金メダル 【無償の愛(ロケットニュース24)】

      40年かけて35人の道に捨てられた子どもを拾い救ってきた中国の女性が
     世界中に感動を与える

 現在ある一人の女性に隠されたストーリーが、世界中に感動を与えている。その女性とは、中国の楼小英(ロウ シャオイン)という88歳の女性で、現在腎不全(じんふぜん)のため入院生活を送っている。彼女は、浙江省の金華市(きんかし)というところで道に捨てられているゴミを拾い、それをリサイクルすることでなんとか生計を立ててきた。

 しかし貧困のなかで生きてきた彼女が、道で拾っていたものはゴミだけではない。なんと40年かけて35人もの子どもを拾い、そして救ってきたのだ。
 17年前に夫に先立たれた楼さんは、拾った子どもたちのうち4人を自分のもとに置き、残りの子どもたちは友人や親戚のところに預け、面倒を見てもらった。そして82歳の時、今の楼さんの最も幼い子ども張麒麟くんをゴミ箱の中で見つけることとなる。現在7歳になる麒麟くんを見つけた時のことを、楼さんは次のように話している。
 
 「私はすでに歳をとっていましたが、その赤ちゃんを無視し、ゴミの中で死なせることなんできませんでした。その子はとても可愛らしく、そしてとても苦しそうでした。私はその赤ちゃんを家に連れて帰らなければと思ったのです」「田舎にある小さな質素な家にその子を連れて帰り、元気になるよう面倒を見ました。そして今その男の子は、幸せで健康なやんちゃ坊主に成長しています」「張麒麟より年上の私の子どもたちは皆、彼の世話を手伝ってくれました。麒麟は私たち全員にとって、とても特別な存在なのです。私は中国語で “貴重で大切なもの” を意味する単語を、彼の名前として選びました」

 「1972年私がゴミ拾いに出かけた時に、小さな女の子を見つけたことが全ての始まりです。その女の子は、道のゴミの中に埋もれており、捨てられていました。もし私たちがあの時その子を助けていなかったら、彼女はきっと死んでいたことでしょう」「その子が成長していく様子を見るのが、私たちの幸せでした。そして気づいたのです。子どもの世話をすることが、私が本当に大好きなことだということを」「ま た、こうも思いました。もし私たちにゴミを集めるだけの力があるのなら、人の命のような大切なものを “再生” できる力もあるはずだと。道に捨てられた子どもたちは、愛情と保護を必要としています。彼らはみんな大切な命なのです。どうしたらこんなか弱い赤ん坊たち を道に捨てられるのか、私には理解できません」


 
 血のつながった実の娘・張彩英さん(現在49歳)を育てながら、道で拾った子どもたちも 我が子のように愛してきた楼さん。その楼さんのもとで育った子どもの一人・張晶晶さん(33歳)は、楼さんがどんな母親だったかをあるテレビ局のインタ ビューのなかで、次のように話している。(張晶晶さんがインタビューに答えている様子は、記事下の動画で見ることができます)「あの 頃、母は何も食べることができませんでした。母はゴミを拾うため、真夜中に出かけなければいけなかったのです。私たちが寝た後に、母は出かけていました。 そして明け方、まだ明るくなる前に家に帰ってくるのです。当時私たちは、ろくに食べることができず、大根、かぼちゃ、それからサツマイモなどが、その当時 食べていたものです」

 「私たちにお腹いっぱいになるまで先に食べさせて、その後やっと母が食べます。私たち子どもが、満腹になるまで食べたのを見て、母は心の中で『これで安心して自分も食べられる』と思っていたのでしょう」「例 えば12個のアメを3人の子どもに分ける時、母はなにがあっても均等にそのアメを、子どもたちに分け与えます。母は血のつながった実の子どもがいるのです が、拾ってきた子どもと分け隔てなく接するのです。えこひいきなんてしません。自分の子どもだけいいものを着せようとか、たくさん食べさせようとか、そう いうことは決してしませんでした」「母がこのように病気にかかってしまうとは、誰も想像していませんでした。私たちは今でも母が100歳ま で生きられると思っています。母がもっと長く生きしてくれれば、私たちも母ともっと同じ時間を過ごすことができます。もし本当に母がいなくなってしまった ら、 “お母さん” と呼べる人が本当にいなくなってしまうのです」
 
 そして楼さんの行動を支持してきた人は、地元における楼さんの存在についてこう話している。「彼 女は、捨てられた子どもたちに何もしない政府、学校、人々に恥を思い知らせています。彼女にはお金も権力もありません。しかし彼女は死のふちから子どもた ちを救ってきたのです。地元では、彼女のことはよく知られており、捨てられた子どもたちを救ってきた人としてとても尊敬されています。彼女は常に最善を尽 くす人物であり、地元の英雄です。しかし残念ながら、中国には数え切れないほどの子どもたちが道に捨てられており、彼らには生き残る希望がありません」
 
