にふぇーでーびる

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「栄冠は君に輝く」

雲は湧(わ)き 光あふれて
天高く 純白の球 今日ぞ飛ぶ
若人よ いざ
まなじりは 歓呼に答え
いさぎよし 微笑(ほほえ)む希望
ああ 栄冠は 君に輝く

風を打ち 大地を蹴(け)りて
悔ゆるなき 白熱の力ぞ技ぞ
若人よ いざ
一球に 一打に賭(か)けて
青春の 讃歌を綴(つづ)
ああ 栄冠は 君に輝く

空を切る 球の命に
通うもの 美しく匂える健康
若人よ いざ
緑濃き 棕櫚(しゅろ)の葉かざす
感激を 目蓋(まぶた)に描け
ああ 栄冠は 君に輝く(加賀大介作詞・古関裕而作曲)

 1958年、昭和33年の夏、甲子園球場で行われた第40回全国高等学校野球選手権大会で優勝したのは、福岡県代表の柳井商業高校でした。この大会の出場校で注目されたのは、戦後初めて沖縄代表として首里高校が出場したことでした。

 その年は、47都道府県から、一校ずつが出場した記念大会だったのです。第一回戦で、福井県代表の敦賀高校と対戦し、惜しくも1対3のスコアーで敗れてしまいました。甲子園のグラウンドの土をビニールに入れて、沖縄に持ち帰ったのですが、「外国の土」だと言う植物検疫上の理由で、悔しくも海に捨てさせられてしまったのです。

 この大会では、東京都の代表となったのが、明治高校でした。すぐ上の兄も、甲子園を目指した高校球児だったのです。今では、東京都からは東西二校が選出されていますが、厳しいトーナメント戦の結果、明治大学の系列校の明治高校の一校だけの出場でした。

 同じ学校の敷地のグラウンドでは、野球やハンドボールの練習が行われ、体育館では中学校の籠球部(バスケットボール)練習が、高校生と一緒に行われ、私は中学2年で、兄弟で汗をかいていました。

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 「甲子園の土」は、那覇港の海に捨てられたのですが、日本航空の一人の客室乗務員の方が、40個ほどの小石を、グラウンドから集めて、首里高校の野球部に届けたのだそうです。今も、その石は、首里高校の校内の甲子園出場記念碑の中に埋め込まれてあるそうです。

 沖縄が、日本本土の scapegoat の様にしてあり続けたことに、ただ感謝するばかりです。戦後の国防問題、国境問題、極東問題の渦中で、米軍基地を設け続けて、犠牲を払ったくださったわけです。琉球王朝や薩摩藩の領地などの過去と今、そしてこれからの日本にとっても、重要な位置にあるのでしょう。一言、『にふぇーでーびる(琉球方言で “ ありがとう” です)!』と言いたいのです。

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平和を希求する

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 この5月15日に、《沖縄返還五十周年》を迎えました。長男が生まれた年1972年のことでした。沖縄が日本に復帰したことは、本当の意味で戦争が終結した年だったのかも知れません。

 「戦争と孤児」、戦争が子どもたちから、父親を奪い去ります。そして戦争が、父なし子を、占領地に産み落とすのです。たとえ戦争に正義の戦争があったとしても、この子たちにとっての戦争は、人道上の犯罪、生命軽視に違いありません。お父さんの遺品の軍帽をかぶって、別府の町でチャンバラごっこをして、少年期を過ごしたことを、話してくれた級友がいました。

 彼のお父さんは、中国の各地を転戦した職業軍人でした。敗戦と同時に、蒋介石率いる「国民軍」に参加して、中国大陸で戦死するのです。彼には、高名な陸軍大将だったおじさんがいましたし、お国のために戦い、主義主張のために死んでいった父親への誇りがあったに違いありません。

 それでも、写真に写ったお父さんの面影しか知らない、抱かれた実感を持たない青年だったのです。戦争は、彼から父親を奪い去ったことになりますし、彼の子どもたちから、おじいちゃんを取り去ったことになります。

 私の父は、戦争中に、軍需工場の工場長をしていました。零戦の戦闘機や爆撃機の部品の生産にかかわる仕事をしていたのですから、私は、陸軍が父に支払った俸給で買った食料で生きていた母の母乳や、購入したミルクや離乳食で育てられたことになります。

 それででしょうか、私は戦後に育った子であるのに、軍国少年魂を、亡霊のように内に宿して、予科練に憧れていたのです。『若い血潮の予科練は・・』と、七つボタンで身を包んでいるような錯覚に陥った私は、そう高吟するのが好きでした。

