ガジュマル

 

 

今朝、あるサイトに、木を避けた道路が敷設されている写真が載っていました。自然保護なのでしょうか、自然への敬意なのでしょうか、人間の考えや便利さを優先しないで、自然の植生を大事にしようとの考えで、道路計画を変更したのは、素敵なことです。

私たちが住む華南の街には、「榕树ronshu」と言うガジュマルの木が、至る所にあります。森林公園に行きますと、《樹齢千年》の大木があって、観光名所になっているのです。街中は、この上の写真と同じで、ガジュマルが優先して、道路や交差点の真ん中に、堂々と立っている姿を、何箇所でも見られます。

日影を作って、市民に涼を与え続けてきたガジュマルは、かけ甲斐のないもので、道路のまっすぐさの方が便利なのに、人や馬車や車が、この木を避け、古来大切されて、市民の手で育てられてきているのです。懐かしく、街中の風景を思い出しております。

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けじめ

 

 

長男家族と、次男夫婦は、ほぼ毎週末、家内の見舞いにやって来ています。先週、私たちの孫が小学校を卒業しました。その前日にも来ていくれたのです。その孫に、『卒業式に何を歌うの?、〈国歌〉や「仰げば尊し〉って歌う?』と聞くと、『仰げば尊しは歌わない!』というのです。

それで、『何を歌うの?』と聞くと、合唱曲「旅立ちの日に」や「大地讃頌(さんしょう)」や「さくら(独唱)」(森山直太朗)などを歌うのだそうです。在校生の代表で、五年生が歌う歌も決まってうるそうです。60年以上も前に、小学校を卒業した世代の私にとって、〈仰げば尊し〉への思い入れは大きいのです。

あおげば 尊し わが師の恩
教えの庭にも はや幾年
思えば いと疾し この年月
今こそ 別れめ いざさらば互いにむつみし 日頃の恩
別るる後にも やよ忘るな
身を立て 名をあげ やよ励めよ
今こそ 別れめ いざさらば

朝夕 馴にし まなびの窓
螢のともし火 積む白雪
忘るる 間ぞなき ゆく年月
今こそ 別れめ いざさらば

もう先生を「わが師」なんて呼ばないのでしょう。「わかれめ」が「お別れ/離別」という意味なのも分からないかも知れません。「さらば」については、「別れ」の挨拶語に、もう誰も使わないのです。「蛍雪の功」と言った勉学の努力も言わないようです。

この「さらば」ですが、こんな時、中国人は、『再見』と言い、アメリカ人は、“see you again ”と言って、別れの挨拶をします。ところが私たち日本人は、『さようなら!』と言います。この「さようなら」ですが、漢字で書きますと、「左様なら(然様なら)」になります。

古い言い方の、「さらば(然あらば)」も、意味としては同じです。また若い人たちは、『じゃあ!』と言うようですし、私も、学生のみなさんに、そう言ったりします。私の甥の6歳になる男の子が、いつでしたか、『あばよ!』と言ったのには驚かされました。しばらく聞かなかったし、自分でも言わなくなっていた、別れのことばだったからです。

こういった別れのことばは、日本独特な表現だと言われています。こちらの学校で教え始めて、気になったことがありました。学生のみなさんが、ほとんど例外なく、ズルズルと教室に入ってきて、ズルズルと授業を終えて帰っていくのです。それで気になった私は、彼らよりも早く教室に入って、彼らの来るのを待って、一人一人と目があうと、『おはようございます!』と挨拶をし、授業が終わると、ドアーの横に立って、『さようなら!』とか『じゃあね!』と声をかけるようにしたのです。

ですから、私の教室に出入りするみなさんは、代々、どの年度の学生も、挨拶をするようになったのです。しっかりした挨拶用語のある言語なのに、日本人のように律儀にしないのは、それは文化であり習慣であるので、好い悪いの問題にはなりません。

このことを、『どうしてだろう?』と考えてみましたら、私たち日本人は、どうも《けじめ》を付けないと、始まらないし、終わらない、そういった文化、社会なのではないかと思わされたのです。人に会いますと挨拶をし、人と別けれると、『さようならば行きます!』と言いたいわけです。つまり、会ってしばらく一緒にいて、時間が来て、ことが終わったので、帰ろうとしたり、行こうとするときに、『左様でありますから、帰ります!』が、『さようなら!』に省略されて表現されるようになったのです。