 この話の通り、つい先日、中国の鞍山市(あんざんし)で、ビニール袋に入れられた女の子の赤ちゃんがゴミ箱で発見された。その女の子の喉(のど)は、残酷にも切り裂かれていたが、幸いにも無事に救助され、一命をなんとかとりとめた。この女の子は、中国の一人っ子政策の犠牲者だと考えられている。なぜなら一人っ子政策により「女の子よりも男の子を好む」考え方が生まれてしまったからだ。そんな利己的な社会に捨てられた子どもを救ってきた楼さんは、現在腎不全のため入院しており、話すことも動くこともままならないほど身体が弱っているとい う。しかしそんな状態になっても楼さんは、自分が愛した子どもたちのことを気にかけており、病院のベッドの中から次のようなことを語っている。


 
 「私に残された人生はあと少しです。そして私が今、最も望んでいることは、7歳の麒麟が学校に行くことです。もしそれが実現すれば、私の人生にもう悔いはありません」
 
 実は楼さんは、これまで2人の娘を中学まで行かせることができたが、それより年上の3人の子どもたちを学校へ行かせてやることができなかった。それがとても心残りのようで、麒麟くんをなんとしても学校に行かせてやりたいのだろう。
 そんな愛情深い楼さんの人生が、中国で大々的に報じられると、ネット上で楼さんの入院費をカンパしようという動きが生まれ、募金を募るサイトまで登場した。

 そ してついに公的機関まで動いた。楼さんが学校の進学を望んでいた麒麟くんには、戸籍がないため、小学校へは入学できないとされていた。しかし今回の楼さん のニュースが中国で話題になったことで、戸籍の管理をしている地元の公的機関が、麒麟くんが入学できるよう戸籍問題解決へと動いてくれたのだ。それに呼応して、金華市の小学校も麒麟くんの入学を認めており、楼さんの話に感銘を受けたという校長先生は「これは楼さんの人生最後の望みであり、我々はそれを叶える手助けをしなければいけません」とその熱い気持ちを語っている。

 世界中の人の胸を打つ、楼さんが見せた子どもたちへの “無償の愛” 。確かにこれまで楼さんは、質素で貧しい生活を送ってきたのかもしれない。しかし自分を「お母さん」 と呼ぶ子どもたちの愛らしい声、そしてその子どもたちが見せる無邪気な笑顔で満ちあふれたその人生は、誰にも負けないくらい幸せな人生だったに違いない。

 楼さんの人生を明るく照らすこの無償の愛の素晴らしさ・美しさが世界中の人の心に伝わり、道で捨てられる子どもが一人でも減ることを切に願いたい。(文=田代大一朗)

(写真上は、子供たちを安なった台所、中1は、入院中の楼小英さん、中2は、楼さんの住む金華市の古写真、下は、楼さんの家です)

暮れなずむ山影

 わが家のテラスの左方向に高層アパートがあり、その間に一つの山の頂が見えます。この町の人が散歩コースにしていて、『一緒に登りませんか!』と誘われながら、一度も登ったことのない山です。以前、山の麓まで自転車で行ったことがありますが、まだ、私には未踏峰の山です。

 台湾の方で、『ケンちゃん!』と家内と密かに呼んでいる日本料理店の店長が、誘ってくれているのです。この方は、日本語が流暢で、ときどき誕生日や記念日などのイヴェントでいくのですが。行くたびに、いろいろと資料を持ってきて、彼のヴィジョンを熱く語ってくれるのです。『桜の苗を植えたけど、根付かなかったんです』、『今度、いっしょにうえにいきましょう!』とか言ってくれます。去年の7月末、あっそうです今日は、引越し記念日になります。引っ越してから疎遠になってしまったのですが、今週、家内の誕生日ですので、ここで食事をしようと、今考えています。

 私の周りの中国のみなさんは親日家で、というよりも、親日家のみなさんが、側によってこられるといったほうがいいのでしょうか。どちらにしろ、庶民の対日感情は極めて良好だと思います。今、ロンドンでオリンピックが行われていますが、そのニュースによりますと、中国の応援団が、対スペインとのサッカーの試合で、応援してくれたと報じていました。自国の参加が叶えられ中sったのですが、旅費や食博費を払って、ロンドにやってきて、日本を応援してくれているのです。もちろん、他の競技の自国応援があるのでしょうけど。抗日、反日だと叫ばれながらも、アジア圏の隣国同士、一衣帯水の関係にある両国には、同じ血の流れた人によって、それぞれの国が構成されているのです。だからでしょうか、日本の活躍に期待し、応援してくれているのです。