 そんな私を見て、『予科練ではなく海軍予備学生に憧れなさい!』と母が言うのでした。母には、広島・江田島にあった海軍兵学校に通い、戦死した幼馴染がいたのです。その母が結婚したのも、横須賀の海軍一家の青年だったのです。父のことですが。

 そんな背景の私は、平和を与えられ、救援物資で養ってくれたアメリカを敵国だと思っていました。でも、『こんな非道なことをする日本人が変えられるのは、福音以外にはない!』、そう願う、アメリカの教会から遣わされた宣教師の建てられた教会に、母が導かれるのです。私たち4人の兄弟は、その教会で信仰を持ったのです。そして上の兄と私は献身させていただきました。

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 そして私は、アメリカ人宣教師から聖書の読み方や学び方や組織神学、さらには妻の愛し方や子どもの育て方まで教わるはめになるのです。軍国少年が、元アメリカ空軍のパイロットと至近の距離にいて、7年間共に働き、学ばされたのですから、彼の忍耐がどれほどだったか想像に難くありません。

 イエスさまは、「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣によって滅びます(マタイ26・52)」とおっしゃいました。私は、自分の腰にではなく、心の中に吊り下げていた剣を捨てる必要があったのです。生まれながらに受け継ぎ、自ら好んで求めた「軍国主義の霊」とか「軍国少年魂」と言うものがあるのでしょうね。そういった亡霊や精神を取り扱われ、除くのは、一筋なわでは行かないことだったようです。今は、天のふるさとにお帰りになられた宣教師さんに心からの感謝を覚えるのです。

 真珠湾攻撃の攻撃隊長であった、淵田美津雄さんという方が、戦後クリスチャンになられて、伝道者の道を歩まれました。中野にあった教会で、この方のお話を聞いたことがあります。父の世代の方でした。軍人が、柔和な表情の伝道者になっておられたのですから、喧嘩に明け暮れ、心のすさんでいた軍国少年だって、「天国の使いっぱしり」にはなれるんだ、と思はされた出会いでありました。

そういえば、私を育ててくださった宣教師は、有名な工科大学を出て、軍に籍を置いていましたが、一人の日本への宣教師と、テキサスの街で出会い、その潔く堅固な人格に触れて、彼もまた宣教師となって、日本にやって来られた方でした。

 日本が敗戦間近に生まれ、戦争放棄をした戦後に、私は育ったのです。小学生の始め頃は朝鮮戦争、青年期にはヴェトナム戦争があり、それ以上に東西の零戦の時代が、長く続いたのです。湾岸戦争などがあって、今はウクライナへのロシアの侵攻があって、戦争の噂や戦闘が止みません。やがて、イスラエルの都、エルサレムに進軍して行くのでしょうか。ただウクライナの地に「平和」が戻ることを希求するばかりです。 

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農作業

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 「立ち直り支援」で、『今日は一日、少年たちと一緒に、農作業をしました!』と、団塊世代のおじいさんになった弟が言って来ました。それが嬉しいのか、彼らが、心を開いて、いろいろ話し始めてくれたのだそうです。

 長く教師をしながら、生徒指導の立場から、盛場で子どもたちに「声掛け」を、警視庁のスタッフとやって来て、今は、そんな奉仕を、喜んでしているのでしょう。母校の教師を退職して、学校の理事や教員の相談員、都内の小さな規模のチャーチスクールの教師、都内の盛場での見守りをして来て、75歳を機に、全てを終えても、気掛かりなのでしょう、警視庁の要請もあって、支援活動を続けているのです。

 『そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。(創世記323節)』

 人類最初の労働は、「土を耕すこと」でした。それは、罪を犯した人が、「エデンの東」の地で、生きるため、悔いて立ち直りに向かって生きて行く上で、創造主の委任でした。「農業」には、土から造り出された人に、糧を得させるためだけではなく、人の生を肯定し、神の創造の世界に関わって行くためなのかも知れません。

 第一次産業に関わる人が減って来ていますが、壊れた心や家庭や社会を再生して行くために、土を耕すことには力がありそうです。世界中で休耕地が増えていますが、人間関係に疲れた人、傷ついた人を癒す力が、「土」にはありそうです。土いじりだけではなく、時期が来て収穫を手にすることに、喜びがあるからです。

 素手で、「土」に触れることには、再生の力、命を宿し、生み出す力に触れることなのでしょう。先週、ベランダに、茄子や三つ葉の苗をいただいて、鉢の土の中に植えました。もう根付いて、イキイキとして来ています。土の感触を楽しめて、手も心も喜んでいます。「土や「農」に触れて、この時代の傷ついた子たちが、生きる喜びを感じ、一緒に作業する喜びで、再起していくために、好い奉仕が続けられることを願いつつ。

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すごい!

