無欲の馬子

 一人の武士が、主君の命で江戸に赴き、数百両のお金を持参して国もとに帰る旅の途上、雇った馬の鞍にしっかりと結びつけて旅をしていました。夕刻になって、ある宿場町に着いたのです。馬をひいていた馬子は、一日の仕事を終えて家に帰っていきました。しばらくして、彼はその大金の入った金包を忘れたことに気づいたのです。雇った馬子の名前もわかりませんから、探しだすことは全くできでした。とんでもないことをした彼は、家族と家老に手紙を書き上げ、腹を切って死のうとしたのです。

 真夜中になって、誰かが宿の戸を、『トントン!』と叩く音がしたのです。人夫の身なりをした男が、彼を訪ねてきたことを、宿の者から知らされます。その男を見ると彼は驚きました。なんと昼間の馬子ではありませんか。馬子は、『お侍さん、私の馬の鞍に大切な物をお忘れになりませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返しなければと思って戻って参りました。ここにございます。』、そう言って、馬子は彼の前に金の包みを置いたのです。金の包みが戻ってきたことを、この武士は我を忘れるほど喜びました。そして、『あなたは私のいのちの恩人である。いのちが助かった代償として、この四分の一の金を受け取ってもらいたい。』と勧めます。

 しかし、馬子は、『私は、左様なものを受け取る資格はございません。金の包みは貴方様のものです。あなたがもっていらっしゃて当然なのです。』、といって、目の前の金に触れようとしないのです。それで彼は、十両を置くと、断られ、五両、二両、一両と置くのですが、すべて断られてしまうのです。ついに馬子は、『私は貧乏人です。このことで私は4里の道をやってきました。それなら、草鞋の代金として四文だけいただけるでしょうか。』といったのです。そのやり取りの後、やっと彼が馬子に渡せたのは二百文だけでした。喜んで立ち返ろうとする馬子に向かって、この武士が尋ねます。

 『どうして、それほど無欲で正直で誠実なのか。どうか、その得理由を聞かせて欲しい。このようなご時世に、これほどの正直者に出会うとは、思いもよらなかったから。』というと、馬子が、こう答えたのです。『私どもの住む小川村に、中江藤樹という人が住んでおられます。この先生が、そういうことを教えてくださるのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことであるとおっしゃいます。私ども村人一同は、先生から学んで、その教えに従って暮らしているだけでございます。』

 こういった無欲の馬子を教育の力で創り上げた中江藤樹という人は、実に立派な人でした。今日日、この日本の国が必要としているのは、中江藤樹のような教育者、企業人、医者、政治家なのではないでしょうか。中江登場に学んだ馬子のような教育者、企業人、医者、政治家なのではないでしょうか。自分の家に金の延べ棒を隠し持っていたり、土地転がしをして私財を蓄えるような人、また人を巧みに転がして使えられても、日本という1億3千万もの人によってなる掛け替えのない国を転がしていくことなどできようはずがありません。

(画像は、〈京都大学附属図書館 維新資料画像データベース〉の中江藤樹です。中江藤樹のことは、内村鑑三著「代表的日本人」からです)

再見

 福岡県南部、筑後平野を流れる筑後川の河口に、久留米という伝統的な町があります。この町で、1911年3月24日に、家内の母が誕生しました。大きな商問屋を切り盛りする未亡人だった母親のもとで成長します。娘時代、貧しい人を見ると、母親の目を盗んでは、倉庫に跳んでいっては、米を手渡してしまうということを繰り返していたのだそうです。天皇が巡幸された時には、接待役に選任されて、栄誉ある奉仕もしたとか。そんなことを聞いています。「久留米絣(かすり)」で有名な、井上伝をよく助けたこともあったそうです。

 東京の女子大に学び、卒業したら、教員になりたかったのですが、母親に反対され、すぐに結婚し、6人の子をなしたのです。最初の子が生まれた時に、今の天皇陛下の「乳母」に選任されたのですが、何らかの理由で辞退したそうです。戦後、食糧難のおりに、肋膜炎を患い、死線をさまようのですが、奇跡的に医癒しました。離婚問題、子育て問題など、様々な必要のある人を助けて、今日まで生きてきたのです。私の母と町の路上で会って、生涯の友人にもなってくださったのです。

