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『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ4章16~17節)』
昨日、久々に友人夫妻が訪ねて来て、珈琲と紅茶で交わりを持ちました。「空中携挙」が話題になって話が弾んでいました。その聖書を題材にしたアメリカ映画があるとのことで、youtube で検索しましたら、“ Left behind “ が見つかって、夕食後、家内と観たのです。
上のイラストには、二つに群れが、印象的に描かれています。天に携え上げらて行く一団と〈置いてけぼり〉をくった一団です。居残りの人々の慌てぶり、驚き、不可解さ、混乱が、その映画に映し出されていました。パウロが、テサロニケの教会に書き送った手紙に、『生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。』とある、聖書を思い出したのです。
実は、このパウロの書き送った書簡のことばには、背景があって、イエスさまの次のことばがあります。
『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 (ヨハネ14章2〜3節)』
「父の家」とは、やがて私たちが迎え入れられる、永遠に住まう場所を言っています。〈置いてけぼり〉にならなかかった人々の中に、私もいるとの確信を持っていますが、いつ来てくださるかは判りません。でも、そう遠くない時だと信じているのです。その時までに、たとえ死んだとしても、わたしは死から蘇って、永遠のいのちに預かれるという希望があるので、落胆しないと思っています。願わくば、携挙の恵みに預かりたいのです。
なぜ、そんな思い、確信があるのかと言いますと、わたしは、神と和解させていただいたからです。神がいますことは、幼い日から知っていましたし、母の生き方を見て納得できたのです。弱さも、辛さもあって、それを超えさせていただいて生きていた母の姿です。自分自身も、罪人であることを知って、その罪の処分をイエスさまが、十字架で受けてくださったと信じられたからです。このイエスさまは、神の怒りをなだめる供え物となって、十字架で神の「義」を顕されて、ご自分を信じる者たちの罪の身代わりとなってくださったのです。わたしたちに代わって、罪の処罰を受けて死んで下さったのです。
猜疑心の強い私は、母がキリスト者として、生きている姿を見て育ちました。子どもの頃は、兄たちや弟と共に、電車に乗って、キリスト教会の日曜学校に連れて行かれていました。年頃になって、わたしたちは教会から距離を置いてしまったのです。母は、子どもたちの救い、守りを願って祈りに専心し始めたのです。諦めませんでした。わたしたちは、学校を出してもらって、仕事をし始めた頃に、それぞれに導かれて、再び教会に行くようになりました。自分の罪が判ったのです。神を信じた母の生き方からの感化が、強烈に刷り込まれていたからに違いありません。
上の兄は、国体予選のラグビーの試合で、草薙球場のグラウンドで、人事不省の大怪我を負って、入院し生死の間を彷徨いながら、恐ろしい夢を見て、退院しました。病後の不安定な時期に、社員寮の近くの教会に飛び込んで、信仰を持ったのです。それは聖誕節の時季だったそうです。そこでバプテスマを受け、やがて牧師にもなりました。喧嘩が強く自立心の強い次兄は、働きながら大学を終え、結婚式の日にバプテスマを、義姉と共に受けたのです。腎臓疾患を通して、母と同じ信仰に帰ったのです。弟はキリスト教主義の高校に進学し、キリスト者の教師と出会って信仰を明確にし、バプテスマを母の行っていた教会で受け、母校の教師に招聘され、教師になりました。礼拝でも、クリスマス会でも、成人祝福式にも聖書から、生徒や卒業生に説教をしていました。三男の私は、『万ちゃんがひどい怪我をしたから分かるけど、準ちゃんは、何の問題もないのに、信仰を持ったのはどうして?』と近所のおばさんに聞かれたほど、何の問題もなさそうに見えたのです。でも生活も心も荒れ、言うことも憚るような問題だらけでした。教師になった時、『これじゃあいけない!』と、生活を改めようとした頃に、素晴らしい経験がありました。
兄が、宣教師の留守の教会のお世話のために、福岡県に行っていた時に、鹿児島に出張を命じられた私は、一日早く出掛け、兄家族の住む街を訪ねたのです。そこでわずかばかりの学生たちの魂の世話をしている、全く変わっている兄の生き方を見て、驚いたのです。蹴飛ばされ、殴られ、酒飲みで麻雀狂だった兄の豹変ぶりは、聖なるショックでした。その出張期間は、生活を改めて帰郷しました。その秋には、兄は、母の教会の牧師になって戻っていました。
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その教会に、宣教師の友人で、ニューヨークの神学校で教鞭をとっていて、教え子たちが宣教活動をしていたアフリカに、問安に行く途中に、訪ねて来たのです。彼の特別集会に出た私の頭の上に、この方が手を置いた時、私は神に触れられる経験をしたのです。そのアラブとギリシャの血の流れる牧師で教師を通して、聖霊なる神が、私の舌をコントロールしたので、「異言」を語ったのです。その母が所属していた教会に、中華系のアメリカ人牧師が訪ねたことがあったようです。多くの人たちが、聖霊に触れられて異言を語る教会になっていたのです。単立の教会でしたが、長老主義の教会で、聖書を神に霊感を受けた書として、単純に信じていた教会でした。
