来た春が行くかの様です

.

.

 『愛しい風が吹く!』のだと、ラジオで聞きました。北風とか寒風や空っ風から、春の「愛しい風」に変わったかと思っていましたら、河津桜や八重桜が咲いたと思っていましたら、ソメイヨシノが咲き始めました。

 昨日の夕方は、空が、かき曇ったったと思ったら、「雷(らい)さま」が鳴り轟いたら、強い雨が降り始めました。ソメイヨシノも、もう少し頑張ってほしいと願っているのに、花吹雪の乱舞前に、散ってしまうのでしょうか。

.
.

 桜花が散ると、何だか春がいってしまう様で、惜しむ思いが強くなります。新栃木の駅に行く駅前通りの路側帯に、思川桜が植えられていて、その花も咲いているのを見たり、天平の丘の史跡跡に植えられた淡墨桜も綺麗に咲いた春でした。

.
.

 その雷さまが止んだら、西の空に太陽が顔を出したのです。東の空を見ますと、虹がうっすらと出ていました。春は行ってしまうのでしょうか。市内の小学校では、この水曜日に、入学式があって、式の帰りの親子連れの姿を見かけたのです。わが家の子どもたちの入学式が、思い出されてまいります。

 早咲きも、まばら咲きも、咲き誇るのも、散るのも、吹雪く様になるのも、濡れるのも、葉桜になるのも、そしてポツンと存在を表す山肌の桜も、どこに咲いても、春の到来を告げる、どんな花も趣があって、いい季節です。そう夏だって、秋だって、冬だって、四季折々に自然界は、人に語りかけてくれます。来た春が行くかの様です。

(家内の撮影した写真です)

.

失敗、そして勝利者となる

.

.

 『失敗を避けて勝利者になりたい!』と、誰もが願っています。それでも人は失敗をし、国も企業も団体も失敗を繰り返しながら存続してきているのです。確かに、『失敗は成功の母!』なのでしょう。失敗を繰り返さないことこそが、失敗者の行く道なのです。

 昨年のMLBの最終戦で、アーロン・ジャッジが、打者のボールを補給し損なって、落球してしまったのです。ランナーの動きを気にして、一瞬目線がボールから離れていました。それで、正確に補給できず、それが大きく原因して、チャンピョンシップを逃したのです。誰がジャッジをジャッジできるのでしょうか。誰もいないはずです。

 高校時代に、そうしても避けられない事態が起こったことがありました。母が交通事故で大怪我をして、担ぎ込まれた病院での初期手当てが不十分で、傷口が化膿してしまい、両足切断の危機にあったのです。それで10ヶ月ほど入院生活をし、幸い切断はえ免れたのです。自転車を降りて、路側に寄って、大型ダンプカーをやり過ごそうとしていたところを、すれすれを通って行った車輪のボルトで、両足に深い傷を負ってしまったのです。

 母の入院で、家には父と弟と私がいました。兄たちは、静岡県の島田と千葉に就職していて、家にいませんでした。父が、会社を部下に任せて、家事をしてくれたのです。母の必要に届くために通院したり、中・高生の二人の食事の世話をしてくれていました。私は、それを見かねて、クラブを休部したのです。

 私のいたクラブは、卒業生たちがインターハイでも国体でも何度も優勝していた名門校だったのです。練習がきつくて、入部者が少なかった関係でですが、センターフォワードを任されていたのですが、やむを得ませんでした。その年の夏の大会では、東京都予選の決勝で都立のライバル校に負けて、全国大会を果たせませんでした。

 伝統ゆえの厳しい練習で、全国制覇を期していたのです。日没の薄暮の中、ボールに石灰を塗ってまでして、仄暗い中をパスやシュートの練習をしたのです。水も飲めませんし、お腹は空くし、それほどの練習を積んだと言う自負心で大会に臨もうとしていました。それが自信につながるからです。精神性を高める監督の策だったのでしょう。ところが2年連続で、インターハイと国体に出られませんでした。そんな苦い経験があったのです。

 誰もが失敗するのです。必要なのは、寛容であって、裁きではないのです。誰も裁くことはできません。プレッシャーに勝てないと、自分の人生の勝利者にはなれないのです。それはスポーツの世界だけではなく、信仰の世界も同じなのです。

『私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(新改訳聖書 ローマ8章35〜37節)』

.
.