 今朝、北京時間11時半頃に、長男からメールがありました。『本日7月5日午前10時過ぎ、おばあちゃんが天に召されたと、先程、叔母から連絡がありました。これから◯◯へ向かう予定です。午後3時くらいには医大の方が献体の為に亡骸を引き取りに見えられるそうです。叔母は市役所などの手続きで忙しいそうです。 』とありました。この地上での輝かしいこと、戦争中や戦後の困難、よき業のすべてを置いて、天に帰っていったのです。101歳3ヶ月と十日の生涯でした。

 39歳の時に私が大手術を行った時には、ブラジルから駆けつけてくれ、私の傍らにいてくれました。実の母のようにしてくれた義母でした。貧しかったのを知っていたのでしょうか、東京に出て帰りしなになると、いつも握手を求めてきたのです。必ず、掌(たなごころ)に一万円を握らせる握手をしてくれたのです。自分の可愛い娘を嫁がしたのですから、その婿殿も可愛かったのでしょうか。

 人生とは長いようで、短いのですね。造物主のもとで、安からにお過ごし下さい。やがて、再び相目見ゆる日の到来することを心から信じて、さようなら!、再見の方がいいかも知れません。

(写真は、義母が子供時代に嬉々として泳いで遊んだ筑後川の夕日です)

良き指導者を!

 『家庭を治められないで、国を治めることはできない!』、『妻や子が満ち足りないで、国民を満ち足らせることはできない!』、『家族が幸福でないのに、国民を幸福にはできない!』、これは私が教えられ学んだ大原則であります。小さなことに忠実でないものには、どの社会も大事を任せることができないからです。一国の命運を握る政治は、遊戯ではないからです。「新党結成」の必要性が、どこにあるのでしょうか。自分の属した政党を離脱して、何の実績もないまま、新しい政治活動をするなどということは、万死に値します。その上、妻に三行半をたたきつけられているような人が、国運を決めてよいのでしょうか。

 もし小事を忠実にこなすなら、例えば、子育ての半分を自分が責任をとり、老いていく父や母の世話をし、町の貧しい人、病んでいる人たちに暖かな心を向けられるような人は、国体の大事を果たすことができるのです。多くのリーダーが、『私には重大な責任がある。それゆえ家庭のことなどにかまってはおられぬ!』といい、外に愛妾を囲って養う余裕を見せようとしているのです。そうなら「家庭」とは、変人にみられないための隠れ蓑に過ぎなのです。そんな家庭で育つ子どもは悲劇ではないでしょうか。

 「憂国の志士たち」は、自分の立身出世のためにではなく、国の命運が好転していくためにその青春を捧げきったではありませんか。地を這い、辛酸を舐め、打たれ投獄されながらも、明日の国の開明を信じて国家に殉じました。真の政治家たちは、命を賭して、国難に対峙してくれたではありませんか。敗戦という致命的な国情を、過ちを正し、豊かな国家形成の幻をもって立った政治家たちが、幾人もいたではありませんか。 

 その人の意思が国を動かしたと言うよりは、1億もいる国民の安寧を願う大いなる力が、人を立て、用いたに違いありません。否定的な将来しか予測できない今、そういった実績を思い起こし、その勉励努力の上に、国を再建していく、新しい指導者を心から願うのです。党利党略に死に、おのれの名誉心に死んだ、国を思う、国をなす1つ1つの家庭を考える指導者のことであります。理想的な指導者を願うのではありません。理想に向かって砕骨粉身してくれる、金に淡白な心を持つ人が相応しいのです。社会的弱者のために、金など目にくれず、東奔西走している若者たちのいることを知っています。彼らの楽天主義は、『金は必要なら後からついてきます!』と言わせているのです。

 私たちは、自分の国に責任を持って生きていかねばなりません。なるようになるといった日和見な考え方から、自分の国の再興を、切々と願おうではありませんか。彼らの末裔であるなら、きっとできるからであります。

