていたのかは定かではありませんが、北米のオレゴンやカルフォルニア、ハワイ、南米のブラジルではなく、満州に、人生の活路を見出そうとしたのでしょう。当時の青年たちにとっては、きっと平安の昔から、良き薫陶を受けた大陸の文化的な背景や、国土の広大さは、憧れの的だったのではないでしょうか。

 南満州鉄道というのは、大連から奉天(現在の瀋陽です)、新京(現在の長春です)、ハルピン(哈尔滨)などに広がる鉄道網なのです。もう何年も何年も、いえ若い頃からなのですが、そこを訪ねてみたいという思いが心の中で温められていたのです。知り合いに、南満州鉄道株式会社のあった瀋陽で、電気工学を学んでいる学生がいたので、彼に案内を頼めるかなとも思っているたのですが、帰国してしまい叶いませんでした。

 戦争が終わって、日本は、狭い国土の中で勤勉に働き、世界に類を見ない復興を遂げ、10年の節目の1954年から、かつて侵略したアジア諸国を経済援助をし始めました。わたしが、聖書を持って、初めて降り立った北京空港も、日本の「ODA(Official Development Assistance)」、途上国への「政府開発援助」で作った空港でした。この中国への初期の経済援助、科学技術の援助で、今の経済大国になっています。十分な償いをしたと言ってもよさそうです。

 長く償いの思いで滞在した中国で、まさに家族のように受け入れられて、交わりをさせていただきました。その中国のみなさんとは、今もなお交わりが継続しております。義理の関係ではなく、真情でしょうか、真心でしょうか、彼らの示してくれる愛と心遣いは、今もなお真実で、変わらず一途なのです。

(旧資料による満鉄のシンボルの「あじあ号」です)

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永遠のいのち

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 万葉の歌詠みたちが、あんなに素敵な日本語で、人を思い、故郷を思い、明日を考えていたのを知ると、日本人の思考の深さと、日本語の美しさを感じてなりません。安芸高知の人が詠んだ歌が、万葉集にあります。

 繩(なは)の浦に 塩焼くけぶり 夕されば 行き過ぎかねて 山にたなびく

 高知の室戸岬に行く道の途中に、大山岬があります。そこに、鹿持雅澄の歌碑があるのです。高知城下に妻を残して、単身赴任した大山岬で、妻を思って詠んだ和歌が、そこに刻まれています。そこには、「愛妻之碑」とあります。

 あきかぜの福井の里にいもをおきて安芸の大山越えがてぬかも

 「いも」とは、妻を言う言葉なのです。この鹿持雅澄は、奉行所の仕事を経て、藩校の教師になります。万葉の歌に魅せられて、その研究に没頭し、膨大な研究資料を残していたそうです。明治になってから、「万葉集古義」として出版されいて、その収集を命じたのが、明治天皇だったそうです。

 学校で「防人歌(さきもりのうた)」を学んだことがあります。妻や子と別れて、辺地防備のために駆り出されて、九州などの海岸部などに駆り出され、派遣された人たちのことを「防人」と詠んだのです。他の地から日本防備のためにやって来て、和歌を読んだわけです。その言葉づかいや、心の動きに驚かされてしまいます。

 先日、新小岩に出かけたのですが、その川向こうの市川市に、「真間の手児奈(ままのてこな)」が水汲みをしたという井戸が、亀井院というお寺に残されています。高橋虫麻呂が、万葉に次の歌を詠んでいます。

 葛飾の 真間の井見れば 立ち平し 水汲ましけむ  手児奈し思ほふ

 葛飾の真間に、絶世の美女がいて、「てこな」と呼ばれていました。一度嫁ぐのですが、真間の親元にでしょうか戻っています。すると近郷近在、遠方から多くの男たちがやって来ては、強烈な恋心を寄せるほどだったそうです。それに耐えられないで自死して亡くなってしまうのです。そんな逸話があって、万葉に詠まれたのです。

 日本は、万葉の昔から、恋や愛のゆえに、死にゆくことを礼賛(らいさん)することがあるようです。昨今、さなざまなことが原因して、自死が目立って多くなっています。決して〈美しい死〉などあり得ません。そんなNewsを聞くと、悲しくなってしまいます。わたしの長男は、週に数日、「いのちの電話」の相談員を委嘱されて、その大切な務めを、受話器を握って担っています。