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 主イエスさまは、「狭い門から入りなさい・・いのちに至る門は小さく(マタイ7:13~14)」とおっしゃいました。これは、日本で最も難関だと言われている「公認会計士」の国家試験に合格することの難しさを言っているのではありません。「神の国」とか「救い」に至る道の難しさのことを言っているのです。

 ところが人の習性は、多くの人がくぐり抜けている、人気を取れる門を選ぶ傾向にあります。そう言った人が生来持っている習性を、日頃、痛感している、キリスト教会は、彼らの友や理解者となるために、その敷居を低くする努力をします。ですから、『罪のことは言わない!』、『裁きには触れない!』、『地獄がある事も語らない!』、そう言った努力を払います。『そのうち分かるからいい!』と思っているのです。

 人々の関心亊を知るために、群集心理学で人心収攬の術を学ぼうとします。効果的な宣伝術を学ぶのです。『現代人が求めるものは何か?』のデータ収集のために市場調査もします。多数の人のニーズ(必要とか欲求)に見合ったプログラムを組み、人々がひきつけられるイベントを企画します。

 『教会って楽しい所なんです。決して堅苦しくて暗いイメージはないんですから、難しい事は後になって分ればいいんです!』と言って、彼らを招きます。『罪を犯したら、悔い改めればいいんですから、罪、罪とあまり神経質にならないほうがいいのです!』と実に寛容なのです。

 そうしますと現代版翻訳は、『広い門から入りなさい。いのちに至る門は広いのです。それを見出すものは多いのです!』になります。そうしますと教会には、たくさんの人が集まることができるのです。

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 ところが信仰生活や教会生活について、主は、「いのちに至る・・道は狭く、それを見出す者はまれです」とおっしゃっておられますから、どうも、クリスチャンとなって、進み行くのは平坦で安易な道ではないようです。主について行くのは、群衆が願って行こうとしているのとは全く違う道なのです。

 それは、十字架への茨の道であります。唾され、打たれ、嘲られ、罵倒されて、主イエスさまはカルバリーまでの十字架への道を行かれたのです。そこには拍手も喝采も歓声も聞こえませんでした。3年半の間、ついて来た弟子たちにも、主は見捨てられました。

 「狭い」とは、《苦難や試練やトラブルがあること》を言っているのです。ですから、平穏無事であることは全く約束されていません。世の中の苦難や試練やトラブルを避けて教会にって来た人は、新らしい意味で、困難で苦痛に満ちた門をくぐって、同じくトラブルの連続の道を行かなければならないわけです。

 ですからイエスさまは、「わたしについて来たいと思うなら・・日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:24)」とおしゃったのです。もし私たちの信仰が《本気》なら、みことばに従おうとするなら、そして主の弟子となろうとするなら、どうしても、この《狭さ》の中を行くことになります。私たちが「神の子」なら、苦悩する事や困難が矢継ぎ早にやってくる事を覚悟しなければなりません。

 ところが、そういった道を選び取った人には、特別な祝福があります。「助け主」とか「激励者」とか「勇気付ける方」と言われる、聖霊なる神さまが、一緒にいてくださり、伴走してくださるのです。「特別な恩寵」をいただけるのです。また、走破した聖徒たちが、歓声を上げて見守っていてくれるのです(ヘブル人への手紙12・1)。御使いだって、私たちに仕えていてくれるのです。すごい!

(写真は、エルサレムの「ドロローサの道」、「黄金の門」です)

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携挙

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 『主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(1テサロニケ41617節)』

 昨日、久々に友人夫妻が訪ねて来て、珈琲と紅茶で交わりを持ちました。「空中携挙」が話題になって話が弾んでいました。その聖書を題材にしたアメリカ映画があるとのことで、youtube で検索しましたら、“ Left  behind “ が見つかって、夕食後、家内と観たのです。

 上のイラストには、二つに群れが、印象的に描かれています。天に携え上げらて行く一団と〈置いてけぼり〉をくった一団です。居残りの人々の慌てぶり、驚き、不可解さ、混乱が、その映画に映し出されていました。パウロが、テサロニケの教会に書き送った手紙に、『生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。』とある、聖書を思い出したのです。

 実は、このパウロの書き送った書簡のことばには、背景があって、イエスさまの次のことばがあります。

 『わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。  わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 (ヨハネ1423節)』

