ハワイの移民文化の中で

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 ”out going“、自国から他国に移り住んできた民族を上げますと、ユダヤ民族と中華民族とが双璧でしょうか。この両民族を比べてみますと、ユダヤ民族は強いてそうされてきましたが、中華民族は自発的だったと言えるでしょうか。あのアヘン戦争後には、大勢の移民があって、世界中に出掛けて行きました。

 サンフランシスコ、ブラジル、アルゼンチン、シンガポール、そして今回訪ねていますハワイには、横浜にあるような「中華街」があるのです。どこも、開放的で、活気にあふれていて、中華コミュニティ。華僑社会を形作っています。中華のみなさんの結束力の強さが感じられる、コミュニティなのです。

 「市場shichang」と呼ばれる一廓に、小さな商店が軒を連ねて、賑々しく商いがなされています。野菜や肉類や魚類や香辛料などの食材、そして雑貨や衣類が並べられていて、食堂もある一廓です。家族や友人たちでテーブルを囲んで、大声で箸を振るいながら喋りながら食べる、実に生命力が溢れている世界です。

 13年過ごした、天津と華南の街にも、中国中に点在する街には、市场があって、ご婦人同士が取っ組み合いで転げ回りながら、髪を引っ張り合って喧嘩したりしていて、小競り合いを何度も目撃しました。流石、その喧嘩は、ハワイやシンガポールでは見られませんでした。あれって、率直で直情的な中華の文化の一部なのかも知れません。

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 みなさん人懐っこく、逞しく生きているのです。喧嘩は少ない部分で、大体は、人間関係が濃くて、親切で、助け合い、情報を交換し合いながら、そこに生きておいでです。中国を感じさせたいと言う、長女に従って、中華街をブラブラ歩きをして、アジア風の野菜や果物を見つけては、買い求めtあのです。ちょうど昼時でしたので、日本の鮪や鰤の漬け丼の「ポキ(丼)」を、長女と次男と私たちで、ツッツキ合いしながら食べ、婿殿の土産に弁当を買ったのです。

 独特のタレに漬け込んだ刺身は新鮮で、こちらに来たばかりの時には、「Uber eats」の宅配を、次男がスマホ注文&決済でとってくれて、昨日は二度目で舌鼓を打ったのでした。ワイキキのショッピングセンターのフードコートで、30年近く前に、長男に案内させてもらって食べたことがありました。ハワイだから、格別に美味しいのかも知れません。


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 喧騒で雑然としている界隈(かいわい)に、ヨーロッパ系の人たちも混ざり、人気エリアなのです。日本の地方の街々にも、朝市がたつのですが、元気一杯のご婦人たちが中心に、朝一番で野菜や魚を売ってきたのは、やはり同じ東洋文化なのでしょう。でもイタリヤなどのラテン系の国々の街にも見られる世界のようです。そぞろ歩く買い物客相手の風景は、活気に満ちて、美味しそうです。

 若者二人で下げらる保冷庫を持ち込んで、食べ物屋の主人と交渉していました。早朝に漁に出て、釣ったのか網で獲ったのか、その保冷庫には新鮮な魚がありそうでした。顧客がいるのでしょう、魚市場には出さずに、重宝する顧客との商談が聞こえてきました。それもまたハワイの下町文化の一つなのかも知れません。

 子どもたちは、みんなここで十代、二十代初期を過ごしていて、長女は、不思議に導かれて、ここに住み始めています。歳を重ね、体の弱くなった家内と私を招いてくれ、婿殿と親孝行をしてくれているのです。大切な連休を、この私たちに、次男は同行してくれています。昨日、bird flowerの花束を買って、母親に手渡していました。優しいのです。

 またBig islandの高校で、牧会する友人のお世話て3年学んだ後、この街の教会で長く奉仕をした長男は、家に迎えに来て、羽田空港まで送ってくれました。また帰りには、車で出迎えてくれると言ってくれています。またBig islandの高校で学んだ次女と家族も月末には、ここに駆け付けてくれるようです。家内のすでに召された次兄も次姉も、この街に住んでいた時期がありました。通過駅ならぬ、まさに此処は、わが家の「通過街」になるのでしょうか。

