マリ


『チョコレート!』、なんと響きのよい言葉でしょうか。『森永ミルクチョコレート!』、『明治ミルクチョコレート!』、『ロッテガーナチョコレート!』と聞いただけで、唾液腺の働きが猛烈に活発になってしまいます。見たら、もう他のものへの関心は全くなくなってしまうのです。それこそ食べたら、『ここは天国かしら!』と至福の時になってしまいます。こんなおいしいお菓子が、ほかにあるでしょうか。だれが作ったのでしょうか。ノーベル賞や文化勲章を、ぜひ受賞していただきたいものです。歴史を調べてみますと、どうもアメリカの原住民が食用にしていたのを、アメリカ大陸の発見者のコロンブス一行がヨーロッパのスペインに持ち帰って作ったのだそうです。大衆化していくのは、カトリックの修道士たちの手によったとのことです。日本に渡来した記録は、18世紀に、長崎の遊女が、オランダ人にもらった記録が残されています。日本初の製造販売は、風月堂によりますが、大量に製造販売をしていったのが、1918年に、森永製菓によってでした。

最初に食べた日のことは、はっきりと覚えていませんが、小学校の頃、立川の国立病院に診察に行ったときに、駅のそばの店で、ガムやピーナッツや干しぶどうなどと一緒に、母に買ってもらったのを覚えています。こんな好物のチョコレートですが、私の愛読しているブログに、こんなことが紹介されていました。

「チョコレートの原料のカカオ豆は、高温多湿の熱帯西アフリカの「マリ共和国」が、一つの主産地です。この国の10~14才くらいまでの多くの子どもたち(男女)が誘拐されて、多くが行方不明になっているとの情報が以前からあり、一説には、2万人もが消息不明で、どうも「カカオ農場」で、現在も働かされているようです。〈中略〉マリの田舎でおばあさんが、子どもたちに、『働けばお金がもらえる仕事があるよ!』と優しい声をかけて誘い出し、隣の国コートジボワール(象牙海岸共和国)の国境の町までバスで移動させ、そこで他の人に渡し(子供奴隷の誘拐組織は、子供1人につき230ユーロ・27000円で取引されています)、バスやオートバイでカカオ農園に子どもたちが運ばれている事がわかった。子どもたちは数人づつカカオ農園に分配され、毎日毎日休みもなく子供の手には大きすぎる程のカカオを粗末な大きなナイフで切り落として、集める仕事が待っていた。働いて何時まで待ってもお金は全然貰えないので、また空腹のあまり食事やお金の支払いを請求すると、殴られたり罵声を浴びさせられたり暴行を受けている。ボロボロの汚れたシャツをまとい、明らかに栄養失調の痩せた暗い顔をした子どもが何人か見られたが、とにかく酷い扱い方である。〈攻略〉」とです。

甘味なチョコレートには、このようないたいけのない子どもたちの苦く辛く酷い労働があることを知って、ただ戸惑っている昨今であります。多くの子どもたちが、秘密裏に重労働に強制的に従事させられ、賃金も支払われないような、まさに「奴隷」のように働かされているのですね。この事実を知ったマスコミが、大手のロックフェラーが経営する穀物商社カーギル・ネッスル社の経営者に詰問しても答えず、無視したのだそうです。独裁国家の独裁者が問題とされている昨今、このような前近代的な労働搾取が行われ、誘拐事件や人質といった問題を、無視しながら会社経営をしている実態も、どうしても看過できないものです。今後、チョコレートは美味しいのに変わりがありませんが、苦味を覚えながら、マリの子どもたちが親元に帰るか、正統な賃金で働くことができるように願う時としようと決心しております。

《児童の商業的性的搾取に反対する世界会議「宣言」》 http://homepage3.nifty.com/naga-humanrights/shiryo1/child-sakusyu1.htm

をお読みいただきたいと願っています。

(写真上は、http://mikado.gunmablog.net/d2009-01.html所収の「チョコレート」、写真中は、I AM BLOGGING NOW所収の「マリ共和国の子どもたち」、写真下は、「マリ共和国地図」です)