 「父の家」とは、やがて私たちが迎え入れられる、永遠に住まう場所を言っています。〈置いてけぼり〉にならなかかった人々の中に、私もいるとの確信を持っていますが、いつ来てくださるかは判りません。でも、そう遠くない時だと信じているのです。その時までに、たとえ死んだとしても、わたしは死から蘇って、永遠のいのちに預かれるという希望があるので、落胆しないと思っています。願わくば、携挙の恵みに預かりたいのです。

 なぜ、そんな思い、確信があるのかと言いますと、わたしは、神と和解させていただいたからです。神がいますことは、幼い日から知っていましたし、母の生き方を見て納得できたのです。弱さも、辛さもあって、それを超えさせていただいて生きていた母の姿です。自分自身も、罪人であることを知って、その罪の処分をイエスさまが、十字架で受けてくださったと信じられたからです。このイエスさまは、神の怒りをなだめる供え物となって、十字架で神の「義」を顕されて、ご自分を信じる者たちの罪の身代わりとなってくださったのです。わたしたちに代わって、罪の処罰を受けて死んで下さったのです。

 猜疑心の強い私は、母がキリスト者として、生きている姿を見て育ちました。子どもの頃は、兄たちや弟と共に、電車に乗って、キリスト教会の日曜学校に連れて行かれていました。年頃になって、わたしたちは教会から距離を置いてしまったのです。母は、子どもたちの救い、守りを願って祈りに専心し始めたのです。諦めませんでした。わたしたちは、学校を出してもらって、仕事をし始めた頃に、それぞれに導かれて、再び教会に行くようになりました。自分の罪が判ったのです。神を信じた母の生き方からの感化が、強烈に刷り込まれていたからに違いありません。

 上の兄は、国体予選のラグビーの試合で、草薙球場のグラウンドで、人事不省の大怪我を負って、入院し生死の間を彷徨いながら、恐ろしい夢を見て、退院しました。病後の不安定な時期に、社員寮の近くの教会に飛び込んで、信仰を持ったのです。それは聖誕節の時季だったそうです。そこでバプテスマを受け、やがて牧師にもなりました。喧嘩が強く自立心の強い次兄は、働きながら大学を終え、結婚式の日にバプテスマを、義姉と共に受けたのです。腎臓疾患を通して、母と同じ信仰に帰ったのです。弟はキリスト教主義の高校に進学し、キリスト者の教師と出会って信仰を明確にし、バプテスマを母の行っていた教会で受け、母校の教師に招聘され、教師になりました。礼拝でも、クリスマス会でも、成人祝福式にも聖書から、生徒や卒業生に説教をしていました。三男の私は、『万ちゃんがひどい怪我をしたから分かるけど、準ちゃんは、何の問題もないのに、信仰を持ったのはどうして?』と近所のおばさんに聞かれたほど、何の問題もなさそうに見えたのです。でも生活も心も荒れ、言うことも憚るような問題だらけでした。教師になった時、『これじゃあいけない!』と、生活を改めようとした頃に、素晴らしい経験がありました。

 兄が、宣教師の留守の教会のお世話のために、福岡県に行っていた時に、鹿児島に出張を命じられた私は、一日早く出掛け、兄家族の住む街を訪ねたのです。そこでわずかばかりの学生たちの魂の世話をしている、全く変わっている兄の生き方を見て、驚いたのです。蹴飛ばされ、殴られ、酒飲みで麻雀狂だった兄の豹変ぶりは、聖なるショックでした。その出張期間は、生活を改めて帰郷しました。その秋には、兄は、母の教会の牧師になって戻っていました。

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 その教会に、宣教師の友人で、ニューヨークの神学校で教鞭をとっていて、教え子たちが宣教活動をしていたアフリカに、問安に行く途中に、訪ねて来たのです。彼の特別集会に出た私の頭の上に、この方が手を置いた時、私は神に触れられる経験をしたのです。そのアラブとギリシャの血の流れる牧師で教師を通して、聖霊なる神が、私の舌をコントロールしたので、「異言」を語ったのです。その母が所属していた教会に、中華系のアメリカ人牧師が訪ねたことがあったようです。多くの人たちが、聖霊に触れられて異言を語る教会になっていたのです。単立の教会でしたが、長老主義の教会で、聖書を神に霊感を受けた書として、単純に信じていた教会でした。

 母に誘われて、この教会に、オランダやアメリカから説教者が来ている時、集会に誘われ、母の顔をたてて出席していたのですが、得体の知れないことばを語ること、語っている人を嫌悪していました。それなのに、それに抗することが出来ずに、語ってしまったわけです。自分の意識は明確でしたし、精神的に錯乱などしていませんでした。その時、十字架が判ったのです。母のためではなく、私個人のための十字架だと判って、赦された確信で大泣きしたのです。そして、『いつか、この説教者のように献身したい!』との思いが突然湧き上がってきたのです。