母に誘われて、この教会に、オランダやアメリカから説教者が来ている時、集会に誘われ、母の顔をたてて出席していたのですが、得体の知れないことばを語ること、語っている人を嫌悪していました。それなのに、それに抗することが出来ずに、語ってしまったわけです。自分の意識は明確でしたし、精神的に錯乱などしていませんでした。その時、十字架が判ったのです。母のためではなく、私個人のための十字架だと判って、赦された確信で大泣きしたのです。そして、『いつか、この説教者のように献身したい!』との思いが突然湧き上がってきたのです。
やがてわたしは、五年ばかりの仕事をやめて献身し、34年間伝道をし、13年宣教の働きをさせていただいたのです。今は、新型コロナ感染症などの疫病、ウクライナ問題などの戦争、地震の頻発などの自然災害、自殺者増加、家庭の破壊などの問題が山積されていて、世は数末に様相を見せていて、「ヨハネの黙示録」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」、「マタイの福音書」、「ルカの福音書」などの聖書記事が預言していることが起こっています。
この映画を見て、信仰者の携挙は聖書的だと思いました。でも、全ての子どもが携挙に預かれるかどうかは判りません。アダムの犯した罪は、全人類に、例外なく及んでいるからです。なぜなら聖書は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 (ローマ3章23節)』と記しています。「免罪符」を買っても、善行を積んでも駄目です。人は、神の前に罪を犯したからです。
わたしも罪の奴隷状態の中にいました。良い行いに生きよとしていましたが、足も手も目も心の思いも、いつも悪に向かって行き、罪を犯し、失敗を悔いては落胆していました。罪が住み着いているように感じ、努力しても全く駄目でした。表立っては品行方正な青年を演じながらも、あのおばさんのように見られていた様に見えたのです。
その出張中、教会堂に隣接した兄たちの住居で、食事をして、いつものように、『一服していい?』と聞いて、タバコを吸おうとしたのです。『ここは教会だから!』と言われて、『そうだね!』と殊勝にも納得して、滞在中も熊本に行っても禁煙していました。出張を終えて、いつもの生活のパターンに戻るのですが、それまでとは違うのです。神に向いて方向が変えられていくのです。キャバレーに飲みに誘われても、『ちょっと用があって!』と断れるように代わっていきました。
生き方を変えていこうとしていたわたしに、内なる放蕩心は、『そんなんでいいのか?』と、古い生活に戻るような強烈な claim が囁き続けていました。そんな秋に、あの元ボクサーで、斜視の説教者が、やって来られて、頭の上に手を置いたのです。この方は、アフリカからの帰り道、羽田で降りて、またやって来たのです。
婚約式の日の昨夜でした。この方の説教で式が行われ、祝福のお祈りをされてから、教員を辞めて献身の道に進むようにされたのです。そんな願いを持っことなど、それまで全くなかったのに、不思議なる導きとしか言いようもなく、それ以降一度もへこたれることなく伝道者の道を歩んでいます。長男は、同じ伝道者になって、教会の主に仕えています。滅び果てても当然な悪童が、そんな人生に生きて今日があります。
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わたしの救い主イエスさまは、迎えに来られて、天に携え上げてくださる希望に溢れています。あの映画に見られるような、無秩序にはなりません。事は、秩序正しく整然として行われます。交通の混乱、騒動などはありません。ただ、置き去りにされた方たちは、亊の次第が飲み込めずに、茫然自失するだろうと思います。あのノアが箱舟を建造しているのを、嘲笑しながら眺めていたあの時代の人々、ノアの誘いを拒んだ人々は、箱舟のかんぬきが下されてしまった後、船に乗ろうとしても遅かったぼです。彼らも取り残され、置き去りにされたのです。ノアたち8人は、水を通って救われたのです。
今は、「恵みの時」だと聖書は言っています。方向転換をし、罪を認め、悔い改めて、十字架の贖罪の御業を、幼な子の様に信じるなら、誰でも救われるのです。
『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。(使徒16章31節)」
再び、今度は私たちを迎えにおいでくださるイエスさまにお会いできる、そんな神秘的な経験をすることができるです。主の再臨の日まで、生きていたい願いでおりますが、そうならなくて、今まさに、驚いたり悲しんだりする出来事を見聞きして、意気沮喪するのではなく、驚くほどに輝かしいことが待ち受けているとしたら、そんな幸いなことはありません。
その映画で、面白かったのは、保守的な基盤の教会の牧師さんが、置いてきぼりになって、彼の話を聞いて、単純に信じたご婦人が、携挙されていた対比が、American joke だと思いましたが、そんな humor があり得るかも知れません。天国に行って、驚くべことは、〈いるべきだと思っていた人がいない〉、〈いることなどないと思っていた人がいる〉、そして〈このわたしが永遠のふるさとに帰っている〉のかも知れません。
(「ある信徒」の方、「キリスト教クリップアート」のイラストです)
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