終息

 

 

12月最後の日曜日になりました。中国語では、「星期天xingqitian」とか「礼拜天libaitian」と言われています。2018年、〈明治150年〉も、いろいろなことが公私にわたってありましたが、「恙無く(つつがなく)」過ごすことができて、感謝が溢れてきます。

今朝は、7℃ほどの気温ですが、予報よりも2℃ほど高かった様です。この朝顔の写真は、このブログに掲載した、最後のものです。今朝、鉢を見ますと、もう咲きそうな気配がしていません。それで「終息宣言」をします。第二期は、次男夫婦が来訪の折に、タネを持ってきてくれ、それを播いたのですが、どうも年越しの朝顔にはならない様です。でも、次々と咲いてくれて、大変楽しむことができました。

昨日は、知人の漢方医が往診してくださって、家内を診察してくださいました。先々週、大咳をしている方と2時間も、家内が一緒にいて、どうも、風邪がうつった様で、友人が往診を要請してくれました。煎じた漢方薬の匂いが、家の中に立ち込めています。《良薬口に苦し》と言いながら、家内が飲んでいます。快方に向かっています。

好い日曜日をお過ごしください。

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三つ子

 

 

東映の「時代劇映画」のフアンだった、小学生の私は、ほとんど毎週末、立川の封切館に出かけていました。観た後、次週の予告編を観た私は、それに誘われて、また出掛けて行くのでした。父が子どもの頃から知っていた月形龍之介(本名まで知っていたので近旧制中学の同窓の先輩でした)、その他に片岡千恵蔵、近衛十四郎、市川右太衛門を、スクリーンの中に、手を握りしめながら眺めていました。

テレビのない時代、映画鑑賞はお金がかかったわけです。それなのに父は、そのために毎回、小遣いをくれたのです。父が親戚のおばさんから、『中村錦之助に似てる!』と、小学生の私は言われて、何時の日にか、映画俳優瓊でもなりたかったのかも知れません。そんな贅沢をさせてくれた父は、そんな思いを知ってか、小遣いをくれたのでしょうか。兄たちも、弟も、そんな我が儘は許されていなかったのです。

映画に刺激されて、当時の子どもたちの遊びは、「チャンバラ」でした。里山に入って行っては、小枝を切り取って、小刀の「肥後守」で、木を切り刻んで、刀を作ったのです。それを、腰のベルトに挟んで、映画さながらの斬り合いをするのです。ベーゴマを回したり、メンコをしたり、馬乗りや馬跳び、宝島や鬼ごっこや陣取りなど、集団遊びをしていて、宿題をやった記憶がないほどでした。

きっと、病弱だった私が、健康を回復して、小学校の四年生頃から、やりたい放題に、親はさせてくれたのでしょう。学校では落ち着いて席につけずに、悪戯をしては、廊下や校長室に立たされていました。親は、それを知っていても、知らぬそぶりで、一度も叱られた覚えがないのです。もしかしたら、自分に都合の悪いことは忘れてしまっていたのかも知れません。

五年生の時は、クラスの番長になっていました。組分けの時に、最初に呼ばれたので、みんなに注目されて番長にされたのです。我が儘に育った私は、その才覚がなく、一年後の六年生の時には、寝返りを打たれて、立場を失ってしまい、消防署の所長の息子だけが仲間でした。子供の世界って、結構大変なのですね。

そんなで、時代劇のフアンだった私は、年をとってから、それが蒸し返しになって、「勧善懲悪」で、強きをくじき、弱きを助ける、筋書きのはっきりしていて、同じ様な話の結末で終わって行くのが好きで、時々見てしまいます。

黒澤明のリアルで怖いものではなく、切られて倒れるだけの時代劇映画が好きなのです。テレビ映画で、「鬼平犯科帳」がよかった。同じ学年の中村吉右衛門は、歌舞伎俳優なのに、テレビの娯楽映画の主演をしていました。テレビ放映されていた時期には、観たことがなかったのですが、今でも、“youtube “で見ることができるのです。

「三つ子の魂百まで」、子ども心を、鷲掴みにされた私は、中年期には見向きもしなかった、時代劇の観劇に、年を重ねた今、呼び戻されているのかも知れません。

秘訣

 

 