 もう何年も何年の前に、水曜日の集会に、一人の若い女性がやって来ました。集会が終わってから、お話しすると、死に場所を探していて歩いていたら、教会の明かりが見えて、つい入ったのだそうです。彼女は、信仰を告白し、バプテスマを受け、市内の教会の保育園のお手伝いをさせていただき、元気になって、故郷の家に帰って行かれました。

 もう六十近くになっておいででしょうか。幸せな結婚生活、家庭生活をしておいででしょうか。一緒に生活をし、小学生だった長女は、単身、彼女の実家を訪ねたことがありました。生き直せるきっかけになった出会い、状況がありますが、創造主、救い主に出会うなら、どんな生き辛さも超えて、生きていかれるのです。

 聖書は、たびたび「生きよ」と記しています。死に急いで、自ら命を絶つことを禁じています。それでなくとも人の死は必ず訪れるからです。「永遠のいのち」にも、聖書は言及しています。いのちの付与者である神さまは、人を生かすことがおできでいらっしゃいます。

(「ある信徒」によるイラストです)

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カラーとルピナス

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 今日は、家内の通院日で、去年も同じ道をたどって、病院に行った、その同じ道に、去年同様、きれいに 「ルピナス( Lupinus )」が咲いていて、治療を癒えての帰り道、その花園に寄ってみました。あれから一年、支えられて闘病を続けられてきた思いを込めて、どうしても寄ってみたいとの思い入れが、家内には強かったのです。

 今年は、そよ風が頬にも、花にも優しく吹いていたでしょうか。去年は風が強かったのと違って穏やかでした。39回目の化学治療を終えて、看花の後、食べられなかった家内が、回転寿司、今は新幹線のおもちゃ電車が運んでくれる店で、美味しく食べられていて、あの日々が嘘のようでもありました。退院した2019年の4月から、この同じ道を、上の息子の送り迎えで、時にはタクシーや電車で通って来たのです。みなさんのお祈りに支えられ、感謝しております。心からありがとうございます。

 上の写真は、母の日の下の息子夫婦のgift で、カラー(英名は Calla )で、別名love green と言うそうです。接写して、花から落ちようとしている「露」を撮ってみました。室内の様子が映り込んでいるのでしょうか、実に神秘的で、われながら得意になってしまった写真です。花に見える部分は、萼(がく/葉が変化したもの)なのだそうです。

 診察後、家に咲いている胡蝶蘭、ガーベラにミントの葉を添えて、主治医の卓上に、そのフラワーセットを、そっと置いて帰って来ました。いつも、ニコニコと感謝して、主治医は受け取ってくれたのです。いつも、いい光景です。

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大阪府

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 わたしの父が、ゴロリと横になると、懐かしさで何度か歌っていた歌があります。名将と謳われた楠木正成(くすのきまさしげ)は、十万もの大軍を従えて、九州から攻め上ってきた足利尊氏との戦いによって、湊川で壮絶な戦死を遂げています。それを前にして、「櫻井駅(さくらいのえき)」で、息子の正行(まさつら)と別れをします。ところが、正行も、足利尊氏と戦って、討死をしてしまいます。その正成、正行を歌った、「櫻井の訣別(わかれ)」です。

1 青葉茂れる桜井の
里のわたりの夕まぐれ
木(こ)の下蔭(したかげ)に駒とめて
世の行く末をつくづくと
忍ぶ鎧(よろい)の袖の上(え)に
散るは涙かはた露か

2 正成(まさしげ)涙を打ち払い
我子正行(まさつら)呼び寄せて
父は兵庫へ赴かん
彼方の浦にて討死せん
汝(いまし)はここまで来つれども
とくとく帰れ 故郷へ

3 父上いかにのたもうも
見捨てまつりて我一人
いかで帰らん 帰られん
この正行は年こそは
いまだ若けれ もろともに
御供(おんとも)仕(つか)えん 死出の旅

4 汝(いまし)をここより帰さんは
わが私(わたくし)の為ならず
己(おの)れ討死なさんには
世は尊氏(たかうじ)のままならん
早く生い立ち 大君(おおきみ)に
仕えまつれよ 国のため