仁医

昨日の夕方、長男の運転する車に乗って、家内が2週間ぶりに退院し、嫁と孫の待つ家に帰ることができました。

そういえば2月15日の夕飯後のことでした。激痛を訴えた家内のために救急車を呼んだのです。『掛り付けの病院に電話を入れて、受け入れを尋ねてください!』と駆けつけてくれた隊長さんに言われ、長男が◯大附属病院に電話をしましたら、『近くの病院で診てもらって下さい!』との返事でした。この隊長さんが、電話で受け入れ病院を見つけてくださり、近くの救急病院の「朝霞台中央病院」に搬送してしてくれました。夜勤の救急医の◯井医師が、丁寧に応急手当をしてくださいました。すでに一ヶ月も家内を診察し、検査して、病状とデータを持っている病院が最適とのことで、◯大に4度も電話で、受け入れをお願いしてくれましたが、診療を断られたのです。危急を要しましたので、彼が何カ所も電話で探してくださって、「板橋中央総合病院」に搬送の手続きをしてくださいました。もう11時をとっくに過ぎていましたが、板橋の病院は快く受け入れてくださいました。当番医のH医師が診察してくださり、即入院の措置をとってくださって、15日の未明に入院したのです。翌朝、◯大からの電話で、『5万円の部屋があるが入院しますか? 』と言ってきたようです。もう入院し、危機を脱していましたので、診療拒否をした病院の治療にすがろうとの思いは、家内も私も、まったくありませんでした。

朝霞台の先生は、電話で応対した◯大の当直医、二名の名前を、『記録しておいてください!』と、名を教えてくれました。彼は、大変に義憤していたのです。最後に出た医師は、家内の主治医の部下で、主治医に聞いての診療拒否の返事だったようです。私は、命の危険のある急患、しかも一月も診てきた患者を、こう言った形で他の病院と医師に委ねてしまう医療姿勢に怒りを覚えて、「内容証明」で院長に抗議しようと思いましたが、大人気ないのと、受け入れてくださった、「板橋中央総合病院」の医師団の懇切丁寧な診療に感謝して満足でしたので、取りやめました。朝霞の先生の言葉によると、死の危険のある重篤な病状だったと言っておられましたから、なお更のことでしたが。そういえば、搬送してくださった救急隊長が、この◯大の名を戴いた練馬の姉妹病院について、『あの病院はちょっと・・・』と、言葉を濁していたのを思い出したのです。そんな病院でも、自分の患者を受け入れてくれる病院を、見付けて紹介もしなかったのは、致命的な問題のようです。それに引き換え、朝霞の先生の配慮にはなおのこと感謝を覚えてなりません。

田舎の名のない病院の医師の方が、実(じつい)も、義も、腕もあるのを知って、《大病院志向の姿勢》の無意味さを教えられて感謝した次第です。ついでももう一言、言って止めることにします。こう言えば、きっと溜飲を下げることができるからです。でも、やめましょう。だって家内は、『この板橋の病院に委ねることができるように、私を大きな力で導いてくれたので、誰も恨んでいませんよ。こちらの医師や看護師のみなさんの医療姿勢に大変感謝していますからね!』と言って平然としているからです。

これこそが、言葉に尽きる15日間の「医療体験」の顛末でした。私は今回、はじめて救急車に、家内は、幼かった次男に付き添っての経験がありますが、自分の病気での経験ははじめてのことでした。救急隊員の方々も、救急病院の医師や看護師や事務職員の適切で臨機応変な応接に感動させられた春のような経験でもありました。彼らには、食べるための仕事という以上の《使命感》を感じさせられたのです。◯井医師は、朝から休まずに、夜の11過ぎまで働いていたと聞きました。さて、この金曜日には、あの晩の当番医のH医師の診察が待っています。その診断で、手術の日取りが決まることでしょう。無事に終わることを信じ、孫たちの激励に励まされている、「仁医」と出会えて心の高揚する「雛祭り」の前の晩であります。

(写真上は「朝霞台中央総合病院」、下は「板橋中央総合病院」です)

ブーメラン


「若気の至り」、みなさんにはおありでしょうか。同じ学校に入った同級生が、『お前って、ケンカが強いんだってな!』と話しかけてきたことがありました。彼は都内の私立高から、私は都下の私立高から入学したのですが、彼が、そういった情報をどこから得たのか不思議でした。彼と私のそれぞれの同級生が、同じN大の同期生で、どうも私のことが噂になっていたようで、そこで話されたことが、私に伝わってきたのです。「噂話」というのは独り歩きしていって、不思議な方法で戻ってくるので、「ブーメラン」のようだなと、ときどき思わされています。