 こういったニュースを聞きますと、すべての両国の間に横たわっている課題は、平和裡に解決されていくのではないかと思えて仕方がないのです。暮れなずむ夏の空に浮かぶ雲が、夕陽を受けています。台湾の近くに台風が襲来しているそうで、いつもに比べて、この二日ほど、酷暑が一休みしているように感じられます。そして涼風が、窓から入り込んで、快適な夕べを迎えています。今、北京時間19時、空がだんだんと暗くなってきています。うっすらと、山影も見ることができます。今日の一日の恵みに感謝して。

 (写真は、ロンドンオリンピックで、対スペイン戦に勝利した日本チームを応援する中国人フアンです)

 久しぶりに、都会の家を離れて、海を見に行って来ました。月曜日の午前中、街中の「汽車站」から「平潭」行の長距離バスに乗り込みました。知人の男性が、『そこは家内の出身地で、家内と生まれたばかりの娘がいますので、一緒に行きましょう!』と言ってくださって、外国人の私たちだけで行く手助けをしてくれたのです。実は、友人たちに内緒にしてでかけようと思ったのですが、私たちの計画を探り出されて、家内が、『実は、平・・・』といってしまってから、その友人がみんなに電話をして、この島の出身者たちにわたりをつけてくれたからなのです。

 島に着きましたら、そこの「汽車站」に、一人の方が出迎えてくれたのです。9月から、私たちの街の大学で、英語教師を始める若い女性で、前から知っていた方でした。海を見ると歌いたくなる歌がいくつかあります。思わず、浜辺に立っている私の口からついて出たのは、唱歌の「海」でした。

海は広いな  大きいな
月が昇るし  日が沈む

海は大波  青い波
揺れてどこまで  続くやら

海にお舟を  浮かばせて
行って见たいな  よその国

海は広いな  大きいな
月はが昇るし  日が沈む

 九十九里の浜辺も、江ノ島も相良の浜辺も美しいのですが、砂浜の規模に、雲泥の差があるのです。さすが大陸の海、遠浅の海浜がえんえんと続いていて、浜の大きさと広さは半端ではないのです。対岸に台湾があるのですが、遠すぎて見ることはできませんが、さらに、その向こうには日本列島があり、はるか遠くにはアメリカ大陸があるわけで、『海は広いな、大きいな・・・』と歌ってしまったわけです。

 この季節には、毎夏、早起きして何度も静岡の海に、泊まりがけで出かけて、子供たちと過ごしました。途中、スピード違反で検問にひっかかって、切符を切られてしまったりしたこともありました。『お父さんは悪くはないよね!』と、下の息子が弁護し同情してくれたのが懐かしいです。38℃以上の高温の連続の日々でしたが、潮風は、やはり心地よく、潮のにおいも懐かしくかぐことが出来ました。泳ぎませんでしたが、海水に足を入れましたら、どうしても泳ぎたい衝動にかけれましたが、やめてしまいました。日本のような葦簀(よしず)の「海の家」があったら泳いだのですが。

 帰る前の晩、彼女のご両親が夕食に招待してくれたのです。この島独特の料理を作ってくださって、実に美味しくいただきました。海鮮の郷土料理で、ここでしか食べられないもので満腹になりました。みんなで歌ったり、お話したり、テレビまで一緒に見てしまいました。彼女は、自分と弟妹の映った写真と、お父さんとお母さんの若かり日の写真を見せてくれて、しきりにお父さん自慢をしていました。中国語で、ハンサムを「帅shuai」と言うのですが、しきりに「帅」を繰り返していて、お父さんが照れて、それで実に嬉しそうでした。胃を病んでおられて、今は、仕事をしていないのですが、他の省のトンネル工事の技術者として働いてきたのだそうです。お母さんも、始終ニコニコして歓待してくれました。

 たくさんの親切で、3泊4日の旅行を、昨日終えて、わが家に帰ってきたのです。初めての知らない島で、人と海と美味しものに出会って、帰って来ましたら、雨が降っていて、良いお湿りで歓迎されたようでした。

僕の夢

 この写真の中の文章は、小学6年生の鈴木一朗が、「僕の夢」という題で書いた作文です。『僕の夢は一流のプロ野球選手になることです!』と言って書き出しています。そのために何をしているのかといいますと、『・・・365日中、360日は厳しい練習をやっています!』と続けています。11歳の少年野球選手が、その夢の実現のために練習を重ね、プロ野球選手になります。さらにアメリカのプロ球界でも、その夢をつないで活躍し、今日に至っているわけです。

