赤い色の思い出が

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西瓜の切り口の赤色は、夏の思い出で、井戸に吊るして冷やして、母が切ってくれて食べたのは、地物の西瓜で、今ほど甘くはなかったのですが、あれぞ本物で、赤い色の強さが鮮明に蘇ります。

 冷蔵庫も、電気釜も、洗濯機もなかった時代の夏は、素麺を茹でて、母手作りの出汁で、薬味にネギや生姜を入れて食べたのです。ネギ嫌いなのに、素麺は食べられたのです。西瓜も、昼間に食べた残りでしょうか、夕食後にも食べさせてもらったようです。

 「夏がくれば思い出す」のは、尾瀬ではなく、西瓜や素麺なのです。夕日も、赤かったでしょうか。子どもの頃に、「赤い夕日の故郷(作詞が横井弘、作曲が中野忠晴でした)」という歌が、よく聞こえてきました。

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(おーい)
呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
うらぶれの 旅をゆく
渡り鳥を 呼んでいる
馬鹿な俺だが あの山川の
呼ぶ声だけは おーい きこえるぜ

呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
懐かしい 面影の
ひとつ星も またたくよ
小麦畑は 二人の夢を
ひそめているか おーい 今もなお

呼んでいる 呼んでいる
赤い夕陽の 故郷が
涙ぐみ 背伸びする
渡り鳥を 呼んでいる
雲よ行くなら おふくろさんに
思いをせめて おーい 乗せて行け
(おーい)

 山の狭間の渓谷像で生まれ、その隣の渓谷の隣り村に越して、小学校1年まで住みましたが、山に落ちて行った太陽の残照が、薄赤かったような記憶があります。

 夕陽といえば、隣国の天津の公寓(Gōngyù アパート)の七階のベランダから地平線に沈んでいく太陽の大きさと真赤な太陽は強烈でした。『大陸にいるんだ!』と言う思いに溢れて、感動的だったのを思い出してしまいます。

 様々な色彩が、自然界に散りばめられています。もし無色透明だったら、どんなに味気ないことでしょう。気落ちしても、真っ赤だったり、真黄色だったりの花々を見ると、何か元気にさせられてきたのです。神さまが、さまざまな絵の具で、自然界を色付けされているからでしょう。 

(”illust image“の西瓜、”BEIZE image“による夕陽です)

黄色にまつわる思い出

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 ベランダに、向日葵とシンビジュームの黄色い花が咲き続けています。シンビジュームは、先年お亡くなりになられたラジオ体操仲間の方からいただいた物です。ずいぶん長く咲き続けているのです。向日葵は、次男が母親に、「母の日」のプレゼントに送ってくれたものです。

 アメリカ映画が、「アメリカ版時代劇」の “ cowboy “ の登場する映画の全盛期が、わが少年期にありました。字幕しか読めなくて、聴く英語のリズムの軽快さに、心踊らされたのです。テレビ映画にも、この西部劇があって、週日の一番良い夜に時間帯に、放映されているのを、テレビが、父の家の茶の間に入ってから、よく観たのです。

 カンザスとかワイオミングとかテキサスなどが舞台で、牛を大都市の市場に運ぶための旅の途上の出来事の苦労、小競り合いなどの物語だったでしょうか。その映画の主人公を演じたのは、やはりジョン・ ウエインでした。名画座という封切館でない映画館で上映されて観たのです。

 アメリカ版時代劇の主人公を、中西部アイオワ生まれのジョン・ウエインが演じたのです。まさに「テキサス男」の屈強さや大らかさを演じてNo. 1 の俳優でした。その彼が主演した「黄色いリボン」がありました。また、「テキサスの黄色いバラ」という歌もあったのです。
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There’s a yellow rose of Texas
That I am going to see
No other fellow knows her
No other, only me.
She cried so when I left her
It like to break my heart
And if I ever find her
We never more will part.
テキサスの黄色いバラ 会いに行くんだ
仲間は誰も彼女を知らない 僕だけの秘密
別れのとき 彼女は泣いた
胸が痛んだ
もう一度会えたときは
僕は二度と彼女を放さない