「別れ」があって、「出会い」があるこの季節を、懐かしく思い出すのは、私だけではなさそうです。『はじめまして』と言った出会いが、この「別れ」の後にあり、一生別れたくない人が、私にもいます。

 

 

 

「離合集散」、“デジタル大辞泉”には、次のようにあります。『[名](スル)人々がより集まって仲間をつくったり、また別々に分かれたりすること。』とです。三月と四月は、時期的に、人が集まり別れたりする、一年で一番変化の見られる季節だと言えます。

それを祝ったり、悲しみ惜しんだりしながら、明治以降150年、私たち日本人は、それを繰り返して生きてきました。いつも、『どうして?』と思ったことなのですが、『三月三十一日と四月朔日とが人の別れと出会いの境界日に定まった意味は?』です。

「大晦日」と「元旦」の方が、区切りがはっきりしていてよいのにと思ってきたのですが、「年度終わり」と「年度に始まり」は、三月四月に、日本は定めたわけです。“ウイキペディア”に、次のようにあります。

『現在の日本における具体的な年度の例としては、4月1日から翌年3月31日までを括る「会計年度」や「学校年度」などが一般にも用いられる。本来は、種類を特定して使用するものであるが、国の会計年度や学校年度が4月から3月までであるため、単に年度というと、4月からのものを意味するのが一般的である。国の法律でも例えば、国と地方の協議の場に関する法律第4条第1項など、この用例は多い。この区切りは明治時代から続く。』

それを《爛漫の桜花》が迎え見送って来たわけです。一年待って、咲いたと思うと、《十日ほどで散っていく花》なのに、こんなに咲くのを恋い焦がれるかのように待たれ、爛漫さを愛でられ、散るを惜しまれる花は、この日本には、桜以外にありません。

さくら さくら
やよいの空は 見わたす限り
かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざやいざや 見にゆかん

さくら さくら
野山も里も 見わたす限り
かすみか雲か 朝日ににおう
さくらさくら 花ざかり

きっと、「桜の花」が咲き、そして散る時期に、「区切り点」を、「桜」にちなんで定めたかったのでしょう。何時か、兄弟四人で、二人の兄と私が学んだ山奥の「母校」を訪ねたことがあります(弟は学齢前でした)。翌年には、廃校になり、その小学校に最後の校長先生に、その時、お会いしました。何と次兄の担任だった方で、次兄をよく覚えていてくれたのです。

その母校の校庭にも、桜の木が、運動場を囲むように植えられていました。開花の時期ではなかったので、花を見ることはできなかったのです。間も無く、生徒のいない、その校庭に、桜が無言で咲くことでしょう。ここ栃木でも、今週が見頃でしょうか。

 

 

 

この花は、華南のわが家の北側のベランダの「ハナキリン」です(去年の撮影です)。1月10日に、慌ただしく家を出ましたので、ベランダの花や植木を、そのままにして帰国してしまいました。雨が振ればかかりますから、もしかすると、大丈夫かな、と思ったりしています。

 

 

このアサガオは、次男が持って来てくれた種を、去年の春に、家内が発芽させて植えて、花開いた写真です。同じ町の四番目に住んだ家ですが、主人(あるじ)不在の今、どうなってることでしょう。

親しいご婦人に鍵を渡してありますので、きっとお世話してくださっているかも知れません。隣家の「ベランダ会議」のおばあちゃん(二人のお孫さんをお世話されています)にも、何時もはするのですが、帰国の挨拶をしないままでした。

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応援団

 

 

この花は、「ネモトシャクナゲ(根本石楠花)」です。福島県の県花に選ばれています。8年前、津波によって甚大な被害を被った原子力発電所は、どう処理ができたのでしょうか。それとも遥か将来にも禍根を残していくのでしょうか。住みよい県になるように切に願う、私も、福島県応援団の一人です。

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輝き

 

 

「化外」と言う言葉があります。「かがい」と読みます。かつての中国は、「中原」という中心地以外を、 「化外」としたのです。さらに、そこを「四夷(東夷〈とうい〉、北狄〈ほくてき〉、西戎〈せいじゅう〉、南蛮〈なんばん〉)」と呼んで、蛮族の扱いをしました。

