渡り鳥の習性に


.

 

 上海の外灘にある港と大阪南港を結ぶ海路の船旅を、何度もしたことがありました。大阪南港を出て、瀬戸内海を関門海峡を出て、玄界灘沖、対馬の北を経て東シナ海を、約二日間を費やしての船の旅は、悠々として、素敵な時でした。

 いつも思ったのは、遣唐使や遣隋使あの船客の思いに重なって、帆船から機関船に代わって、船旅の旅程時間は、とても短くな理、航海の危険性は少なくなったのですが、1500年の隔たりがあっても、船に乗る気分や思いは変わらないのではないかと思ったのです。

 逆の航路で、上海を出て、外洋の航路の船に乗りますと、カモメが追ってきて飛ぶ姿が見えていましたが、やがて、カモメに変わって飛魚が船とが並走して泳ぎ、飛ぶ姿が見られました。果てしない東シナ海を、ゆったりと進むのです。何度も乗ったのですが、ただ一度だけ、台風接近に中を、乗り出した船が、船頭と船尾を、縦に揺らす波に襲われたことがありました。船員さんも酔っていて、船に強い自分も酔わされたのです。そんな静まらない荒波も、やがて凪(な)いでくるのでした。

 港に帰れる所まで飛んできて、戻っていくカモメとは違って、エンジンもペロペラも持たないのに、ただ羽根の翼を駆って空を飛来する、長距離移動の「渡り鳥」には驚かされるのです。春のツバメやオオルリ、冬のオオハクチョウやマナヅルなどです。この写真にあるのが、中国大陸から冬季に飛来する「タゲリ」です。

 モンゴル周辺から飛んできて、関東以西で越冬するために飛来してきて、「田んぼの貴婦人」と呼ばれていますが、絶滅危惧種になっていうようです。広げた時に7284cmもある大きな丸い翼を持っていて、季節風に乗って飛来し、去っていくのです。フワリと飛ぶのが特徴だそうです。

 この街にも、飛ぶ鳥が見るように、上空から見る「鳥瞰図(ちょうかんず)」で描かれた図絵があります。時々掲出している、日光例幣使街道の栃木宿の街並みです。人は、鳥のように飛ぶことを夢見てきたからでしょうか。鳥のように、地の上を眺めて描くのを好んだのでしょう。

 でも、宇宙船から月に降り立った地球を眺めた、アームストロング宇宙飛行士が、『地球は青かった!』と語ったニュースを聞いて、緑色でも茶色でも灰色でもなく、「青」には、驚かされたのです。人類が見上げ続け、和歌や俳句や詩に表し続けてきた月の色だったわけです。

 そう言えば、『月がとって、青いから、遠回りして帰ろう』当たった歌謡曲がありましたが、月が青いように煮えたことはなかったのですが、地球は、きっと、青いんだろうなと納得がいったのです。

 このタゲリは、私が、宣教をしたいとの願いがあった、このモンゴルから飛んでくるのです。この渡り鳥の習性には、羨ましさも感じますが、その長距離飛行を遂げる力と飛翔の術には、驚かされるのです。餌を求め、避寒のために、どうして、それほどの距離を飛んで来て、飛んで帰るのでしょうか。天敵が少ない北で、子育てをすることを知っているからでもあるようです。ヘブル書には、信仰者たちを取り上げて、次のように記しています。

 『11:13彼等はみな信仰を懷きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、遙にこれを見て迎へ、地にては旅人また寓れる者なるを言ひあらはせり。(大正訳聖書ヘブル書)』

 イスラエル人の祖、アブラハムは、その生涯を天幕で過ごし、創造者のもとに帰っていきました。それはアブラハムだけではなく、すべての人は、旅人で寄留者なのです。この地上に国籍や市民権を置いていても、それは仮の登録であって、永遠の登録は、これから、約束に従って与えられる、いえ与えられているのです。

 彼に倣って、私も、ここまで旅人で、寄留の地で、借家住まいで過ごしてきました。

(ウイキペディアの「タギリ」の幼鳥の写真、聖句は新改訳聖書です)

.

 

洗うのか研ぐのか

.


.

 自分が、今や「時代錯誤の人」になってしまったのかと、つくづく感じてしまいました。今先日(29日)のラジオに、五十代前の大学の先生が出ておられて、『コメを洗って。』と言っていました。

 子ども頃、母に、『お米を研(と)いどいてね!』と言われて、研いだのに、今は、「洗う」でいいのですね。それには理由があります。昔は、精米技術が良くなかったので、米の糠(ぬか)が残っていて、米同士をぶっつけ合うようにして研ぎ合うようして、米を研いだのです。しかし最近では、精米機が改良されて、研がずに、「洗い」だけで良くなっているのだそうです。

 そのコメントに、『エッ!』と思ってしまった自分が、時代がずれてしまっているのを知って、今週訪ねてくる次女と孫とに、『お米を洗っといてね!』と言うことを、心で決めたのです。