 だれもが夢をみますが、夢が実現するよりも、はかなく消えてしまうことのほうが多いのです。私の長男は、イチローよりも一学年上で、同じように、プロ野球選手を夢見ていたのです。小学校から中学と野球を続けましたが、彼の夢は成就しませんでした。決して努力が足りなかったわけでも、好いコーチに巡り合えなかったのでもありません。生きていく道、天職として付与されたのは、夢とは違ったわけです。それは挫折とは違います。別の世界で精一杯に生きている彼を見て、私はその生き方に誇りを覚えるのです。有名になることも、財産を備蓄することもないようですが、人の生きる道を、一人の人として誠実に歩んでいることに、拍手と喝采で応援しております。

 11歳の一朗が、今、38歳になりました。3歳から野球の練習を始めたといいますから、35年もの間、一つのことに集中して生きてきたことに、心からの敬意を表したいのです。どんなに素晴らしい記録を上げ、チームに貢献してきても、やはり肉体の衰えは、いかんともしがたいようです。人の全盛期、ことのほかスポーツの世界のそれは、短いものであります。40歳を過ぎても現役として活躍し続ける選手も、たまにはいますが、ほとんどは、三十代の後半は終盤でしょうか。

 『イチロー、ヤンキースに移籍!』というニュースを聞いて、アメリカのプロ野球界の厳しさを、改めて知らされたわけです。それは実績主義、成果主義の世界であって、情の入りこむ余地のない社会だからです。下の写真は、移籍会見の時のイチローの表情を捉えたものです。「男の悲哀」があふれていますが、実に男らしい顔ではないでしょうか。一つのことに打ち込んできた男の顔です。いずれ、このような時を迎えるの覚悟していたのでしょうけど、シアトル・マリナーズが「不要」を表明した直後の彼の表情です。

 戦後、芋をかじりながらほそぼそと育てられた団塊の世代の子が、イチローの世代です。敗戦で、夢が砕かれ、野望が砕かれた父や母たちが、団塊の子を生んで育てたのです。力道山がアメリカ人のプロレスラーを空手チョップで打ち破る様子を、出始めたテレビで、大声で声援して観ながら育ちました。古橋が水泳の日米競技会で活躍し、白井義男がプロボクシングで世界チャンピオンになり、日本車がアメリカ国内を疾走するようになる時代に大きくなったのです。『ベーブ・ルースやゲーリックが活躍する米球界で、まさか日本人が活躍することなどない!』と決めつけていた私の思いに反して、イチローは、さして大きくない体で、12年も活躍し続けてきているわけです。私に、力道山や白井義男を彷彿とさせてくれたのが、イチローでした。息子の叶えられなかった夢を、実現してくれたのもイチローなのです。

 今、シーズンの後半、ヤンキースの8番打者、左翼手として再スタートを始めました。彼の律儀な生き方、野球愛が、いいえ11歳の夢が継続され、ボロボロになるまで励まれるように、『ありがとう!』と言いながら、心から応援したい、そう願っております。

酷暑(猛暑)

 「暑さ」を表す言葉に、酷暑、猛暑、炎暑、溽暑(じょくしょ)、そして激暑とあるそうで、この「溽暑」と「激暑」は初めて知りました。その他に「熱波」ということばもあるようです。中国語では、「酷暑」を使うようです。何年か前のことですが、こちらに来たばかりの頃に、家内と近くのスーパーに買物に行きました。その時、道路の水たまりに、四つん這いになってお腹を冷やしている犬がいたのを見て、驚いてしまいました。犬の智恵というのでしょうか、四肢を放り出して少しでも涼を取ろうとしている光景に、思わず吹き出してしまったのです。犬の水浴びは見たことがありますが、華南の真夏、猛暑の中で生きる動物にも、それなりに生きる工夫があるのですね。

 以前は、「四大火炉」といって、南昌(江西省)、重庆(重慶)、武汉(湖北省)、南京(江蘇省)でしたが、最近、「中国最热的四大城市」は、福州、杭州、重庆、长沙(湖南省) だそうです。この数年、私たちの住んでいる町が中国中で一番熱い街になっているそうです。日本語では「暑い」と夏の暑さを言い表しますが、中国語では「熱re」と言う表現を使います。この町は、地下に温泉が埋蔵されていて、それで地熱が高くなり、気温上昇につながっているのだそうです。私たちの友人で、いつもお世話してくださる方のご両親が、空港の近くの街に住んでおられますが、今夏、体調を崩され、お二人とも、今、入院しておられます。例年になく熱い夏を迎えて、高齢者が「熱中症」にかかっているのだそうです。日本でも大勢の人が、救急車で搬送されたとニュースが伝えていましたが、こちらでも同じです。

