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『神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。(ヘブル13章7節)
日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の現場に送り出された竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。
『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力な”ダイアレクテシャン(弁証理論家)”であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』
竹森師の奥様も、講壇に立たれた器で、説教集を読ませていただきました。名だたる日本の説教者たちを、ご主人と共に育てられています。四代目のキリスト者で、おばあさまは、東京大学の前身の開成学校の教頭を、政治維新政府から任じられ、後に、高崎、高知、東京で宣教活動を展開したフルベッキに教えを受けておられたそうです。才能豊かな説教者であり、子どもたちにも巧みに説教をされたそうです。
また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて信徒たちの後を追うように帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。
『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』、そのように祈ったと言われています。いかに彼が主の前で謙遜であろうとしたかが分ります。
説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄が省かれているのです。
みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本に著わすためには編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。
ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。あれから40数年が経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。
『あなたの話は面白くない。A牧師のように、聞きやすく説教をしてください!』と、臆面もなく、ある牧師に迫った方がいたそうです。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのです。この女性は、面白さを説教に求めて巡り歩く、〈股旅信者〉だったようです。説教は、時事講話でも漫談でもなく、命を求めて来会される方に「命のみことば」、「真理」を、分かつ霊的作業なのであります。
帰国以来、新型コロナの渦中、日曜日の朝は、家内と二人で、賛美をささげ、「聖餐」にあずかり、牧会をされている若い頃からの友人が牧会する教会の礼拝に、ネットで参加させていただいています。懐かしい賛美が歌われ、淡々として語る熟成した説教を聞かせていただいて、養われているのです。同世代で、共に宣教師に指導を受けて来た、《仲間》になるでしょうか。感謝なことです。
(“ キリスト教クリップアート"のイラストです)
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