 あのニューヨーク・ヤンキースのアーロン・ジャッジは、生まれて2ヶ月目で、養子に出されています。養父母の元で育った彼は、自分の過去を、『神さまがぼくたちを引き合わせてくれたのです!』と、受け止めたのです。もう運命の悪戯などではないという無言の告白でした。唯一の父と母こそ、この養父母だと、自分の出生とその後のことを、事実として受け入れたのです。そしてベースボール・プレーヤーとなって、ヤンキースの花形選手となっているのです。

 今季のアーロン・ジャッジは、今日の時点で、打率3.54ホームラン6本の成績だと、ニュースは伝えています。今年も大谷翔平と競っていくことでしょう。ご両親は、「善良な人間」になることを願って、彼を育てたそうです。生みの親ではないことを知っても、アーロンは両親への感謝と尊敬を失っていないのです。彼は、クリスチャンであることを告白する大リーガーなのです。

 失敗は避けられませんが、それを超える力を、神さまは用意しておいでです。そして、「圧倒的なえ勝利者」とされるのです。

(ウイキペディアのMLBの試合、511勝の名ピッチャーのサイ・ヤングです)

キリスト者婦道記の母バージョン

.

SONY DSC

.

 山本周五郎に、「日本婦道記」という時代小説があります。厳しい規則や掟が、「武家社会」には定められていた様です。男には「武士道」があり、婦人には「婦道」があり、厳格に「家」を守る勤めが、婦人にはありました。夫のため、子のため、「家」のために生き抜いた日本婦人は、強く凜とし、忍耐強く生きていた様子を、感動的に記した作品が多いのです。

 母は、炊事洗濯など家事一切を、黙々とこなしてくれていました。編み物をし、和服の仕立てなおし、繕いなどをしている姿も覚えています。母は、山陰の出雲が故郷でしたから、関西圏に近いので、関西風の味の中で育っていて、養母から、細かく学んだのでしょう。結婚し、子が与えられ、育てていく中で、父の味で料理をし、関東風の味付けをしてくれました。

 子育ての間、お雑煮も蕎麦も関東風でした。よく作ってくれたのが、すき焼き、トンカツ、ハンバーグ、硬焼きそば、焼き魚、酢豚、ライス・カレーなどでした。食欲の旺盛な私たち4人の子に、喜んで食べさせてくれたのです。自分は、もらいっ子で、兄弟がいなかったからでしょうか、いつも甲斐甲斐しく、嬉しそうに家事をしていました。

 子どもたちを送り出すと、時々、新宿に電車で出て、都会の空気を吸っていたのだと、後年言っていました。どこかでお昼を摂って、買い物をして帰宅した様です。婦道だけの江戸時代とは違って、戦後の民主化、婦人の地位の向上の中、息抜きも必要だったのでしょう。

 そんな母が、狭い庭に、父の和装を解(ほど)いて、反物の幅と長さに布を、一尺ほどの幅に、竹で作られた、両方に針を埋め込んだもので、張りながら、長く干していました。洗い終えた布を庭いっぱいに広げて、干し上げては、それを縫い直していたのです。その張り棒を、手作りの弓で、的を射て遊んだことがありました。

 父が亡くなった後に、父の着物を、私の体に合うように、母が縫い直してくれたことがありました。次女が、祖母の出席を望んだので、母と次男と私たちで、オレゴンの街で持たれた結婚式に列席したのです。その時、母と家内と私は、荷物になりましたが、着物を持参したのです。

 泊めていただいた婿殿の家で着付けしてくれました。その着物に羽織袴で列席させてもらいました。アメリカで、みなさんは、私たちの和装を初めて見て、喜んでくれたのです。若い頃に、父が誂えた「大島」という生地の和服でした。母が、驚き喜んでいた旅だったのです。

『ふたり(パウロとシラス)は、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言った。(新改訳聖書 使徒16章31節)』

 そればかりではありませんでした。母は、日曜日になると教会の礼拝に、忠実に出席していました。14歳でキリスト者となった母は、聖書を読み、祈り、証しをし、聖書研究に出席し、祈り会に加わり、礼拝を守る、信仰生活を忠実にしていたのです。父の仕事の関係で、山の奥に住んでいた頃には、街から牧師さんがやって来られ、家で集会をしていた時期もありました。


.
.