高橋和巳が「堕落」という小説を書きました。戦時中、満州で青年期を送った人物が主人公です。満州国の設立のために、その若い力を注いで、人に言えないような危ういことをして、夢敗れ敗戦を迎えるのです。日本に帰国してから、彼は一変して、「社会事業」を始めるのです。その彼の功績が認められて、ある全国紙の社会事業部門の表彰を受けることになって、その式に出席します。忠実に彼の働きを支えてきた女子職員と同行するです。表彰台に登って、栄誉を受けた彼は、その晩、かつての仲間たちが設けてくれた祝賀会で、それまで断つていた酒を飲んで、彼らの祝福を受けるのです。その日、地方都市で、誰にも目を向けられない戦争の落とし子への地道な彼の奉仕が、世間に知らされることになったのです。それと同時に、彼の隠されていた過去が露になっていく、そういった筋書きです。その晩、同行の職員を犯してしまいます。そして賞としてもらった金を胴巻きに巻いて、都内の歓楽街に繰り出すのです。その路上で、これも酔った若者たちの集団と出くわします。老いぼれた田舎者の彼を、からかおうとでも思ったのでしょうか。手を出された彼は、降る雨を避けるために手にしていた傘を、腰に構えると、年寄りとは思えないような巧みさで、一人の青年の腹部を突いてしまいます。この傷害事件を通して、彼の功績が瓦礫のようにして崩れ落ちて、「堕落」の坂を、真っ逆さまに転げ落ちていってしまう、こう言った終章で話が終わるのです。

私は、この小説を読んでからというもの、人の生涯を、一つの流れの中で捉えることを学ばされたのです。この主人公の「善行」は、『過去を償いたい!』という良い動機だったに違いありません。軍国主義、東洋制覇、満州国建国、父の世代の当時の青年たちにとっては、それは自分の命を費やしても余りある世界が広がって見えたのではないでしょうか。国を愛し、父や母や弟妹を愛するには、満州国建国は日本の生命線だと教え込まれたら、それこそが報国の生き方だと思ったのでしょう。しかし、隣国侵犯は法にも人道にも悖った蛮行だったのです。ですから私たちの国が敗戦を喫したのは、火を見るよりも明らかなことだったのです。「愛国」とは、教育や技能水準を高めて、内に力を蓄えて、国際競争力を武力ではなく技術力で強めることにあります。さらには隣国と助け合い、協力しながら、ともに近代化の道を進むことではなかったでしょうか。ちょうど敗戦後に、焦土の中から立ち上がって、科学技術の面で再生の道をたどったようにしてです。

誤った過去が精算されるのかというと、そうではないのだということを、高橋和巳は、この小説で訴えたかったのでしょうか。男兄弟4人、いえ父を入れますと5人の男の世界で育った私は、何が得意かというと「ケンカ」なのです。負けたことがないというのは、実は怖いことなのです。あの主人公のように、若者に絡まれたら、昔取った杵柄で、拳を振るうのではないかと恐れるのです。付け焼刃のような善人顔の私は、右手を切り落としてでも、あの蛮行をくりかえしたくないと思い続けております。もちろん、私には功績などありませんから表彰される機会はないのですが。「償い」よりも「悔い改め」、これが必要なのだろうと肝に銘じている、春三月であります。

(写真上は、「ミリタリー傘.JPG」の「傘」、下は、【法輪堂】ブログ の「拳」です)

妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情けあり
友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱

「高歌放吟(放歌高吟)」と言うのは、若かりし頃の一つの特性なのでしょうか。あたりを気にしないで、覚えた歌を歌い放って、夢や理想を表現したのです。「蒙古放浪歌」とか、「ゴンドラの唄」、「馬賊の歌」、母から教えてもらった「無情の夢」、軍歌などを好んで歌ったのを覚えています。まだまだ歴史も現世も、まったく未熟な時代に、お酒が入って歌っていました。ある時、私の歌に聞き入っていた、初老のおじさんが、『君、才長けた女なんぞいるものか、そんなもの夢だ、幻だよ・・・』と言われたことがあります。

この歌は、与謝野鉄幹が詠んだ詩に、曲が付けられて旧制の高校や大学の学生が、好んで歌ったのだそうです。バンカラな風情が溢れて、あの時代の青年の理想的な気概が込められていたのでしょう。鉄幹は、質実剛健な詩を詠みましたが、実生活は硬派ではなく、女性に自堕落な軟派だったので、私は好きではありませんが、若い日に、彼の詩に魅せられたのは事実です。文学の世界とは、書き手の性格や生活とは違った《虚構の世界》だというのが当を得た見方なのでしょう。私小説は、赤裸々な生活を描写はしますが、それも事実の誇張であったり、虚飾に満ちていて、故意の扇情にすぎないのでしょう。