 幸い家内も私も守られていまして、『気をつけて下さい。水を沢山飲んで下さい!』と若い友人たちに注意をされております。先々週は、クーラーを効かせて《転寝(うたたね)》をしてしまい、『寒いなあ!』と思いながらスイッチを切らなかったので、案の定、冷房病になってダウンしてしまいました39.4度の体温で、唸って3、4日伏せてしまいました。セキが出て、喉が痛かったのですが、「おかゆ」を少し食べることができましたので、回復が早かったのかも知れません。これほどの高熱は初めてのことで、家内を心配させてしまいました。私が平熱に戻ったら、今度は彼女が39度の高熱を出して寝込んでしまったのです。《夫病附随》というべきでしょうか。

 それ以来、クーラーを極力使わないことにしているのです。昨日今日と、沖縄をかすめて朝鮮半島に向かっている台風7号の影響でしょうか、猛暑から解放されてしのぎやすいので感謝しております。毎日38度ほどの気温で、体感は40℃以上と言われていますから、避暑をしているようです。今週は、東北地方へ旅行の予定でしたが、取りやめにして、来週初めに、家内と、近くの島に出かけてみようかなと思っています。

 東京も、私の生まれた古里の夏も、厳しい暑さでしたが、こちらには比べられません。誰も見ていなかったら、あの犬のように、水たまりに体を投げ出したい誘惑に駆られそうです。それにしても年年歳歳、熱さが厳しくなっているのを感じます。でも健康が支えられているのには感謝でいっぱいです。日本は、梅雨も開け、猛暑日が続いているようです。もう「暑中」なのでしょうか、みなさんのご健康を願ってお見舞いいたします。

今に見ていろ僕だって

『みなさん、まあ僕の話を聞いて下さい。ちょうど、僕が高校二年であの娘もミヨちゃんも高校二年の時でした。』

僕のかわいいミヨちゃんは 色が白くて小ちゃくて
前髪たらしたかわいい娘(こ) あの娘(こ)は高校二年生
 
ちっとも美人じゃないけれど なぜか僕をひきつける
つぶらな瞳に出あう時 何んにもいえない僕なのさ
 
それでもいつかは逢える日を 胸にえがいて歩いていたら
どこかの誰かとよりそって あの娘(こ)が笑顔で話してる
 
父さん母さんうらむじゃないが も少し勇気があったなら
も少し器量よく生まれたら こんなことにはなるまいに
 
『そんなわけで、僕の初恋はみごとに失敗に終わりました。こんな僕だから恋人なんて、いつのことやら、でも、せめて夢だけは、いつまでももちつづけたいんです。』
 
今に見ていろ僕だって 素敵なかわいい恋人を
きっとみつけてみせるから ミヨちゃんそれまでさようなら
さようなら

 これは、1960年、平尾昌晃が作詞作曲し歌った、「ミヨちゃん」という歌です。高校1年生の時に流行った歌で、思春期まっただ中の私たちの世代の《代表曲》といってもいいのではないでしょうか。純情な恋心を歌った、平凡で誰でも経験し、願っていそうなことを代弁してくれた歌だったのです。みんなが、この「ミヨちゃん」に出会えるような、淡い期待で、電車に乗り込んでは、キョロキョロしていたのではないでしょうか。中学と高校共に、男子校で過ごした私などは、金網で仕切られた向こう側にある女子部に熱い視線を向けていたのです。何時かマラソン大会があって、女子部の学生が校内の沿道に出てきて、応援してくれるといった粋な計らいがありました。『マサヒトさーーん!』と声がかかったのですが、ダレが言ったのか、60年経ってもわからない謎の声援もありました。

 『ちっとも美人じゃないけれど・・・』がよかったのです。その頃から女の魅力は、顔じゃあなくて、「心」なんだと思うほど、小生意気だったのです。この平尾昌晃は、今でこそ、作曲家として有名なのだそうですが、私の時代には、「日劇ウエスタンカーニバル」を大いに沸かせた、ロカビリー歌手だったのです。ついに有楽町まで出かけて行って見ることはなかったのですが、テレビ全盛期の時代、それはそれは、今の「嵐」などとは比べられないほどの人気があったのではないでしょうか。胸を病んで、諏訪河畔の療養所で過ごしているという噂を、後になって聞いたのですが、起死回生、とても情緒のある歌を作曲しています。

 『今に見ていろ僕だって・・・』は、将来に夢をつないでいて、今は何も起こらなくても、いつか《佳人(かじん)》と出会えるのだという望みに溢れさせてくれたのです。今でも、ときどき口ずさみますが、甘酸っぱくて青臭い香りが漂ってきそうです。今の時代の子どもたちも、あまりにも現実的過ぎる男女の話ではなく、淡い恋心を楽しんでもらいたいものです。《ときめき》って、この年になってもあるのには驚かされています!