 母はカナダ人宣教師の家族の暖かさに憧れて、十代の初めに教会に行きながら、信仰を持ち、生涯に亘って、キリスト信仰を全うしたのです。東京に出てきてからは、伝統的な教会に導かれていまして、私たち子ども4人を引き連れて行ってくれたのです。ところが牧師館に、子どもさんの位牌が置かれていて、そこに線香が点されていたのを見て、その教会を母は去りました。

 宣教師さんに、子どもの頃から、聖書を学んでいたからでしょうか、何か違ったものを、その教会で感じたのでしょうか、その後は、隣町の婦人の宣教師さんの教会に導かれれていたのです。そこにも連れて行ってもらったことがあり、宣教師宅にもお邪魔したこともありました。

 ところが、住み始めた街の路上で、一人のご婦人と行きあった時、互いを引き合わすものがあったのでしょうか、互いがキリスト者だと知って打ち解けたのだそうです。そして、その街に駅近くに教会があって、そこにはアメリカ人宣教師さん夫妻が牧師の教会に誘われ、母は参加するようになったのです。その母が会った婦人が、家内の母親だったのです。

 しっかりと家族への食事の用意をし、洗い物をして、日曜礼拝や終日に集会に、母は出掛けて行っていたのです。父は、その母の信仰、教会生活を認めていました。家事万端をし終えていたこともあり、幼い頃からの信仰を、高く評価していたのです。その母の祈り、生活、生き方を通して、やがて私たち4人の子が、そして父も、母の信仰を受け継ぐのです。

 そればかりではなく、近所の方を信仰へと、母は導いてもいました。母は週刊誌を読んだりしませんでしたが、だからと言って、信仰一辺倒な、宗教的変人でもなかったのです。一緒にテレビを見ては、笑ったり泣いたり、豊かな感情を表していたのです。確かに神がいて、母を支え、生かしているのが分かったのです。だからでしょうか、やがて母と同じ信仰者とされたのです。

 その母の教会の宣教師さんの後の牧師に、私の上の兄がなったのです。母は、それを喜んでいて、父も、『俺の腰から出た子が、聖職に就くのか!』と驚いたのを、母に語ったのだそうです。父の祖父に連れられて、横須賀の町の教会に、子どもの頃に行っていたことがあったのです。

 そんな父や母を、今、感謝と共に誇るのです。そして、子どもたちが、孫たちが、三代四代に亘って、キリスト信仰を継承しているのです。一人の父(てて)無し子が、本当の創造主である父なる神に見出され、一緒を送り、天に凱旋した母だからであります。

 恵まれない星のもとに生まれ、孤独を覚えていた母、真っ黒になるほど遊んでいたお転婆だった母が、仏教と神道との盛んな山陰で育ち、14歳で頂いた信仰で、95年の生涯を送りました。その信仰が継承されているのです。それは実に喜ばしいことに違いありません。まさに「キリスト者婦道記」の母バージョンであります。

(ウイキペディアの出雲の日御碕、カナダ産のメープルシロップです)

.

日本の夜明けの一幕が

.
.

 横浜に、「関内」と呼ばれる地域があります。町名ではなく、地域名で、横浜の中心地であり、JR根岸線や市営地下鉄の駅名にもなっています。日米友好通商条約が結ばれて、横浜が開港した時に、開港場の周辺をそう呼んだのです。

 日本の幕末史の中で学んだ、大名行列の前を横切ったイギリス人を、日本の武士が無礼打ちした「生麦事件」以降、外国人は危険にさらされていました。商人や外交官たちに他に、宣教師たちがいたのです。時代は、まだキリシタン禁制の中でした。勤王攘夷を掲げる志士たちの動きを幕府は取り締まるために、外人居留地への通行を取り締まり始めたのです。そんな危険地域に、「関門」が設けられ、行動を規制していたのです。それで「関内」と呼ばれたわけです。

 幕府の厳しい監視があり、米価の変動も、令和の世と同じで、一年一年と高騰していくほど、物価が高く、生活は困難な時でした。1859年の秋に、横浜の港から上陸しのが、アメリカ人宣教師(医師)のジェームス・ヘボンとクララ夫人でした。宣教の一環として、おもに眼科治療の施療所を開所し、治療を始めたのです。このヘボンは、ヘボン式のローマ字を作り、和英辞書を作成し、聖書を翻訳し、学校を始めています。