さて今日日、若者が、あゝ言った風に歌うのをついぞ見かけたことがないのですが。お酒をやめてしまって、酔うと歌ったですから、そういった世界から遠のいてしまいましたから、聞く機会がなくなったのかも知れません。そぞろ歩きながら、肩を組みながら合唱するといった光景は、きっと、もう過去のことなのかも知れません。中国での生活で、出会った興味ある光景がいくつかあります。一つは、中国で道を歩きながら、自転車に乗りながら鼻歌を歌っているのです。気分がいいのでしょうか、今流行っているからなのでしょうか、それとも自分への激励歌なのでしょうか。もう一つは、肩を組みながら歩いている様子です。お母さんと息子、おじさん同士なのです。日本の十代の中頃の少年が、お母さんと手をつないで歩いたり、肩を組むなど、周りを気にしてまずありえません。ところが中国の私たちの住む地域では、よく見掛けるのです。また。40代くらいの男性二人が、そうしているのです。おかしな二人ではなく、まさに親友同士なのです。

そういった姿を、中国でよく見かけるので、家内は私と腕を組みたがるのです。私は硬派で軟弱なのが嫌いに生きてきましたが、この何年か、彼女の要求を、やっと受け入れられるようになりました。健康だった妻が病んで弱くなったこともあって、そうすることが自然になったのです。昔、《才長けた妻》を夢見て、あのおじさんの呪文にひっかかって、『いない!』と結論したのですが、長所と短所を合わせ持つ私、いえ短所のほうがはるかに勝って多い私が、妻に長所ばかりを期待しても始まらないのに気づいたのです。

鉄幹にとっての晶子は、そうだったのかも知れませんが、私にとっての家内は、才も美も情も、晶子には劣るかも知れませんが、「実(じつ)」のある《良き半分》でることだけは確かです。相手に理想を求めるなら、私も相手の理想に近づかなければならないことになりますね。ときどき男の左腕に、好きな女の名で《〇〇命》と彫られているのを見掛けましたが、『今でも《◯◯命》のかな?』と、ふと思い怪しむ、入院中の妻の恢復を願う見舞い帰りの私であります。

(写真上は、「自分史 私と映画と人生と」に掲載のもの、下は、京都府情報局の写真です)

異常なし!

きょうの「内視鏡検査」の時、担当医が、『お酒やタバコをやりますか?』と聞きました。内視鏡を、喉から入れたのですから分かっていたのに、規定通りに聞いてこられたのです。『25の時に両方ともやめました!』と答えたのです。その断酒と断煙の決断が、今でも正しかったと思っています。あのまま無茶飲みしていたら、今頃は、肝臓や肺を壊して死んでいたことだろうと思うこと仕切りなのです。そう思っている私に家内は、何時でしたか、『いいえ、病死よりも、きっと女に殺されているでしょう!』と、はっきり言われてしまいました。それを聞いていたアメリカ人のご婦人が、さもありなんとでも思ったのでしょうか、呵々大笑して笑い崩れてしまいました。そんなに恨まれるようなことを女性にしてきた覚えはないのですが。今、息子の家の二階にいますが、それは家内の《誤解》です。

ご自分の会社の会計の手伝いをさせてくださった社長さんがいました。2~3年、お手伝いさせていただいたでしょうか。彼がときどき、うなぎ屋や、蕎麦屋や、焼き鳥屋でご馳走してくれたのです。何時でしたか、町一番のうなぎ屋で、彼が日本酒の生酒を、猪口に一杯注いで、飲むように、私に勧めてくれたのです。ほとんどの場合は、お断りするのですが、その時は、断る理由がなかったからでしょうか、彼と同じようになってあげたかったのでしょうか、何十年ぶりに飲んでみました。それが喉を通ったときに、『うまい!』と、思ってしまったのです。でも、お酒はそれっきりです。

学校を終えて社会人となって職場に入った私は、好きでもない酒を、仕事の中で誘われるままに習慣的に飲むようになっていました。若気の至りで、その量が増え続けてていて、生活も乱れ始めていました。地方に出張すると、私立学校の理事長や校長が、夕方になると宴席を設けてくれるのが常でした。父の世代、いえ父よりもひと回りもふた回りも年配の地方の名士が、東京からやってきた若造を、接待してくれるのです。そんな繰り返しをしていた私は、『このままだと滅んで、自分の人生は終わってしまうのではないか!』との恐れが心を満たしたのです。それが1つの理由で、私は悪習慣から離れたのです。