若い学者の柳原恵が、「〈化外〉のフェミニズムー岩手・麗ら舎読書会のおなごたち」という著書で、書名に使っている言葉です。社会的な立場の弱い女性が、まるで遠くに追いやられた民のように、「化外」に置かれているという少々自嘲的な言い回しです。

私は、母と家内、私を教えてくださった内山先生、宇津木先生、佐藤先生、同級生たちを見て、接してきて、女性が「化外」の人などとは思ってきたことがありません。一人の人として、立派に生きておいででした。

高校で教えていた時に、3年生の「ゼミ」の授業で、「青踏社(せいとうしゃ)」の動きを高校生たちと調べたことがありました。その働きの中心にいたのが、明治、大正、昭和を生きた平塚雷鳥(1887~1971年))でした。女権を主張し、新しい女性の生き方をし始めたのですが、22歳で心中事件を起こしたり、事実婚であったり、旧来の「女性の枠」を超えられない生き方をしていた女性でした。

『原始女性は太陽であった!』を掲げながらも、恋や愛に流されて、ついには傷ついてしまう、そんな女権主張者の印象が、この方に強すぎて、デボラやルツやプリスキラやルデヤのようではなかったのは残念なことでした。世に、何も訴えようとしなくとも、一人の夫の妻として、子たちの母として、精一杯に、平凡に生きた女性の方が、さらに輝いているのを実感したのです。

不平不満を口にしない、人の悪口を言わない、噂話をしない、これが母と家内に共通しているのです。それが、どんなに素晴らしい「女性観」を、自分に形作ったか知れません。「相応しい助け手」、なんと凄い存在と務めを、女性は得ているのでしょうか。

 

弁え

 

 

紫の綺麗な色をつけた「こすみれ(小菫)」と「ビオラ〈すみれのラテン語読みだそうです〉」です。一昨日配信していただいた[HP/里山を歩こう]に、呉市の裏山に咲いていたそうです。植物の世界は、季節の動きに正直に応答して、咲くべき場所と時とを、自ずから弁(わきま)えているのです。

自分は、大輪の花を咲かせようとする野心がなかったのか、才能がなかったのか、はたまた場所と時を得なかったのか、そうできませんでした。でも、これから咲き出そうと思うのです。遅咲きで、小さくていい、誰に見られなくともいい、天に向かって小さく咲くだけでいいのです。ある詩人が、『真っ黒な土やドブの中から、どうしてあんなに綺麗な色の花が咲くのだろうか?』と思って、作詩をしていました。

展覧会で賞賛を受ける花もあれば、無残にも踏みつけられる花もあります。『えっ、ちょっと弱気過ぎないの!』と言われそうですね。諦めたのではないのです。身の程を弁えているからです。ほとんどの人が行き、来た道です。それでも、独特に、個性的に、自分独自の色と香りの花を咲かせてみたいのです。

いえ、これから何かをしようとしているのではありません。咲かせたいのは、人生の仕上がりをし、総決算をしたいと言う「花」なのです。呉の裏山の石垣と岩の間の薄い土の中から咲いている、この花のようにです。

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いのち

 

 

人のいのちの価値とはどれほどで、どのように判断し、誰が決めるのでしょうか。もし自分が電 車の運転手だとして、ブレーキの故障した電車を運転しています。しかも、その電車に前方に線路上では、五人の作業員が働いているのです。このまま直進すれば、五人の命を奪うことになってしまいます。

ところが、行く手の線路の右方向に、「待避線」があるではありませんか。その線路上には、一人の作業員が働いているのです。手にしているハンドルは操作が可能です。まっすぐに進むか、右に曲がることができます。こう言った状況で、直進するの が正しいのか、右へ曲がるのが正しいのか、運転手は、どうすべきなのでしょうか。

この質問の答えを、日本語科の「作文」の講義を履修している3年生に、考えてもらい、作文を書いてもらったことがありました。〈二者択一〉で、多数決原理をとって、右折するか、いや人間は一人の命も複数の命も同じだから、直進すべきだ、そう言った「道徳的ジレンマ」を感じる、意地悪な問いかけでした。

また、直進の線路上には、街の名士がいて、これまで慈善活動に励んでこられ、多くの人たちを助けてきた働き盛りの人がいます。ところが、右側に線路上には、体が不自由で、みすぼらしい身なりの老人がいます。どちらかしか助けることしかできません。