(写真は、1960年代の渋谷駅・京王井の頭線の電車です)

憧れの街

  君がみ胸に 抱かれて聞くは  (被你拥在怀中 聆听着)
  夢の船唄 鳥の唄       (梦中的船歌 鸟儿的歌唱)
  水の蘇州の 花散る春を   (水乡苏州 花落春去)
  惜しむか 柳がすすり泣く   (令人惋惜 杨柳在哭泣)

  花をうかべて 流れる水の   (漂浮着花瓣的 流水)
  明日のゆくえは 知らねども  (明日流向何方 可知否)
  こよい映した ふたりの姿    (今宵映照 二人的身影)
  消えてくれるな いつまでも   (请永远 不要抹去)

  髪に飾ろか 接吻しよか   (装饰在发稍上吧 轻吻一下吧)
  君が手折し 桃の花      (你手折的 桃花)
  涙ぐむよな おぼろの月に    (泪眼迷蒙 月色朦胧)
  鐘が鳴ります 寒山寺      (钟声回响 寒山寺)

 この歌は「蘇州夜曲」といい、作詞、西条八十、作曲、服部良一、歌山口淑子(李香蘭) 、1940年には映画化されているそうです。かつての日本には、有為な若者を中国大陸に送り、彼らの学びを通して、日本を創り上げていこうという動きがありました。「進取の精神」に富んでいた頃の日本の姿です。そういった使命を託された若者たちが、言葉を覚え、文化に触れながら、優れた中華の法や制度や思想を吸収したのです。こちらの古い建造物を眺めていると、京都や奈良に見られるのと同じ景観を目にします。建物だけでなく、こちらのみなさんの仕草や表情をみますと、新宿や代官山や立川で見られるのとまったく同じです。はにかんだり、遠慮したり、躊躇するのは、日本人ばかりのことではなく、こちらのみなさんのものでもあるのです。

 父が、『俺の爺さんは、政府からイギリスに遣わされ人だった・・・』と話していたことがあります。その祖父が持ち帰った「毛布」を、肺炎で死線を何度もさまよっていた私の体を温めるために、父が自分の実家から持ってきて使わさせてくれました。純毛の高価なものだったのですが、その肌触りを覚えているのです。長安の都やロンドンに、人を遣わせるには、莫大なお金がかかったのでしょうね。金銭にはかえられない有形無形のものを若者たちが日本に持ち帰って、それらを国作りに用いたのであれば、その投資は成功したことになります。最近の日本の若者の傾向は、異文化世界に出て行って、留学する意欲が少なくなってきているそうです。それに比べ、中国や韓国の青年たちは、競うようにして出かけていくのだそうで、少々寂しいものがあります。

 そういった心意気というのは、どの時代の若者にもあるのでしょうか。この歌で歌われる「水の都」と言われる蘇州は、中国有数の景勝地で、かつての日本の若者にとっては「憧れの街」であったようです。異国情緒を楽しみ、恋もしたのでしょうか。庶民のレベルでの交流が、日本と中国との間には豊かにあったことになります。来週、若かった頃の父が訪ね、生活した東北地方の街に出かけてみようと思っています。昔日の趣は、もう見当たらないかも知れませんが。酷暑の大陸ですが、教え子が道案内してくれるとのことで、とても楽しみにしております。

(写真は、蘇州の「古典庭園」です)

米沢のお殿様

 山形県の南部に「米沢」という街があります。戦国武将の中でも、飛び切りに名の高い、仙台の伊達政宗が、生まれた街であります。元々、伊達氏の所領でしたが、江戸時代には、上杉氏の領地となって、明治維新まで続きました。紅花で染め分けた「米沢紬(つむぎ)」で有名で、近年は、リンゴやさくらんぼなどの果実生産でも高く評価されているいます。

 日向の国の高鍋藩主の次男・治憲が、10歳で上杉家8代藩主・重定の養子となります。重定の娘・幸姫を妻に迎え、1767年、家督を次いで、第9代藩主となります。17歳でした。日本に276の藩があったのですが、その中でも名君と称される人物はそう多くありません。この上杉治憲(後に鷹山と称します)ほどに優れた「大名(だいみょう)」はいなかったのではないでしょうか。国家を動かしたのではありませんが、十五万石ほどの小藩の藩主として、その手腕を十二分にふるって、藩政の改革を断行したのです。