その頃、福岡県の久留米にいた、上の兄家族を訪ねました。大学の運動部に入っていて、大酒を飲み、たまには殴られたこともある兄が、全く考えられないような、変えられた生活を、そこでしていたのです。彼の家に二泊ほどしたときに、彼の生き方に感染したのでしょうか、無軌道な生き方をやめるような気持ちに、背中を押されたのです。翌年、都内の高校で教えるようになりました。

自分の人生が大きくカーブを切り始めたのがその頃だと思います。結婚もし、とてつもない不思議な力が、自分を貫くような入り込んで、荒れていた生活を改められたように感じたのです。さまざまな悪癖から、スパッと解放されたのです。

その頃、生意気な私を、新潟県下で高等学校の校長をされてて、退職後、同じ職場にいた上司や、W大の国文科の科長をされていた教授が、何故か私のことを気にかけてくださっていたのです。俗な言い方をすると、可愛がってくれたのです。もう召されたであろう、多くの方々を思い出して、心からの感謝が沸き上がってきております。精密検査の必要を、担当医に言われたとき、やはり最悪の事態も考えて置かなければならないと思いましたが、『今のところ、異常なし!』と言われてひと安心というところです。少なくとも、次回の検査までは、病気のことは考えずに、健康管理に励みながら生きていこうと思っております。

明日、「眼底検査」を受けようと思っています。4人の子どもたちが、『お父さん、「人間ドック」を受けるべきです!』との勧めを、ひとたびは拒んではいたのですが、聞いて受けてよかったと思う、積もった春の淡雪が溶け始めている夕べであります。

(写真上は、国土交通省撮影の久留米市の「筑後川」、下は、経鼻内視鏡の「図」です)

药(薬)

昨晩の夕食は「餃子」でした。先週末、息子家族と家内が招かれて、《ギョーザ・パーティー》に参加してきました。日本で仕事をする中国人のみなさんが、開いていたのだそうです。残った餃子の餡を頂いてきましたものを、家内が、市販の餃子の皮に包んで、水餃子にしたもので、とても美味しく頂きました。あるブログに、こんな記事がありました。

『日本人の大好物のつである「餃子」は中国の東漢時代に由来し、当時の名医・張仲景(ヅァン・ゾンジン)が創案したものである。それは元々形が耳に似ていることから、当時「嬌耳(ジャウ・ア)」(可愛い耳)と呼ばれていた。餃子を作った張仲景はどんな難病でも治すことができる優れた医術の持ち主であり、 民衆から聖医と呼ばれ、道徳家でもあった。張氏は、貧困層に対しても富裕層に対しても真面目に診療を行い、多くの命を救った。疫病が流行ったある年に、張 氏は勤め先の政府庁舎前で、大きな釜を設置し薬を煎じて多くの民衆を救ったため、民衆の敬愛を得ていた。

張仲景が引退後、故郷に帰ったが、歯を食いしばって飢えと寒さを忍ぶ多くの貧しい民衆の耳が凍傷になった悲惨な状況を知り、民衆を助けることを決心した。多くの患者が治療を求めに来る ため、張氏は多忙な毎日を送った。張氏は飢えと寒さを忍び耳が凍傷に冒された民衆のことがどうしても気がかりであった。』

とありました。このように中国原産の「薬」と言われた餃子は、今日日、日本ではラーメンと共に「国民食」だと言えそうですね。この帰国の2週間に、もう4回ほど餃子を食べているのには、驚かされてしまいます。この「餃子」のせいでしょうか、今朝受けました、《内視鏡検査》では、『あなたの胃には問題ありません!』との医師の診断でした。中国に再び帰ったら、せっせと餃子を「薬(药yao)」として食べることにしましょう!

(写真上は「張仲景」、下はh tp://blogs.dion.ne.jp/xiongmao/archives/8335677.htmlの「水餃子」です

バリウム

冬休みには、避寒ということで、長女のいますシンガポールに行く予定を立てていました。ところが、昨秋、家内が入院治療をしました関係で、日本に帰って治療を継続したほうがよいとのことで、急遽日本への帰国に変更いたしました。胆石性膵炎の手術と、査証の更新のために帰国したのですが、家内の手術は、精密な検査をしてから決める、最悪の場合のみ手術で、極力、リスクの大きい手術は回避したいとの医師の診察でした。私たち家族は、手術なしの治療を、心から願っているところです。手術することしか思いになかった私たちにとって、順天堂医院のF医師の言葉は、”good news”でした。きっと、手術することなく中国の《鞘(さや)》に戻れるのではないかと思っております。