 やがてわたしは、五年ばかりの仕事をやめて献身し、34年間伝道をし、13年宣教の働きをさせていただいたのです。今は、新型コロナ感染症などの疫病、ウクライナ問題などの戦争、地震の頻発などの自然災害、自殺者増加、家庭の破壊などの問題が山積されていて、世は数末に様相を見せていて、「ヨハネの黙示録」、「エゼキエル書」、「ダニエル書」、「マタイの福音書」、「ルカの福音書」などの聖書記事が預言していることが起こっています。

 この映画を見て、信仰者の携挙は聖書的だと思いました。でも、全ての子どもが携挙に預かれるかどうかは判りません。アダムの犯した罪は、全人類に、例外なく及んでいるからです。なぜなら聖書は、『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、 (ローマ323節)』と記しています。「免罪符」を買っても、善行を積んでも駄目です。人は、神の前に罪を犯したからです。

 わたしも罪の奴隷状態の中にいました。良い行いに生きよとしていましたが、足も手も目も心の思いも、いつも悪に向かって行き、罪を犯し、失敗を悔いては落胆していました。罪が住み着いているように感じ、努力しても全く駄目でした。表立っては品行方正な青年を演じながらも、あのおばさんのように見られていた様に見えたのです。

 その出張中、教会堂に隣接した兄たちの住居で、食事をして、いつものように、『一服していい?』と聞いて、タバコを吸おうとしたのです。『ここは教会だから!』と言われて、『そうだね!』と殊勝にも納得して、滞在中も熊本に行っても禁煙していました。出張を終えて、いつもの生活のパターンに戻るのですが、それまでとは違うのです。神に向いて方向が変えられていくのです。キャバレーに飲みに誘われても、『ちょっと用があって!』と断れるように代わっていきました。

 生き方を変えていこうとしていたわたしに、内なる放蕩心は、『そんなんでいいのか?』と、古い生活に戻るような強烈な claim  が囁き続けていました。そんな秋に、あの元ボクサーで、斜視の説教者が、やって来られて、頭の上に手を置いたのです。この方は、アフリカからの帰り道、羽田で降りて、またやって来たのです。

 婚約式の日の昨夜でした。この方の説教で式が行われ、祝福のお祈りをされてから、教員を辞めて献身の道に進むようにされたのです。そんな願いを持っことなど、それまで全くなかったのに、不思議なる導きとしか言いようもなく、それ以降一度もへこたれることなく伝道者の道を歩んでいます。長男は、同じ伝道者になって、教会の主に仕えています。滅び果てても当然な悪童が、そんな人生に生きて今日があります。

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 わたしの救い主イエスさまは、迎えに来られて、天に携え上げてくださる希望に溢れています。あの映画に見られるような、無秩序にはなりません。事は、秩序正しく整然として行われます。交通の混乱、騒動などはありません。ただ、置き去りにされた方たちは、亊の次第が飲み込めずに、茫然自失するだろうと思います。あのノアが箱舟を建造しているのを、嘲笑しながら眺めていたあの時代の人々、ノアの誘いを拒んだ人々は、箱舟のかんぬきが下されてしまった後、船に乗ろうとしても遅かったぼです。彼らも取り残され、置き去りにされたのです。ノアたち8人は、水を通って救われたのです。

 今は、「恵みの時」だと聖書は言っています。方向転換をし、罪を認め、悔い改めて、十字架の贖罪の御業を、幼な子の様に信じるなら、誰でも救われるのです。

 『主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。(使徒1631節)」

 再び、今度は私たちを迎えにおいでくださるイエスさまにお会いできる、そんな神秘的な経験をすることができるです。主の再臨の日まで、生きていたい願いでおりますが、そうならなくて、今まさに、驚いたり悲しんだりする出来事を見聞きして、意気沮喪するのではなく、驚くほどに輝かしいことが待ち受けているとしたら、そんな幸いなことはありません。

 その映画で、面白かったのは、保守的な基盤の教会の牧師さんが、置いてきぼりになって、彼の話を聞いて、単純に信じたご婦人が、携挙されていた対比が、American  joke だと思いましたが、そんな humor があり得るかも知れません。天国に行って、驚くべことは、〈いるべきだと思っていた人がいない〉、〈いることなどないと思っていた人がいる〉、そして〈このわたしが永遠のふるさとに帰っている〉のかも知れません。

(「ある信徒」の方、「キリスト教クリップアート」のイラストです)

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説教者

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 『神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル137節)

 日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の現場に送り出された竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。

 『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力なダイアレクテシャン(弁証理論家)であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』