 彼の結婚生活ですが、彼の妻は、知的障害を持っていました。治憲は、心からの愛情と尊敬を持ってこの妻を愛します。10歳ほどの知的能力しかない妻に、人形を作ったり、遊び道具を与えたのです。20年間、妻の亡くなる日までその愛は変わりませんでした。藩主として「跡取り(継承者)」が求められて、子を産めない妻に代わって、10歳年上の「側室」を、一人だけもっただけでした。その側室は、米沢に置き、妻に対しての配慮を忘れませんでした。側室との間に子どもたちが与えられますが、しっかりと家庭教育も行いました。

 彼は、『大きな使命を忘れて、自分の利欲の犠牲にしてはいけない』、『貧しい人々へ思いやりの心をもて』、『恩(親と師と君主)を忘れてはいけない』、『徳を高めなさい』と、子たちを教えました。嫁いでいく娘には、『生まれた国に相応しく貞淑でありなさい』と言葉を残したのです。理想的な家庭を建設した人として、治憲は名高い人物です。
 
 その鷹山(治憲)が、家督を譲るに当り、藩主の心得として伝授したものに、『伝国の辞』があります。ほんとうに短い3条だけのものですが、上杉鷹山が考えていた「藩主像」は、次のようです。

(写真は、米沢城の堀です)

一、国家は先祖より子孫へ伝え候国家にして我私すべき物にはこれなく候
   (国家は先祖から子孫に伝えるところの国家であって、自分で身勝手にしてはな
   らないものです)

一、人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれなく候
   ( 人民は国家に属している人民であって、自分で勝手にしてはならないものです)

一、国家人民のために立たる君にし君のために立たる国家人民にはこれなく候
   ( 国家と人民のために立てられている君主であって、君主のために立てられてい
   る国家や人民ではありません)」

 このような理念で、日本という国を建て上げるなら、堅固な国家として再構築できるに違いありません。《政治の私物化》が日本を駄目にしてしまいそうな危機感の中、自分の居室の畳を張り直そうともしない治憲のような指導者を、心から願う必要があります。私たちには、賢い先人たちの知恵があふれるほどに残されているのです。不変の真理に、耳を傾け、謙虚に学び、実行して行かれるようにと願う次第です。

風情

 朝になると、『ナットーオ、ナット!』、夕方になると、『トーフーウ、トウフ!』、夏になると、『キンギョーエ、キンギョ!』、『サオダケーエ、サオダケ!』と売り歩く呼び声が、よく聞こえたものです。最近では、車のスピーカーから録音が流れている場合が多いでしょうか。ここでも、美味しくて有名な饅頭の曳き売りが、夕方近くになると、何人もが同じ呼び声で、自転車とか三輪車、電動自転車売で歩いて売る声を聞きます。日本も中国も同じ風情の中で日常が送られてきているのをひしと感じているところです。イタリアやポルトガルあたりに行くと、同じ光景を見られそうですね。

 兄の友人が、豆腐屋の倅だったので、夕方になると自転車に大きな木箱をつけて売り歩いていました。中学生だったから、「勤労学生」だったことになりますね。お父さんがいたのかどうか知りませんが、家業を継いで店を切り盛りしているのでしょうか。それにしてもトウフとか納豆というのは、スーパーで特売品目になっているので、大量生産を安価で卸しているので、曳き売りは競争することができなくなってきたのではないでしょうか。

 食べ物や物干し竿だけではなく、「クズヤ」とか「バタヤ」と呼ばれるおじさんが、三輪車を曳きながら、『クズヤーア、クズヤ。お払い物はありませんか?』と歩いていたのを思い出します。そういうおじさんの手伝いをして、ドブ川の中に入って、金属物を拾ったことがありました。僅かな小遣いをもらったでしょうか。母に怒られたのを思い出します。

 四国に「大王製紙」という、あの「エリエール」という香りの好いティッシュペーパーで有名な会社です。この会社の創業者は、三輪車を挽いて町から町を歩き回り、「廃品」を回収して歩いていたと聞きます。その主要なものが「古紙」だったそうです。彼は集めリだけでなく、加工も始めたのです。新聞紙をくしゃくしゃとしてハナを噛んでいた時代ですから、アメリカ文化の影響で、やわらかなちり紙が箱に入って出回るようになり、一挙に需要が伸びたのが、このティシュペーパーでした。そういった時流に乗って、日本有数の製紙企業に成長した会社です。四国に行きましたとき、この会社の門前を車で走ったのを覚えています。