5 この一刀(ひとふり)は往(いに)し年
君の賜いし物なるぞ
この世の別れの形見にと
汝(いまし)にこれを贈りてん
行けよ 正行故郷へ
老いたる母の待ちまさん

6 ともに見送り 見返りて
別れを惜む折からに
またも降り来る五月雨(さみだれ)の
空に聞こゆる時鳥(ほととぎす)
誰れか哀れと聞かざらん
あわれ血に泣くその声を

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 この歌は、明治35年に、作詞作曲された歌で、戦前は、学校で歌われたもので、戦に勇ましかった楠木正成親子を題材にして、国民を鼓舞した歌でした。大阪で、一つの群れのお世話を始められた宣教師を訪ねてお邪魔した時に、この宣教師が、『近くに有名な歴史的な場所があります!』と言って、この「櫻井の訣別」の史跡のある場所に案内してくれたました。日本史の出来事として有名な地なのです。

 大阪は、その時、個人的に初めて訪問したのです。テレビ放映が始まって、わが家にもテレビが入り込んでから、ブラウン管に映された番組に、「てなもんや三度笠」がありました。関西喜劇人が出演していて、電波に乗った関西喜劇の関西弁、大阪弁を耳にした初めての時でした。

 よく「コテコテの大阪人」と言うのでしょうか、彼らが確信を持って喋る標準語以外の言葉が、major になった番組だったでしょうか。あの頃の俳優さんたちも、ほとんどのみなさんが亡くなられてしまい、寂しい思いがいたします。電波や映像で初めて接した関西、大阪でした。

 東の「山谷(さんや)」、西の「釜ヶ崎(かまがさき)」は、日雇のみなさんのドヤ街で有名です。高度成長期の建設工事現場で働いた日雇いのみなさんが、安い宿代で寝起きをされた街で、そこにキリスト教会があって、一度お招きをいただいて、お話をさせてもらったことがありました。

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 礼拝の終わったお昼に、パンやおにぎりを提供して、釜ヶ崎を支え続けていた、昭和に始まった教会なのです。アメリカ人の宣教師が始められて、そのドヤ街で信仰を持たれて牧師になられた方が、今も牧会されておいでです。通天閣の下の銭湯にも入って、大阪のコテコテ気分にひたったのは、20年以上も前でしょうか。

 豊臣秀吉の居城の大阪城が、大阪のど真ん中に復元されてあります。商都で、大阪商人の活躍は有名です。「道頓堀」の近くに泊まったことがありました。新宿、渋谷、上野、池袋などの街とは違った雰囲気の街で、生活感があって賑やかで、東京のような気取りがないので、居心地がいいなあと思わされたのです。

 家内は、府の南にある「堺」で、泉州と呼ばれる地で生まれています。この街は、商都大阪を形作った街で、「日明貿易(対大陸中国)」で栄えたのです。有力な商人や倉庫業者などによる、三十人ほどの「会合衆(えごうしゅう)」の自治で運営されていた特徴のある街で、茶道が誕生したりした、文化的な街でもあったのです。戦国時代に、そのような組織ができたようです。

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 成田空港ではなく、関西空港に帰って来て、家内が生まれた堺に宿をとってみたことがありました。生まれてすぐに、東京に越していますから、家内は全く記憶のない街でしたが、やはり誕生地というは、特別な感慨があるものなので、懐かしそうにしていました。お父さんは文京区の出身、お母さんは九州の筑後の出でした。

 大阪府には、33市9町1村の計43の自治体を擁し、府都は大阪市、人口は878万人、県花は梅とサクラソウ、県木はイチョウ、県鳥は百舌鳥(もず)です。明治維新の前後には、遷都の候補地として、薩摩藩の大久保利通によって、大阪が推奨されたのですが、実現しませんでした。ここは、「日本の台所」と言うほどの商都の役割を担い続けて来た地であり、維新当時の夢の追慕でしょうか、「都構想」を掲げて、実現しかけたように、東の東京に対する、西の大阪という意識が強いですし、それだけの経済財政力を持った地なのです。

 露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

 浪速(難波)に様々なことがあり、天下取りをかなえた秀吉は、栄華を極めたのですが、その業は、やはり夢のように儚いものであることを詠んだ歌です。何をしても、どんな建物を建てようと、どんな支配体制を確立しても、人の齢には限りがあり、六十で秀吉は死んでいます。残るのは、恥に満ちた一生だったのでしょう。