 竹森師の奥様も、講壇に立たれた器で、説教集を読ませていただきました。名だたる日本の説教者たちを、ご主人と共に育てられています。四代目のキリスト者で、おばあさまは、東京大学の前身の開成学校の教頭を、政治維新政府から任じられ、後に、高崎、高知、東京で宣教活動を展開したフルベッキに教えを受けておられたそうです。才能豊かな説教者であり、子どもたちにも巧みに説教をされたそうです。

 また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて信徒たちの後を追うように帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。

 『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』、そのように祈ったと言われています。いかに彼が主の前で謙遜であろうとしたかが分ります。

 説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄が省かれているのです。

 みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本に著わすためには編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。

 ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。あれから40数年が経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。

 『あなたの話は面白くない。A牧師のように、聞きやすく説教をしてください!』と、臆面もなく、ある牧師に迫った方がいたそうです。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのです。この女性は、面白さを説教に求めて巡り歩く、〈股旅信者〉だったようです。説教は、時事講話でも漫談でもなく、命を求めて来会される方に「命のみことば」、「真理」を、分かつ霊的作業なのであります。

 帰国以来、新型コロナの渦中、日曜日の朝は、家内と二人で、賛美をささげ、「聖餐」にあずかり、牧会をされている若い頃からの友人が牧会する教会の礼拝に、ネットで参加させていただいています。懐かしい賛美が歌われ、淡々として語る熟成した説教を聞かせていただいて、養われているのです。同世代で、共に宣教師に指導を受けて来た、《仲間》になるでしょうか。感謝なことです。

(“ キリスト教クリップアート"のイラストです)

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blood  moon

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 『主の大いなる恐るべき日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。(ヨエル2章31節)』

 サンフランシスコの “ blood  moon ” 、上の娘が送ってくれました。素敵ですね。ここ栃木は、曇りで、月は顔を出してくれませんでした。この季節の満月は、旧約聖書のみことばを思い起こさせてくれるほどに、赤みを帯びているので、 “ blood “ と表現したのでしょう。

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父の心、子の心

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 2005年だったと思いますが、弥生三月の春雨の中を、「単騎、千里を走る」というタイトルの映画を観に、映画館に行ったことがあります。中国の古典文学、「三国志」に登場する関羽にまつわる仮面劇の上演が、この映画があって、それが雲南省で演じ続けられてきていたのだそうです。

 その仮面劇を、雄大な自然美の中国雲南省に取材したテレビ番組を制作する息子と父親、仮面劇で「単騎、千里を走る」を、『俺だけが演じられるんだ!』と自慢する男と8才の息子ヤンヤン、この二組の父子の織り成す、いわゆる「父子物語」が筋書きの映画でした。

 私は、『父は父なるがゆえに父として遇する(出典を忘れてしまいました)』と言う言葉に出会って、とても示され教えられて、何度もお話をさせていただいたことがありまりました。『父親を、父として子に備えられたのが神さまなのです。だから、どんな父親であっても父として敬い感謝して接しなさい!』との勧めの言葉なのです。男の子は、父を慕い、やがて父から距離を置いて離れ、再び父を取り戻す、そんな過程を経て、人は父になるのでしょう。

 中学生の私が、中央線の国分寺駅の北口にあった国分寺名画座で観た、「エデンの東(原作ジョン・スタインベック)」を、「単騎・・」を観ながら思い出したのです。自分は、父親に一番愛された三男坊でしたから、ジェームス・ディーンが演じた「キャル」とお父さんとの確執は理解できませんでした。

 でも父親が倒れてから、実にかいがいしく介護する次男のキャルを受け入れて、関係回復をしていくくだりが好きで、何度、映画館に足を運んだことでしょうか。5回は観ています。「創世記」に登場するカインとアベルの兄弟と父アダム、「ルカの福音書」に出てくる、「父と二人息子の物語」が、背景にあることが、聖書を読み始めて分かったのですが。

 そんな私が2人の息子と2人の娘の父親を委託されて、育てさせてもらいました。テレビのホームドラマのような理想的な父親を果たすことが出来ないで、子どもたちには、申し訳ない気持ちが残るのですが。

 性格のひねくれていた私は、少し陰の見えるキャルに共鳴してしまい、それを演じたジェームスの大フアンになってしまいます。そんなことから私の英語のニックネームは, ” Jimmy ” なのです。19才の頃だったでしょうか、「唐獅子牡丹」や「網走番外地」という映画を、友達に誘われて観に行きました。