中国の「華夏小康網」が、2018年12月21日、《日本人の長寿の秘訣》について紹介する記事を掲載したことを、"レコードチャイナ"が、次の様に伝えています。

『「長寿国」といえばすぐに日本が思いつくと紹介。世界保健機関(WHO)の2016年の統計によると、日本人の平均寿命は83.7歳だったが、一方の中国人は76.1歳で、世界的には長くも短くもなく、81年と比べると8.3歳も延びていると伝えています。

その上で記事は、「小さな海を隔てただけで中国人と日本人では寿命がこんなにも違うのはなぜなのか」と疑問を投げ掛け、日本人の長寿の秘訣には3つあると分析しました。

その1つが「食の多様化」です。1985年に、厚生労働省は「1日30品目を食べる」ことを推奨したほか、日本料理は薄味で油が少なく、食事量も8分目に抑えるため、長寿に貢献していると分析。しかし、日本人は醤油をよく使用するため、塩分を控えめにすることも重要だと指摘した。

2つ目は「スポーツをする社会的な雰囲気があること」だ。日本の生活はテンポが速くスポーツをする時間のない人が多いが、普段から公共の交通手段や自転車を利用することで、よく体を動かしていると分析。長野県では「健康長寿体操」を推進して高齢者が積極的に体操をしていることや、高齢になっても社会活動に参加することで運動量を保持していると紹介し、これが寿命を延ばす要因になっているとした。

3つ目は「医療保険制度」だ。日本には国民健康保険、社会保険、高齢者医療制度の3種類の医療保険制度があり、いつでもどこでも医療を受けられることが、長寿に寄与していると紹介。ほかにも、環境保護制度が厳格に実施され、公共衛生がきちんとしていることで伝染病のまん延を防いでいることや、中庸の道を行き、飲食や感情など何事も極端にならないようにしていることも関係していると分析した。』

昔、私たち日本は、大陸中国に目を向け、様々なことを、この国から学ぶべく、多くの留学生を、何度も派遣しました。 その最たるものは、「漢字」でした。また、国の統治の制度や方法も学び、平城京や平安京の都まで、似せて作っています。ところが、今、その中国から日本への再評価がなされ様としています。この記事は、健康や長寿について、日本を注目しているからです。

私たちの周りには、《日本大好き》を声にしている方たちがおいでです。それは《憧れ》なのかも知れません。多くの人たちは、過去に拘らないで、友好的なのです。京都大学で博士号を取得された方は、こちらの大学の准教授ですが、日本の大学で教えたいと願っておいでです。徳島や滋賀にもいたことがあり、その時の日本人の親切さが忘れられないのでしょう。

(山梨県上野原市の「長寿食事」です)

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来年こそはの

 

 

年の暮れになって、呉市の野原に咲く「セイヨウカラシナ」です[HP/里山を歩こう]。今年は、マルタンさんが配信くださる、多くの写真を、私のBlogにアップさせていただきました。慰められたり、自然観察に誘われたりされました。ありがとうございました。街中のアスファルトやコンクリートにばかり目が向きますが、「里山」に誘われましたが、なかなか出ていけないままです。「目を向けて来年こそはの年の暮れ」です。

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土埃

 


 

西部開拓のアメリカで、東部から幌馬車を仕立てて、着いた土地を、『俺のもの!』と、杭を打つと自分の所有になったと聞きました。それで、道なき道を、ひたすら走り続けたのです。そんな中、金曜日の夜になると、宿営地に荷を下ろし、馬の鞍を外し、水と餌を十分に与えて休ませました。幌馬車の車輪の修理も、馬蹄の取り換えも、洗濯も、人の心の休息もしたのです。

日曜日になると、洗濯した清潔な服に着替え、家長が導いて、昔ながらの「歌」を歌い、これも昔ながらの「本」を開いて、家族に読んで聞かせ、旅の無事と家族の健康を願ったのです。月曜日になると、馬に鞍をつけ、荷を載せた幌馬車に馬をつなぎ、新しい週の行程を進んだのです。そうした人たちは、順調に旅を続け、病気も怪我も疲労もないまま、目的地に無事に到着したそうです。

その幌馬車の車輪が持ち上げる土埃(つちぼこり)は、すごかったのでしょうね。そのことを想像した時、高校の修学旅行で北海道に行った時のことを思い出すのです。4クラス、4台のバスが未舗装の道路を、土埃を上げて疾走していたのです。3組の私たちのバスは、前のバスの車輪の上げる土埃で、視界を遮られることが多かったのです。