 中村郷の平凡な貧しい農家の子で一生を終えても、天下取りになっても、一切は夢に終わる人の世は、なんと儚いのでしょうか。日本一の商都となり、通天閣が建ち、大阪万博が行われ、日本の第二の都市になった逢坂、大阪と書き記されることも、想像もしなかったわけです。人はそのように来て、去っていくのでしょう。

 華南の街の学校で教えた頃、この大阪市の南港から、船に乗って、2日の船の旅程で上海に、行き帰りをしたことが何度もありました。外国航路の便数は、航空機の発達による空の旅が主になっていましたが、悠長な旅も、趣があっていいものでした。日本語を教えた学生が、日本の大学の大学院で学び、新大阪駅の近くに住んで、日本の大手企業に勤めています。日明貿易が行われた堺のことも、人の動きも、彼の将来も、この global な現代のことも、これからに日本のことも、不思議なことごとの積み重ねなのです。

(「櫻井の訣別」、「通天閣」、明治期に堺の街の様子です)

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ありがとう!

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 『 あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。(箴言2325節)』

 『あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。それは、あなたの齢が長くなるため、また、あなたの神、主が与えようとしておられる地で、しあわせになるためである。 (申命記516節)』

 『それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。  あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。 (詩篇1391316節)』

 『私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ15節)』

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 私たちは、主なる神のご計画と祝福の中で、母親の胎に宿り、手と腕に抱かれ、膝にまとわりつき、背におぶわれ、乳房に養われ、手で食事を受け、手を握られて歩んで、わたしたちがあります。さまざまな事情で、母の愛を受けなかったとしても、人は胎内での温かさ、心臓や血流の音の記憶が残されていると言われています。

 肺炎で死にそうになったわたしを、献身的に世話してくれた母、「エホバ・ラファ(出エジプト1526節)」でいらっしゃる神に、平癒を叫び祈ってくれた母がいて、今日のわたしがいます。癒えて健康になって、悪戯小僧になって、バスケットボールやハンドボールやテニスボールができるようになっていきました。跳び箱もクラス一でした。

 結婚して、4人の子が与えられ、仕事も与えられ、伝道の業にも携われ、海外にも出掛けられ、今は静かな時を、家内と共に過ごしています。母業を終えた家内は、それでも一人一人の様子が気になって、今では、息子に買ってもらったスマホで、チャットを使って、毎朝、聖句を送信しています。

 昨日は、家内を母のように慕ってくれる中国人のご家族が、ご夫婦と二人のお子さん連れで、蘭花をお祝いに持参して、中国漢方薬や食材や果物をお土産にして、訪ねてくれました。お昼は、洋麺屋五右衛門という店で、食事までもご馳走してくださったのです。

 とても楽しい時を過ごすことができ、家内は大喜びでした。彼らの華南の会社の工場の応接室で、聖書研究会を持っていました。彼らは三代目のクリスチャンで、美しい海浜の村で育って、何度か彼らのふるさとにお連れいただきました。

 「母の日」に、母を思い出しました。家内は、昨日、駅に置かれ、自由に弾けるピアノの前に座って、讃美で駅頭を満たしたいと、夕方出掛けて行きました。四人の子供たちからは、『ありがとう!』の message が届きました。若い中国人のお母さんからも、『母情节快乐muqinjiekuaile!』とチャットがあり、感謝していました。

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立夏の花三昧

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 巴波川の流れの中で、まぶしいほどに黄色く咲いていた「キバナショウブ(黄花菖蒲)でしょうか、散歩途中に見かけました。大水が来て、流されないように願って撮った一葉です。家の中に咲く、「カラー( calla/オランダカイウ属科の花 )」と「胡蝶蘭」です。また球根を植えた覚えがないのですが、「アマリリス」が、鉢の中で咲きました。黄、赤、白と、内も外も鮮やかな初夏(昨日は「立夏」です。

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乾いたパンと平和

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 『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは(私訳:一椀のオジヤやスイトンがあって、赦しがあるのは)、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言171節)』

 「家庭」とは、『夫婦・親子など家族が一緒に生活する集まり。また、家族が生活する所。(広辞苑)』だと言われます。神さまが、私たち人の保護、安息、関係作り、学習の場として与えてくださった《祝福の世界》ではないでしょうか。