 そのキリシタン禁制のまだ続く幕末に、若者たちに福音を伝えたのです。英語を学ぶ若者たちが、創造の神とキリストを信じることを願って伝道をしたのです。ヘボンの行動を内偵し、不穏の行動をとるなら切り殺そうと使用人に扮した武士が、ヘボンの住んだ成仏寺に住み込み始めます。しかし、そのヘボンの人格の高さから、暇乞いをして去って行ったほどでした。

 そんな動乱の中、9人の学生が、奉行所の役人と共に、ヘボンのもとにやって来て、英語の他に、数学と化学とを学びたいと申し出ます。その中には、長崎で、シーボルト医学を学んだ、長州人の医者の大村益次郎がいました。兵学者でしたが、明治維新政府でも軍事畑で、近代兵学で力を発揮するのを期待されたのですが、維新政府誕生の翌年、没しています。

 ソニー創業者の井深大の親族である、会津藩士の井深梶之助も、ヘボンに学び、明治学院の2代目総理に就任しています。下総佐倉藩の藩医の子の林董(はやしただす)は、「ヘボン塾」の最初の生徒であり、後に留学生として英国で学んでいます。明治維新政府の英国大使、外務大臣、逓信(ていしん)大臣を務めています。この林董は、ヘボン夫人クララから母親のように愛情に満ちた英語教育をうけた恩を忘れずに、後年になっても「学歴」の項には「ヘボン塾出身」と書いていたそうです。


.
.

 また、総理大臣・大蔵大臣を務めた仙台藩の足軽の子の高橋是清、三井物産の創始者である益田孝、日本最初の医学博士となった三宅秀など、明治期に活躍した人材が多くいて、ヘボンらの感化を受けています。

 彼らを教えた英語テキストには、宣教師としても第一の来日目的を果たすために、ヘボンが選んだのは、「航海者(ボーデイッチ著)」だったのです。キリスト教の真理が、そこには多く記されていて、多くの学生が聖書に興味を持ち始めていたそうです。漢訳聖書も英訳聖書も、学生たちの中には、すでに持っている者もいたそうです。

 ヘボンのもとにやって来た学生たちは、『主なる神さまが、彼らにその願いを入れられたからだ!』と確信していたそうです。でも、彼らは、出身の藩に呼び戻されて、一人去り、二人去りして、「ヘボン塾」は閉鎖されてしまいます。それに屈しないヘボンは、なおも、難しい状況下で宣教を続けていきたいます。

 ヘボンと妻クララは、3人の子どもたちを病気で亡くしていますが、長男も祖父母にではなく、知人に預けて、キリストを宣べ伝える働きをし始めたのです。殺伐とした幕末の世情、動乱の日本での人間的には困難極まりない中を、宣教を続けたのです。聖書翻訳にも尽力しています。それらが、主なる神さまの御心であり、そう導かれたという確信で、宣教の業を多岐にわたって推し進めたのです。

 日本宣教のために献身した宣教師の働きがあって、日本の近代化の一つの礎石が置かれたことになります。ヘボン夫妻、そして彼らのもとにやって来た同じ宣教師のみなさんは、初期には、仏像の安置されている成仏寺でも、礼拝を守ったのです、同じ様に、神さまに遣わされた宣教師たちが、戦後にやって来られました。

 母は、カナダ人宣教師に導かれて信仰を持ち、私たち兄弟も、亡くなる直前の父も、宣教師さんたちの働きの中で、キリスト者とされたのです。その宣教の働きによって、キリスト信仰を持つにいたり、いくつもの教会が、建設されていきます。子どもたちも孫たちも、同じ信仰を継承してきているのです。
.
.

 81歳になった高橋是清は、青年将校たちが昭和維新を掲げて暴挙に走った「二・二六事件」の青年将校たちによって、自宅で暗殺されています。軍の台頭と、軍による大陸進出の前夜に起きた、さまざまな動きのあった1936年のことでした。ますます軍国主義化していき、教会への弾圧が増し加わりく、結局は敗戦を迎えます。戦後、多くの宣教師が欧米諸国から来られて、福音宣教が再び行われていくのです。

 日本の夜明けに、福音の光を輝かせた宣教師のみなさんの多くの犠牲とたゆまない奉仕によって、日本が近代化し、民主化していったことになります。日本最初のキリスト教会は、横浜の地に建て上げられていきました。みなさんの祈りが積まれて、その実を実らせたのです。そしてヘボンこそが、聖書翻訳を通して、日本語を作り直した人でもあったことを忘れてはないらないのです。そして、戦後の混乱した日本に、再び灯火が点されたのでもあります。

(ウイキペディアのヘボン夫妻たちの集合写真、日本最初の横浜の教会、ヘボン夫妻の住んだ成仏寺です)

.