「査証」ですが、2年間の許可がおりました。多くの人にご心配していただいたのですが、円滑に入手することができ、「一件落着」、いえ「二件落着」といったところです。実は、三件目があるのです。家内の思いもよらない疾患で、昨秋11月には市立病院に一週間入院治療をし、退院後も、中国漢方医の医師の診察、医科大学付属病院での診察を経ての帰国で、両親の「健康不安」を覚えたのが、四人の子どもたちでした。『お母さんだけではなく、この際、お父さんも、しっかり検査をしてください!』と、全員から言われてしまいました。今朝、私は意に反して、家の近くにある大きな病院で、「人間ドック」の検査に行ってきたのです。多分20年ぶりのことであります。それでも、ほぼ毎年、中国の町の検査を受けてきておりますから、帰国時の検査は不要だと思っていましたし、なにか発見されて束縛されたくないとの思いもあって、避け続けてきたのですが、今回ばかりは拒めませんでした。今、バリウムを飲んだ後の不快感に悩まされています。一週間後に結果が出てまいりますが、帰りの飛行券は手元にありますから、何も発見されないで、中国の町に戻れるのだろうと思っております。

父は退院の朝に倒れて不帰の人となったのですが、『俺も!』と思ってはみますが、だれも願うようには死んでいくことができません。人には、《生きる責任》があるのでしょうか。妻のために、子どもたちのために、可愛い孫のために、そしてまだまだ元気な母のために、社会的な責務が残されているのだと思わされるのです。中国の地には、帰国前に『再見!』と言ってくれた学生のみなさんがいて、彼らに会う責任もあるわけです。そうしますと、まだ死ぬわけにはいかないのですが、これだって、私の願いにはよらないことになります。

「オリンポスの果実」を書いた田中英光が、太宰治の墓の前で、子どもたちに、『さようなら!』との遺書を残して自死しますが、彼と同じく小説家になった息子さん(光二氏)が、そんな父を語っていたのを読んだことがあります。虚構の世界をさまよう小説家が、書けなくなると死を選ぶ事例が多いようです。「老人と海」を読んで感動した中学生の私は、それを書き著したヘミングウエイが、銃を用いて自らの命を断ったのを知ったときは、ショックでした。みんな人は、旅人のように、この世に寄留して、それぞれの短い人生を生きるようにと、いのちの付与者に命じられているのですね。どうせ生きるなら、楽しく喜ばしく生きたいものです。そして、『よく生きた!」と、子や孫に言われるように生きてみたいものです。与えられた天職があって、それを全うすべく、来週は機上の人となりたいと願う、バリュウムの喉越しの残る、暦の上では「節分」の夕方であります。

(写真上は、「順天堂医院(御茶ノ水)」、下は、大阪大学医学部の「バリウムと発泡剤」です)

代官山


渋谷から、東急東横線の電車に乗って1つ目の駅が「代官山」で、ここに引っ越して部屋を借りた次男を、今週訪ねたのです。ここは、東京の「住みたい街」の上位に位置する《人気スポット》で、若者好みの街です。正面口付近に立って、お洒落した若者たちを眺めている私を、息子が出迎えてくれました。駅周辺はアパート群で、階下には瀟洒な店がならんでおります。渋谷の街の喧騒から、ちょっと離れただけで、こんなに閑静な街を形作っているのが、いささか不思議な感じがいたします。息子に聞きますと、この周辺は、IT 関係の会社の多い街だそうで、彼もまた、その業種に従事しております。

もう50年も前のことになるのですが、私は新宿で「山手線」に乗り換えて、目黒からバスに乗って学校に通っておりました。宮益坂を登って行く青山学院のある六本木方面は、けっこうにぎやかだったのです。渋谷駅は、谷間にあるように坂の多い街の谷間にあって、山手線の外側は、低い軒を連ねた平凡な住宅街だったのを覚えています。今回、帰りには、「恵比寿」から電車に乗り込んだのですが、当時は、エビスビールの工場があっただけで、何もなかった駅の周辺が、繁華な街になっていたのにも驚かされて、初めて恵比寿の駅を利用しました。昔日の感がまったくなく、大都会に飲み込まれてしまったようです。