 ご承知の様に、今日の世界中で見られるのは、家庭が崩壊して、機能を働かせていないばかりか、幼稚園や学校の世界に、家庭から出て行った幼い子どもたちが、心理的にも肉体的にも傷つけられているという悲しいニュースが、多く報じられていることです。今では、家庭に中にも、そう言ったことが、事件として起こっているとの報道が多くあります。

 一日の出来事を、親子で語り合い、ホッとできる交わりのできる場が、今、なくなりつつあります。神さまが意図された時間的な心理的な余裕が、心にも家庭にもなくなっていることは、悲しい事態であります。学校でも同じでしょうか。『もし祈ることができたなら!』、とわたしは思ってしまうのです。誰も祈らなけれならない課題を満ちながら、どう祈るか、だれに祈るかを知らないでいるのです。

 わたしは、この時代の大切な課題は、「家庭の回復」だと思ってやみません。4人の子育てで、家内と心掛けてきたのは、冒頭に掲げた、聖書のことばのような「家庭」でした。そこに記された家庭は、物質中心の集団ではなく、愛とか理想とか幻とかの「精神中心の場」であるように、示唆されています。そこには喜びが溢れていて、物を持ち、お腹がいっぱいにされる満足ではなく、精神の高さによる満足に違いありません。

 地球上の最高の「堡塁(ほるい)」が家庭です。親子喧嘩、兄弟喧嘩が繰り返された父の家でしたが、あれって recreation(レクレーション/気晴らし)だったように思い出すのです。あの時、住んでいた街で、一番賑やかな家だったのではないでしょうか。自分が、家に帰って来るたび、『お母さんいる?』と言って家に入るというわたしに、近所のおばさんが、〈 mother  complex 〉だ、と言ったようです。

 夫と四人の男の子が、『無事であるように!』との願いを祈りで表し、神のいますことを示してくれた母でした。信仰を強要しませんでしたが、クリスチャンを生きていた母の生き方に、強さをみていたのです。何度か病んで、死線を彷徨っていた母の無事を確かめたかったのでしょう。やがて、家族は、母の信仰を継承したのです。

 喧嘩ばかりの家庭でしたが、母が父の家を回復したのです。だれも、理想的に、成功的に人生を歩むわけではないのでしょう。成功者の陰にも、辛い経験があって、それを乗り越えて生きてきたのでしょう。恵まれない環境に中で生まれ、生きてきても、素晴らしい出会いがあったり、懐かしい出来事があって、力付けられる時あって、『生きていてもいいんだ!』と、得心して生き抜いた人だっているのでしょう。

 それは、全能者、創造者の元に帰るための切っ掛けになるに違いありません。『継母のヨシエに、蔑ろにされたことがあった!』と、母と一緒になる時に、父が自分の過去を語ったのだと、母に聞きました。弱さも、自分の妻となる母に漏らしたのでしょう。その継母が亡くなって、自分も老境に差し掛かった頃、『ヨシエさんは、あの時代、シュークリームを作ったり、いろんなものを作って食べさせてくれ、料理が上手な人だったよ!』と言って、継母を懐かしんでいたことがあります。

 腹違いの弟や妹の弁当と、自分の弁当に差別があったのだそうですが、きっと思い込みや拗(す)ねた思いがあったのでしょう。子どもだった父にありそうなことです。実際、辛いこともあったのでしょう、でも歳を重ねて、それを忘れたり、赦したりして、イエス・キリストを、救い主と信じて、父は帰天したのです。

 豊かな食卓で育っても、貧相なおかずを食べて大ききくなっても、神のいます事を信じられたら、万事は益になるのでしょう。オジヤもスイトンも、懐かしくって、時々無性に食べたくなってしまいます。母は作っても、自分では食べなかったのです。子ども頃、そればっかりで育ったからだそうです。二人っきりのわが家は、「病と果敢に闘う妻」と伴にいて、今日も「平和」でおります。

(中近東で食べられる「パン」です)

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秘訣

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 『あなたが畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、それを取りに戻ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。あなたの神、主が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。  あなたがオリーブの実を打ち落とすときは、後になってまた枝を打ってはならない。それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。 (申命記241920節)』