(ホノルルの中華街、ポキ、bird of paradiseです)

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陽気な心で

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『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。“A merry heart doeth good like a medicine: but a broken spirit drieth the bones.(King James version)“(新改訳聖書 箴言17章22節)』

 創建で、薬も医師も必要なく生きている方を、『医者いらず!』と言うようです。父が医者にかかったのも、家で伏せっている姿を見たことがありませんでした。布団を敷いたままでいることが一度もなかったのです。早寝早起きを励行し、滅多にないことでしたが、体の具合が良くないと、母に、風呂を熱く沸かさせて、ウーッと唸りながら入って、頭にハチマキをして、早々と布団の中に入ってしまいました。

 翌朝、スパッツと起き上がって、朝食を摂ると、ワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨かせた黒革靴を履いて家を出て、電車で東京に出勤して行くのです。背丈は高くなく、小太りで、血色も良く、背筋を伸ばして颯爽として、格好が良く、健康だった印象の強い父でした。

 中央線に乗って、引っ越してからは、小田急線に乗り換えて電車通勤をしていました。そんな父が、小田急線の電車が急ブレーキをかけた時に、くも膜下出血を起こしたのです。帰宅後でしょうか、具合が悪いとのことで、町立病院にかかって、入院してしまいました。材木を運ぶトラックの助手席ににっていて、河原に転落して、怪我をしたこと以降の出来事だったのです。

 そこから退院する日の朝に、脳梗塞起きて、そのまま亡くなったのです。なんの前触れもなく、目と目を合わせることもなく突然の死でした。牧師になったばかりの上の兄が、その父の告別式をしてくれました。明治末期に生まれ、61歳の誕生日を迎えたばかりの短い生涯でした。初めて大泣きをしました。

 見送ることもない別れでしたが、思い出はたくさん残してくれたのです。父に比べ、就学前に肺炎で死線をさまよった自分ですが、こんなに生きることができているのは、オマケのような今を感じてなりません。五月になると、鯉幟を買ってきて、庭に柱を立てさせて、四人の息子たちの健康を願い、祝福してくれたのです。

 母の里からは、祖母の手作りの「粽(ちまき)」が、毎年送られてきました。蒸篭(せいろ)で、母が蒸してくれて、砂糖醤油をつけてほうばったのです。伝統的なしきたりを守ることのない父と母のもとでの、唯一の季節感のあった時節だったでしょうか。中国での13年間に、教会においでのみなさんから、また近所の方たちから、笹の葉で包んだ、胡桃や肉や豆入りの、地方や田舎の伝用的な粽を、よく頂いたのです。サツマイモやライチ、鮑や生魚なども頂いたりでした。

 食べ物でも着る物でも、生き方全般に、「健康志向」や、懐かしい「ふるさと回帰」が、日本でも中国でも、ここハワイでも見られるのでしょう。一昨日は、家内の病後と健康維持のために、何種類ものサプリメントを買ってきてくれています。街中で、その商売をしている方が、いろいろなサプリメントを扱っているそうで、それを長女も次男も求めてくれています。

 また迎えるのに、また買い物ついでに、長女が「アロハシャツ」を買ってくれています。以前、娘が買い贈ってくれた「甚平(じんべい)」を持参したのですが、なんとなくこの両者は、似た物同士のようです。日経移民が、日本の着物に愛着があって、それにヒントを得て、和装のリメイクで作られ、売られてきたのが、アロハシャツなのだそうです。リゾート着にも式服にも用いられるそうで、Tshirt流行りの昨今でも人気があるようです。
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 知り合った牧師さんのお世話があって、長男から始まって、娘たち、そして末の子の次男まで、ここオアフ島やビッグアイランドのハワイ島で学ぶ機会が与えられてきましたので、肝入りのハワイなのです。一仕事を終えた今、こんなにゆったりした時を、脇役に回ったのか、主役に返り咲いたのか、子どもたちの思いを受けて、こんな風に過ごさせてもらっていることに、二親は感謝と喜び、陽気な心でおります。

(カピオラニ公園からの夕陽です)

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