昭和ノスタルジーのあふれていた頃

.
.

 幼稚園児だった長男を連れて、芝公園の近くある「東京タワー」の見学に行きました。展望台に上がる料金の高さに驚いて、上の展望台に息子を連れていって上げることができませんでした。慎ましく生きていた頃で、貧乏性の私は、『もうすこし奮発すべきだった!』と、後になって悔いてしまいました。

 神の子にされていたのに、神の教会の働きに就いていたのに、その上、この神さまはRichなお方なのに、ちんまり生きる様になっていました。その惨めさに、『もう貧乏くさく生きるのをやめにしよう! 』と決心したほどでした。

 万物の所有者の神の子であり、神のいのちで買い取られた教会での奉仕に召された者なのだと、自分の意識を改めたのです。それでも息子は、そこで買って上げた飲み物を、実に美味しそうに飲んでいて、満足そうにしていたのです。私の通っていた学校は、この1957年に竣工した「東京タワー」に近かったのです。

 当時、「都電(路面電車で今の地下鉄の路線の上にその多くが走っていたと思います)」に乗るとすぐの所にあったのですが、長男と訪ねるまで、一度も行ったことがなかったのです。2012年に、東京スカイツリーが押上にできるまで、東京のシンボルでもあったのです。高さが、ムサシ(634m)のタワーは、333mの東京タワーの倍ほどもあって、東武鉄道株式会社が設計し、竣工した電波塔です。

 あの東京タワー見学から、何年も経って、「ALLWAYS  三丁目の夕日」が劇場公開されました。2005年のことでした。この映画に、この東京タワーの建設工事の様子が、CGで描かれていたのです。

.

 その他に、都電や「ミゼット」と言う小型三輪車も登場していました。とくに印象的なのは、東京オリンピックの開催に伴う「インフラ整備」でした。おもに北関東や東北地方からの労働者を、「出稼ぎ」で、「山谷」などの「ドヤ街」が受け止めたのです。「タコ部屋」と言われた悪どい社会現象もありました。

.
.

 それと共に、産業界が活発になって、その担い手となる働き手を、中学校卒業者に求めて、大挙して東京に呼び求められた、「就職列車」に乗って、親元を離れてやって来た「集団就職」の若者たちでした。関東圏や関西圏などで見られた、これも社会現象でもありました。関西圏然りでもありました。

 上野駅に迎えに出た、鈴木社長が運転していたのが、その「東京タワー」の見える道を「ミゼット」で、自動車修理工場に連れて行かれたのが、「六子」でした。大きな会社に行くものだと思っていたのに、六子が着いたのは町工場だったのです。その近所に、駄菓子屋をしながら、懸賞小説を応募し続けている、出しても当選しない常連の小説家の茶川竜之介と、居候の古行淳之介少年たちが繰り広げる、大きく変化していく東京のど真ん中の「夕日町三丁目」の街の出来事が描かれていました。

 「昭和ノスタルジー」のあふれる街の佇まいと、そこで生活する、豊かになる前、昭和33年(1958年)の庶民の生活ぶり、「古い東京」のにおいがプンプンとしてくる街模様、人模様が、とても懐かしく感じられたのです。どうも古行淳之介は、自分と同世代かも知れません。ビルが林立する前の東京タワー建設は、東京の一大変化の発端となったのでしょう。東京人には東京が故郷で、よそに故郷を持つ人たちが住んでいる街なのです。

(ウイキペディアの1961年当時の東京タワー、ミゼット、駄菓子屋です)

.

通学風景のあれやこれや

.

.