She’s the sweetest rose of color
A fellow ever knew
Her eyes are bright as diamonds
They sparkle like the dew.
You may talk about your dearest May
And sing of Rosa Lee
But the Yellow Rose of Texas
Beats the belles of Tennessee.
彼女は甘美なバラ 仲間も一番と認める
瞳はダイヤモンドのように輝き
朝露の如くきらめく
君の親愛なるメイとローザ・リーの歌も
テネシーの鐘も彼女には敵わない

Oh, now I’m going to find her
For my heart is full of woe
And we’ll sing the song together
That we sung long ago
We’ll play the banjo gaily
And we’ll sing the songs of yore
And the Yellow Rose of Texas
Shall be mine forevermore
彼女を探す僕の心は悲しみに満ちる
昔歌った歌を一緒に歌おう
楽しくバンジョーを鳴らして 懐かしい歌を歌おう
テキサスの黄色いバラ
彼女は永遠に僕のもの(日本語は意訳です)

 メキシコから、このテキサスを独立させるのに貢献したのが、エミリー・モルガン(Emily Morgan)でした。伝説の混血の少女の彼女を、「テキサスの黄色いバラ」と呼んで、歌われていました。ジェームス・ディーンの出演していた「ジャイアンツ」という映画でも、この曲が挿入歌で、軽快に流れていたでしょうか。

 その同じテキサスの街から、日本にやって来て、私たちの母教会を開拓してくださった宣教師さんの出身州でもあったのです。家内の家族には、馴染み深い州であります。この州の片田舎の街で、毎年、Conference (聖会、修養会でしょうか)が開かれ、全米から、主に若い方々が集まっていたそうです。

 その中から、数人の宣教師が日本宣教のためにやって来られ、教会を建て上げてしてくださったのです。そこは、私の母の教会であり、兄弟たちの教会でもあります。「アメリカで最も大きな州」と言って、コーヒーのマグカップのサイズも、びっくりするほどの大きさです。ところが、アラスカが州に格上げされて、その立場を失ったのだそうです。

 宣教師のみなさんは、すでに帰天されましたが、「信仰の群れ」、キリストを信じる者たちの共同体である「キリストの教会」は残されて、礼拝を守り続けております。

 強い太陽の光を浴びて、真黄色に咲く花を見るにつけ、人生に最善の時を、日本人の魂の救いのために労してくださった宣教師のみなさんを思い出すのです。その宣教の志を持って、教会を形成する兄弟たちを、姉妹たちを起こしてくださったことは、感謝にたえません。

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 注意を喚起させる意味で、人の目に目立ちやすい色が、この「黄色」ですので、信号灯に用いられています。欧米では、「腰抜け」を意味した色なのだそうですが、ベランダの黄色の花を見ていると、腰抜けの私は、元気になるようで好きなのです。小学生の頃、パンの中に黄色いクリームが入っていて、よく食べました。今でも、時々食べたくなって買ってしまい、元気にされています。

(ウイキペディアの「黄色いバラ」、「クリームパン」です)

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夕陽を浴びるわが町

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 今日は、暦の上では「夏至」だそうです。梅雨入り前なのにです。先日の雨上がりの夕方、西から夕陽が、私たちの住む街を照らしていて、感動を覚えたので、スマホで撮ってみました。実際都営沿いでは、だいぶ違いますが、雨が病んで、夕陽がて照るというのは、気分を爽快にさせてくれます。

 長く住んで子育てをした街も、夕陽が、山陰に落ちていくときの光景は、実に綺麗でした。自然の彩なす景色や色彩は、格別に素敵なものです。やはり、「創造の美」であるのでしょう!

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今の時を見分けること

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『イエスまた群衆に言ひ給ふ『なんぢら雲の西より起るを見れば、直ちに言ふ「急雨きたらん」と、果して然り。  また南風ふけば、汝等いふ「強き暑あらん」と、果して然り。  僞善者よ、汝ら天地の氣色を辨ふることを知りて、今の時を辨ふること能はぬは何ぞや。  また何故みづから正しき事を定めぬか。(文語訳聖書ルカ伝12章54-57節)』

 今から60年前の1964年6月16日に、新潟で大きな地震がありました。震度6強、死者26人でした。大地震の割には、被害が甚大ではなかったことが、この時の地震だと評されています。