 家内が、近所の女の子と話をしていたことがあり、それを聞いていたのです。『お母さん、妹さんのオシメを洗うので大変でしょう?』と言ったら、その子は、『ううん、オシメはすてるの!』と答えたのです。家内の子育て時代は、晒(さらし)で作ったおしめを使って、晴れても降っても、洗っては乾かし、乾かしては畳むを繰り返していたのに、家内は、使い捨てオシメの時代になっているのに気づかなかったわけです。

 この「時代錯誤」は、如何(いかん)ともし難い、世代間の溝のようなもので、世の中は変わり、物は新しく作られ、技術は長足の進歩を遂げ、主役は交代しているのです。紙の感触よりも、洗い続けた晒の布の感触とは、雲泥に違うのですが、手間よりも、時間を省くほうが、大切にされている時代なのでしょう。

 時代時代に使うことばも変わってきているのに気づかないのが、老いた証拠でしょうか。まさにことばは生きているのでしょう。今日は天気がとても良くて、どうするかと言いますと、若い頃は、外出したほうがいいと思ったのに、今では、洗濯日和だと思ってしまう、これが世代のギャップなのかも知れません。

 でも、です。「研ぐ」は、まだ〈生きていることば〉のようです。寿司屋や定食屋のお店では、正統な研ぎ方を伝授された方が、洗い場で、昔からの手順で、米研ぎがなされているようです。まだ時代に置き去りされないで、安心しました。
.

されど薩摩芋

.


.

 『神は仰せられた。「地が植物、すなわち種を生じる草やその中に種がある実を結ぶ果樹を、種類にしたがって、地の上に芽ばえさせよ。」そのようになった。  地は植物、すなわち種を生じる草を、種類にしたがって、またその中に種がある実を結ぶ木を、種類にしたがって生じさせた。神はそれを見て良しとされた。 (新改訳聖書第三版・創世記11112節)』

 いよいよ師走、よく走らされたように思い起こしています。さて、お昼の定番は、今や「さつま芋」のわが家です。蒸しているのですが、焼き芋が一番美味しいのは分かっていますが、一番簡便な方法で食べているのです。

 このさつま芋は、甘藷、人参芋、砂糖藷、饅頭藷といった味を表現した呼び名、由来の唐芋の呼称もあります。このさつま芋は、「青木昆陽」に始まるのだと歴史の時間に学んだのですが、飢饉に強い植物と言われ、非常食として重用されてきています。江戸の中期、8代将軍の徳川吉宗の時代に、青木昆陽が「蕃藷考(ばんしょこう)」という研究書を著し、将軍に上書したことに始まります。

 享保の大飢饉(1732年)が、当時に日本を襲って、食物危機をもたらした教訓から、紀元前には、メキシコのアンデスで栽培されていたそうで、15世紀にヨーロッパに伝わり、やがて中国から琉球(沖縄)、沖縄から薩摩に伝わり、その昆陽の学問書を、伊奈忠逵が簡略化した「薩摩芋功能書并作り様の伝」として刊行されて、まず将軍のお膝元の関八州に、種芋とともに配布されます。ところが収穫に至らなかったのだそうです。

 その状況下で、さつま芋の栽培が成功していく様子を、「上毛新聞(前橋市古市町1-50-21)」が、次のように伝えています。

 『上州只上(ただかり)村(現在の太田市)の名主も、伊奈忠逵から試験栽培の任を受けた一人だった。板橋定四郎は和算家でもあったが農学研究にも熱心で、丹念に栽培記録を取ってい失敗を重ね、試行錯誤を続ける中で彼はあることに気が付く。

 それが、肥沃な土よりもやせた土地の方が良く、むしろ肥料を与えない方が良質な芋がたくさんとれるという事実だった。要は蔓(つる)ぼけという、栄養の与えすぎで蔓や葉が茂りすぎて、土中の芋がちっとも大きくならない現象を見つけたのだ。これは当時の常識を覆す発見で、青木昆陽よりも早く、具体的で実践的な研究成果だった。

 かくして関東最初のさつまいも栽培の成功は、上州只上村の板橋定四郎によってもたらされた。この由緒にちなんで、太田菓子工業組合発の太田銘菓「定四郎ポテト」が販売されている。おいしいスイートポテトで、さらに地域の歴史も味わえる。』

 この只上村は、渡良瀬川の南岸に位置し、川を隔てた栃木県足利市に隣接しています。あの有名な岩宿遺跡(旧石器時代だとされる遺跡)も近くにあって、なじみ深い地なのです。この村で栽培、収穫に成功したさつま芋は、またたく間に全国に広まり、飢饉の時の非常食、とくに農民の主食にまでなっていったようです。今では、この地で作られる「種芋」が、全国に出荷されているそうです。令和の我が家でも、準主食になっています。

 土地が肥沃な地には、それに見合った作物が生産され、そうでない地にも、違った種類の作物が育つと言うのは、やはり創造主の神さまのご配慮なのでしょうか。板垣定四郎のように、人は知恵を得て、栽培に工夫をしていったのです。

(Illust AC からのイラストです)

.