 『もう、10人に8、9人ほどが、一点を見入っている!』と言う光景が見られるのは、電車で座席についている人のスマホへの集中の割合です。スマホを見ていないのは、われわれ世代だけの違いがあるのです。

 そんな電車の中で、新書版や文庫版の本を読んでいる方も、ホンのわずかはいますが。出勤時には、満員電車で、本や新聞を読むことなどできませんが、以前は、CDプレーヤーなどが出始めて、高音量で聴いている人の音がヘッドフォーンから漏れていたりしていたこともありましたが。今は、「スマホと睨めっこ族」ばかりです。

 話し合っている高校生たちはわずかで、どうも一人の世界に閉じこもる傾向が顕著の様に感じられるのです。憂鬱そうな表情が若者らしくないのです。もっと快活であって欲しいと想うのですが、十代は、やはり大人になりかけの何やら難しい時代であるのでしょう。自分はどうだったかなあと思い返しています。

 通学風景と言えば、思い出すのはのは、久保田早紀が、歌った「異邦人〜シルクロードのテーマ〜」は、その通学するJR中央線の車内から、国立駅付近で見かけた子どもたちの遊ぶ姿を見て、「インスピレーション」が湧いて、元は「白い朝」と言う詩を作ったのだったそうです。その後、レコード会社が、大幅に手を入れて、改作されて、ヒット作となったと、4、5年前に直接聞きました。

 車窓の光景は、その時代が進むに従い、変っていきました。中学に入学してからの15年間ほど、通学通勤で電車を利用していました。その頃の車内や車外の風景が、時々思い出されるのです。通勤していた頃は、地方への出張もあって、西日本方面には、ちょくちょく出掛けていましたので、地方の風景を眺めたり、地方地方の訛りを耳にしすることも、けっこうありました。

 昨年来、朝の通勤通学時間に、検査通院などでJRの両毛線、宇都宮線に乗る機会が何回かあって、自分の通学していた頃と、時間のずれや地方都市での通学風景とは、だいぶ違いますが、学生のみなさんの屈託ない話し声が聞こえて来ると、なんとなくホッとさせられたのです。

.
.

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。(新改訳聖書 伝道者の書12章1節)』

 若い血がたぎり、夢や理想や幻を胸に抱(いだ)き、それを友と語り合える日々こそ、人生の素晴らしい時ですね。さらに神を友とすることができたら、特別最高に素晴らしいことに違いありません。時を定め、万物を支配している神さまがいらっしゃることを信じ、認められたら、人として一番のことだからです。

 神を知ることこそ、人の一生の意味を知ることにつながります。自分が80まで生きられるなんて、考えもしませんでした。小学校に入学する直前に、肺炎に罹り、死に損なって、主治医に母が、『また肺炎を起こしたら、死ぬかもしれませんので、十分に注意したください!』と言われて、母は死なせまいとして、私を育ててくれたのです。

 熱が出たり、咳をしたりすると、医者に連れて行かれ、注射をされ、粉薬や水薬を処方されて、食後に飲まされました。あの水薬の匂いを、まだ覚えているのです。小学校4年からすっかり元気になり、中学に入って、バスケットボールをし始め、試合にはスタメンで出場する様にもなれたのです。

 70歳を過ぎた頃から、定期的に薬を飲む様になって、それまでは常用薬などありませんでした。今や5種類の薬を毎朝飲む様になっています。そう、まだ生かされているのを感じ、17で母の信仰を受け継ぎ、バックスライドしたものの25歳からは、迷わなくなって、今日に至っています。聖書が、「何の喜びもない」と言って警告した年齢になった今、神のいますことを知ったことに、深く感謝するのです。神に知られた自分でもあります。

(ウイキペディアのJR両毛線の車両、Christian clip artsのイラストです)

. 

新年度の始まりに

.
.

 国会議員食堂の議員さんの昼食と学校給食、自衛隊員の昼食の比較写真が、YouTubeにあっていて、面白いなと思ったのです。成長期の子どもと国防の任にあたっている隊員と、様々な手当を支給されている国会議員は、けっこう年配者で、それほど美食だったり、栄養価の高い食事は不必要に感じたのです。

 蒸した薩摩芋や野菜サラダを食べているわが家の昼食は、『ちょっとタンパク分が不足しているよ!』と、その写真を見た、上の娘に言われてしまいました。

 先ごろ、三日間ほどの食事の一覧表を持って、私は、お医者さんで、食事指導をしてもらったのです。やはり、タンパク不足を言われてしまいました。けっこう、納豆や豆腐、牛肉や鶏肉、魚など摂っているつもりですが、折しも〈物価高〉の今日日、4月になって、また価格値上げの食品が目白押しだと聞いて、困っています。