 今年、能登半島を見舞った地震は、242人の犠牲をもたらせ、建物の倒壊、海岸線の隆起、港湾の破壊、棚田の崩落など、被害は多岐にわたりました。地震大国の日本、昨日も、千葉県を震度2の地震があって、わが家でも軽微でしたが揺れを感じました。

 家内が級友たちと被災家族への臨時保育をした新潟地震(1964年6月16日)、長男と次男が救援活動に出かけた阪神淡路大震災(1995年1月17日)、家内が入院手術待機中の東日本大震災(2011年3月11日)、それに父や母が感じた関東大震災(1923年9月1日)など、大きく揺れ続けてきた日本列島です。

 聖書は、『即ち「民は民に、國は國に逆ひて起たん」また處々に地震あり、饑饉あらん、これらは産の苦難の始なり。(文語訳聖書 マルコ伝13章8節)』と言っています。世界中に、地震が起こると、イエスさまが、終わりの日の状況を話されたのです。

 人心が乱れて、愛が冷えて、戦争の噂を耳にしている昨今、耳慣れない異常気象現象の気象用語を、今年も聞き、異常高温も予想されてもいます。時を読み、時代を感じることができますが、恐怖だけがもたらされるのではなく、「希望」のあることを忘れてはなりません。

 なぜかと言言いますと、聖書は『恐るな!』と、繰り返し記しています。起こるべくして起こることを、恐れずに、心備えしておくことが肝要なのです。『地震です!地震です!』との、警戒予報を、先日もラジオで聞いたばかりですが、ゆれることがなかったので、驚いてしまいました。

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 たとえば、「ナマズと地震」、ナマズが異常な泳ぎを見せるのは、地震が起こる予兆だと聞いたことがあります。猫が家から出ようとし、犬が遠吠えを上げ、カラスが群れて飛ぶなども聞かれますが、あながち迷信だと片付けるのも、自然界が何かを教えているのかも知れません。

 イエスさまは、『あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。』とおっしゃいました。一体、今は、どのような時なのでしょうか。多くの人が、さまざまなこと言い、公表し、ネットで伝えています。正しい情報を選んで聞いて、この時代の私たちは、慌(あわ)てることのないようにしておくべきなのでしょう。神に聞け!神のみことばに聞け!

(ウイキペディアのインデアンの伝達手段の「狼煙」、「ねこ画伯コハクちゃん」のナマズのイラストです)

 

人品骨柄

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 『人品骨柄(じんぴんこつがら)卑(賎)しからず。』、人の精神も容貌も品位が高くあることが、人を評価する上で、大切なことであると言われて、このようなきとばがあるのです。よく『何をしたか?』によって、人が測られるのですが、その人の品性とか道徳性ということこそ、注目すべき点であるに違いありません。

 それは、容貌の美醜を言っているのではありません。リンカーンが、『四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持て!』と言いました。大統領になった彼は、国政にあたる閣僚を決めようとしていた時のことです。閣僚候補に推挙された、一人の人がいたのですが、『顔付きが気に入らない!』と言ったのです。

 それを聞いた、その人物を推薦した人が、『顔は生来のものだから、彼の責任ではないのではないか。!』と反論します。それに、リンカーンは、『四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つべきだ!』と言ったわけです。

 顔の作りを言ったのではなく、心や考えていること、価値観や人生観が、どうも表情に投影されるのです。東京警視庁の警官をしていた人が、私の最初の職場の上司にいました。社会の治安を守る役職にある警察官は、見た瞬間の直感を養われて、出会う人の犯罪性のある無しを、瞬時にその眼差しや雰囲気から判断する能力を培うのだそうです。

 人生経験を積んで、それまでの生き様・考え方が、善きにつけ悪きにつけ、自然と生き方や表情に、如実に現れるからです。どんな家系なのか、どんな教育を受けてきたとか、どんな仕事に従事してきたか、社会への貢献度はどうなのかなどなどだけが問題視されて、道徳性を問うことがないがしろにされているのです。

 来月、一万円の新札が発行され、その肖像が、渋沢栄一なのですが、日本の資本主義制度への貢献の大きさが評価されたのだそうです。ところが、この人の道徳性、品性などが、どうだったのかなどは問わないのは、いかがなものでしょうか。日本の初代の内閣総理大臣であった伊藤博文ですが、幕末の英傑、維新政府の重鎮たちが暗殺されたり、病没したりで、人材に窮していた時に、仕方なしに選ばれたという、裏話を聞いたことがあります。