函館の修道院も五稜郭も、札幌の北大も、洞爺湖も、アイヌ民族の居住地も、層雲峡も、マリモの摩周湖も、オホーツクの海原もみんな雄大でした。でも一番の印象は、〈未舗装の道の土埃〉でした。そして、強行軍での疲れたことだったでしょうか。半世紀以上も前の北海道は、そんなだったのです。ところが去年入院手術で訪れた北海道は、見違えるほどに整備され、高速道路網が張り巡らされていました。

痛い経験の日々を、また腕が自由に動かせるのだとの望みを持って、リハビリに励んだのです。若い療法士のみなさんの熱心な施術には、大変感謝したのです。同じベッドで寝起きをし、毎食心配りをされた食事をいただき、同じ階段を昇り降りして、リハビリンターに通いました。時々、〈ご褒美〉に、売店で買った一口羊羹やあんパンを頬張ったのです。

 

 

でも、とりわけ週末は寂しかったのです。病友たちは地元の方が多く、遠くても車で3時間で来ることができて、家族が見舞いにやって来ていました。差し入れのお裾分けをいただくのは嬉しいのですが、ちょっと“ショッパイ”感じがしたりでした。そんな中、友人が、クッキーセットを送ってくれました。《値千金》、大事に何日にも亘って、少し少しと食べて励まされました。友とは好(よ)きものです。

そして遂に、次男夫婦が、訪ねて来てくれたのです。ものの小一時間ほどしかいませんでした。でも、中村屋のキンツバ、榮太郎の和菓子、舟和の芋羊羹などを持って来てくれたのです。病友たちに〈お返し〉もできて、美味しかったり嬉しかったりでした。わが子の訪問、息子の嫁、家族っていいものですね。

今年、「胆振(いぶり)地方」で、大きな地震が起こり、甚大な被害がありましたが、被災者のみなさんは、落ち着かれたでしょうか。江戸防備のために、甲州と江戸の間に、《千人隊》を、幕府の開幕期には、八王子に置いたのですが、明治維新後、職と責任を失った《千人隊》の一部の方たちが、北海道開拓にやって来て、入植したのが、この「胆振」でした。

千人隊の末裔の方が、旧国鉄に務めておられて、わが家の近くの踏切番をされておいででした。弟が招かれて、八王子市千人町のお宅に遊びに行ってたことがありました。この方の親族も、胆振入植をされていたのでしょうか。そこは、北海道でも、冬季に雪の少ない、暖かな地だそうです。

(西部開拓期の幌馬車と芋羊羹です)

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もう少し日が経つと、お米屋さんに注文してあった「餅」が、毎年の様に、父の家に配達されてきました。その餅が、適当な硬さになると、父は、竹製の裁縫用の物差しを当てて、大きさを定め、包丁で平餅を等分に切って餅箱に入れて、正月の準備をしていました。それは父の性格が現れるのでしょうか、実に几帳面(きちょうめん)な作業でした。

元旦の朝、四人の息子に、『允、憲、準、徹、いくつ喰う?』と聞いて、母と自分の数を合わせて、七輪に持ち焼き用の網を乗せて、丁寧に返しながら焼いてくれるのです。焼けると、母が小松菜と鶏肉を具に、醤油ベースの出汁の大きな鍋の中に入れて、さっと煮て、碗に盛って、母が暮れの29日頃から作り置きした御節料理と一緒に、『いただきまーす!』と言うやいなや食べ始めるのです。

美味しかったし、楽しかった。関東風のさっぱりした雑煮は、まさに正月の味覚でした。昔ながらの御節料理を、父が作り手の母を褒めていました。あの時は、取り合いも、摑み合いの喧嘩もなく、ずいぶん和やかでした。あの時が「団欒(だんらん)」だったのでしょう。いつもは、まるで〈戦場〉の様な家でしたが、いつの間にか、みんなが和やかになっていきました。兄弟喧嘩は、父の家では"リクレーション"だったのです。

この育った家は、常時、窓を解き放っていましたから、みんな近所に筒抜で、ずいぶん荒っぽい家族集団だったのです。家内が、私と結婚をする旨、知らせた時、家内の上司が、『あの家の息子と結婚して大丈夫?』と心配したそうです。その上司は、兄たちと弟と、私の子供時代を知っていて、そう言ったそうです。何しろ有名だったからです。