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 その映画の主人公を演じたのが、「単騎、千里を走る」で主演した、高倉健だったのです。高倉は、博徒や網走刑務所に収監されていた囚人役を演じていたのですが、今回は、ヤンヤンを産ませたままで8年も世話をせずに、しかも罪を犯して刑務所に入っている、囚人の父を訪問する役を演じていました。

 40年がたって、元囚人が囚人を問安して、父親に目覚めさせる役を、高倉健が演じたので、ニヤニヤしながら映画を観てしまいました。「単騎・・」で高倉が演じた父親も、息子との間に10年来の確執があったのですが、病んでいる息子に代わって、仮面劇「単騎・・」をビデオ撮影するため、彼が雲南省を訪ねるのです。

 官憲の取り計らいで、刑務所の中で収監中の囚人の父親が演じる「単騎・・」を観劇する時には、息子の死の知らせが嫁の手で、携帯電話に届いていました。死の数時間前に、妻の口述された息子からの手紙が、電話口で読まれていたのです。それは父親への苦味が氷解していく赦しの内容でした。

 この映画を監督し、制作したのが、青年期に、初めて外国映画が解禁され、中国中で上映された日本映画、「君よ憤怒の川を渉れ」を、感動をもって観た、张艺谋Zhang Yi mouでした。この監督の世代の中国人男性は、この映画に出ていた高倉健や中野良子や原田芳雄に、熱烈に憧れたと言われています。

 『杜丘冬人を知っています!』と、出会って、交わりをさせていただいた、一人の大学の音楽教授に言われたので、高倉健よりも通り名となった、主人公の名の方が、この方の記憶にあったのです。中国が貧しかった時代、その映画で写し出された東京や主人公たちの服装は、驚きをもって眺め、仕草や服装は憧れとなっていたようです。この方は、『五回以上も観ました!』と言っていました。その张艺谋氏も、憧れた一人で、名監督となった時、高倉健の主演で映画を制作したのです。

 二組の父子の関係が回復されていく2つの物語に、旧約聖書の最後の書、「マラキ書」のみことばを思い出させられました。

『見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。』

(キリスト教クリップアートの「カインとアベル」です)

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ピアノ賛美

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 『日の上る所から沈む所まで、主の御名がほめたたえられるように。(詩篇1133節)』

 『主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。 (詩篇10322節)』

 『わがたましいよ。主をほめたたえよ。わが神、主よ。あなたはまことに偉大な方。あなたは尊厳と威光を身にまとっておられます。 (詩篇1041節)』

 『大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。そのすぐれた偉大さのゆえに、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。十弦の琴と立琴をかなでて、神をほめたたえよ。 (詩篇15023節)』

 このブログを読んでくださるみなさんは、このブログの書く内容や論調が変わっているのに気づかれておいでだと思います。中国の東北部の街の語学学校に入学した頃から、始めたのですが、自分の信仰上のことは、間接的にしか述べませんでしたが、13年の滞在から帰国した段階で、まだ向こうにも読んでくださる方がおいでですから、とくに信仰上の内容を述べるのを避けていました。でも、はっきりと述べるようにと促されて、変えてしまいました。

《動画を貼り付けました》

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 それで論調が変わったのです。もともと子どもや孫に、自分の考えや思いを伝えるとつもりでしたが、やがて知人や友人、兄弟たちにも、読んでいただくようになってきました。これまで二度、実はブログが  block された経験上、政治や経済や宗教の件には触れずにいました。でも、自在に自分の信仰上のことを書こうと決心して、内容も論調も徐々に変えたのです。

 さて、上記の聖書のことばですが、「日の上るところから」という箇所ですが、七世紀頃、中国は隋の時代に、その大陸から見るとわたしたちの国は、朝日が地球上で最初に昇ってくる国ということで、「日の出る処」と呼ばれ、自らも誇り高い国と自認したのではないでしょうか。

 この国で、天地を造られ、その運行を支配される神、万物のいのちの付与者、罪に堕ちた人を救われるお方、贖罪の御業をなさるお方、救い主イエスさまの十字架の死と、死からの復活、父の神の右の座の執り成しの祈り、助け主聖霊をお遣わしくださったこと、やがて信ずる者を迎えにおいでくださる神が、日本でも賛美され、ほめたたえられ、栄光が帰されるようになるとの予言なのです。

 この街の東武宇都宮線、日光線、JR両毛線の駅頭にも、角笛、十弦の琴、立琴ならずも、廃校になった藤岡中学校から市に帰贈されたピアノが弾かれて、自由に演奏ができる様になりました。聖歌や讃美歌やchorus が高らかに響き渡って、この「三で一つの神」の御名が、ほめたたえられ、あがめられるなら、それは素晴らしいことではないでしょうか。

