訣別

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東京から、ここ栃木に参ります時に、いくつかの川を渡ります。その最大な川は、日本三大河川の一つ、「利根川」です。私たちが滞在しています栃木市の市内を、「巴波川(うずまがわ)」が流れているのですが、この流れが「渡良瀬川」に流れ込み、そして「利根川」に合流して、太平洋に至ります。

この利根川は、「坂東太郎(ばんどうたろう)」と呼ばれてきて、親しまれています。この「坂東」と言うのは、日本の西国を「関西」と呼び、東国を「関東」と呼んだ、もう1つの呼び名です。“ウイキペディア”には、次のようにあります。

『一方、利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた[38]。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては、九州地方最大の河川である筑後川が「筑紫次郎」、四国地方最大の河川である吉野川が「四国三郎」と呼ばれるほか、中国地方最大の河川である江ノ川(ごうのかわ)が「中国太郎」と呼ばれることがある』とあります。

また日本を二分して、「関西」と「関東」と呼ぶのですが、この「関」について、同じように“ウイキペディア”にあります。『672年に壬申(じんしん)の乱という日本古代で最大の内乱戦争が起き、天武天皇は翌673年に都一帯を守る為に、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関、北陸道に愛開関と、3つの大きな関所(三関)を設置させた。こうしてこれ以降、これらの三関よりも東側を「関の東側」という意味で「関東」と呼ぶ習慣が生まれたのである。』とあります。

私は、新婚旅行を、迂闊(うかつ)にも、家内の願いを聞かずに、自分で決めてしまったのです。彼女のロマンチックな夢を無視したわけです。どこに行ったのかと言いますと、茨城県の「霞ヶ浦」から船に乗って、潮来と犬吠埼にでした。先ず、誰も選ぶことのない所でした。私は、北利根川が流れ込む霞ヶ浦に、自分の思いを葬り、沈めたかったのです。

どんな思いかと言いますと、〈軍国少年の亡霊〉をでした。日本主義とか軍国主義の思いの残影を、戦時下の海軍予科練習生が、その機影を映して飛んで、飛行訓練を積んだ霞ヶ浦に、どうしても捨ててしまいたかったのです。そして新しい思いで、彼女と生きて行こうとしたわけです。海軍の家系の子の思いを、そのように葬るための〈軍国主義との訣別〉でした。

お酒を飲んでいた若い頃、私は、ベトナム派兵のアメリカ兵に、立川で喧嘩を挑んだりした、「アメリカ嫌い」の〈日本男児〉を気取っていた時期がありました。実に危険な思いに突き動かされていたわけです。そんな思いを持ったまま、結婚生活に入れないとの願いが、あの霞ヶ浦行きの理由でした。

迷惑をし、困惑したのは、彼女です。『どうして霞ヶ浦?』と、何度聞かれて今日まできたことでしょうか。そんな私を取り扱うためでしょうか、アメリカ人起業家と8年間の時を一緒に過ごし、「日本主義の牙(きば)」を削られ、謙遜を学ばされたのです。そうして年を重ねた今があります。

(利根川が流れ込む「霞ヶ浦」です)

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