弱音

 「弱音を吐く」、これは、自分の苦しさや辛さを口に出さないことなのかも知れません。自分の母親がそうだったので、この私も、弱音を吐くことが少なく今日まで生きてきたと思います。今回の風邪で、実を言いますと今日も37.4℃ほどあるのですが、うなされはしませんでしたが、初め頭痛が激しく、波のように一晩中繰り返していました。こういった頭痛は、初めてのことで、頭痛持ちの方の苦しさが、やっと分かったようでした。そうしましたら、今度は咳が出てきて、腹筋が痛くなるような咳だったのです。結局、最高体温は、39.4℃で、2日ほど苦しみました。こういった時に、女房は、『痛いよーう!』とか『苦しーよ!』とか言うのですが、私は、こういった言葉を使わないのです。性格なのでしょうは、じっと我慢してしまいます。「上手な感情表現」の記事を読みました時に、その著者は、痛い時には『痛い!』、暑い時には『暑い!』、苦しい時には『苦しい!』と、正直に気持ちを表現したほうがいいと言っていましたが。

 正直に自分の感情を、繰り返し言い続けるのを聞くのは、とても気になってしまうのですが、伴侶の弱音を聞くのは夫の義務なのかも知れないと、まあ納得しているのですが。母が、学校に通っている子どもたちに、『少しでも小遣いを上げたい!』という思いから、町工場でパートと働いていました。その頃は、和菓子の最中を作る工場に勤務していたのです。この工場から、家に帰るときに、向こうから大型のダンプカーがやってきたので、路側帯に自転車を寄せて、車をやり過ごそうとしていました。ところが、その車のボルトで、母の両足に大怪我を負わせたのです。町の病院に運ばれて、痛みに耐えている母の苦しそうな表情を、駆けつけた私はみました。『お母さん、大丈夫?』と聞くと、頭を縦にふって答えていました。言葉にならないほど、苦しかったのでしょう。

 その病院では治療は無理ということで、立川の共済病院に転送されて治療が行われました。なんと1年近くの入院になってしまったのです。一時は、両足切断の危機もありましたが、もち直したしたのでした。その母の負傷直後の様子と、闘病生活を眺めながら、『なんて強い母なんだろう!』と思わされたのです。生まれた時から、弱音を吐く実の母や父なしで、じっと我慢の子で独りで生きてきたので、そういった強さが培われたのでしょうか。きっと言いたいことがたくさんあったのでしょうね。いつだったか、『あなたが女の子だったら、いろいろなことを話したかったけど、男の子だから・・・』と言っていたことがありました。弱く見える母を見せたくない、大正の女の意地もあったのかも知れませんね。90歳前後から、『胸が痛い!』と時々言い始め、帰国するたびに、そう私にも訴えてきたのです。この母にして初めての《弱音》だったと思います。

 後になってから、胸部に疾患があったことが分かったのですが、私たち子どもは「異口同音に、「気分のせい」に決めつけたのでした。帰国時には、『一緒に散歩しよう!』と連れ出していました。それが真実の母の気持ちだったのを、察してあげられなくて、こればかりが心残りです。女房のように、大声で言ったほうがいいのかも知れませんね。きっと自分も、もうすこし年をとったら、弱音を吐くのでしょうか。私は母のように弱音を吐かずに生きようと思っていましたが、加齢は、信念を変えるのかも知れません。それよりも女房に似ていくのかも知れませんね。

(写真は、母の生まれ故郷に咲く「櫻花」です)

39.3℃

 《39.3℃》、日曜日に、冷房の中でうたたねしていて、『さむい!』と思いながら、消さないで昼寝を続けていました。月曜日になって、キリキリと頭が痛み始め、咳がではじめ、寝込んでしまいました。体温を測ると、この体温でした。《冷房に弱い》、これが私の体質なのかも知れません。あるとき、一日のセミナーに出席していました。『やけに寒いな!』と思いながら、我慢していましたら、この時もまた風邪を引いて寝込んだのでした。今とは違って、私たちの国でも冷房機具などなかった時代に、私たちの世代は育ちましたから、こんな厄介な病気にかかることはなかったのです。