 遠慮なんて全くない、いたずら小僧の私たちは、『バタヤーッ!』と遠くから呼びつけては、からかったりしていました。ところが、このおじさんの家に行って驚いたのは、いくつかの小さな会社の責任をもっていた父などとは比べられないほどの、立派な家に住んでいたので驚きました。地道に、廃品を集めて回って生きていると、そんな利益をあげられるのですね。私は山の中から八王子という、東京西部では大きな町に越してきたとき、クラスに「バタヤ」の娘がいるということで、弁当箱を手にお金を持って買いに行ったのです。ところが「バター」などなく、お父さんは廃品回収業だったのです。肺炎を病んで、父が滋養が高いといって、東京のデパートから取り寄せてくれた「バター」を舐めて元気になってきたので、母に願って買いに行ったわけです。笑い話ですね。

 車の台数が増え、町が綺麗になり、高層アパートが林立する中、巷の風情が、この華南の地にはまだまだ残っているので、ちょっとほっとします。道路際に題を出したり、ゴザを引いたりして、いろいろなものを売る店が、家の前の道路にあふれていたのですが。この数ヶ月、市役所の監督の規制でしょうか、なくなってしまいました。『ブーブー!』と独特な音がして、『オイ、コラ、道路を開けろ!』で散っていってしまうのです。果物など、普通の店には比べられなく安かったので、利用価値があったのですが。他の地域の路地裏などには、まだ盛んに露店で物を売っているようです。これも、衛生問題などで、年々減っていく風情なのかも知れません。さびしいものです。

(写真は、〈1956年ころの甲府市内で見かけた「金魚売り」です)

古里

祭りも近いと 汽笛は呼ぶが 荒いざらしの Gパンひとつ
白い花咲く 故郷が 日暮りゃ恋しく なるばかり

小川のせせらぎ 帰りの道で 妹ととりあった 赤い野苺
緑の谷間 なだらかに 仔馬は集い 鳥はなく

あー 誰にも 故郷がある 故郷がある

お嫁にゆかずに あなたのことを 待っていますと 優しい便り
隣の村でも いまごろは 杏の花の まっさかり

赤いネオンの 空見上げれば 月の光が はるかに遠い
風に吹かれりゃ しみじみと 想い出します 囲炉裏ばた

あー 誰にも 故郷がある 故郷がある

 1973年に、作词、山口洋子、作曲、平尾昌晃、歌、五木ひろしの「ふるさと」がレコードとして発売されました。この年に、20年ぶりに生まれ故郷の街に戻った私にとって、この歌は、とても印象的に聞こえ、『この山や川の街がお前の故郷だよ!』と、再確認してくれたのです。生まれて二ヶ月半の長男を連れて東京から帰ってきたことになります。まだ生まれた家が廃屋のようにでしたが残っており、幼い日に駆け巡った山や川や原っぱの景色も、20年の歳月によってはかき消されてはいませんでした。そこは父と母の故郷ではなく、戦争中、軍務によって赴任してきた父の勤務地だったのです。

 秋には、アケビの実を取って米びつの中に入れては追熟をさせ、柿をとり、栗を拾い、川では魚をとるといった、まさに、小学校唱歌の『うさぎ追いしかの山、小ぶなとりしかの川・・・」の世界だったのです。長女、次女、次男とこの町で生まれました。家内と私にとっては、子育てという大きな責任を、社会的な責任と同じように共に果たした土地でした。たくさんの人と出会い、交わりを持ちましたが、ほんとうに心を許すことの出来た人たちは、やはり僅かでした。裏切られたり、中傷されたりもありました。心を許せる人との出会いは限りがありました。私にとって故郷であっても、この地の方言を話せませんから、どうしても「余所者(よそもの)」に過ぎず、封建的で閉鎖的な土地では、なかなか溶けこむことは難しいものがあったのだと思います。

 父の仕事場のあった山の中には、もう知人はいませんでした。父の事務所のあった街中には友人や知人がいて、『雅ちゃん!』と呼んでくれる人も召されてしまってからは、その方のご遺族とは没交渉になってしまいました。でも、源氏の落ち武者の部落だと言われる土地に、30近くになっていた私を見て、『雅ちゃん?』と呼びかけてくれた父の元部下に会ったのは驚きでした。父の知人がいなくなり、そして私は、その「ふるさと」を6年前の夏に去ったのです。

 しかし、そこには、家内の妹が義母を見るために、私たちに変わって越してきてくれて、残っていたのです。義母が昨日召されましたから、もう私の「ふるさと」には誰もいなくなったことになります(義妹も近くその町を去るかと思いますが)。故郷の父も母もなく、親族や知人がいなくなってしまったら、「ふるさと」は思い出、記憶の中にしかないことになりますね。『・・・あー 誰にも 故郷がある 故郷がある 』淘汰にはありますが、一歩も百畝も遠のいてしまったでしょうか。「さらにすぐれた故郷」のあることを確信し、異国の生活を続けてまいりましょう。

(写真は、あけびの実です)