 食事担当をし始めて7年になりました。お昼は家内がやってくれていますし、夕食には、一品調理してくれることもあります。ほとんど外食はしないのですが、先日は、観桜と史跡探訪の帰りに、遅いお昼を、その遠足にお誘いくださり、下野国の歴史や、天平時代の帰途を教えてくださった、隣人ご夫妻とそば屋さんに入りました。

 タンパク不足を娘と栄養指導員の方に言われましたので、カツ丼とそばランチを食べたのです。よく父が、配達で取って食べたカレー南蛮、ざる蕎麦、まだラーメン専門店など、あたりになかった時代に、中華そばを食べさせてくれましたので、迷った挙句、ランチメニューの中から選んだのです。

 ご主人は 大盛りざる蕎麦、奥さまは、カツ丼とざる蕎麦セット、家内は、ざる蕎麦とけんちん汁セットを食べたのです。2時にもなって、空腹を覚えていたこともあって、美味しく頂いたのです。

 3月末のミャンマーの大地震、トンガの地震と津波の被害を、ニュースが、その大きさを伝えています。新しい年度が始まって、世界的に多難さが予想されますが、明るい話題に目と思いを向けていきたいですし、聖書が記す約束には、もっと心を向けていきたいなと思っています。

(昨日、家内が撮影した枝垂れ桜、生け花です)

.

こんな雁にまつわる話と噺が

.

OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

 何度か聞いた話、津軽地方を舞台にした、「雁風呂」と言う話があります。先日持たれた Medical cafe の集いに参加した折に、私たちのテーブルで、その話を、また明日お聞きしました。

 雁が、シベリヤから渡りをして飛んで来る時に、木の小枝を咥えて飛来するのだそうです。途中、羽休めををするために、水の上に、枝を落として、それを両足で掴んで休憩するのだと言うのです。やって来る青森の竜飛岬あたりの陸地に、その枝を落とす様です。そして、春になると、産卵と子育てのために、北帰行をします。その時には、その落とした枝を拾って、飛んで行くのです。

 ところが、各地の水辺に飛んでいった雁は、日本で命を落とす仲間もいて、多くの枝が残されてしまっているのだそうです。その枝を、海岸で拾った人たちが、それで風呂を沸かして、北に飛んで行く雁を思いながら入る、こう言った話なのです。

 昭和の大名人、三遊亭円生の寄席の噺(はなし)に、「雁風呂」があり、「落語の舞台を歩く」に、次の様に掲載されてあります。

 『水戸黄門様がわずか3人の供を連れて東海道を江戸から上ってきた。遠州掛川に着いた時、中食のため町はずれの茶屋に入った。そこにあった屏風の絵が立派で土佐派の将監(しょうげん)光信(みつのぶ)筆とまでは判った。見事な絵であると感じ入っていたが「松に雁金」とは妙な絵だと思った。その意味が判らなかった。

 そこに大坂の旦那と喜助の二人連れが入って来た。江戸に行っても上手くいくかどうか不安な旅で気が重かったが、喜助に七転び八起きだと励まされた。
喜助に良いものを見せてあげると、奥の屏風を指さした。喜助は直ぐに『将監の雁風呂』と見抜いた。「でも、あの絵は評判が悪い。『松に鶴なら判るが、松に雁金はない。将監は腕に任せて絵空事を描いた』と判らない者達は酷評した」と、その裏側まで話していた。その上、武士でも判らないのが居て、武士ブシと言っても鰹節にもならないし、目は節穴だと腐(くさ)していた。
それを聞いていた黄門様は松に雁金の絵解きを聞きたいからと、呼び寄せた。

 お解り無い事はないでしょうが、旅の徒然とお笑い下さって、親から聞いた話で、と語りだした。
「描いてある松は、函館の浜辺にある俗に『一木(ひとき)の松』というのやそうです。日本を離れたはるか遠い所に常磐(ときわ)という国がござりまして、秋になりますと雁金が日本へ渡ってきます。春になると常磐に帰ります。雁は、故郷を出る時に柴をくわえて飛び、疲れるとそれを海の上に落としてそれに止まって休みます。何度も繰り返し、やっとの思いで函館の『一木の松』まで来ると、松の下へ柴を捨て、春になるまで日本中を飛び歩くのでございます。戻る時にまた要るだろうと、土地の人が直しておいて、春になると松の下に出しておきます。これを雁がくわえて常磐の国へ飛び立ち、あとにおびただしい柴が残りますと、その数だけ日本で雁が落ちたのかと憐れんで、土地の者がその柴で風呂を焚きます。行き来の難渋の者、修行者など、一夜の宿を致しましてその風呂に入れ、何がしかの金を持たせて発たせまするのも、雁金追善供養のためと、いまだに言い伝えております、函館の雁風呂というのはこれやそうです。
それを将監が描いたので、『松に雁金という絵はない。腕に甘んじて絵空事を描いた』と言われては、苦心をした将監が気の毒じゃと親どもが話していたのを又聞きをしたので、間違っていたらお詫びをいたします。
これは半双もので判りにくいのですが、一双ものには函館の天守台がちょっと見え、その下に紀貫之様の歌があって、
”秋は来て春帰りゆく雁(かりがね)の羽がい休めぬ函館の松“
でございましたか。これは『函館の雁風呂』と申すものです。」