 1960年代の終わり頃でしょうか、それまでリール式のテープに録音する大きなものでしたが、左手で掴めるくらいの大きさの「カセット・テープレコーダー」が発売されました。当時、わたしの初任給が、25000円で、その半分ほどでしたから、ずいぶん高額で買ったのです。何か高額な「若者のオモチャ」のようでした。

 Sonyの製品で、後になって知るのですが、井深大(まさる)という方が、この会社の創業者の一人で、この方がクリスチャンだったのです。大少年は、機械いじりが大好きだったそうで、時計などを見ると、親戚の家に行っても分解をし始めてしまうほどで、親戚は、彼がやって来ると、家の人は機械類を隠してしまったそうです。

 このわたしも、ドライバーとかペンチを持つと、機械を開いてみたくなってしまったのです。どうして動くのかが不思議で、科学する子どもだったようでした。そんなわたしを、父は叱らないで自由にさせてくれたのです。一番の不思議は、父の机の上に置かれてあったモールス信号機でした。どうして、線で繋がっていない遠方の地に、信号を送れるのかが不思議でならなかったのです。
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 あのままだったら、Jiny という企業を創業できたかも知れませんが、飽きっぽいわたしでしたから、だめでした。この井深大は、世界的な企業人ですから、cream cake が似合いそうですが、あんころ餅が好きだったのだそうです。わたしたちの住む街の北にある日光の出身で、会津藩士の流れを汲む家柄だったそうです。

 父より一学年上の同世代でしたし、父もあんこのきんつばが好きでしたから、何とはなしに親近感があった人でした。この井深大が書き表した、1946年の Sony「設立趣意書」には、次のようにあります。

 『・・・技術の力で祖国復興に役立てよう』、『不当なる儲け主義を廃し、・・・・徒(いたずら)に規模の拡大を追わず、』とあります。早稲田に学んだ人でしたが、恩師の影響でキリスト教会に導かれ、信仰を持たれたのです。「祈る企業人」だったのでしょうか、世界的な企業になっていったわけです。

 聖書には、「弱者保護規定」が多く見られます。Sony は、心身上に障碍を負われた方たちを多く雇い入れ、働く機会を提供してきた企業です。ここにも、世界的に名を馳せて、《良い物作り》にしてきた秘訣がありそうです。

(「カセットテープレコーダー」、「落穂を拾うルツ」です)

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京都府

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 祇園とか鴨川、御所や二条城などを代表とする京都は、長く日本の首都であった街です。この京都は、第三高等学校が置かれた学都でもありました。その三高の寮歌は、1905年、澤村胡夷によって作詞されたものです。次の様な歌詞の歌で、京都が、どんな街であったかが歌われています。澤村は、1903年に三高に入学しており、在校時に作詞していますが、その七五調の歌詞の文才に驚かされます。

