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自分が、今や「時代錯誤の人」になってしまったのかと、つくづく感じてしまいました。今先日(29日)のラジオに、五十代前の大学の先生が出ておられて、『コメを洗って。』と言っていました。
子ども頃、母に、『お米を研(と)いどいてね!』と言われて、研いだのに、今は、「洗う」でいいのですね。それには理由があります。昔は、精米技術が良くなかったので、米の糠(ぬか)が残っていて、米同士をぶっつけ合うようにして研ぎ合うようして、米を研いだのです。しかし最近では、精米機が改良されて、研がずに、「洗い」だけで良くなっているのだそうです。
そのコメントに、『エッ!』と思ってしまった自分が、時代がずれてしまっているのを知って、今週訪ねてくる次女と孫とに、『お米を洗っといてね!』と言うことを、心で決めたのです。
家内が、近所の女の子と話をしていたことがあり、それを聞いていたのです。『お母さん、妹さんのオシメを洗うので大変でしょう?』と言ったら、その子は、『ううん、オシメはすてるの!』と答えたのです。家内の子育て時代は、晒(さらし)で作ったおしめを使って、晴れても降っても、洗っては乾かし、乾かしては畳むを繰り返していたのに、家内は、使い捨てオシメの時代になっているのに気づかなかったわけです。
この「時代錯誤」は、如何(いかん)ともし難い、世代間の溝のようなもので、世の中は変わり、物は新しく作られ、技術は長足の進歩を遂げ、主役は交代しているのです。紙の感触よりも、洗い続けた晒の布の感触とは、雲泥に違うのですが、手間よりも、時間を省くほうが、大切にされている時代なのでしょう。
時代時代に使うことばも変わってきているのに気づかないのが、老いた証拠でしょうか。まさにことばは生きているのでしょう。今日は天気がとても良くて、どうするかと言いますと、若い頃は、外出したほうがいいと思ったのに、今では、洗濯日和だと思ってしまう、これが世代のギャップなのかも知れません。
でも、です。「研ぐ」は、まだ〈生きていることば〉のようです。寿司屋や定食屋のお店では、正統な研ぎ方を伝授された方が、洗い場で、昔からの手順で、米研ぎがなされているようです。まだ時代に置き去りされないで、安心しました。
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