 夏には扇風機はあったでしょうか、冬には炬燵もあったでしょう。『暑かった!』とか『寒かった!』という感覚の記憶はほとんどないのです。貧しい時代の記憶というのは、次第に薄れていくのはないでしょうか。結婚した当初、東京の都下で世帯を持ったのですが、クーラーはありませんでした。それでも問題なく生活できたのです。それからしばらくして中部の山岳地帯の街に移り住んだのですが、子育て中のわが家にはクーラーはありませんでした。私の師匠の家にはあったのですが。アメリカの南部の田舎町で、大きな電気商を営んでいた家庭で育った彼には、それは生活必需品だったに違いありません。少し羨ましかったのは事実ですが。

 熱にうなされながら、家内がアイスノンを頭に当ててくれて、『水をどんどん飲んでね!』と勧めてくれました。汗をかき、下着を変える、それを繰り返しながら、昨晩になってから、やっと37.2℃に体温が下がってきました。39℃というのは、半世紀ぶり以上の経験だったようです。小学生のとき、学校を休んで寝ていると、頭がクラクラとして、天井を見ると、その節目がだんだん大きくなったり小さくなったりする《幻覚症状》があったのです。今回の家には木板の天井材は張られてありませんで、コンクリートに白い塗料が塗られてあるので、そういった幻覚はありませんでしたが、小学生の頃を思い出していました。

 昼頃になると、熱が下がってきて、食欲が出てくるのです。すると母が、『お刺身でも食べる?』といっては、リヤーカーで挽き売りをしてくる栗山さんから買ってきて、ホカホカにたいたご飯で食べさせてくれたのでした。今回も、そのことを思い出して、『刺身が食べたい!』と女房に言おうと思いましたが、こちらでは、なかなか手に入りそうにない代物(しろもの)ですから、その言葉を飲み込んでしまいました。その代わりに、大根おろし、どこかで見つけてきた梅干し、おかゆを作ってくれて、やっと昨晩は食べることが出来ました。いつも食欲があるのですが、今回は、食欲がなく、日曜日の晩に、友人夫妻が持参してくださった大きなスイカだけを食べていたのです。

 この《冷房病》というのは、科学病、現代病、贅沢病と言えるのでしょうか。いやー、夏の高熱というのは、実にきついものです。貧乏育ちのわれわれの世代には、どうも似合わない電化機具に違いありません。食欲が出てきたので、食べたいものを思い巡らしている今であります。好きなスイカが、なおのこと好きになってしまいました。   

Oh the Places You’ll Go

2012年7月2日 09:00 (ロケットニュース24)
最高の卒業祝い! 父親が娘のために13年間かけて準備した特別な贈り物とは?

6月といえばアメリカでは卒業式シーズンである。ブレナ・マーティンさんも6月初旬に高校の卒業式を迎えた一人だ。大人社会への一歩を踏み出すその記念すべき日に、ブレナさんは父親から特別な贈り物をもらった。
ブレナさんの父親はその卒業祝いを準備するのになんと13年もの歳月を費やしていた。お金では決して買えないその贈り物にブレナさんは大感動。さらに、この話をネットで知った多くの人々に感動を与えている。
父親は卒業式の日にブレナさんに一冊の絵本を贈った。『Oh the Places You’ll Go(邦題『きみの行く道』)』という題名のその本は、人生のさまざまな出発のおりに贈られる本として知られている。
ブレナさんは本の表紙を見て喜んだ。「とっても嬉しいわ。この本、大好きだから」と。だが、父親は「いや、今その本を開けてみて」 と言う。父親に促され、最初のぺージをめくると、そこには幼稚園の時の先生がブレナさんのために書いたメッセージがぎっしり書きこまれていたのだ。
それを見た瞬間、涙が込み上げてきたとブレナさんはいう。まだ困惑中のブレナさんに対して、父親は言った。「幼稚園に入学してから今までの13年間、毎年、ブレナを教えくれた先生、コーチ、校長先生全員にブレナのことについて書いてもらってきたんだよ」
父親はブレナさんが大人への一歩を踏み出す来るべき日のために、この特別な「プロジェクト」を13年もの間ブレナさんに言わずに進めていたのだ。
事の顛末を知ったブレナさんは号泣。そして、昔の恩師たちが自分のために書いてくれたメッセージを夢中で読み進めた。本には励まされる、温かい言葉がたくさん溢れていたという。そして、ブレナさんがこの話をネット上で書き綴ったところ、多くの共感と感動の声が拡がった。
ブレナさんは文章の最後をこう締めくくっている。「こんなに感動的で、思いのこもった、懐かしい気持ちになるものをもらって、本当に驚きました。この愛情のこもった贈り物を準備してくれた父親をどれだけ愛しているか言葉にできません」
旅立ちの日に贈られたこの特別な卒業祝いは、ブレナさんにとって一生の宝物となるにちがいない。
(文=佐藤 ゆき)
参照元:imgur(英文)