それが、街中の心配をよそに、みんな落ち着いて、会社員や教師や倶楽部長になったりしてしまったので、これまた『変われば、変わるものだ!』と、街中を驚かせてしまったのでしょう。もう今や、みんな七十代の高齢の世代に入って、上の兄など、そろそろ「ひ孫」が生まれるのではないでしょうか。

この暮れ、兄たちと弟は、一緒に食事をすると言っています。私は参加できないのですが、みんなが羨ましがるほど、仲が良くなっているのです。これって、あの頃の"リクレーション"の《実》なのでしょうか。

(これにちょっと似ていたのが父の家での「お雑煮」でした)

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そう言う

 

さあ、
暗黒に向かって「光あれ」、
悲しみに向かって「喜びあれ」、
憎しみに向かって「愛あれ」、
圧迫に向かって「開放あれ」、
争いに向かって「平和あれ」、
敵に向かって「友よ」、
病に向かって「治癒あれ」、
鬱に向かって「気晴らしあれ」、
心配性に向かって「楽観であれ」、
涙に向かって「笑顔であれ」、
喧嘩に向かって「和解あれ」、
怠惰に向かって「勤勉あれ」、
多忙に向かって「休息あれ」、
恐れに向かって「安心あれ」、
孤独に向かって「慰めあり」、
拒絶に向かって「受容あれ」、
束縛に向かって「自由あれ」、
奴隷に向かって「解放あれ」、
滅びに向かって「再生あれ」、
破壊に向かって「再建あれ」、
汚れに向かって「聖くあれ」、
過去に向かって「明日がある」、
過ちに向かって「赦しあり」、
人の悪意に対して「挫(くじ)けない」、
敵対者に向かって「味方がいる」、
そして死に向かって「永遠の命がある」と言おう。
高価で尊い私の心に敵対して立つものに向かって、そう言おう!
失敗を恐れるな!
過去に怯えるな!
ありのままの自分でいよう、
新しく変えられるのに期待しよう、
生かされている事実に立って、そう言う。

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生きよ!

 

 

[HP/里山を歩こう]が、昨晩配信してくださった、広島県呉市の黒瀬川の川沿いに咲く、セイヨウカラシナとヒメジオンです。《たくましさ》を感じさせてくれます。

昨晩、出先の家の隣の建物の27階から、13歳の少女が身を投げました。「感謝と喜びの夜」なのに、自らの命を断たなければならない現実が、すぐ隣にあるのを知らされて、しばらく強烈な〈無力感〉を覚えさせられてしまいました。何かして上げられなかったかと思って、できなかったからです。

そう、『彼は、こう言った現実の中に、おいでくださったのだ!』と思わされたのです。命の付与者の前に、人が生きていて、自らの責任で生きているのだ、と思わされました。隣にいる人の〈生きていけない現実〉に、それでも私たちは、して上げられることがあるのだとも思わされました。諦めませんし、この悲しい現実に押しつぶされません。娘さんを、こういった形で亡くされたご両親や兄弟のために、何かできるかを考えています。

どんな現実があっても、人が生きていけるように願い、何か助けて上げたい思いでいっぱいです。自分も、生きにくい、この世の中で、自らを鼓舞してくださる出会いがあって、今日まで生きられたことを思い返しています。私が聞いた『それでも生きよ!』と言われる、天来の声を聞いて欲しいのです。

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カスがいい

 

 

『♯十五、十六、十七と、私の人生暗かった♭』と、十代の女性演歌歌手の藤圭子が、可愛らしい顔に似合わず、歌っていたのが思い出されます。この藤圭子と同じ故郷の大雪山麓の中学校の一級下だった方が、こんなことを、ご自分の著書の中で記しておいででした。

『藤圭子は、学業成機が優秀で評判でした。』とです。向学心もあったに違いありません。でも、ご両親が浪曲師で、街から村へと渡り行く「旅芸人」で、高校進学を断念せざるを得ませんでした。それで、ご両親を助けておられたそうです。お母様の目が不自由で、彼女が長女だったこともあって、大変な苦労をされたのだそうです。

東北の街で生まれ、北海道内を渡り歩いて、自分でも、前座で歌を歌ったり、浪曲を演じたりしていた様です。東京に出て来て、錦糸町や小岩などの盛り場を、お母様と一緒に流して歩いて、「三曲200円」と稼いで、家族を支えていたそうです。まさに、歌の歌詞の様な生き方を、幼い日からして来た様です。