 いたく黄門様は感じ入って、名前を問いただしてきたが、不淨の者だからと遠慮した。家来が「これ以上、名を伏すのは失礼に当たる。ここにおられるのは水戸黄門様だ」の声を聞いたとたん、土間に飛び降りて平伏していた。重ねて聞かれたので、「華奢に溺れた咎(とが)で、お取り潰しになった大坂の町人淀屋辰五郎せがれ、二代目淀屋辰五郎目にございます」。江戸に下るという淀屋に、用件を聞くと「親が存命中、柳沢様に三千両をご用立てしたがそのままで、昔日(せきじつ)ならともあれ、今の淀屋ではお返しいただかないと困るので、お屋敷に伺うところです」。

 「美濃守が借りっぱなしと言う事もないだろうが・・・、『雁風呂』の話を聞かせてもらったお礼にと」文をしたため、判がドンと座った。「これを持って美濃守殿に行き、もし下げ渡しがない時は水戸上屋敷に持参すれば早速金子御下げ渡しになる。三千両の御目録である。」と、渡された。西と東に別れて黄門様は出発。

 「お前ぐらいだ。黄門様を節穴にしたのは」、「旦那様ご安心なされ。三千両のお墨付き、柳沢様で払ってくれなければ、水戸様で払ってくれる。生で握っているようなもんでっせ。雁風呂での話で三千両とは高いカリ金ですな」、「その筈じゃ。貸し金を取りに行くのじゃ」。』

.
.

 どうも、この話や寄席噺は、雁の習性を悲しんだ作り話の様です。地元の方も知らないそうです。誰かの創作だった様です。「新国劇」と言う劇団がありますが、その舞台で辰巳柳太郎が演じた芝居の中に、「国定忠治」があります。忠治は、上州国定村の出身で、「赤城山」を舞台にした人気の芝居の主人公なのです。忠治の子分の巌鉄が、

『雁が鳴いて南の空へ飛んでいかぁ』

と語っています。そのあとで、国定忠治が『足の向くまま、気の向くまま、当ても果てしもねぇ ところへ旅へ立つのだ。』

と言う別れの場面があります。雁も渡世稼業の忠治たちも、旅立っては、ほとぼりが覚める頃に帰って来る渡り鳥ですから、場所から場所へと行ったり来たりする習性があったのです。この芝居では、『北に飛んでいかあ!』の台詞の方がよさそうです。シベリヤから南に向かって飛んで来て、またシベリヤに帰って行く雁に、人の世も似ているのでしょうか。

 この落語の「雁風呂」は、北海道の函館を舞台にした噺ですが、青森ちほうのそんな悲しい話が創作されています。北国の寒く喰い冬、鴨の貧しさから生み出された、雁物語だった様です。9月頃に渡って来た雁が、わが家の眼下を流れる巴波川の流れで、餌を啄(ついば)んでいるのが、毎朝の様に見られます。でも、まもなく4月にから5月にかけて、産卵のために、シベリア(北)に飛んで帰るのでしょう。鯉と餌取りを繰り広げる光景が見られなくなるのは、ちょっと寂しくなる。これからの巴波川です。

 生き物の習性には、驚かされたり、感心させられます。聖書で、ノアが、方舟(はこぶね)から放ったのが、渡りはしない鳩でした。一度目に放ったのは帰って来ましたが、二度目は、帰りませんでした。それで、洪水の水が引いて、大地が乾いたのを知って、ノアは方舟から動物たちを出し、ノアたち8人で、人類の営みが再開されていったのだと、聖書は告げています。

(ウイキペディアの雁のV字行、赤城山です)

.