ワカメちゃん

 4コマ漫画で、最も有名なのは、「サザエさん」でしょうか。この漫画の登場人物が、海産物の名が用いられていて、さすがに海洋国家、魚を食べて体を作ってきた日本の人気漫画だと、感心してしまいます。彼女の苗字が「フグタ」で、両親が「磯野」ですね。ご主人が、「マスオさん」で、「マスオさん現象」という言葉が飛び出すほどでした。この現象を、「知恵蔵2011」で調べてみますと、次のようにありました。

 『夫が、妻の実家に、婿入りという形をとらずに同居する家族形態。・・・世帯住宅が一般化した1980年代から使われるようになった。精神科医の和田秀樹は「パラサイト・ダブル(寄生する2人)」と呼び、こうした家族形態を推奨している。 ( 山田昌弘 東京学芸大学教授 ) 』

とあります。『たかがマンガ、されど漫画!』ということになります。私の父の時代には、「フクチャン」という新聞漫画があったと聞いています。その日その日の話題の中から、毎日、これを休まずに掲載するという作者の凄さに驚かされてしまいます。この「サザエさん」は、朝日新聞の朝刊に連載されていて、子供の頃父がとっていて、よく読んだことがあります。その後、父が読売巨人軍のフアンだったこともあって、「読売新聞」に変えてしまいましたが。作者の長谷川町子が亡くなってからでしょうか、テレビでもやっていたのですが、「4コマ」の面白さは格別だったと思います。毎日新聞では「フクちゃん」、読売新聞では「コボちゃん」が有名ですが、この6年以上、日本の新聞を読む機会がなくなってしまいましたので、帰国時に読む程度になってしまっています。

 この「サザエさん」の妹に、「ワカメちゃん」がいます。昨日、送迎バスのあるスーパーマーケットに、買い物に出かけたのですが、そのバスに乗り込んできた女の子が、「ワカメちゃん」の髪型、「おかっぱ」だったので、女房の脇をつついて、しげしげと眺めてしまいました。今は、日本では、変形したものはあるようですが、この原型は全くみられなくなったものです。懐かしさ、郷愁を感じてしまいました。娘たちの髪の毛を女房が切っていた時に、この「おかっぱ」にしたことがあって、二人がとても嫌がっていたのを思い出してしまいました。でも、よく見ますと、とても可愛いので、こういうのを”ノスタルジー(Nostalgia)”というのでしょうか。ここ中国には、「かつての日本」が残されているので、ときどき『ハッ!』とさせられることがあり興味がつきません。

 小学校の同級生は、天然パーマでない限り、ほとんどが、この髪型だったのですが、今では昔の面影はないのでしょうね。女房も、オカッパだったと言っていますから、遠い良き昔の出来事の一つなってしまったわけです。明日からは、「文月(ふづき)」、七月になります。真夏ですのに、旧暦だと「秋」になるのには、驚かされてしまいます。40℃以上の酷暑の夏を乗り越えたいものです。

(写真は、岸田劉生の「童女図/麗子立像(1923年,神奈川県立近代美術館)」です)