1.紅萠ゆる丘の花
早緑匂ふ岸の色
都の花に嘯けば
月こそかゝれ吉田山

2.緑の夏の芝露に
残れる星を仰ぐ時
希望は高く溢れつゝ
我等が胸に湧返る

3.千載秋の水清く
銀漢空にさゆる時
通へる夢は崑崙の
高嶺の此方戈壁の原

4.ラインの城やアルペンの
谷間の氷雨なだれ雪
夕は辿る北溟の
日の影暗き冬の波

5.鳴呼故里よ野よ花よ
こゝにも萠ゆる六百の
光も胸も春の戸に
嘯き見ずや古都の月

6.それ京洛の岸に散る
三年の秋の初紅葉
それ京洛の山に咲く
三年の春の花嵐

7.左手の書にうなづきつ
夕の風に吟ずれば
砕けて飛べる白雲の
空には高し如意ヶ嶽

8.神楽ヶ丘の初時雨
老樹の梢傳ふ時
檠燈かゝげ口誦む
先哲至理の教にも

9.嗚呼又遠き二千年
血潮の史や西の子の
栄枯の跡を思ふにも
胸こそ躍れ若き身に

10.希望は照れり東海の
み富士の裾の山桜
歴史を誇る二千載
神武の子等が起てる今

11.見よ洛陽の花霞
櫻の下の男の子等が
今逍遙に月白く
静に照れり吉田山

 三高(京都大学)には関わりがありませんが、この京都は、何と言っても、父が母が結婚して、最初に住んだ街であることを知ってから、自分では、そこに住むことは考えたことも、願ったこともありませんでしたが、どんな街か興味を持ち続けてきました。父母の暮らした、昭和も戦争前の時期の京都は、どんな風情の漂う古都だったのでしょうか。市電が走ったり、生活はゆったりとして、落ち着いた街だったに違いありません。今でも、高い建造物が規制された街なのです。
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 華南の街を飛び立って、関西空港に着いて、特急電車で京都に行き、そこからバスに乗って、どうしても訪ねたかったのは、京の風物詩を学んだことのあった、洛北の「大原」でした。京の街に、山道を下って、炭や薪を頭に乗せて、売り歩いた街道を歩いてみたかったので、家内と一緒に念願の投宿を、帰国の度、2回続けてしてみたのです。

 どこにもある山村でしたが、思い入れがあると、特別なのででょうか、一泊を二泊に延ばして、民宿の宿に泊まりました。中華の味に慣れていたわたしたちは、そこで夕食に出された、「味噌仕立ての鍋」が、ことのほか美味しかったのです。夕食後、壺の様な個人用の湯船に浸かっていたら、はらはらと雪が待っていたのも日本情緒を満喫させていただいた夕どきでした。

 村の喫茶店に入ったら、話好きな女主人に気に入られ、『次に来たら、家の方の玄関に訪ねていらっしゃい!』と言われたのですが、訪ねずじまいで去ってしまいました。歌で歌われるほど、寺院で有名ですが、家内も私も、お寺には関心がなく、人や人の営みにありましたので、街歩きをして、道の駅に寄ったりして、大原の静かな佇まいを楽しんだのです。

 久しぶりの日本を満喫して、バスで、京都駅に出て上京したのですが、乗る予定の電車を遅らせて、しばし京の街歩きをしてみたのです。その街中で飲んだコーヒーが美味しかったのです。京都人は、古都に住みながら、舶来の珈琲を、よく飲むのだそうで、軒を連ねて喫茶店があって、東京では見られない光景でした。modern な街でもあるのです。

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 中学の修学旅行でも、訪ねたことがありました。歴史で学んでいる京都や奈良は、教科書の挿絵では感じられない、実際の様子に、日本人の〈心のふる里〉を感じさせるものがあった様でした。それよりもなによりも、バスガイドの笑顔と京言葉に、男子だけの学校の中坊のわたしたちにとっては、窓外の景色どころではなかったのを思い出して、苦笑いの今です。

 京都府は、日本海にも面していて、戦後の大陸からの66万もの引き揚げられた方々の帰港の港「舞鶴」があります。また日本海沿岸の港に寄港して、物資を運んだ北前船の主要な寄港地で、若狭街道の宿場町でもありました。京の都にも近くて、大変に栄えた商都でした。何よりも京都は、平安京の都であったことで、かつての日本の中心であったわけです。今住む下野国は、さらに「陸奥(みちのく)」の東北地方の入り口で、京都からは、随分と遠隔の地だったのでしょう。

 人口が255万、府都は京都市、府花は枝垂れ桜・嵯峨菊・撫子、府木は北山杉、府鳥はオオミズナギドリ、県の75%は山地なのです。府の北に、福知山という地があり、母の故郷に帰って行く途中に通過駅がありました。旧国鉄の福知山線の駅なのです。八歳の時の旅での駅名や駅舎の記憶が、なぜか鮮明なのです。丹波の地あって、藍染で古来有名な街です。

 明治を迎えて、首都機能を東京に譲った後、画期的な出来事は、わたしにとっては、「同志社」の誕生なのです。アメリカに密航し、請われて使節団の通訳をした新島が、帰国してから、維新政府の外務に携わるのではなく、着手したのは「キリスト教主義の教育」でした。その開校する英学校を、京都に求めたのです。名だたる寺院や神社の多い街で、長く禁教されて、その時も激しい反対のあった時代、キリストの旗印を、恐れずに掲げたのは、驚くべきことだったと思うのです。

 新島のことばに、『教育と宗教を併行せしむるにあり。』があります。神を知り、神を畏れ、神に従う人を養成することを掲げて、信仰と教育を一つにしようとした同志社は、今も関西私学の雄であります。有為な人材を、この学校は輩出しますが、新島自身は、46代で没してしまいます。私は、そこで学んでみたかったのですが、叶いませんでした。