さらに、出産時のお母さんに、異変が起きました。このままだと母親も胎児も死んでしまいます。しかし、どちらかが助かることができるのです。母親を選ぶか、胎児を選ぶか、夫(父親)は選ばなければなりません。これらも、同じくジレンマに陥ってしまいそうな問いかけです。

『生きるとは選択だ!』、私たちは事あるごとに、〈二者択一〉の状況に置かれるのです。作文を書いた後に、「ディベート(その主題につき肯定側・否定側に分かれて討議すること)」をして欲しかったのですが、2年少しの学びで、まだ日本語での〈討論〉は、まだ無理でした。でも、〈問題意識〉だけは持って欲しかったし、『人間の価値とは何によるのか?』と言うことを考え続ける動機付けになればと思ったからです。

私の愛読書には、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。」とあります。一国の首相になるのも、一市民で終わるのも、双方ともが《同価値》だとの意味です。憎悪も蔑視も、好き嫌いでさえも、人の価値を認めないことに起因しています。さあ、自分はどう選択するのでしょうか。これって、今昔を問わず、かなり難しい人生の問い掛けです。

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寄留者

 

 

ロビンソン・クルーソーが、孤島に漂着して、そこで自活する様子を描いた「漂流記」を、子どもの頃に、興味津々で読んだことがありました。そう言った生活に憧れて、「秘密基地」を、林の中や地を掘って作ったこともありました。父の家には、押し入れ以外には自分の場所がありませんでしたから、〈自分だけの空間〉を持ちたい願望の疑似体験でした。

『もし、絶海の孤島で生活をしなければならなきなったら、何を持って行くかと?』と言う質問があって、色々な物が挙げられていました。自分だったら、「大辞林」か、今では「ジョルダン(路線案内)」がありますからあまり使わなくなっている「時刻表(交通公社発行)」、世界のベストセラー「Bible」を持って行くのがいいかも知れません。 

孤島での生活を余儀なくされたロビンソンが、無くて困った物と代用品のリストがあります。

〈蝋燭〉山羊の脂を粘土の皿にとり灯芯をつけてランプに、〈石臼〉砂岩質の石しかなく木臼で代用、〈ふるい(篩)〉更紗の襟巻きを使って自作、〈シャベル〉堅い木を削って作った、〈農具〉大きな重い木を引きずって鍬の代わりとした、〈つるはし〉梃鉄を流用、〈鎌〉短剣を鎌のように直して麦刈りに使った、〈下着類〉すぐにそのようなものなしで過ごすことに馴れたその他に〈針〉、〈ピン〉、〈糸〉

大陸で、13年を過ごしてきた生活の本拠地の街から、3つのスーツケースだけを持って帰国し、友人の別宅に居候(いそうろう)させてもらっているところです。家内は、6人の病室の〈二畳〉ほどのスペースで入院生活を続け、私は、この家で、3ヶ月ほど生活をしているのです。

人って、そんなに〈物〉がなくても、ちょっとの不自由さを我慢すれば、《住めば都》になるのでしょう。所詮、人は「旅人」で「寄留者」なのでしょうね。13年前に出かける時、それまでの37年間の結婚生活の所帯道具、所持品のほとんどを処分してしまいました。

帰る場所と物を残しておいたら、帰りたくなったら帰れるという思いを捨てたのです。ただ、少しずつ買ってきた本だけは、残しておきたかったのですが、捨ててしまわれました。却って〈物への執着〉を捨てられてよかったのかも知れません。

家内から、昨日、『私のスーツケースの化粧道具入れにある、小バサミとカミソリとを持ってきて!』と頼まれました。どうも少しオシャレをしたくなってきたようです。病人から《女性》に戻ろうとしているのでしょうね。担当して下さる看護師さんに、実によくしてもらっているのを感謝していました。さらに友人夫妻によくしていただいている、そんな三月です。

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サンシュユ

 

 

今頃、広島県呉の灰ケ峰に咲く「サンシュユ(山茱萸)」です。実に美しい黃色の花ですね[☞3月18日配信 HP/里山を歩こう]。このサンシュユの木の枝を、牛乳の中に入れておくと、ヨーグルトができるのだそうです。朝鮮半島を経由して、江戸時代に日本に入ってきたそうで、木なる実を乾燥させて作る漢方薬となるのだそうです。

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