江戸時代には、「目黒のさんま(落語の演題)」に出てくる殿様が狩りをした地に近いのですから、この辺も原野だったのでしょうね。昭和二十年代の中頃になって、『四人の子どもたちの教育を、どうしよう?』と考えた父が、中部山岳の山村から出て、家を最初に見つけたのが、新宿でした。横須賀で生まれて、若い時を東京で過ごした父にとっては、《東京通》でしたから、そう思いついたのでしょうか。甲州街道(20号線)の道沿いにある南口駅の近くだったようです。今のような賑わいはありませんでしたが、当時も歓楽街だった新宿に住むことをためらった父は、東京都下の街に家を買い求め、そこで私たち兄弟は育ったのです。

結婚前の家内の本籍地は、東京・本郷で、「切通し坂町(湯島)」でしたから、そこは、《ちゃきちゃき》の江戸だったことになります。そういえば、今日日、町の名までが、「町名変更」で、実に情緒が無くなってしまったのを感じて、ちょっと寂しい思いもいたします。「渋谷」だって、武将の渋谷氏にちなんで呼ばれた街であり、「代官山」も代官町の名残でしょうし、父が一時は住もうと考えた「新宿」だって、かつては「内藤新宿」と呼ばれた、日本橋から始まる甲州街道の最初の宿場町だったのですから。

そんな都会の狭間の息子の部屋で、一泊したのですが、実に静かな夜でした。窓の密閉度が、そうさせただけではなく、都会の喧騒などまったく聞こえてこなかったのですから、「大人の街」といったらいいのかも知れません。息子と夕食を済ませた後、寄ったパン屋さんの会計は、中年の流暢な日本語を話すイタリア人でした。家内は、長男の家族と一緒に、長女はシンガポールの海の見える部屋で、次女はオレゴンの家で過ごしていることを思って、散り散りになった我が家族の無事を願った、次男の代官山の部屋の一日でした。

(写真上は、東急東横線の「代官山駅」、中は、「目黒のさんま祭り」、下は、「切通坂(湯島)」です)

今日は、検査のために、最寄りの駅から急行電車に乗り込んで、池袋に出て、JR山手線の神田にあります、「MRIクリニックセンター」まで出かけてきました。ラッシュを外れていましたので、電車は空いていたのです。車両には「優先座席」がありまして、病院通いの家内のためにと思って、その座席のそばに立ちました。反対側には白髪の男性の年配者が吊革を掴んで、奥様の席の前で立っていました。数駅向こうから乗り込んでこられたのでしょう。ところが目の前の席には、年配者の他に一人の20代の女性が何食わぬ顔で座って、携帯を操作していたのです。通路を挟んで、その反対側に家内が立っていました。目の前の3人がけの座席には、年配者と二人の高校生が座っていました。その高校生たちはゲームに熱中していたのです。よく見かける車内風景です。

ところが中国の公共バスですと、この様相は全く違うのです。年配者が乗ってきて、カードで乗車賃を支払う操作をしますと、『ラオレン・カー(老人卡)!』とコンピューター読み取って音声で応答します。バスの前方に座っている若者は、それを聞きますとさっと立って、席を空けて、いつでも座れるように譲るのです。そうでなくても、年配者の気配がすると、席を立って譲っています。

この違い、この差について、しばらく考えてみました。私たちの時代ですと、ゲームも携帯電話も文書版や週刊のマンガもない時代でしたから、若者が座っていて、目の前に年配者が来ると、『どうぞ!』と譲るのが常でした。それよりも席が空いていても、若者は座ることを避けていたのではないでしょうか。親子連れで電車やバスに乗っていて、子どもが席に座っていて、老人がそばに来ると、お父さんやお母さんは、『◯◯ちゃん、立って席を譲りなさい!』と声をかけてもいました。それが自然になされていたのです。現代の中国と、まったく同じでした。

『なぜ若者は席を譲らないのか?』という社会学的考察をされる方が、『席を譲られたくない老人がいて、断らることが多くて、それで現代青年は席を譲らいのだといった理由もあるのです!』と結論されていました。そうしますと、今日日の日本の年寄りは自分が老人であることを認めたくないからなのでしょう。そうかも知れません。しかし全体的に、近年、《敬老の心》が失われてきているのは事実です。もしかしてこの時代は、プレッシャーで疲れてしまっている若者が多いのかも知れませんね。

中国の街でバスに乗っていて、中年の女性にも男性にも、席を譲られたことが数回あります。若者だけではありません。気がつかないでいる学生に、学生が、席を譲るように膝を叩いたり語りかけて、促している光景も、ちょくちょく見かけます。『科学技術の面で日本には、数段も遅れをとっていますから、私たちは日本に学ばなければなりません!』と、作文に書く学生が何人もいます。彼らは、日本に、アメリカに、ヨーロッパに学ぼうとして躍起なのです。としますと、日本の若者は、中国の若者たちが持っている優れた《社会性》や《人間性》から、多くのことを学ばなければならないのではないでしょうか。