 この両者の共通点は、色好みで、人としての道徳性や品性は、劣悪だったのです。その評価基準の低さに、疑問を覚えるのは、私がへそ曲がりなのでしょうか。どうしても、こういった類の人を誇ったり、感謝することが、私にはできません。

 そのような時代に、職を追われ、赤貧の中を過ごしても、魂を卑しめたりせず、人品を卑しくするようなことのなかった内村鑑三が、「桶職」と言う一文を残しています。大正3年(1949年)に、「聖書之研究」に掲載された詩です。

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我は唯(ただ)桶を作る事を知る、
其他(そのほか)の事を知らない、
政治を知らない宗教を知らない、
唯善き桶を作る事を知る。

我は我(わが)桶を売らんとて外に行かない、
人は我桶を買わんとて我許(もと)に来る、
我は人の我に就いて知らんことを求めない
我は唯家にありて強き善き桶を作る。

月は満ちて又欠ける、
歳は去りて又来たる、
世は変り行くも我は変らない、
我は家に在りて善き桶を作る。

我は政治の故を以て人と争はない、
我宗教を人に強ひんと為ない、
我は唯善き桶を作りて、
独り立(たち)て甚だ安泰(やすらか)である。

 教育などを受けずとも、ただ桶づくりしか取り柄のない一人の人が、ないことの多い中で、最善の仕事を果してきたことを誇り、買い求める人のために、より良い桶づくりに励んでいるのです。政治家や宗教家になどにはなれずとも、その一事に邁進している職業意識に、極めて高い信念や価値を感じてなりません。

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 これは、『人品賤しからざる人であれ!』との勧めですが、品性の高さこそ、人の値打ちに違いありません。そのような人として、自分の生涯を全うしたいと、切に願うのです。私たちの外孫は、教会の寮で生活をしているのですが、彼の部屋に、リンカーン大統領の肖像画が掲げられています。人品骨柄の優れた人に、彼が憧れていて、それが嬉しいジイジであります。

(ウイキペディアの「リンカーンの大統領就任式」、北斎の桶職人、リンカーンの立候補用のポスターです)

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父の日に父を想う

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 私には二人の父がいます。御子イエスさまが、『父!』とおっしゃった《神さま》です。《陶器師なる神》で、慈愛と忍耐に富まれる創造者です。この《父なる神》のいますことを教えてくれたのが母でした。その教えから逸れることなくなく、今日まで信じ、感謝し、愛して生きてくることができました。

 もう一人は、母と共に、生んで育ててくれた父です。横須賀、満州、松江、出雲、京都、京城、山形、そして東京などで、過ごしたのが、父の61年の生涯でした。〈ほっぺほっぺよ〉とか〈高い高い〉とか〈鉄拳殴打躾〉とかしてくれ、丈夫に育ち、人様の迷惑にならないように生きていき、『何時迄もあると思うな親と金!!』との格言を与えられ、『父は父なるが故に、父として遇する!』を学ばせてくれた父です。

 父が残した写真の中に、若い頃の父の写ったものがあり、日の丸の鉢巻をしめて、軍需産業に従事していた頃の戦勝を願った集合写真の中に、父が写ったものもあったのです。また終戦後の東京の街を歩く、黒いマスク姿の写真がありました。恰幅の良かった父が、げっそりと痩せていて、子育てのために一生懸命に働いていてくれた頃のものです。

 自分の英雄の父が、ただの人であることを知ってがっかりした後、聖書から、感謝と敬意とを持つように教えられてから、父親観が変えられました。そして父への感謝や恩を、四人の子の父親となってから、さらに分かったのです。親孝行を考えていた矢先に、召されてしまいました。『ありがとう!』と、はっきりと言いたかったかな、の今です。

(「ある信徒」掲載のイラストとみことばです)

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ホタルブクロ

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 梅雨入り頃、雑木林でしょうか、里山でしょうか、通学路でしょうか、あちこちに、この「ホタルブクロ」が咲いていたのを思い出します。これは、今朝、送信していただいた、「里山歩こう」に掲載されている映像です。キキョウ科の花で、わが家のベランダにも、三季目の桔梗が葉をつけていますが、開花はまだなのです。間もなく咲くことでしょう。

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