そういえば、私の十代前期も暗かったのです。恵まれた環境の中にいて、何不自由なく生きられたのに、心の中に闇が広がっていたのです。それって、子どもから大人になって行く過渡期で、〈思春期の闇〉と言えるでしょうか。何かトンネルの中にいる様な、不快感、圧迫感があって、上手く生きられなかったのす。

バスケットをしたり、映画を観たりしていも、勉強もままならなかったのです。それでも、学外からの〈実力テスト〉になると、なぜか、学年で十番以内に入ったりの〈チグハグ〉な時期でした。そんな自分に担任は気付いていた様です。中三の最後の卒業の通信簿に、『よく立ち直りました!』と行動評価を書いてくれ、ほんとうに立ち直ったのです。

 


盗みを働いたり、停車中の電車のドアーを開けてしまったり、喧嘩をしたり、タバコを吸ったり、お酒を飲んだりの〈危なっかしい年齢〉を、ヨロヨロと通り過ごすことができたのです。徒党を組んでではなく、何時も単独犯でした。通報された学校も、呼び出された親も知っていたのに、なぜか処罰されなかったのです。私立の中学でしたから、停学とか退学もあったのですが、『もっと悪くなるといけない!』と考えたのでしょうか。

重大なことがあったのに、何もなかったかの様に通り越した私は、大学にも進学でき、何と学校の教師にもなれたのです。「子は鎹(かすがい)」という言葉があります。きっと私の母は、『子はカス(クズや不用品のワルのことです)がいい!』とでも思ったのでしょうか、嘆く代わりに、ただ天に向かって手を挙げて願うばかりだったのでしょう。

でも、私は心を天に向けて、『ごめんなさい!』と言って、《赦されたこと》を確信したのです。それ以降、燦々と降り注ぐ陽のシャワーの中で、嬉々として生きて来れるようにされ、感謝しているのです。こんな恥な過去を書ける年齢になったのでしょうか。『何と詫びようか、お袋に?』と思ったまま、その機会も得ずに、お袋は天に帰って行ってしまいました。でも、『今の俺の姿を見たら、安心してくれることだろう!』、と勝手に思っている年の暮れです。

(以前の中央線ホームから西武国分寺線ほーむ、「子は鎹」の落語の漫画です)

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十二分

 

 

「知足(ちそく)」と言う漢語があります。辞書に、『[老子「自勝者強、知レ足者富」から〕]足るを知ること。身の程をわきまえてむやみに不満をもたないこと。 「 -守分」』とあります。

人の欲望って、際限なく強く、大きくなるものなのでしょうか。自分の来し方を顧みますと、「縁」のないものが幾つかありました。[褒賞(ほうしょう)]と[栄誉]と[お金]でしょうか。平々凡々の凡人で生きて来た様です。

ユダヤの古書に、『蛭(ひる)にはふたりの娘がいて、「くれろ、くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。陰府(よみ)と、不妊の胎、水に飽くことを知らない地と、「もう十分だ。」と言わない火。』とあります。陰府と不妊の胎、地、火は、深くて大きくて際限なく広がっていくからでしょうか。

つくづく思うのですが、父が大富豪で、巨万の富を残してくれて、自分の「相続分」が溢れる程にあったら、きっと良からぬことに使って、身を滅していただろうと思うのです。私の父は、豊かだった時期があったのですが、晩年は、家と、書庫にわずかな書籍と、一竿(ひとさお/家具などの量子で言う様です)の洋服ダンスに中に収まる程のわずかな物で満足して生きていました。

それに引き換えると、私などセーター7着、パンツが10枚、靴だって5足ほどあります。溢れる程ではありませんが、十二分に備えられている生活ができています。生まれてから、「食べられない日」は、病気と断食した日以外にはありませんでしたし、財布の中には、いつも千円札が入っていました。

蛭の様に、際限なく欲しがれば、きりがないのですが、ほどほどに生きて来れた、この凡々たる生活で満足しています。日本に帰れば、僅かばかりに年金が、口座にあるでしょうか。盗みもしなかったし、人も騙さなかったし、人に乞うこともなく生きて来れたのですから、感謝でいっぱいです。まさに《知足》の人生で、《十二分》であります。

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