裁き続けずに仲直りをしなさい

.
.

 『 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(ローマ21節)』

 人を裁く人の手の動きが、上の図です。人差し指を、人に向けて、自分の義によって、その人を裁くのです。ところが中指と薬指と小指とは、自分に向かっていて、結局は、相手を裁きつつも、実際は自分をも裁いているのです。そればかりではなく、天に向かって、創造者に向かって親指は裁きの手を向けていることになります。

 『供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ524節)』

 人を裁きつつ、自分を裁き、神を裁くわたしたちへの勧めなのです。ここで、人を裁く前に、《仲直り》の勧め》を、イエスさまがされました。わたしたちが、主を愛し、主に従い、礼拝を守り、賛美をし、パンと盃を共にし、聖書を読み、献金をし、祈り会に出て、イエスさまがキリストだと証ししていても、《等閑(なおざり)にしているもの》があると、イエスさまが言われたのです。

 クリスチャンとして、守り行うことを忠実にし続けていても、それ以上に重要なことがあると言うのです。それを忘れてしまうことが、極めて多いと言う指摘です。と言うか、それをしないで、故意に忘れようとしていること、その最重要なことをしない言い訳で、信仰上の行為で隠そうとしているのかも知れません。

 例えば、わたしが熱心に病者のために祈り、家庭問題で苦しむご方に適切な助言を与え、病む人の癒しを祈り、献金をし、聖書から説教をし、イエスさまがキリストであることを生活と言葉で証をしていても、欠けたものがあり得るのです。

 また諸教会に呼ばれて聖書を解き明かし、大きな大会の実行委員や集会の司会をし、聖書の世界のエルサレムやエジプトに行き(行きたかったのですが出来ずじまいです)、信仰覚醒( revival )の起こった国を訪問し、隣国に聖書を運び、宣教師となって非公認教会に席を置いたとしても、欠いてしまってはいけないことのです。

.
.

 「神のみ前で」、自分がどうあるかが問われているのです。もしかすると、ここで言う、《仲直り》をすべき相手が頑なであり続けて、取りつく島がなくて、こちらの《仲直り》の接近を受け入れないとしても、つまり、《仲直り》が不可能のように思われても、神さまのみ前で、《仲直り》の努力をすべきなのです。

 そうしますと、人との関係は、神との関係に密接されていることになるのです。言い訳をしたり、相手が悪いのだと訴えても、神との関係を損なってはいけません。それほどに、《対神関係》が大切なのだと言うのです。人への躓き、人を躓かせることは、避けられないのですが、神との関わりは、どうでもいいわけにはいかないのです。

 人との関係で、たとえ恥になっても、神との関係を蔑ろにしてはいけないのです。そのような重要なことは、結構後回しにしたり、覆いをかけてしまう傾向があるようです。

 別なことばで、「和解」なのです。『わたしは、天国に行ける!』と言う、母に教えられた子どもの頃に持った信仰に立って、《七十路》の今を生きています。天国には、不和、憎悪、赦せない思い、悪感情、蔑み、妬み、怒り、悪い記憶などはありません。そう言ったものが入り込む余地などない世界だからです。でも、分かっているのに故意に、〈蔑ろにした事事〉は、どうなのでしょうか。

 天国の門の手前で、廃棄庫に投げ込めるのでしょうか。いえ、そんな廃棄庫があるのでしょうか。逆戻りでこの世に帰って来ても、相手は亡くなってしまっていたら、後の祭りです。和解できなかった後悔も、天国には入れません。

 『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10910節)』

 この約束のみことばに叶うなら、だれもが救われているのです。でも救われているのに、すべき《仲直り》や《和解》をしないままだったら、どうなるのでしょうか。死の直前に、神のみ前で解決しておかなければ、持ち越すことのできない重要案件であります。

 さあ、思い出す限り思い出して、この《仲直り》、《和解》をしなければなりません。その仲直りすべき相手、和解すべき相手のところに出かけて、恥を恐れずに、しなければなりません。同じ街を歩いていて、相手を認めても、目を背けて、避けてしまうようなことが、躓いている相手、躓かせている相手を、そのままにしていてはいけないのです。

 もし相手が亡くなっていたり、心の門を閉じて会おうとしないなら、神のみ前に、和解すべき相手を置いて、赦すのです。赦しの告白をするのです。そう、聖書は勧めて、いえ命じています。《仲直り》や《和解》は、万物に創造者、統治者、父なる神からの命令なのです。

.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください