主イエスさまは、「狭い門から入りなさい・・いのちに至る門は小さく(マタイ7:13~14)」とおっしゃいました。これは、日本で最も難関だと言われている「公認会計士」の国家試験に合格することの難しさを言っているのではありません。「神の国」とか「救い」に至る道の難しさのことを言っているのです。
ところが人の習性は、多くの人がくぐり抜けている、人気を取れる門を選ぶ傾向にあります。そう言った人が生来持っている習性を、日頃、痛感している、キリスト教会は、彼らの友や理解者となるために、その敷居を低くする努力をします。ですから、『罪のことは言わない!』、『裁きには触れない!』、『地獄がある事も語らない!』、そう言った努力を払います。『そのうち分かるからいい!』と思っているのです。
人々の関心亊を知るために、群集心理学で人心収攬の術を学ぼうとします。効果的な宣伝術を学ぶのです。『現代人が求めるものは何か?』のデータ収集のために市場調査もします。多数の人のニーズ(必要とか欲求)に見合ったプログラムを組み、人々がひきつけられるイベントを企画します。
『教会って楽しい所なんです。決して堅苦しくて暗いイメージはないんですから、難しい事は後になって分ればいいんです!』と言って、彼らを招きます。『罪を犯したら、悔い改めればいいんですから、罪、罪とあまり神経質にならないほうがいいのです!』と実に寛容なのです。
そうしますと現代版翻訳は、『広い門から入りなさい。いのちに至る門は広いのです。それを見出すものは多いのです!』になります。そうしますと教会には、たくさんの人が集まることができるのです。
ところが信仰生活や教会生活について、主は、「いのちに至る・・道は狭く、それを見出す者はまれです」とおっしゃっておられますから、どうも、クリスチャンとなって、進み行くのは平坦で安易な道ではないようです。主について行くのは、群衆が願って行こうとしているのとは全く違う道なのです。
それは、十字架への茨の道であります。唾され、打たれ、嘲られ、罵倒されて、主イエスさまはカルバリーまでの十字架への道を行かれたのです。そこには拍手も喝采も歓声も聞こえませんでした。3年半の間、ついて来た弟子たちにも、主は見捨てられました。
「狭い」とは、《苦難や試練やトラブルがあること》を言っているのです。ですから、平穏無事であることは全く約束されていません。世の中の苦難や試練やトラブルを避けて教会にって来た人は、新らしい意味で、困難で苦痛に満ちた門をくぐって、同じくトラブルの連続の道を行かなければならないわけです。
ですからイエスさまは、「わたしについて来たいと思うなら・・日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい(ルカ9:24)」とおしゃったのです。もし私たちの信仰が《本気》なら、みことばに従おうとするなら、そして主の弟子となろうとするなら、どうしても、この《狭さ》の中を行くことになります。私たちが「神の子」なら、苦悩する事や困難が矢継ぎ早にやってくる事を覚悟しなければなりません。
ところが、そういった道を選び取った人には、特別な祝福があります。「助け主」とか「激励者」とか「勇気付ける方」と言われる、聖霊なる神さまが、一緒にいてくださり、伴走してくださるのです。「特別な恩寵」をいただけるのです。また、走破した聖徒たちが、歓声を上げて見守っていてくれるのです(ヘブル人への手紙12・1)。御使いだって、私たちに仕えていてくれるのです。すごい!
(写真は、エルサレムの「ドロローサの道」、「黄金の門」です)
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