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 わたしたちの住む栃木の隣県の安中には、同志社開学前に、新島が伝道して建て上げられたキリスト教会が、今もあります。戦後に、revival があったそうで、たくさんの人たちが救われ、受洗をしたのですが、江戸期よりもなおも激しい弾圧の中での、新島襄の挑戦的な宣教への志は、大変なものだったに違いありません。

 わたしを教え導いてくださったアメリカ人宣教師は、日本の「要の街」と、京都を捉えていて、この地で、生涯の最後の宣教をされました。九州、北海道、関東、中部と宣教に働きをして、最後は、この京都でしたが、病を得て、大阪の病院から東京に移られて、66歳で帰天されたのです。日本人を愛されて、日本人に仕えた尊い器でした。

 終戦間近、アメリカ軍が、焼夷弾を落とさずに、この京の街を戦火で焼かなかった決断は、流石だと思います。ロシアのプーチンが、無差別攻撃を仕掛けている今、《良心》があるかないか、《人の命の重さ》を意識するかしないかの違いが鮮明です。九世紀の後期に、住み始め、主要な街として、都市機能を果たしてきた「キーウ(キエフ)」を、遥か西に思って、また悲しさがつのります。

(「嵯峨菊」、「舞鶴港」、京名物「八ツ橋」です)

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もう行かなくては

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 神よ聞いてほしい。 自分はこれまで一度も、あなたと語らったことはなかった。 でも今日、僕はあなたに語りかけたいと思う。 知っての通り、子どもの時から「神など存在しない」と言 われ続けて、僕は大きくなりました。

 そして、愚かにもそ れをまともに信じてきたのです。 これまで、あなたの造った被造物に目を注いだことはありませんでした。 でも今晩、手榴弾沿いにある塹壕の中から、僕は天を見上げてみました。

 頭上に光る星空。僕はそのまばゆさに驚いた。 そして、その時ーーきわめて突如としてーー、僕は分かっ たのです。 一つの嘘が、どれほど残酷なものになりえるかって。    自分にはわからない。

 でも神よ、あなたは僕に御手をのばしてくれますか。 こんな地獄の真ん中で、僕があなたを知るに至ったということ。 そして、その光を見たということ。 これは実に驚くべきことではないでしょうか。

 それが僕の打ち明けたかったことです。 それからあともう一つ。 あなたを知ることができて、僕はうれしかった。 今晩、僕たちの部隊は戦線に出ます。

 でも今ふしぎに、怖くないのです。 あなたが僕たちを見ておられるのだと思います。 あ、指令が来ました。もう行かなくては。 あなたと話せて本当によかった。 

 知っての通り、戦火は激しくなる一方で、それで、もしかしたら、今晩にも僕は、あなたの戸をノッ クすることになるかもしれません。

 これまで一度も私はあなたを友としてきませんでした。 それでも、僕を受け入れてくれますか。 今、僕は泣いています。 おお、わが神よ。 そして僕の目はあなたの光を見ています。 さようなら。

 もう行かなくては、、、そして、僕はもう二 度と、、戻ってこないでしょう。 でも不思議です。 今、僕の中で、死に対する恐怖がまったくないのです。

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 これは、第二次世界大戦中、対ドイツ戦で戦死した、ひとりのロシア人兵士のポケットから見つけ出された一編の詩です。今、戦時下にあるウクライナにも、ロシア兵もウクライナ兵が戦いの前線に立っています。しかもその多くは若者に違いありませんが、彼らは軍命に従い、或いは意を決して従軍して、銃器を手にし、戦車を操縦し、戦っているのです。

 戦没学徒の手記を読んだことがあります。戦死した若い予科練の兵士たちの遺書です。祖国の父や母や兄弟姉妹、恋人たちを守ろうと、戦地に赴いた若き兵士たち、そればかりではなく、妻や子を祖国に残して、大陸や南方の戦線で戦って、戦死した兵士たちがいました。

 数限りない魂の叫びが、この地球上には、谹(こだま)しているのではないでしょうか。専守防衛の戦いも、侵略の攻撃も、どんな大義名分があっても、過程も結果も、死と破壊です。このロシア兵の亡くなられた年齢の時節を、私も過ぎて、平和な年月を経て、今日があります。神から賜ったいのちが、こういった形で失われることを悲しむ、” golden  week 2022 “ であります。

(戦士が防弾にために被る helmet です)