名山

 「日本百名山」があるなら、ここ中国にも「百名山」があっていいと思うのですが。南北に走る日本列島の背骨の部分が山岳地帯で、山が織りなすように重なっている日本とは、こちらは違うのですが、一般的な「中国四大名山」というのは、黄山(安徽省・1841m、廬山(江西省・1474m)、泰山(山東省・1545m)、華山(陝西省・2160m)らしいです。ちなみに五岳(五名山)は泰山(東岳・山東省)、衡山(南岳・湖南省)、嵩山(中岳・河南省)、華山(西岳・陝西省)、恒山(北岳・山西省)だそうです。

  深田久弥が、書き始めた山岳随筆が、1964年に本となって出版されてからでしょうか、「百名山」と言われるようになったのです。人に人格があるように、山にも「品格」があると深田久弥は述べ、そういった点から選ばれているようです。その他に、「ニ百名山」とか「三百名山」というように呼ぶ山もあるようです。この深田久弥が、1971年3月、登山中に脳卒中で急逝したのが、「茅ヶ岳」です。この山は、山梨県韮崎市にあり、標高1704メートルといった低い山ですが、頂上からは、富士、八ヶ岳、南アルプスの峰々が眺められ、二百名山の1つに数えられております。

 山好きな方に誘われて、この山に登ったことがありました。頂上の枯れ草に横になって、昼寝した時の気持ちよさが最高だったのを思い出します。登山道の脇に、深田久弥の「終焉の地」と書かれ小さな碑があり、彼、68歳の時だったようです。先日は、70過ぎの女性登山家が、エベレストと登攀に成功し、最高年齢記録74歳を樹立したと、ニュースが伝えていました。凄いことですね。日頃の鍛錬が、どれほどであったかを知らされるのですが、このかたのことを考えると、帰国時には、再び「茅ヶ岳」に挑戦するのは、そんなに難しく、尻込みすることでもなさそうだと思われますが、帰国時に、手4ンキが好かったら挑戦してみたいものです。もう1つ考えているのが、「入笠山」です。この山も、茅ヶ岳に近いところに位置して、頂上からの眺望はピカ一の山なのです。季節はずれの12月ノアm値上がりのあった週の週末に、家内を誘って登ったのですが、斜面には雪が残っていて、頂上に登るのを諦めて、林道を回って下山した時の難儀が思い出されてしまいます。危なく遭難だったのですから。

 『気ばかりが若いんだから!』と、女房によく言われますが、今は、マウンテンバイクにまたがって、炎天下を颯爽と走って(自分ではそう思うのですが、はたから見てなんと思っているかはわかりませんが)、老化防止の運動に余念のない私ですが。今春、退職した弟を誘ってみましょうか。二人で登ったら、実現できそうですね。3月末に母が召されましたから、帰国の一大目的がなくなってしまったのですが、そんな楽しみを懐に、やはり、今夏も帰国したくなって参りました。

(写真は、〈http://homepage3.nifty.com/yasda/Oni/kaya.htm〉の「茅ヶ岳」の日の出です)

花火

尾崎士郎の「人生劇場」は、戦前、都新聞の新聞小説として連載され、大人気を博した作品です。上の兄の影響でしょうか、小説を読むことを覚えた高校生の私は、夢中になって読んだのです。とても面白かったのを思い出します。「青春篇」は、尾崎士郎が早稲田の文学科に学んだ折、その学生生活から自伝小説を書いたわけです。青成瓢吉という主人公で、父の世代の早稲田の学生生活を知ることができて、興味深かったのです。広沢虎造の浪曲に、「吉良の仁吉」という人が登場しています。清水次郎長の子分で、「男」として語られており、何度も聞き覚えがあります。そういえば、最近は浪曲、浪花節というのを聞きませんね。ラジオしかない時代に、よく流れていたのですが。

この「仁吉」の末裔の「常吉」を「吉良常」と呼び、これに「飛車角」といった人物を登場させた「残侠篇」が面白かったのです。ヤクザの世界から足を洗って堅気になった男の物語でした。この吉良常が花火師として、上海の夜空に花火を上げる件が実に印象的でした。高校生で単純、単細胞な私は、『よーし、花火師になろう!』と心に決めたのです。『何時か上海の四馬路の水辺で花火を上げてやろう!』とです。このおっちょこちょいの願いは叶えられないまま、夢は潰(つい)えたのですが。