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 主の名が、明治以降、この街の各教会の礼拝の中で賛美されているのですが、駅頭でも賛美されると、この街が変わっていくのではと思っております。エペソの街の獄屋の中で、パウロとシラスが賛美した時に、それを聞いた天のみ使いたちが、tap を踏んだのでしょう、地震が起こり、獄の戸や囚人の鎖が解けて落ちた様に、人々を縛っている不信仰、不安、恐れなどの鎖が落ちるのではないかと思うのです。家内のピアノでのわずかな時間の賛美によって、そんな救いの御業が起こることを願っている、五月の連休明け家内です。

(「キリスト教クリップアート」、動画です)

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真情

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 『・・・狭い日本には住み飽いた!』と歌って、多くの若者たちが、中国の満州に夢を繋げ様と、出掛けて行きました。それを鼓舞するかのように、大正11年(1922年)に世に出た、「馬賊の唄(宮島郁芳作詞)」でした。歌の持っている力は大きいのです。

俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ

俺に父無く母も無く
別れを惜しむ者も無し
ただいたわしの恋人や
夢に姿を辿るのみ

国を出た時ゃ玉の肌
今じゃ槍傷刀傷
これぞ誠の男子じゃと
微笑む面に針の髭

長白山の朝風に
剣を翳してふし見れば
北満州の大平野
俺の住まいにゃまだ狭い

御国を去って十余年
今じゃ満州の大馬賊
亜細亜高嶺の繁間より
繰り出す手下が五千人

今日吉林の城外に
駒の蹄を忍ばせて
明日は襲わん奉天府
長髪風に靡かせて

さっとひらめく電光に
今日の獲物か五万両
繰り出す槍の穂先より
荘竜血を吐く黒龍江

銀月高く空晴るる
ゴビの砂漠にゃ草枕

 4億が、現在では14億の人口を擁する中華人民共和国ですが、戸籍に未登記な人々が1億(公式)もいて、実際には、それよりも遥かに多いとも言われてる隣国は、戦前の若者には、雄飛したい国だったのです。

 結局、その野望、理想は、敗戦で崩壊してしまうのです。私の父も、満州にいる叔父を慕って、狭い日本から出掛けた一人でした。私の上の兄は、その理想国にあやかって名前が付けられたほどだったのです。

 もし、この大陸進出から終戦までの間に、日本がしたことで、良いことがあったとするなら、鉄道線路を敷設したことと言えるかも知れません。その判断は、中国のみなさんがされることなのですが。

 今でも、その当時の路線が使われ、近代中国の発展のために寄与してきたことは事実です。もちろん、近年では、高速鉄道網が、瞬く間に張り巡らされています。東北部では、人や物資の輸送は、旧来の路線が活用され、世界の物作りの基盤となっています。

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 そこに「南満州鉄道」があって、父は、若い時期に一時期、そこで働いていた様です。どの様な仕事をしていたのかは定かではありませんが、北米のオレゴンやカルフォルニア、ハワイ、南米のブラジルではなく、満州に、人生の活路を見出そうとしたのでしょう。当時の青年たちにとっては、きっと平安の昔から、良き薫陶を受けた大陸の文化的な背景や、国土の広大さは、憧れの的だったのではないでしょうか。

 南満州鉄道というのは、大連から奉天(現在の瀋陽です)、新京(現在の長春です)、ハルピン(哈尔滨)などに広がる鉄道網なのです。もう何年も何年も、いえ若い頃からなのですが、そこを訪ねてみたいという思いが心の中で温められていたのです。知り合いに、南満州鉄道株式会社のあった瀋陽で、電気工学を学んでいる学生がいたので、彼に案内を頼めるかなとも思っているたのですが、帰国してしまい叶いませんでした。

 戦争が終わって、日本は、狭い国土の中で勤勉に働き、世界に類を見ない復興を遂げ、10年の節目の1954年から、かつて侵略したアジア諸国を経済援助をし始めました。わたしが、聖書を持って、初めて降り立った北京空港も、日本の「ODA(Official Development Assistance)」、途上国への「政府開発援助」で作った空港でした。この中国への初期の経済援助、科学技術の援助で、今の経済大国になっています。十分な償いをしたと言ってもよさそうです。

 長く償いの思いで滞在した中国で、まさに家族のように受け入れられて、交わりをさせていただきました。その中国のみなさんとは、今もなお交わりが継続しております。義理の関係ではなく、真情でしょうか、真心でしょうか、彼らの示してくれる愛と心遣いは、今もなお真実で、変わらず一途なのです。

(旧資料による満鉄のシンボルの「あじあ号」です)

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