もちろん立派な日本青年も知っています。しかし全般的な傾向として、かつて《よし》とされていたことが忘れ去られて消えかけているのを感じるのは、一概に《年寄りの冷や水》だとは言えないのではないでしょうか。譲られることが多い私は、先日、私の住む中国の街のバスの中で、子どもを抱いているお母さんに、譲り受けた席を譲りました。譲ってくれた学生が、『あれっ!』と言う顔をしていました。私よりも年上の方にも席を譲りました。まだまだ座らなけれ耐えられないほど体力が衰えていないからです。今度中国に戻ったらテニスを、またやろうと意気込んでおります。でも譲られたら、感謝して受け、その席に座るつもりでおります。

(写真上は、「東武東上線の車両」、下は、「中国の公共バスの社内風景」です)

子どもの頃、友達の中に、お父さんのいない母と子の家庭が意外と多くありました。TくんもBくんも、その他の級友たちの家が、そうでした。彼らは父親のカゲが薄かったのを感じていました。両親のいた私は、父親のいない級友たちの家に遊びに行っては、『どうして君にはお父さんがいないのか?』と聞くことはありませんでした。理由を知りたかったのに、そう聞いてはいてはいけないような思いがあったのでしょうか、聞き出して彼らを窮地に陥れるようなことはしませんでした。戦争を知らない私にとって、どうしてかということが、まだ分らなかったのです。

日本の歴史にとって、また私たちの世代にとっても、昭和12年(1937年)は決して忘れてはいけない年だというべきでしょう。この年の77日、北京郊外の蘆溝橋で軍事衝突事件が起こり、日中両軍が交戦状態に入りました。停戦協定が成立した11日に、日本政府は、初期の不拡大方針を覆して、華北への派兵を決定てしてしまいます。28日になりますと、日本軍は華北で総攻撃を開始し、8年間にわたる「日中戦争」へと全面突入してしまったのです。

それにともなって、日本国内では、軍備拡張が行われ、多くの働き盛りの男が徴兵されて、戦場に送られていきます。その中に、私の級友たちの親がいて、終戦間際に戦死してしまったわけです(私の大学時代の級友には、戦争後、中国に残留し、内戦に従軍して、その戦いでお父さんを亡くなした級友がいました)。彼らのお父さんが戦死であったということが分かったのは、小学校の高学年になってからだったでしょうか。私の父は、戦闘機の部品に関わる「軍事産業」にたずさる「軍属」でしたから、戦場に行くことはなかったのですが。

高校の友人の家に行きまして泊めてもらったときに、布団を敷いてくれた部屋に、軍帽と軍服の彼のおその時初めて、戦死されていたことを知ったのです。悪戯で、担任の良く叱られ仲間でにぎやかな彼が、ふと見せる寂しさの理由が分かったのです。そんな彼と出会った頃、『お母さんの若い頃に流行った歌を教えて!』と言って、無理に頼んだことがありました。母が教えてくれたのが、「無情の夢(作詩・佐伯孝夫、作曲・佐々木俊一)」という歌謡曲だったのです。

きらめましょうと 別れてみたが
何で忘りょう 忘らりょうか
命をかけた 恋じゃもの
燃えて身を灼く 恋ごころ

この歌は、なかなか歌うのが難しかったのですが、多分、父と母が出会って恋に落ち、結婚に導かれた頃に一世を風靡していた歌謡曲だったに違いありません。母の話によると(これも無理に聞き出したのですが)、広島の江田島にあった「海軍兵学校」に学ぶ人の中に、想う人がいたのだそうです。戦死したか、どうかの消息は聞きませんでしたが、叶わぬ恋だったのでしょう。母にも、人を恋する思いがあったことを知って、思春期の真っ只中の私にも、『恋心を抱いてもよろしい!』、との許可を、母にもらったかのような出来事でした。

恋し、愛した人と引き裂かれたり、父を亡くしたり、隣国を犯し戦闘で人を殺めたりする戦争が、二度と再び起こらないことを願う私は、ただ平和を願ってやみません。父を亡くした級友たちも、父となり、爺となって、そう願っているに違いありません。七十数年前に激しい戦いが行われた大陸を離れて、この週末、帰国しましたが、その思いだけは忘れないで、来月、また中国の地を踏むつもりでおります。

(写真は、日中戦争の勃発地点となった「盧溝橋」です)