ところが17年ほど前に、私は、北京、フフホト(内モンゴール)、広州、上海と旅行をしました。その時、出来上ったばかりの「上海タワー(東方明珠電視塔 )」に昇って、『あそこが日本人街があったあたりです!』と、私たちを案内してくださった方が指さした方を見つめていました。「人生劇場・残侠篇」の光景がよみがえるようでしたが、それからは、一度も上海を訪れる機会がありません。戦争前も現在も、日本人が多く居住している街ですが、一人で行く自信がありませんが、誰かに案内していただいて、また訪ねてみたいと思っています。

もう一昨年になるのですが、「上海万博」が行われた際に、驚くほどの数の花火が主会場の夜空を焦がしていました。人工的な美ですし、瞬間の煌きですが、花火は人の心を踊らせる不思議な力を持っているのを感じてしまいます。次男が、京王線の「聖蹟桜ヶ丘駅」の近くに住んでおりました時に、多摩川の河川敷で打ち上げられる「花火大会」の席を、久しぶりに帰国する私と家内の分を買っておいてくれたのです。その時、家内は帰国出来なかったので、見ることができませんでしたが、私は、生まれて初めて、一等席で見上げることが出来たのです。夏の風物詩として、日本中で花火大会が行われるのですが、東日本大震災が起こる前でしたので、満喫させてもらいました。

吉良常が上げた花火に、上海在住の邦人が、きっと歓声を上げたように、その大会でも大きな歓声が上がっていました。それまでは、遠くから見る花火に趣があると思っていましたから、わざわざ出かけていくことはなかったのですが、『ドスン!』と上げられ、『パーン!』と炸裂して火花を降り注ぐ花火を、頭上に見ることが出来たのは、驚くべき経験でした。今年は、《自粛ムード》という日本独特の慎みを、緩和されて、そこかしこで「花火大会」が持たれるのではないでしょうか。景気が低迷したり、災害があったり、愛する人との死別があっても、生きている人が元気になるためになされる様々な催しが、罪意識なく行われる方が、好いのではないかと思うのです。遠慮ばかりでは、なかなか人の心が高揚しないからです。一瞬の煌きを、浪費や無駄と断じるばかりではなく、人の心に、『一花咲かせたい!』との元気な思いを生み出すなら、かえって、被災地で花火を上げてもらいたいものだと思うのです。

いつだか見た値段表にあった、《尺玉で6万円》には驚かされたのですが。小遣いを握って、雑貨屋に跳んでいって買った「袋入り花火」を、兄弟4人で楽しんだ日がありましたし、グアム旅行に義兄が連れていってくれた時に、上の二人の子と、税関を無事通過した花火を楽しだこともありました。そういえば私の親爺も花火が好きだったのです。「線香花火」のチマチマした閃光が、とても懐かしく思い出されてきます。

(写真は、HP「゜+.(・∀・)゜+.゜伊那市近辺の食事処めもー!」の高遠城下まつりの「花火」です)

気骨の人

 中国語では、大きさを「大小daxiaoダシャオ」といいます。『日本は大きいのがいいのか、それとも小さいのがいいのか?』、政治や軍事や経済の面で対照的な考えが、これまでありました。それは、家の大きさも、車も、自分の体だって、そうかも知れません。幕末の人物の中で好きだったのが、長州藩士(現在の山口県萩市)の高杉晋作です。倒幕、尊皇攘夷(日本で江戸末期、尊王論と攘夷論とが結びついた政治思想。朱子学の系統を水戸学などに現れ、下級武士を中心に全国に広まり王政復古・倒幕思想に結びついていった。勤王攘夷。尊攘。)」の中心人物でした。自分の藩のことだけではなく、日本の将来を危惧していた人でもあったのです。彼もまた、幕末に活躍した人物、西郷隆盛や坂本龍馬たちと同じで、石高の低い下級武士の子でした。

 1862年、明治維新が1868年ですから、その6年ほど前の五月に、長州藩の命を受けた高杉晋作は、中国の上海を短期に視察をします。彼22才の時でした。この留学は清朝の動静を探り、その情報を得る任務が課せられていたようです。当時の「清」がイギリスなどの欧州諸国の進出で、植民地化の動きがあるのを実際に観ます。「アヘン戦争」で敗れた中国は、イギリスの勢力の支配下にあり、その悲惨さを目撃します。また「太平天国の乱」で混乱する上海の世情も眺めるのです。このような清朝の「危機」は、何も対策を講じないなら、やがて日本にも、同じ危機をもたらせるに違いないと結論したのです。

 徳川幕府の末期は、風雲急を告げる様な世界の嵐の中にあったこと、その思いを強烈にしていた上海視察であったのです。長い鎖国によって欧米諸国に遅れをとっているという日本の現状の中での「危機感」でありました。高杉晋作は、「尊皇攘夷」の思いをさらに強くし、新しい日本の到来を願ったのです。ですから、明治維新以降、日本は、「遅れを取り戻すこと」、「欧米に追いつくこと」、「欧米を追い越すこと」を掲げて、「大日本」の建設をしていくのです。「殖産興業」、「富国強兵」は、明治維新政府のスローガンでした。それは、敗戦によって終わるのですが、国土も資源も小さな日本が、行く道を誤ったか、時代の動きに翻弄されたのか、鼻っ柱をくじかれることになって終わったのです。

 高杉晋作は、日本の命運に心を注いで、動乱の時代を駆け抜けます。しかし、1867年5月17日に、「おもしろきこともなき世をおもしろく」という辞世の句を残して、 28年の生涯を閉じてしまいます。彼の師は吉田松陰 でした。幕末に、多くの青年たちに精神的な感化を「松下村塾」で与えています。私が中学と高校で学んだ学校を起こした校長は、『松陰の弟子だ!』と言っていたのを聞いたことがあります(時代が違いますから、思想的な弟子のことでしょうか)。この「大国主義」の松陰の弟子の高杉晋作もまた、「大日本」を願ったのでしょう。松陰は29才で処刑され、彼も28才で病死していますが、血気盛ん、熱血の青年武士は、「大国」になっていく日本を夢見たに違いありません。

 私の好きな政治家、と言うよりはジャーナリストの一人が、石橋湛山です。彼は、「小国論」を掲げた人でした。「一切を棄(す)つるの覚悟」うを東洋経済新報の社説で述べるのです。1921年7月23日から30日の三週にわたってでした。次のように語りました。

『我が国の総ての禍根は、小欲に囚われていることだ。志の小さいことだ。古来無欲を説けりと誤解せられた幾多の大思想家も実は決して無欲を説いたのではない。彼らはただ大欲を説いたのだ。大欲を満たすがために、小欲を棄てよと教えたのだ。~ もし政府と国民に、総てを棄てて掛かるの覚悟があるならば、必ず我に有利に導きえるに相違ない。例えば、満州を棄てる、山東を棄てる、その支那が我が国から受けつつありと考えうる一切の圧迫を棄てる。また朝鮮に、台湾に自由を許す。その結果はどうなるか。英国にせよ、米国にせよ、非常の苦境に陥るだろう。何となれば、彼らは日本にのみかくの如き自由主義を採られては、世界におけるその道徳的地位を保つ得ぬに至るからである。そのときには、世界の小弱国は一斉に我が国に向かって信頼の頭を下ぐるであろう。インド、エジプト、ペルシャ、ハイチ、その他の列強属領地は、一斉に日本の台湾・朝鮮に自由を許した如く、我にもまた自由を許せと騒ぎ起つだろう。これ実に我が国の地位を九地の底より九天の上に昇せ、英米その他をこの反対の地位に置くものではないか。』

と語りました。大きな国を目指して、産業界も軍部も、突き進む中で、こういった主張を恐れずにした湛山に驚かされるのです。時代に動きに逆らって、『否!』といえた気骨の人だったことになります。このようなジャーナリスト、政治家が、今の日本に必要とされているのではないでしょうか。一つの小話を。『国は大きいのがいいのか小さいのかがいいのか。松陰は「大きいのがいい」と言い、湛山は「小さいのがいい」と言います。そこに鼠がやってきて、「チュー」。』お後がよろしいようで。